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第11話 婚約者の憂鬱

 佐々木はしばらく無言で二人を見つめていたが、おもむろに口を開いた。


「……そうだったのか。辛い記憶を思い出させてすまない。でも、教えてくれてありがとう。最期に彼女のそばにいたのが、君たちみたいな親切な生徒さんでよかったよ」


 顔を上げた佐々木の表情は、先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。

 この様子なら大丈夫だろうと、直斗は思い切って尋ねた。


「佐々木さん。あの……犯人について、心当たりはないんですか? 北川先生が人から恨まれるような先生じゃないのはわかってるんですが、それでも」


「うーん。君たちに話していいものか……」


 一瞬迷ってから、佐々木は答えた。


「同僚の体育教師に言い寄られて困る、という話は、よく聞かされていた」


「……え? それってもしかして、荒井先生、ですか?」


 その名を出した瞬間、佐々木の表情が凍りついた。

 はっきりと嫌悪の色が浮かぶ。


「滝沢君、なんでそのことを知っているんだい?」


「あ、ちょっと学校で噂になっていて……。実は今日、荒井先生の授業があって、少し事件のこと聞いてみたんです」


「え!? 君、そんなことしたのかい」


 佐々木は驚いて直斗を見た。

 そして、たしなめるように言った。


「それは少し軽はずみな行動だったね。生徒がいきなり事件のことなんか聞いて、その教師から目をつけられたら大変だ。これからの滝沢君の学校生活に何か影響が出なきゃいいが――」


「……それは、大丈夫だと思います」


 それから直斗は、今日の昼間の荒井とのやり取りを、当たり障りのないよう、ざっと説明した。

 ただ、荒井が怒って逆上し、直斗を脅すような態度を見せたことは、二人には伏せておいた。

 その事実を知れば、麻衣は余計に心配するだろうし、佐々木は佐々木で「危ないからもう事件について調べるのをやめろ」――と、言ってくるに違いないと思ったからだ。


 直斗の話を聞いた佐々木は、忌々しげに言った。


「京子は確かに、ここ数か月、その同僚の執拗なアプローチに悩んでいた。しつこく飲みに誘ったり、どこで調べたのか、ひとり暮らしのマンションに押し掛けたり、わざと体に触れようとしたこともあったらしい。京子が『恋人がいる』と断っても、聞く耳を持たなかったそうだ」


 直斗は驚き、呆れた。

 教職者がそこまでやるとは。セクハラの相手は、生徒だけではなかったのだ。

 それに、マンションの件は、天文部で恵から聞いた話とも一致する。


「それじゃあストーカーじゃないですか……!」


 麻衣が珍しく憤って声を上げた。

 昼間、荒井に身体をしつこく触られた記憶が蘇ったのかもしれない。


「そうなんだ。それで京子は教頭に相談しようとしていた矢先だった。それに改めて荒井と一度直接話し合ってみるとも言っていた」


 佐々木の拳が、テーブルの上で固く握りしめられた。


「警察にもこの話はした。だが、どうも要領を得ない。通り魔的な犯行とは見ていないようだが、どうやら別の容疑者もいるらしい」


 その容疑者って、武のことなのか?

 もう学校内の噂だけにとどまらず、警察すら武を事件の犯人と疑っているのか――?


 直斗はたまらず、佐々木に尋ねた。


「あの、その別の容疑者について、ひとつ伺いたいことがあるんですが」


「なんだい?」


「実は学校で、ある噂が流れているんです。北川先生を殺した犯人は、うちの中学の生徒なんじゃないかって。それで、その生徒というのが、俺と麻衣の親友で尾崎武って言うんですけど、事件以来ずっと欠席していて……」


「……尾崎武」


 佐々木はその名をゆっくり口にし、記憶を探るように天井を見上げた。


「うーん……その名前、たしか京子から聞いたことがあるな」


「えっ、本当ですか?」


 直斗の声が、思わず裏返った。

 佐々木は肩をすくめ、淡々と答えた。


「ああ。京子が自分の学校の生徒の話をするのは珍しいから、割と覚えている。確か、家庭環境がかなり複雑で、気の毒な生徒だと言っていたかな。見た目で不良みたいに誤解されて学校では孤立しがちだけど、根はとても純粋で心の優しい子だ、ともね」


「……それ! まさに武です」


 麻衣が身を乗り出す。

 直斗も笑ってしまいそうなほど、あまりに的を射た評価だった。


「生徒の個人情報だからって、それ以上は詳しく話してくれなかったけどね。京子は彼と親しくしていて、何度も相談に乗ったとは言っていたよ」


「何度も相談……!? 武が……?」


 直斗は耳を疑った。

 隣の麻衣も、信じられないというように目を見開いている。


 教師なんか信用しないと思っていた武が、自分の内面を誰かに打ち明けていた。

 それは、今日聞いたどんな話よりも、意外な事実だった。


「だからその噂はどうだろうね。私には、ずいぶん無責任な流言に思えるが」


 コーヒーをひと口飲んで、佐々木は続けた。


「少なくとも京子は、その尾崎って子を信用していたと思うよ。昔から人を見る目はあったしね。それに君たち二人とも、その彼と親友なんだろう?」


「はい!」


 直斗と麻衣は、同時に返事をした。


「じゃあそんな噂、気にすることはないよ。京子がいない今、学校で味方になってあげられるのは、君たちだけかもしれない。月並みだけど、友達はなによりも大切にした方がいい」


