第23話 黒い瞳の共犯者
直斗がようやく登校する気になったのは、それからさらに数日後だった。
久しぶりの出席。
校内に入り、廊下を進む間も、胸の奥は鉛を呑んだように重い。それでも、もしかしたら級友たちは普通に迎えてくれるかもしれない――そんな淡い期待も、心のどこかにあった。
だが、直斗が教室に一歩足を踏み入れた瞬間、クラスは水を打ったように静まり返った。
誰も声をかけてこない。みんな腫れ物に触れるような視線を向け、すぐ目を逸らしてヒソヒソと囁き合う。
好奇と恐怖の混じったその視線が、見えない無数の針となって全身に突き刺さった。
追い打ちをかけるように、あるものが視界に飛び込んでくる。
窓際の、麻衣の机。そこに花瓶が置かれ、真新しい白い菊が挿されていた。
わかってはいたが、それを見た途端、心がより深く沈み込む。
花が飾られたことで、麻衣の死がこの教室で『終わったこと』として処理されてしまったのだ。
クラスメイトたちは、武が犯人であることを疑ってもいないだろう。
直斗は席に座ると、逃げるように机に突っ伏した。
周囲のざわめきが、やけに遠く聞こえる。
真犯人を見つけ出すという決意の炎は、まだ心の奥にともっていた。
だが、警察や学校という圧倒的な現実を前にして、今にもはかなく消えてしまいそうだった。
午前の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。
やはり、誰も話しかけてこない。
授業中は先生たちですら、どこかよそよそしかった気がした。
結局、麻衣とも武とも親しかった自分は、この学校の中で、異物になってしまったのだ。
「……ねえ、ちょっといいですか?」
突然、頭上から鈴を転がすような、透き通った声が降ってきた。
色を失った世界へ差し込む、一本の光のように。
直斗はわずかに顔を上げた。
そこに、ひとりの女子生徒が立っていた。
一瞬、心臓が止まるかと思った。
――麻衣だ。麻衣が、生きている?
しかし、瞬きをして焦点を合わせると、それが麻衣ではないことがわかった。
その子は、麻衣に酷似していた。
艶のある黒髪、すっと通った鼻筋、華奢な輪郭。
だが麻衣より少し背が低く、何より纏っている空気が決定的に違った。
麻衣の瞳が柔らかな春の水面なら、この少女の瞳は底の見えない深い井戸だった。
その唇には、どこか挑発的で、ミステリアスな微笑みがある。
「……えっと、誰だっけ?」
弱々しい声で尋ねると、少女は首をわずかに傾け、サラリと髪を揺らした。
「やだなあ、滝沢先輩。私です! 七瀬亜季。麻衣の妹です!」
「あ! ……そっか」
まともに向き合って話すのは、いったいいつ以来だろう?
七瀬亜季――
麻衣とは仲があまりよくない、ひとつ下の妹。
それにしても、こんなに美しく、捉えどころのない雰囲気の子だっただろうか?
姉を亡くして間もないというのに、心の乱れも、悲しみの影すら見当たらない。
「亜季ちゃん――あの、麻衣のことは、本当に……」
「お悔やみの言葉なら結構です。そんなの親戚や友達からうんざりするほど聞かされましたから」
亜季は直斗の言葉を冷たく遮ると、周りの視線を気にする素振りも見せず、前の席の椅子を反転させてドカッと座り込んだ。
「それより先輩、ずいぶんひどい顔してますね。お姉ちゃんが死んじゃったからですか?」
「当たり前だろ……! 武と、それに麻衣まで……」
「無理心中させられちゃったから?」
直斗はビクッと肩を震わせた。彼女は、まるで今日の天気でも話すようなトーンで、その残酷な単語を口にしたのだ。
「警察はもう結論を出したみたいです。私たち家族にも、そう説明がありました。あの尾崎とかいう怖そーな先輩が、北川先生とお姉ちゃんを殺して自殺したって」
「俺も聞いたよ、取り調べの時に」
亜季は頬杖をつき、直斗の目を真っ直ぐに覗き込んできた。
「それ、信じてるんですか?」
「……えっ!?」
「私、そんなの嘘っぱちだと思ってますよ。――先輩、ちょっとこっち来てください。ここじゃなんなんで」
驚く直斗の腕をつかむと、強引に教室の外へ引っ張り出す。
その細い指には、見た目に似合わない、有無を言わせぬ力がこもっていた。
廊下の奥のドアを抜け、誰もいない非常階段の踊り場まで連れて行く。
亜季は猫のような目で直斗を見つめ、話を続けた。
「私、尾崎先輩のことはほとんど知りませんけど、お姉ちゃんが『大切な友達だ』って何度か言ってました。見た目はちょっと怖いけど、本当はやさしくて信頼できる仲間だって」
「そうなのか……」
「お姉ちゃんがそこまで褒めてたの、尾崎先輩と、それと滝沢先輩のことだけです」
「……俺のことも?」
