第20話 霧の向こう
塾が終わったのは、結局夜の九時近く。
終了と同時に、直斗は誰よりも早く教室を飛び出した。
夜風を切り裂いて自転車を飛ばし、家に帰り着く。
リビングの奈美恵に「ただいま」とだけ声をかけ、二階へ駆け上がった。
机の上で、スマホはしっかり充電されていた。
震える指で電源を入れる。
画面が立ち上がり、ロックを解除した瞬間、ピロリンピロリンと、立て続けに通知が表示された。
真っ先にメッセージアプリを開く。
未読は三件。
一番上は、武からだった。
『直斗、事件についていろいろわかったことがある。直接話したい。時間がある時に電話をくれ』
送信時刻は昨日の午後五時半だ。
心臓がドクンと跳ねた。
事件についてわかったこと――
武は、犯人について何か掴んだのか?
二件目は、昨日の夜八時。麻衣からだった。
『直斗、今日は早退しちゃってごめんね。私も、直斗に話したいことがあるからまた電話するね』
話したいことって、何だろう?
だが、今のところ麻衣からの着信記録は入っていない。
そして、三件目。
送信は、今日の夕方五時十五分。武からだ。
『電話がないからもう待てない。警察にも追われている。直斗、オレは、「あの場所」にいる』
「……なんだよ、これ」
掠れた声が漏れた。
急いで武の番号にかけるが、コールが鳴るだけで出ない。
メッセージを送っても、返事は来ない。
出られない事情があるのか、それとも――
続けて麻衣にもかけたが、こちらも繋がらない。
風邪で、もう寝てしまったのだろう。
しかし今は、麻衣より武のことが心配だ。
自分がスマホを取り上げられて苛立っていたその裏で、事態は急激に動いていたのだ。
……『あの場所』?
部屋を歩き回りながら考える。
武が身を隠し、直斗も知っている場所。
誰にも見られず、邪魔されない場所。
自宅ではない。
麻衣の家でもない。
だとすると――
武にとって特別な意味を持つ場所。
他人を拒絶し、三人だけの秘密を共有した場所。
帰りたくない子どもたちが、親から逃げて息を潜めた場所――
「……森の秘密基地」
その言葉が、自然に口から漏れた。
杉の木公園の奥、三人で作ったあの基地。夜になれば完全な闇に包まれ、誰も近づかない。
武が潜み、直斗を待つには絶好の場所だ。
――行くしかない!
スマホをつかみ、部屋を飛び出そうとする。
だが、そこで足が止まった。
理由も告げずに、この時間に外出するなんて奈美恵が許すはずがない。
かといって、階下を通り抜けてこっそり家を抜け出すのも難しい。
たとえうまくいったとしても、夜中に自分が部屋にいないとバレたら、大騒ぎになるだろう。
それに、こんな夜の闇の中、森の奥のあの基地へ、果たしてたどり着けるだろうか。
最後に三人で行ったのは、小学六年の冬。
中学に入ってからは、一度も足を踏み入れていない。
ルートは覚えているが、草木が生い茂って道が消えている可能性もある。
今行くのは無謀だ。諦めるしかない。
直斗は深呼吸して、気持ちを落ち着けた。
大丈夫。
武なら一晩くらい、どうにかなる。
あの場所は三人しか知らないのだから――
そう自分に言い聞かせ、目覚まし時計とスマホのアラームをセットしてベッドに入る。
明日の日の出とともに起き、学校が始まる前に、秘密基地へ直行するために――
結局、その夜も浅い眠りしか訪れなかった。
ようやくウトウトしかけたところで、アラームが鳴る。
窓の外は、夜明けにしてはどこか薄暗い。壁の時計は、午前五時を少し回っていた。
寝不足なのに、奇妙なほど頭は冴えている。
動きやすいチノパンを穿き、暗い色のパーカーに腕を通し、音を立てないよう気をつけて一階へ降り、玄関を開けた。
外に出た瞬間、ひやりとした湿気が全身を包んだ。
珍しく、霧が出ている。
薄暗く見えたのは、このせいだったのか。
十メートル先の電柱さえ、ぼやけて見えた。
街全体が、巨大な繭の中に閉じ込められたように静まり返っている。
自分の吐く息さえ、全部霧の中へ溶けていく気がした。
霧で視界が悪すぎる。
危ないと思い、自転車は使わず、徒歩で向かうことにした。
秘密基地のある杉の木公園までは、早足で家から三十分ほどだ。
公園に着くと、荒れた園内に、錆びたブランコや色褪せた滑り台が不気味に佇んでいた。
かつて毎日待ち合わせた場所が、今は見知らぬ異界の入口のように見える。
遊具の脇を抜け、奥のフェンスの途切れた場所から、鬱蒼と茂る森へ足を踏み入れた。
あの冬以来、一度も足を向けなかった場所だ。
「武……今、行くからな……」
自然と呼吸が荒くなる。
薄もやが木々の間に滞留し、方向感覚を狂わせてくる。
同じ場所を回っている気がするたび、立ち止まり、目を閉じて昔の記憶を呼び起こした。
あの、二股に分かれた大きなクヌギの木。その横を抜け、斜面を少し下った先。
家に居場所のない子どもたちが作り上げた、ちっぽけで、けれど何よりも安全だった『王国』。
不意に木立が途切れ、ぽっかりと開けた空間に出た。
見覚えのある、小さな空き地。
枯れ枝を不格好に積み上げた、あの小屋のシルエットが、緑の向こうにぼんやり浮かび上がる。
たどり着けた。
安堵の笑みが浮かびかけた、その瞬間だった。
森の静寂を裂くように――
――ギイィ……。
風もないのに、頭上で何か重いものが軋む、不快な音が響いた。
直斗は、弾かれたように顔を上げた。




