第20話 獣のことを、二度と語るな
チビが『はじめ』の『じ』を言ったあたりで、赤毛はもう前に走り出してた。斧は右手だ。
振ってきたのは、ギリギリのタイミングだった。前に出ようとしたのに、足は砂に貼りついたみてえに動かねえ。膝を曲げるのが精一杯――斬撃は、頭のすぐ上を通ってった。
(このクソ野郎、マジで俺を殺しに来やがった)
それが、何よりも効いた。
ヤツのツラを見た。無表情だった。怒りなんざ、どこにもねえ。額はピクリともしねえし、口は自然に閉じてる。空っぽの目玉は、まっすぐ的に据えられてた。
俺に。
素早く立ち上がって、横に跳んだ。素手なら、まだ目はあった。この斧は、邪魔なだけだ。
赤毛は追ってこなかった。立ったまま待って、斧の背で太ももを叩いてる。
トン……トン……。
規則正しく、何度も。
「そんなモンかよ? ヘッ。もっとやるヤツかと思ってたぜ……」
ヤツを揺さぶる。俺の頭に浮かんだ、唯一の手だ。人間ってのは、頭に血が上るとミスる。
ヤツは立ってた。俺を凝視してた。
トン……トン……。
柄を握る指に、力がこもった。
「よし。じゃあ、マジでやろうぜ……」
先に動いたのは俺だ。斧を頭の上まで振り上げた。振り下ろした。
切ったのは、空気だけ。勢いに体を持ってかれて、半回転したときにはもう、相手がどこにいるのか分からなくなってた。肩甲骨の間に、重てえ靴が入った。斧は、前のどっかへ飛んでった。
「獣のことを、二度と語るな」
口に土を突っ込んだまま、それを聞いた。吐き出した。頭ん中じゃ、あの鉄が背中に食い込むところが、もう見えてた。
そうは、ならなかった。
膝の埃を払った。背骨が、軽く軋んでる。斧は数メートル左手に転がってた。そっちを見た。赤毛は待ってた。アゴで、拾えと示してくる。
足元の砂を蹴り上げた。ヤツの視界を潰すためだ。そのまま前に出た。斧は、転がったまま置いてった。めくら打ちで、拳を出した。
当たった。
空気に。
砂が落ちたとき、相手はさっきまで俺が立ってた場所にいた。軽く眉を上げて、俺の斧を拾って、足元に放ってきた。
「武器なしでも、テメェは倒せる」
軽く笑いながら、投げてやった。
「いちいち喋んな」
斧の背が、また太ももを叩きはじめた。
あごの筋肉が動いてるのが、自分でも分かった。周りを見回した。生徒どもが見てるのは、ヤツだけだ。俺じゃねえ。まるで、俺のほうが格下みてえに。
斧を拾って、柄を強く握った。首筋をひねると、骨が何度か鳴った。深く息を吸った。
ゆっくり前に出た。ヤツの斧から目を離さねえようにした。数秒、互いにぐるぐる回った。来たのは左手から――トンの、半呼吸あとだ。柄で受けた。衝撃が骨を伝って、歯まで来た。次は右手から――また、トンのあと――避けた。
ゆっくり、一歩ずつ下がった。昔ボクシングで、コーチが言ってた。一番大事なのは足だ、ってな。意識を全部、ヤツの足に集めた。硬く、足の裏を全部つけて置いてる。そして、叩く。
トン――斬撃。トン――斬撃。
店の前でやり合うヤツには、たいてい打つ前のクセがある。ヤツのは、丸出しだった。
リズムを数えた。また来た。受けた。斧の背が太ももに戻る前に、膝へ蹴りを入れた。
当たった。
小さく息を漏らした。背中の後ろで、誰かが息を呑んだ。この夜、初めて連中の目が俺に向いた。
(ハッ! あの無料体験レッスンに行っといて正解だったな。全部タダだったら、この雑魚はとっくに転がってたはずだ)
もう一発いこうとした。だが赤毛は、数歩下がった。斧を左手に持ち替えた。
トンが、止んだ。
リズムを待った。リズムは、来なかった。振りは、目で追えねえほど速かった。
「じゃあ、さっきの減らず口の分だ」
ろくに見えなかった。左の前腕に沿って、速えのが二本走った。反撃に斧を振ろうとした。手が、妙に軽い。見たら――斧がなかった。血が袖を伝ってた。そこでやっと、腕に温かさを感じた。
次の一撃は、上から来た。胸に当たった。シャツが紙みてえに裂けて、血の筋がズボンまで流れた。足元の砂が、赤くなってく。
(あのクセ、売りモンだったのか。上手えな。マヌケみてえに、まんまと乗せられた)
「終わり……」
背中の後ろのどっかから、声が飛んできた。
「もう、じゅうぶ……」
「どけ!」
赤毛の声は、もう落ち着いてなかった。
地面に崩れ落ちた。霧越しみてえに、チビのほうが訓練場に駆け込んでくるのが見えた。
「どれだけ血を流させるかなんて、誰も決めてね……」
画が一瞬消えて、少ししてまた戻ってきた。見えたのは、さっきの授業のあの女と、赤毛の首筋だけだった。そこに、妙な印が浮かんでた。左から右へ。
「そんなモン……」
咳が、言葉を遮った。周りを見ようとした。だが画は、柵の向こうのツネダのツラで切れた。
◇ ◇ ◇
まぶたを開けた。
硬えモンの上に寝てた。手のひらの下は、ザラついた生地だ。ベッドの横で、ランプが一つ燻ってる。傾いた、塗装の剥げた棚の上だ。絶え間ねえ耳鳴りが、周りの音を聞き取ろうとするたびに邪魔してきた。腕で体を起こそうとしたら、息が入ってこなくなった。
その代わり、手だけは他より早く目を覚ましてた。勝手にボロ切れの下へ潜って、下へ、足のほうへ。
裸足だ。両方とも。
(靴は?)
