第16話 ホテル・レイクサイド
山道に入って車が少なくなり、前を行く青いSUVはスピードを上げた。
佐々木も負けじとアクセルを踏み込む。
やがて、荒井の車はトンネルに入った。
ある程度の車間距離を保ったまま、こちらの車も後へ続く。
そして――
トンネルを抜けた先に現れたのは、湖を見下ろす高台に建つ一軒の建物だった。
ヨーロッパの古城を模したような悪趣味な塔がそびえ立ち、壁はピンクと紫に塗り分けられている。
昼間の日差しの下で見ると、それは薄汚れた欲望の象徴のように見えた。
『ホテル・レイクサイド』
駐車場の入口には目隠しのカーテンが垂れ下がり、中に停めた車が外から見えないようになっている。
荒井の車は迷うことなくその駐車場へと吸い込まれていった。
「……嘘だろ」
直斗はその様子をスマホで撮影しつつ、信じられない思いで呻いた。
目の前の建物がラブホテルで、その一室で男女が行うことは、中学生なら当然わかる。
あの真面目な花村先生が、荒井と――
「やっぱりそういう関係か」
佐々木はハンドルをさばき、車をホテルの入口から離れた脇道に停めた。
直斗は気まずさを感じながら、録画を止めてスマホを置いた。
「あの、花村先生は一応結婚しているはずですが……」
「不倫、か。しかし学校内では真面目な顔をしておいて、裏ではこんな関係を持っていたとはね」
「荒井先生は北川先生にも言い寄ってたのに、なんで花村先生と――それに荒井先生、体育の授業中、女子生徒ばかり贔屓にしたり馴れ馴れしく触ったりしてたんですよ。麻衣だって被害者のひとりなんです」
「そうだね。荒井はそういう欲求が人一倍強いのかもしれない。理性が働かず、自分を抑えきれないんじゃないかな」
佐々木は呆れたように肩をすくめたが、その目は笑っていなかった。
「しかもよりによって荒井の相手が君の担任だったとは。まさに衝撃の事実だね」
「佐々木さん――これって」
「ああ、非常に重要な手掛かりになるかもしれない」
「手掛かり……ですか?」
「もちろん、ただの不倫で事件とは何の関係もない可能性も十分ある。休日にたまたま二人の都合が合っただけかもしれないしね」
「はあ……」
「だが、もし京子がこの二人の関係を知っていたとしたら、どうだろう」
「え、どういうことですか?」
「京子が教頭に相談しようとしていた内容に、荒井のセクハラだけでなく、この件も含まれていた可能性があるということだ。今は不倫に対する世間の目は厳しいからね。ましてや二人は教師だ。もし事が公になれば厳しい懲戒処分は確実だろう」
「まさか……」
「京子が二人の秘密を知り、それを明るみに出そうとしていたのだとしたら、口封じという動機も考えられる。荒井は以前から京子に執着していたようだから、振られた恨みが重なった可能性もある。もちろん、それだけで犯人だと決めつけるつもりはないけどね」
それを聞いて、直斗は背筋が一気に寒くなった。
確かに花村先生は既婚者だ。
不倫がバレれば、家庭も教師としての地位も危うい。
荒井だって、今の学校にはいられなくなるだろう。
佐々木は淡々と話を続けた。
「ただ、ひとつ気になるのは、荒井がこんな昼間から堂々と不倫相手とホテルに入ったことだ。もしかしたら、自分は警察に疑われていないという自信があるのかもしれない」
「警察に疑われていない? え、なぜですか?」
「もしも荒井が有力な容疑者だとしたら、警察は彼に尾行をつける可能性が高い。しかし見たところ、後をつけてきた車は我々だけだ。荒井もほとんど警戒している様子はなかった」
「つまり警察は荒井先生を容疑者から外しているってことですか?」
「断言はできないがね」
「あ……!」
そこで直斗は、この間の、雨の中で荒井と対決した時のことを思い出した。
「そういえば荒井先生、この間、自分にはアリバイがあるみたいなこと言ってました……」
昨日、武から聞いた荒井の話が頭をよぎる。
だが、それを佐々木に話すわけにはいかなかった。