「はい。正直、私、お姉ちゃんとあんまり仲良くなかったんで、詳しくは聞いてないんですけどね。――あ、知ってるかもしれないけど、私とお姉ちゃん、父親が違うんです」
「……麻衣から聞いてる」
「お母さん、お姉ちゃんを産んだ後すぐ不倫して、それが原因で離婚して、私のお父さんと再婚したんです。ホント、何やってんですかね」
亜季は、普通なら隠しておきたいようなことを、あっけらかんと言ってのけた。
麻衣とまるでタイプの違う、不思議な女の子だ。
「その後で私が生まれて――まあそんなこんなで、お姉ちゃんは家の中でも見えない壁を作ってたっていうか――」
亜季の口調は、姉への同情とも、自分への憐れみとも違う。
まるで、他人の家の出来事を読み上げるように平坦だった。
「で、私が何を言いたいかというと!」
突然、亜季が語気を強める。
「尾崎先輩が、そんなお姉ちゃんを道連れになんてするかなってことです」
「……え!」
「親とかにイマイチ恵まれてなかったですよね? 尾崎先輩も」
「まあな……」
「ということは、二人とも同じような境遇だったからわかり合えたんだと思うんです」
「――そのとおりだ」
「それで付き合いも長いのに、今さら自分の不幸に巻き込んで殺しちゃうなんて、不自然じゃないですか? 少なくとも私はそう思います」
「そうなんだよ!」
直斗は思わず身を乗り出した。
この麻衣の妹は、まるで、ずっと麻衣と武の関係を見てきた人間みたいだ。
「武が――麻衣を巻き込むことを誰より嫌がってたあいつが、そんなことするわけがない。武は本当は優しいやつなんだ」
「それは、お姉ちゃんも言ってたような気がします」
「そもそも北川先生を殺したのも武じゃない。事件の前提からして、間違ってるんだ」
「ふーん」
亜季はその不思議な黒い瞳で、直斗を見据えた。
「……それは非常に興味深いですね。その話、詳しく聞かせてもらえますか?」
――誰も、信じてくれなかった。
警察も、学校の連中も、みんな武を人殺しだと決めつけた。
なのに、ほとんど接点のなかった麻衣の妹だけが、あっさりとそれを否定した。
それだけで、救われた気がした。
直斗は、胸につかえていたものを吐き出すように、今まで起きたことを一気に話し始めた。
「事情はわかりました」
黙って聞いていた亜季の瞳の奥に、一瞬だけ、ゾッとするほど冷たい光が走った。
「あの夜、いつの間にか家を抜け出したお姉ちゃんに、私も親も気づかなかったんです。気分が悪いってお姉ちゃんは離れで寝てましたから」
「はなれ?」
「私が言うのもなんですけど、うちって家が大きいじゃないですか。お姉ちゃんひとりがいいって別棟の部屋を使ってたんですよ」
「ああ、その離れか……」
遊びに行ったことはないが、麻衣の家は、広い敷地にお城のような家が建つ、この辺りでは有名な豪邸だった。
「それであの夜、麻衣は秘密基地に行ったのか……。でもなぜだ? やっぱり武に呼び出されたのか……?」
「それはわかんないです。朝になって初めて、部屋が空っぽなのがわかって。もっと早く気づいてれば、お姉ちゃん死なずに済んだかもしれないんですよね」
「後悔してんのは俺も同じだよ。前の日の手荷物検査でスマホが没収されてなきゃ、武と連絡が取れたんだ。それに――」
あの日、塾なんか休んで、スマホの画面が点くのを待っていれば、二人を救えたかもしれない。
「それはしょうがないです。先輩の責任じゃありません。でも――」
亜季は、声を落とした。
「私、お姉ちゃんが最後に何をしようとしてたか、少しだけ知ってるんです」
それだけで、直斗の全身の産毛が逆立った。
「亜季ちゃん、今なんて……? 麻衣が、最後に何を……」
「今は話せません。もう少し、調べてみないと。――あと、名前は呼び捨てでいいですよ。先輩、お姉ちゃんのことも『麻衣』って呼んでたんでしょ」
亜季は直斗を見つめ、妖しく、底に冷たい何かを秘めた笑みを浮かべて言った。
「さてと、滝沢先輩、ひとつ提案です」
「なんだよ」
「もう落ち込むのはやめましょう。役立たずの警察や大人なんか、放っておくんです」
「まさか……」
「そうです。北川先生を殺し、お姉ちゃんたちを奪った『本物のクズ』を、私たちで見つけ出しませんか?」
直斗は一瞬黙り、答えた。
「一緒に、やってくれるのか?」
「ええ、もちろん」
亜季は目を細めて微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、胸の奥で消えかけていた炎が、再び静かに燃え始める。
差し出された亜季の手を、直斗は握り返した。
その手は、麻衣によく似て、ひんやりと冷たかった。




