第10話 雨上がりの光
放課後を告げるチャイムが鳴った。
だが、直斗は家に帰る前に、どうしても確かめたいことがあった。
武の出欠だ。
急いで帰り支度をして、教室を飛び出し三組へ向かうと、まだほとんどの生徒が教室に残っていた。
しかし、そこに武の姿はなかった。
顔見知りの生徒に尋ねると、やはり今日も休みだという。
――これで三日連続の欠席か。
直斗は諦めて、廊下の壁に背を預けた。
事件以来、武とは一度も連絡が取れていない。
これだけ休みが続けば、「武が犯人」という噂は、生徒たちの間で完全に既成事実になってしまう。
警察もマークしているというなら、なおさらだ。
直斗は心配でたまらなかったが、だからといって、何をどうすることもできなかった。
家の固定電話にかければ、あの母親が出るかもしれない。かといって、武は携帯を持っていない。
以前、スマホは欲しくないのかと聞くと、武は「うちは貧乏だから」と笑って答えたものだ。
確かに、武の家は決して裕福じゃない。
だが、問題はそれだけではなかった。
シングルマザーの母親は酒癖が悪く、時に武へ手を上げる。
秘密基地で痣を見せられたあの日から、それは今も続いているらしい。
そんな母親の姿を見られたくないのだろう、武は何より、自分の家へ誰かが来ることを嫌がった。
だから、直接家を訪ねるわけにもいかない。
真犯人探しは、早くも行き詰まりか……。
暗澹とした気持ちで校舎の外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。
西の雲の隙間から差す夕陽が、濡れたグラウンドの水たまりを黄金色に染めている。
眩しさに目を細めながら歩き、校門を抜けた、ちょうどその時だった。
通学路のガードレールのそばに、ひとりの男が立っているのが目に入った。
年齢は三十前後だろうか。
ダークネイビーの仕立てのよいスーツを着こなし、すらりとした立ち姿から、知性と品格が滲み出ている。
ジャージ姿の生徒や、くたびれたスーツの教員が行き交うこの場所には、あまりにも場違いな存在だった。
男は腕を組み、じっと校舎を見上げている。
その鋭い視線は、窓のひとつひとつを吟味するように動いていた。
不審者というより、見知らぬ町に迷い込んだ異邦人のようだ。
直斗はその前を通り過ぎようとしたが、男が醸し出す切迫した空気が気になり、足を止めた。
「あの……何か、用ですか?」
思わず声をかけると、男はゆっくり振り向いた。
端正な顔立ちだ。冷ややかな理性を感じさせる眼光が、直斗を捉える。
「……君は、この学校の生徒さんだね」
声は低く、落ち着いていた。
威圧感はないが、容易に嘘を見抜かれそうな眼力がある。
「はい。三年生ですけど」
「そうか。……学校の中はまだ騒がしいのかな」
「え?」
「事件のことだよ。生徒や先生たちの動揺は収まっていないように見えるが」
その言葉に、直斗は警戒を強めた。警察か、それともマスコミか。
「……あなたは?」
「ああ、失礼。怪しい者じゃない――といっても証明のしようがないか。こういう者だ」
男は懐から革の名刺入れを取り出し、一枚を差し出した。
誰もが知る大手総合商社のロゴと、『佐々木洋一』の名が印字されている。
「佐々木さん、ですか?」
「実はね、私は北川先生の親しい友人なんだ。よければ、君の名前を教えてくれないか」
「滝沢と言います」
男は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、すぐに顔を上げた。
「なんと言えばいいか……北川先生の事件を知って、いてもたってもいられなくてね。警察は何も教えてくれない。現場の空気や学校の様子を、自分の目でどうしても確かめたかったんだ。しかし来てみても、部外者が中に入るわけにはいかない。……滝沢君、北川先生のことは知っているかな?」
「はい。英語を教えてもらっていました」
「そうか。もし時間があるなら、少し話を聞かせてもらえないだろうか」
佐々木の目には、真実を求める静かな、しかし強い光が宿っていた。
単なる好奇心や、野次馬根性で言っているのではないだろう。
完全に信用したわけではないが、このまま別れてしまっては、捜査は何も進まない。
ひょっとすると、この人が真犯人を見つける手がかりを教えてくれるかもしれない。
直斗はしばらく迷ったのち、頷いた。
「……わかりました。あの……それと、もうひとり呼んでもいいですか? 俺と一緒に事件現場を目撃したクラスメイトです」