武との約束だけは、絶対に破れないからだ。
「やはりそうか。しかし、だからといって、荒井がシロとは言い切れないな」
「どうしてですか?」
「荒井のアリバイに関わっているのが、今、目の前でホテルに入っていった花村先生だとしたらどうだろう?」
「花村先生が……?」
「不倫を隠したいという点で、二人の利害は一致しているからね。だとしたら、口裏を合わせるくらいは十分考えられる。もしそうなら、アリバイそのものも疑ってみる必要がある」
アリバイの偽装――
その時、武が旧校舎で見たという『もうひとりの人物』のことが、直斗の脳裏をよぎった。
「まさか、花村先生まで……?」
黒板の前で教科書を読み上げる、無表情な花村先生の姿が頭に浮かぶ。
生徒には厳しく道徳を説き、SNSの噂話を戒めていた先生。
その人が裏では荒井と通じ、平然と嘘をついているのかもしれない――
直斗は拳を握りしめた。
もし佐々木の推理が本当なら、武は、大人たちの保身のために犯人に仕立てられようとしている。
「許せない……」
胸の奥から込み上げてきたのは、悲しみではない。
抑えきれない悔しさと怒りだった。
その様子を見て、佐々木はハッとし、口をつぐんだ。
顔には明らかな後悔の色が浮かんでいる。
「すまない。私はどうかしていた。君が中学生だということも忘れて、素人の勝手な推理をしゃべってしまった」
「……別に、いいですよ」
「こんな探偵まがいの尾行ごっこに君を巻き込んだのは、やはり間違いだった。結果的に、担任教師のとんでもない秘密まで知ってしまった」
「無理やりついてきたことは謝ります。でも、俺がいなかったら、不倫相手が花村先生だってわからなかったじゃないですか」
「それは認めるが、私は君の学校生活が心配なんだよ」
「殺人事件の目撃者になっただけで、もう十分影響出てます」
「確かにね」
佐々木は苦笑したが、すぐ真顔になった。
「とにかく、君を荒井のマンションの近く――自転車を置いてきた場所まで送る。それに乗って今日はもう帰りなさい。そして見たことは全部忘れるんだ。誰にも話さない方がいい。私も、君が同行していたことは絶対に他言しない」
「そんな、今さら……」
「いいから。シートベルトを締めて」
きっぱりとした口調でそう言うと、佐々木は車を発進させた。
これ以上何を言っても無駄だと、直斗は悟った。
「佐々木さんは、これからどうするんですか?」
「君を送った後、ここへ取って返して、二人が出てくるのを待つ。ホテルに入った以上、少なくとも二時間は出てこないだろう。決定的瞬間を写真に押さえる。それが、彼らのアリバイを崩す一撃になるかもしれない」
「動画なら俺が撮りましたから、コピーしますけど……」
「それは絶対に駄目だ。後々、出所が問題になる。結局、君を事件に巻き込んでしまう。さっきは運転中で止められなかったが、その動画は必ず消しなさい。すべてなかったことにするんだ。いいね?」
直斗は一瞬だけ視線を窓の外へ逃がし、「……はい」と答えた。
だが、その忠告に従うつもりはなかった。
荒井を追い詰める重要な証拠を、簡単に手放すわけにはいかない。
「滝沢君、この件は私に任せてほしい」
荒井のマンションが近づいたころ、佐々木が改まった声で言った。
「君は自分のことをやるんだ。明日は学校だろう?」
「はい、出席はします。――あの、それで、佐々木さん、警察には今日のこと話すんですか?」
「いずれはね、だが今ではない。不倫をしているというだけでは、警察を動かす材料にはならないからね。下手に動いて荒井に悟られ、証拠隠滅を図られるのも避けたい。すべて慎重にいくよ」
「わかりました。あとのことはお願いします……」
佐々木は、これで完全に、直斗との間に大人の壁を作ってしまった。
もはや協力して真犯人を探すことは、無理だろう。
せっかく頼れる味方を得たと思ったのに、結局、直斗はまたひとりで事件に立ち向かわなければならなくなったのだ。




