第18話 空虚な諍い
四時間目の授業が終わった。
給食の準備が始まる中、直斗は教室を出ようと席を立つ。
職員室の花村先生を説得し、なんとかスマホを返してもらうつもりだった。
だが、その前に、窓際の席で麻衣がぐったりと机に伏せっているのが目に入った。
どうも普通ではない。
土曜のメッセージの件もある。
直斗は心配になって、麻衣に歩み寄った。
「麻衣、大丈夫か? なんか顔色悪いけど」
声をかけると、麻衣は重そうに顔を上げた。
肌は透けるように白く、瞳はうつろだ。
「……ごめん、直斗。ちょっと気分が悪くて。これから、早退する」
消え入りそうな声で言い、震える手で鞄を肩にかけた。
「え、大丈夫?」
「うん……たぶん、妹の風邪がうつっただけ」
「なら保健室行こう。一緒に行くよ」
「いい。ひとりで平気。先生には断って帰るから心配しないで」
力なく首を振り、視線を合わせないまま席を立つ。
このままでは何も話せずに終わってしまう。直斗は周囲に聞かれないよう、声を落とした。
「あの、武のことだけど」
その途端、麻衣が一瞬固まった。そして、答えた。
「……連絡、あったよ」
「本当……!?」
「うん。スマホに。無事だって」
「それで、武は何て?」
「それは……」
麻衣は言いよどみ、首を振った。
「あまり話す時間がなくて、すぐ切れちゃった」
「そうなんだ」
「ごめん、もう帰るね。この件は、また今度。電話するから」
それだけ言うと、逃げるように教室を後にした。
直斗は、その背中を見送ることしかできない。
……やっぱり麻衣は、俺にすら言えない、重い秘密を抱えているんじゃないか?
主のいない空の席を、窓から差し込む真昼の陽光が虚しく照らしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
すべての授業が終わり、放課後のチャイムが鳴った。
麻衣のことで頭がいっぱいで、昼休みは結局、職員室へ行けなかった。
しかも間が悪いことに、今日はこれから天文部の集まりがある。
遅刻すれば、他の部員から非難の声が飛ぶだろう。
直斗は仕方なく、図書準備室へ直行した。
麻衣以外の部員が顔を揃えたそのすぐ後で、田中先生が快活な足取りで入ってくる。
「お、みんないるな」
事件直後の憔悴ぶりから一転、今日の田中先生は、どこか憑き物が落ちたように明るい。
「みんな、急に集めて悪かった。実は先週の職員会議で決まったことがあってね」
「あの……」
直斗は話が始まる前に、麻衣の早退を伝えた。
「ああ、わざわざすまんな。だが、それはもう本人からさっき聞いた。気分が悪いそうだな」
田中先生は頷き、それから部員を見渡して、白い歯を見せた。
「さて。当面見合わせだった部活動だが、正式に再開が決まったぞ。警察の現場検証も終わってるし、これ以上、生徒の活動を制限するのもよくないという方針になった」
その言葉に、一年の恵をはじめ、部員たちの顔が一気に明るくなる。
「もちろん、不安な気持ちが残っている者もいるだろう。無理に参加しろとは言わない。ただ、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。――それに伴ってだ」
田中先生がパンッと手を叩く。
「秋の文化祭に向けて、ウチの部も本格的に動きたい。そこで、今月末に天体観測会を実施しようと思う。撮った写真を発表するのが目的だ」
「今月末、ですか?」
直斗は思わず声を上げた。
「そうだ。五月の観測会は雨で延期になって今月にずれ込んだ上、あんなことになってしまったからな。せめて夏休みに入る前に、一度はやりたい」
「でも、場所は?」
「もちろん、この新校舎の屋上だ。問題あるか?」
「待ってください!」
直斗は、こらえきれず、机に強く手をついて立ち上がった。
「北川先生が亡くなったばかりで、犯人もまだ捕まってないのに、不謹慎じゃないですか」
「おい滝沢、お前何言ってんだよ」
直斗を遮るように、斜め向かいから冷ややかな声が飛ぶ。
副部長の門脇だ。
「観測するのは新校舎の屋上だろ。事件のあった旧校舎とは関係ない。毎月の観測はうちの伝統だし、みんな楽しみにしてるんだよ。新参者が余計な口出しするな」
「はあ?」
直斗は門脇を睨んだ。
自分はいい。むしろもう一度屋上に立てば、事件について何か新しい発見があるかもしれない。
しかし、麻衣はどうだ。
このところ、ただでさえ元気がないのに、天文部の部長として、あの空間で再び夜空を観測することに耐えられるのか。
「滝沢、もしやお前、怖いのか?」
門脇は、わざと挑発的な口調で言った。
「情けねえなあ。周りを見てみろ、ビビってるのはお前だけだぞ」
「ビビるってどういう意味だよ」
「だから殺人犯が怖いんだろ? でも犯人はもう決まってる。前も言ったろ。尾崎だよ、尾崎!」
