第19話 スマホと焦燥
その後、落ち着きを取り戻した直斗は、恵と別れ、スマホを返してもらうためにひとりで職員室に向かった。
西日が差す職員室の前で、半開きのスチール製の引き戸をノックする。
何の反応もないので中に入ると、室内は閑散としており、きれいに片付いた花村先生のデスクには誰も座っていなかった。
「失礼します。三年の滝沢ですが、花村先生いらっしゃいますか?」
「――ん?」
向かいの席で採点をしていた年配の理科教師が、怪訝そうに顔を上げた。
「知らないのか? 花村先生なら、もう帰られたぞ」
「え……」
声が裏返る。
「スマホを返すから放課後に来るように、と言われてたんですけど」
「あー、そうか。でも花村先生は今日は教育委員会の方に用があって、早めに出たよ。たぶんもう戻らないぞ」
「そんな……困ります。何とかなりませんか」
「悪いが無理だな。貴重品だから、机の引き出しに鍵をかけてしまってあるんだろう。明日の朝、直接言いなさい」
理科教師は興味なさそうに書類へ視線を戻した。
直斗は唖然として、その場に固まった。
早退して教育委員会――?
理由はもっともらしいが、疑心暗鬼に陥った今の直斗には、それすら別の意味に思えてしまう。
――まさか、中の動画を見られたのか?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、直斗はいつもより早く起き、身支度もそこそこに家を飛び出した。
昨夜は門脇の言葉と麻衣のことが頭から離れず、あまり眠れなかった。
だが、彼女が誰を好きかなど、今は考えている場合ではない。
登校する生徒もまばらな時間。
職員室にも、まだ教員の姿は少ない。
でも、予想どおり花村先生は自分の席にいた。教師として生真面目な彼女は、いつも朝が早いのだ。
直斗は、家で書いてきた反省文を鞄から取り出し、彼女のもとへ歩いていった。
紺のスーツに身を包み、背筋を伸ばしてデスクに向かうその姿は、やはり、日曜日、荒井とラブホテルに消えていった女とは別人に見えてしまう。
「花村先生、おはようございます」
「滝沢君。ずいぶん早い登校ですね」
手を止め、眼鏡の奥から感情の読めない視線を向けてくる。
いつもと変わった様子はない。
どうやら、スマホの中身を見られてはいないようだ。
直斗は、ひとまず胸をなでおろした。
「あの、昨日のスマホ、放課後に取りに来いと言われましたよね。でも昨日は、先生が早く帰られてしまって」
「教育委員会の用事があったと、他の先生から聞いていると思いましたが」
「それは、伺いましたけど……」
昨日の件を詫びる言葉は、ひと言もない。
しかし、スマホを持ち込んだ非は一応自分にある。
ここで争っても無駄だと、直斗は頭を下げた。
「とにかく、スマホを返してください。反省文は家で書いてきました」
「それは無理ですね」
氷のように冷たい返事だった。
「は?」
「没収した携帯の返却は『帰りの学活が終わってから』と規則で決まっています。朝早く来たからといって、特別扱いはできません」
「そんな! ちょっと待ってください! あの、実はどうしても確認しなきゃならない大事な連絡があるかもしれないんです。それに、昨日返してもらえなかったのは先生の都合じゃないですか!」
「では、この場で必要な連絡だけ確認しなさい。終わったら、私にもう一度スマホを渡しなさい」
「え! ――じゃあ、いいです」
気になって仕方ないけれど、よりによって花村先生の目の前で、このスマホは開けない。
「痛ましい事件の後で、学校全体が動揺しています。こういう非常時だからこそ、ひとりひとりが規則を守らなければなりません。ここであなたのスマホを返して、他の生徒が知ったらどうなりますか?」
「…………それは」
「没収されてもすぐに返してもらえると思って、規則を破る者が出る。そうなると示しがつきません。放課後、出直しなさい」
説教を終えると、花村先生は再びパソコンへ視線を戻した。これ以上の会話は無用だという、暗黙のサインだった。
――ふざけるな。何が規律だ。自分は裏で荒井とラブホテルに出入りしてるくせに!
胸の奥で怒りが渦巻き、今ここで『レイクサイド』の一件をぶちまけてやりたい衝動に駆られた。
けれど、カッとなってそんなことをすれば、すべてがめちゃくちゃになる。
耐えるしかない――
直斗は震える拳をポケットに突っ込み、「……わかりました」とだけ声を絞り出して、職員室を後にした。
麻衣の席は、今日は朝から空っぽだった。
ホームルームが始まっても、現れない。
昨日早退したまま、続けて欠席ということらしい。
それでも、メッセージくらいは送れるはずだ。
もしスマホに何の連絡もなければ、自分は麻衣に、完全に拒絶されたことになる。
武の安否と、麻衣の沈黙。
焦りと絶望で息が詰まる。
拷問のような授業を耐え抜き、放課後のチャイムが鳴るや否や、直斗は職員室へ駆け込んだ。
花村先生は、すでにデスクに座っていた。
「遅くなりました。スマホ、返してください」
「では、これを」
引き出しの鍵を開け、直斗の黒いスマホを取り出す。
直斗が、反省文と引き換えに手を伸ばしかけた瞬間、先生はスッとそれを引き戻した。
「返す前に、ひとつ言っておきます」
「……なんですか」
「あなたは最近、少し様子がおかしいですね。授業中も上の空ですし、昨日は図書準備室で門脇君と暴力沙汰になりかけたと報告を受けています」
直斗はドキリとした。
先生たちの間で、そんな情報まですでに共有されているのか。
「北川先生の事件で、心に大きな負担がかかっているのは理解しています。ですが、それを言い訳に規律を乱していいわけではありません。変な正義感や好奇心で、大人の問題に首を突っ込むようなことは、絶対にやめなさい」
表向きは真っ当な指導だが、直斗の耳には『これ以上、余計なことを探るな』という冷たい警告に響いた。
湧き上がる反発をグッと飲み込み、頷く。
「……わかりました。気をつけます」
「よろしい。二度と学校には持ってこないように」
ようやくスマホを受け取り、直斗は一目散に職員室を飛び出した。
昇降口を抜け、校門を出た瞬間、祈るような気持ちで画面に触れた。開かない。電源が落ちている。
直斗は続けて電源ボタンを長押しした。
――頼む……!
けれど、画面は黒いまま。
やがて浮かび上がったのは、赤い空っぽの電池マークだけだった。
――嘘だろ……
バッテリー切れ。
もともと充電は残り少なかったうえ、一日以上、電源が入ったまま放置されていたからだ。
直斗は即、走り出した。
家に帰って自室に飛び込むと、スマホを充電ケーブルに挿す。
だが、すぐには起動できない。
しかも今日は、出欠に厳しい駅前の進学塾の日。
少しの遅刻でも、即座に母親に連絡がいく。
時計を見ると、塾の開始まであと二十分しかなかった。
「くそっ……!」
直斗は諦めて、また家を出た。
机の上では、スマホの充電ランプだけが、静かに赤く灯っていた。