「目撃……?」
その瞬間、佐々木の目の色が変わった。
「まさか――それじゃあ君たちは……京子の最期を見たのか」
「はい。実はあの日の夜、天文部の活動で天体観測をしていたんです。それで――」
「それは是非、詳しく聞かせてくれ。ここじゃなんだから、場所を変えよう。少し遠いが駅前の方へ出ようか」
「いいですけど、制服だと目立つので家で着替えてからでもいいですか。一時間後に待ち合わせるのはどうでしょう」
「私は構わないが……ああ、しかし君は未成年だ。親御さんの許可を取らなければまずいな」
「じゃあ、母の携帯にメッセージ送ってみます。たぶん家にはいないんで」
直斗は背を向けてスマホを取り出した。
奈美恵に連絡するか一瞬迷ったが、どう説明しても、絶対に反対されるに決まっている。
それに麻衣も呼べば、二人きりではなくなる。
今日、奈美恵はちょうど買い物で帰りが遅い予定だ。
黙っていても、後で問題になることはない。
直斗は奈美恵には連絡せず、麻衣に『北川先生の知り合いだという人に会った。話したいから一時間後に駅前まで来て』と送信した。
すぐに『本当に北川先生の知り合い? 大丈夫なの?』と返事がくる。
確かにこの状況で、警戒するのは当然だ。
だが、直斗はどうしても麻衣に来てほしくて、『たぶん信用できる人』と、再度返した。
ひとりで不安ということもあったが、できるだけ多く事件の情報を得るためには、麻衣と一緒に話を聞いた方が絶対によいと思ったからだ。
そして、ようやく『了解』と返ってきた。
一時間後――
約束どおり駅前で落ち合った三人は、商店街のはずれでひっそり営業する、昭和の遺物のような喫茶店に入った。
夕方のこの時間でも、客はまばらだ。
琥珀色の照明の店内は、焙煎された豆の香ばしい匂いに包まれ、落ち着いた雰囲気が心地よい。
一番奥のボックス席に、直斗と麻衣、佐々木の三人が向かい合って座った。
佐々木は自分にコーヒーを、二人にカフェラテを注文してくれた。
湯気の立つカップを前に、直斗は張り詰めていた肩の力がふっと抜けた気がした。
「会ったばかりなのに来てくれてありがとう。滝沢君に、七瀬さん」
麻衣は緊張した面持ちで小さく頭を下げた。
目の前の洗練された大人に、どこか気圧されているようだ。
「それで……その、佐々木さんは、先生とはどういうご関係なんですか?」
麻衣が恐る恐る尋ねると、佐々木はカップを見つめたまま、静かに言った。
「わざわざここまで来てもらったんだから、まずはこちらが正直に話さないといけないな。――さっきは友人と言ったが、実は北川さんとは恋人同士だったんだ。大学のサークルの後輩で、学生時代からずっと付き合っていた。近いうちに結婚する予定だった」
「えっ……」
直斗と麻衣は顔を見合わせた。
北川先生に恋人がいるのは不思議ではない。
だが、こんなエリート商社マンと結婚間近だとは思わなかった。
「実はあの日……事件の夜、京子の――北川さんのマンションで彼女の帰りを待っていたんだ」
淡々とした声が、かえって悲劇性を際立たせる。
「だが夜遅くなっても帰ってこない。電話も繋がらない。会議で遅くなっているのかと思ったが……日付が変わる頃、マンションの固定電話に警察から連絡があった。家族を探していたんだろう」
佐々木は一瞬言葉を切り、眉間を指で強く押さえる。
「単なる恋人の私では、身元の確認はできないからね。結局その日は家に戻り、その後は警察の事情聴取でいろいろ聞かれた。悲しんでいる暇すらなかったよ。いまだに、京子がこの世にいないという実感もない。すべてが悪い夢のようだ」
顔を上げた佐々木の目元に、悲しみと怒りが入り混じった色が浮かぶ。
「なぜ、京子が殺されなければならなかったのか。彼女は誰からも恨まれるような人間じゃなかった。それなのに……」
会ったばかりだが、その悲しむ様子だけは演技には見えなかった。
もう一歩踏み込んで、話をしても問題ないだろう。
直斗は意を決して口を開いた。
「佐々木さん。……さっき言ったとおり、あの夜、俺たちは現場を見ているんです」
鋭さを取り戻した佐々木の視線が、直斗を射抜く。
「その夜のこと、是非詳しく聞かせてくれ」
「はい。三日前の夜、屋上で天体観測をしていて――」
事件を目撃した経緯を、直斗は一通り、できる限り正確に説明した。
ただし、ひとつだけ伏せたことがある。
あの夜、旧校舎から走り去る武を見たことだ。
それを話せば、佐々木も警察と同じように武を疑うだろう。
直斗にはまだ、そこまでの覚悟がなかった。




