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第21話 王国の崩壊

 空き地の端にそびえる、太い枝振りの杉の木。

 その枝から、黒い『塊』が、ゆっくりと振り子のように揺れていた。


「……え?」


 足が、コンクリートで固められたように動かなくなる。

 網膜が捉えた映像を、脳が理解することを激しく拒む。


 空中にぶら下がった二本の足。

 泥だらけのスニーカー。

 見覚えのある黒いスウェット。


 武だった。


 首には、紺地にえんじ色のストライプが入った中学校指定のネクタイが、恐ろしいほど深く食い込んでいた。

 ぴんと張ったネクタイの先は、そのまま太い枝にしっかりと結びつけられていた。


 ――武……?


 声が出ない。

 悲鳴すら、喉の奥で凍りついた。


 悲しいとか、恐ろしいとか、人間らしい感情が一切湧いてこない。

 ただ目の前の光景が信じられず、周囲の色が急速に失われていく。

 白黒の世界に飲み込まれるような、圧倒的な現実の崩壊だけがあった。


「おい……武!」


 掠れた音が、ようやく唇からこぼれる。

 冗談だろ。

 お前、俺に話すことがあったんじゃないのか。

 それが、首を吊って自殺って、なんで。どうして――?


 ――違う。そうじゃない!


 きっと、北川先生を殺した真犯人にやられたのだ。


 思考が空転し、直斗は夢遊病者のように、ふらふらと武の足元へ歩み寄った。


 触れれば、いつものように「驚いたか?」と、あの不器用な笑顔を見せてくれるのではないか。

 そんなありえない希望を抱きながら、冷たいスニーカーのつま先へ手を伸ばしかける。


 その時、視界の端に、小屋の戸口が映った。

 組まれた枯れ枝が一部崩れ、内部がわずかに見えている。

 その奥で、白いものが、じっと横たわっていた。


 心臓が、胸を突き破りそうなほど跳ねる。

 武から手を引き戻し、何かに操られるように、小屋へと這い進む。


「嘘、だろ……」


 祈るように呟きながら、中を覗き込む。

 薄暗い土の床の上。

 誰かが、仰向けに倒れていた。


 麻衣だ。


 制服ではなく、薄水色の柔らかいブラウスとスカート。

 普段着姿の彼女は、まるで疲れ切ってこの隠れ家で眠り込んでしまったかのように見えた。


「麻衣……」


 その顔は、驚くほど穏やかだった。恐怖に歪むことも、苦悶することもなく、長いまつ毛が、白い頬に静かな影を落としている。ただ目を閉じて、夢を見ているかのようだった。


「……おい、麻衣……!!」


 膝をつき、肩に触れる。

 冷たかった。

 命の熱は、とうの昔に奪い去られていた。


 そして、視線が首元に釘付けになる。

 白く細いその首には、赤紫の鬱血の痕が、帯状にくっきりと刻まれていた。

 北川先生の時と、まったく同じだ。


「あ……あああああああぁぁぁぁぁっ――!!」


 森の静寂を切り裂いて、獣のような絶叫がほとばしる。

 言葉にはならなかった。

 悲しみ、絶望、怒り、恐怖、後悔――

 あらゆる感情が許容量を超えて圧縮され、破裂した、ただの音の塊だった。


 両手で頭を抱え、泥まみれの地面に顔をこすりつけて泣き叫ぶ。

 指で土を掻き毟り、爪の間から血が滲んでも、止まらない。


「うわあああっ! なんでだよ!! なんで、なんで麻衣まで――!!」


 胃の中のものがこみ上げ、その場で吐いた。

 それでも、涙も嗚咽も止まらない。


 親友だった。

 二人とも誰よりも大事な存在だった。


 武が麻衣を殺すはずがない。絶対にあり得ない。

 しかし、この光景はそうとしか見えなかった。


 スマホを取り上げられていなければ。

 あのメッセージをもっと早く見ていれば。

 せめて昨夜のうちに、駆けつけていれば――


 俺が――俺が二人を見殺しにしたんだ……。


 それからどれほどの時間が経っただろう。

 直斗は涙も涸れ果て、声も出ないまま、地面にへたり込んでいた。

 霧は完全に晴れ、木々の隙間から差し込む朝の光が、宙に浮く武と、横たわる麻衣を、より一層残酷に照らし出していた。


 震える手で、ズボンのポケットからスマホを取り出す。

 何度も滑る指で、ようやく通話画面を開き、「1、1、0」とタップした。


『はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか?』


「あ……あの……」


 舌がもつれて、うまく言葉にならない。

 息を吸おうとしても、喉の奥で引っかかる。


『もしもし? 大丈夫ですか? ゆっくりでいいですよ』


「ひ、人が……死んで……るんです……」


 自分の声ではないみたいな、空洞のような音が出た。


『落ち着いてください。場所はどこですか』


「杉の木公園の……奥の、森の中……。友達が、二人……」


 それ以上、言葉が続かない。

 スマホを握りしめたまま、直斗は再びうずくまり、声にならない嗚咽を漏らした。


 遠くで、サイレンが聞こえ始めたのは、それからしばらくしてのことだった。

 音は徐々に近づき、公園の前で止まる。数人の大人が藪をかき分け、怒鳴るような声を掛け合いながら、森へ踏み込んでくる気配がした。


「こっちだ! 足元に気をつけろ!」


「おい、あそこだ!」


 草をかき分ける音とともに、複数の制服警官が空き地へ雪崩れ込んできた。

 少し遅れて、見覚えのある二人組が姿を現す。

 くたびれたスーツの山田刑事と、若い一ノ瀬刑事だ。

 刑事がこんなに早く到着するとは、武の行方を追って、署で待機していたのかもしれない。


 山田刑事は、枝からぶら下がる武を見るなり、顔を強張らせて怒鳴った。


「現状保存! 救急と鑑識! 全員、現場に触れるんじゃないぞ!」


 一ノ瀬刑事は、小屋の前にへたり込む直斗に気づき、はっとした様子で駆け寄ってきた。


「君……滝沢君だよね? どうして君がここに……!?」


 整った顔が、驚愕と痛ましさに歪む。

 その視線が、小屋の中に横たわる麻衣を捉えた。


「ああっ……嘘……」


 事件慣れしているはずの刑事の口から、悲痛な呻きが漏れた。

 山田刑事が武の遺体から視線を外し、直斗を振り返る。その鋭い目に、かつてないほど厳しい光が宿っていた。


「滝沢――!」


 低い声が、朝の森に響く。


「……また、お前か」


 直斗は、答える気力もなかった。


 焦点の合わない目で、規制線を張ろうと動き回る警察官たちを、まるで束の間の幻でも見ているかのように、ただ眺めるだけだった。


 かつての森の王国は、完全に崩壊した。

 もう、この場所へ帰ってくる子どもは、ひとりもいない。

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