「グルルルルル……」
動きの途中で凍りついた。かき集めた力を全部使って、音のするほうへ頭を出した。ベッドの左手だ。何もなかった。空っぽだ。ランプの光は、そこまで届いてない。
「グルルル……」
拳を握り込んで、長めに息を吸って、ベッドの縁から身を乗り出した。
最初に見えたのは、靴だった。ベッドの脚のすぐ横に、きっちり揃えて並んでる。誰かが、えらく丁寧に置いたヤツだ。そのすぐ向こうに、床で丸まったナマダが転がってた。頭の下には、丸めたシャツが押し込んである。たぶん、俺から脱がせたヤツだ。軽く切れてて、赤っぽかったし、俺は自分のを着てなかったからな。
「グルル……グルルルル……」
ナマダをまたいで、右の靴に手を伸ばした。胸が悲鳴を上げたが、指は中まで入って、柔らけえ四角いモンに当たった。
あった。
鼻から息を吐いて、靴を元の場所に戻した。一番大事な装備は、病院を生き延びた。
「ゴホン!」
ナマダが、ほとんど直立不動の姿勢で跳ね起きた。
「や、ヤン様!」
目をこすってた。俺じゃなくて『プレイボーイ』のモデルでも出てくると思ってた、みてえなツラで。
「ああ。俺だ。そういう名前なんだよ」
しばらく俺を眺めてた。目が、じわっと潤んできた。
(つーか、なんでこいつがここにいる? 従者は別に分けられてるはずだろ)
「ナマダ」
「はい?」
「ここ、どこだ?」
脳みそが、体を起こすと息が止まるってことを忘れてたせいで、言葉は歪んで出てきた。ナマダは少しの間、俺の腕を見てた。視線は、あばらの上も滑ってった。
「病院です」
少しの間を置いて、そう答えた。
「ニャー」
部屋の暗い隅のどっかから、聞こえてきた。
(病院に猫。衛生管理は、まず通らねえな)
下を見た。胸の上を、あばらから反対側の乳首まで、キレイに包帯を巻かれた傷が走ってた。腕のほうはちょい軽くて、手首から肘までだけだ。そっちの包帯は、もうちょい雑に巻かれてた。
「すみません。僕にできる、精一杯で……」
床に視線を落として、ナマダが言った。
「何言ってんだ、ナマダ」
ニカッと笑ってやった。
「アディダスの一件のあとよりゃ、よっぽど上手えよ」
ナマダは訳が分からねえって目で俺を見て、それから肩をすくめた。
「ニャー」
さっきより近い。緑の目玉が二つ、もうベッドから数メートルのとこで、まっすぐ俺に据えられてた。
「お前、どこに置かれてんだ?」
「僕たちには、宿舎があります」
胸の包帯を指した。
「いいですか?」
「いいって、ナマダ。休んどけ」
ベッドと壁の間の自分の穴に座り直して、背中を壁に預けた。もう自分用に整えたあとだってのが、見て分かる。あいつは昔から、自分に都合のいい穴を必ず見つけてきた。学校なら便所と便所の間、街ならゴミ箱とゴミ箱の間だ。
「ヤン様は、休んでいてください。僕が寝ずの番をします」
ナマダってのは、やっぱり性根のいい野郎だ。ここだろうが、ここじゃなかろうが――一度くっついたダニは、なかなか剥がれねえ。
あの赤毛の獣に勝てなかった理由のヒントを探して、天井をスキャンした。
ヒントは、なかった。
代わりに、頭ん中を一つの文がぐるぐる回ってた。『獣のことを、二度と語るな』。まるで、おふくろを侮辱されたみてえな言い方だった。獣どもが赤毛に何をしたら、あそこまでムキになるんだ? うまくつながらなかった。
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