「お前、それ以上言ってみろ!」
直斗は咄嗟に、鼻で笑う門脇の胸倉をつかみそうになった。
一触即発の空気。
田中先生が慌てて割って入る。
「よさないか、二人とも! 門脇、まだ何もわかってないのに同級生を犯人扱いするなと言っただろう。――滝沢、君のつらい気持ちはわかるが、この先ずっと悲しみ続けるわけにもいかないじゃないか。亡くなった北川先生も、それは望んでいないはずだ」
公平に諭されても、直斗の怒りは収まらない。
「だけど先生。七瀬部長は、事件の現場を直接見たんですよ。とてもショックを受けてました。だから、もう二度とこの屋上には上がりたくないはずです」
「なるほど、君の心配もわかるが、その点については大丈夫だ。さっき職員室に来た七瀬にこの話をしたら、とても喜んでいたからな」
「え……麻衣が?」
意外ではあったが、つらい現実を忘れるためにあえて、何よりも好きな星空の観測に没頭したい――
麻衣はそう思ったのかもしれない。
「わかりました……部長が喜んでるなら、いいと思います」
もう、反対する理由はなかった。
田中先生は頷き、にこやかに言った。
「みんな、悲しい記憶があるのはわかる。だが、前を向くことも大切だ。観測会は今月末に決行する。各自、準備をしておくように。今日はこれで解散!」
田中先生が外へ出ていくと、他の部員も、ホッとした顔で帰り支度を始めた。
直斗は自分だけ取り残されたようで、すっかり脱力してしまう。
それでも、スマホのことは忘れていなかった。
早く職員室へ行き、花村先生から取り返さなければ安心できない。
そう思って、鞄を持ち立ち上がった、その時だった。
「おい、滝沢」
すれ違いざま、門脇がわざと肩をぶつけ、吐き捨てるように言った。
「お前さ、妙に尾崎をかばったり、七瀬にばっかりいい顔しようとして必死みたいだけど、こっちから見るとバカみたいなんだよ」
「……なんだと?」
「七瀬だって、裏でなにやってるかわかったもんじゃないぜ」
門脇の口元が、意地悪く歪む。
「あいつ、お前なんかより他の男に夢中かもよ。ま、せいぜい気をつけな」
「てめえ……!」
怒りは一気に沸点を超えた。
武を犯人扱いした挙げ句、今度は麻衣を貶めるような酷い陰口。
ギリギリで保っていた直斗の心のバランスは、完全に崩れてしまった。
直斗は門脇の胸倉を両手でつかみ、声を荒げて怒鳴った。
「適当なこと言ってんじゃねえぞ! お前なんかに、武の、麻衣の何がわかるってんだよ!!」
門脇が「うわっ」と叫び、鈍い音が準備室に響いた。
直斗から逃れようと後ろに下がった拍子に、勢い余って棚に身体をぶつけたのだ。
部員たちが悲鳴を上げる中、直斗の目は血走り、本気で門脇の顔面を殴り飛ばそうと右の拳を振り上げていた。
門脇も負けじと腕をつかみ返し、二人はもみくちゃになる。
「やめて! 滝沢センパイ、門脇センパイ、やめてください!」
恵が泣きそうな声で割って入り、直斗の腕にしがみついた。
「暴力はダメです!! 先生呼びますよ!!」
その悲痛な声に、直斗はハッとして拳を下ろした。
荒い息を吐きながら、手を離す。
門脇は乱れた襟を正し、憎々しげに睨んできた。
「……野蛮なヤツだな。尾崎と友達なだけはあるぜ」
捨て台詞を吐き、鞄をひったくって出ていく。
他の部員も呆れ顔で帰ってしまい、あとには直斗と恵だけが残された。
怒りだけじゃない。
麻衣は他の男に夢中かもしれない――門脇のその言葉が、猛毒のように胸の奥へ広がっていく。
本当は、ずっと前から恐れていたことだった。
三人で笑っている時でさえ、その不安だけは心のどこかにあった。
麻衣の視線は、いったい誰に向いているのか?
想いを寄せているのは、俺ではなく武なのか、と――
結局、自分だけが何も知らず、勝手に空回りしていただけなのかもしれない。
椅子に力なく腰を下ろした直斗に、恵が慰めるように声をかけた。
「センパイ、元気出してくださいよ」
「……ごめん。でも、放っておいてくれ」
「門脇センパイも、悪い人じゃないんですよ。ただ……」
「ただ、なんだよ?」
「ほら、センパイって三年の春に入部したばっかりなのに、いきなり七瀬部長とすごく仲良さそうにしてたじゃないですか。それが、ちょっと面白くなかったんだと思います」
「……そういうことなのか」
「まわりからすると、ちょっと付き合ってるみたいに見えちゃうっていうか……。あ、変な意味じゃないですよ。七瀬部長、男子から人気ありますから」
「そっか。それは気づかなかった。これから気をつけるよ」
そうは言ったものの、本当は、門脇が何を思おうとどうでもよかった。
嫉妬するなら、勝手にしていればいい。
問題なのは、麻衣の気持ちだ。
そして、その視線の先にいるのは、おそらく自分ではない――
そう思うと、直斗はすべてが虚しく感じられた。