「ありがとうございます。……なんだか、ホッとしました」


 直斗が正直な感想を漏らすと、佐々木は柔和な笑みを浮かべ、飲み干したカップをソーサーに戻した。

 カチャン、という硬い陶器の音が、会話の終わりを告げる合図のように、静かな店内に響く。


「礼を言われるようなことじゃない。私の方こそ、京子のことを聞かせてもらえてよかった。……さて、これ以上引き留めて、ご両親に心配をかけてはいけないな。もう遅い時間だ」


 佐々木はそう言って、懐からまた二枚名刺を取り出すと、裏にボールペンで何かを書きつけた。


「これは私のプライベートの携帯番号だ。もし何か思い出したり、学校で気になる動きがあったりしたら、いつでも連絡してほしい。どんな些細なことでもいい」


 差し出された名刺を、直斗と麻衣はそれぞれ受け取った。

 裏には角張った几帳面そうな字で、十一桁の数字が並んでいる。

 それはまるで、真犯人にたどり着くまでの長い迷路の、ひとつの道しるべのように思えた。


「わかりました。必ず連絡します」


「気をつけて帰るんだぞ。――あ! ただし滝沢君、行動はくれぐれも慎重に。その荒井先生に必要以上に接触するのはもうやめなさい。いいね? 約束だぞ」


 佐々木に釘を刺され、直斗は仕方なくうなずいて見せた。

 もちろん、その忠告に従うつもりはなかった。


 店を出ると、外気は昼間の雨で洗われたせいか、ひやりと冷たくなっていた。

 駅の改札へ向かう人混みの中で、佐々木は「じゃあ、私は電車で帰るから」と短く言い残し、手を上げて去っていった。


 姿が見えなくなるまで見送って、直斗は隣の麻衣に声をかけた。


「よかったな、麻衣。やっぱり噂は噂だよ。武は犯人なんかじゃない。北川先生も、ちゃんとわかってくれてたんだ」


 声は、自分でも意外なほど弾んでいた。

 信じたい気持ちと裏腹に燻っていた小さな疑念。

 それを、佐々木がきれいに拭い去ってくれた気がしたからだ。


 だが、麻衣からの返事はなかった。


「……麻衣?」


 怪訝に思って横顔を覗き込むと、麻衣は歩道の敷石の一点を凝視したまま、微動だにしていなかった。


 喫茶店の暖かな明かりの下では気づかなかったが、街灯に照らされたその顔は、心配になるほど青ざめていた。

 まるで、正体のわからない不安に取り憑かれているように見えた。


 その様子に、直斗の高揚感は急速に萎んでいく。


「おい、どうしたんだよ。気分でも悪いのか?」


 恐る恐る尋ねると、麻衣は首を小さく横に振った。

 視線は足元から動かない。

 短い沈黙の後、消え入りそうな声が漏れた。


「……ううん。なんでもないよ……もう帰ろう」


 麻衣は小さく首を振り、話題を切り上げるように背を向けた。

 その態度が、直斗の心に大きな影を落とす。


「待てよ。麻衣、様子が変だぞ」


 呼び止めると、麻衣はぽつりと呟いた。


「別に……ただ、武は北川先生に何を相談してたんだろうって思って」


「……え?」


 その考えは、直斗の中になかった。

 武は親のことや進路のことを相談していただけだと、当然のように思い込んでいたからだ。


 しかし、言われてみれば確かにそうだ。

 武が北川先生に何度も相談していたという事実も、事件の夜、旧校舎にいたことも、偶然のひと言で片付けられる話ではない。


 そして、その相談の内容が、北川先生の死と、何か関係しているとしたら――?

 認めたくはないが、その可能性を、頭から消すことはできなかった。


「武、私たちにも言えないことがあったのかな……」


 麻衣の声は震えていた。

 肩もわずかに揺れている。


 そんな麻衣に、直斗はそれ以上言葉をかけられなかった。


 駅前のロータリーには、仕事帰りの人々や学生が行き交い、クラクションやアナウンスが絶えず響いている。

 だが二人の周囲だけ、音が吸い取られたように静まり返っていた。


 深まりゆく夜の気配が街を包み、湿った風が吹き抜け、二人の背中を撫でた。

 直斗はその場に立ち尽くしたまま、言葉にできない胸騒ぎを、新たに感じていた。

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