第1話 精神病棟
まぶたを開けた。それでも、見えるのは暗闇だけだった。
周りは真っ黒な空間。空っぽで、物音ひとつしない。生きてる証拠といえば、浅い呼吸と、肋骨から飛び出そうとしてる心臓だけだ。
手で周辺を調査してみる。何かなめらかで、さわり心地のいいモンだった。
少しして、次の感覚が追いついてきた。嗅覚だ。
(いいニオイだ。女っぽいっていうか、デートのときみたいな。たぶんな。断言はできねえ。デートなんて、ろくに行ったことねえから)
何度か瞬きした。どうやら、視力がイカレるくらい強烈に一発もらったらしい。パニック気味に瞬きを繰り返すうち、シルエットが輪郭を結びはじめた。左に縦長の長方形。右に、少し小さいの。
「あああああああああああああ」
全力で叫んだ。
んで、その叫び声が、何かおかしかった。思ったより高く出て、途中で震えて、靴を取られたボンボンみたいにポッキリ折れた。まるで別人が叫んでて、俺は口を開けてるだけ、みたいな。
(頭を強打したから、喉までイカレたか)
静寂。バカみたいな気分だった。
少し分析して、思い至った。もしかして、ここは病院か。
(ムショじゃないのは確実だ。あそこは知ってる。見た目が違うし、女の子のニオイもしねえ)
記憶から直前の出来事を掘り起こそうとした。……穴だ。ネクタイ。あのデブの。それから、あの妙な声。週末明けのオッサンみたいに、しゃがれた声。そのあとは――赤。
前方のどこかから、コツコツという音が届いた。遅い。だが、フリースタイルバトルのビートに使えそうなくらい正確だ。
(よし。ナースが来るなら、少なくとも俺が生きてる証明にはなる。誰も来なかったら――そのときはマズい)
勢いよく、頭を枕に沈めた。プランは勝手に組み上がった。ギャーギャー言われたら、寝たフリをする。言われなかったら――どうしような。
少しして、ドアの軋む音。光がまぶたの裏に押し入ってきて、ヒリついた。オレンジ色の、あったかい光――点滅するためだけに点滅してる、うちの団地の街灯みたいな色だ。
顔をしかめた。
(これで寝たフリは、確実に信じてもらえなくなったな)
片方のまぶたを、薄く開けた。
オレンジ色を背に、黒いワンピースが立ってた。裾には白いフリルが縫いつけてある。膝まで引き上げられた、白のタイツ。
「どうかなさいましたか、若様?」小さくて高い声が届いた。「若様。悲鳴が聞こえました」
その質問で、足が勝手にビクッと跳ねた。
目を開けるという勇者の決断は、握り込んだ拳と、数回の短い瞬きとともに下された。
「若様、何かあったのでしたら、レイス様にご報告しなければ」――「レイス様」のところだけ、他より声が小さかった。
(それが医者だな。間違いない)
「い、いや。だい……じょうぶだ、ナースさん」
「ナース……さん?」
唾を飲み込んだ。二歩、こっちへ来た。光が奥まで差し込む。俺の目は、タイツに釘付けだった。
屈み込んできた。
頭が、さらに深く枕にめり込んだ。顔が、俺の十数センチ上に浮かんでる。もうタイツを見てる場合じゃなかった。青い目が、内側から俺を貫いてくる。まぶたを閉じた。精神的に、一発もらう準備をする。今日二発目だ。……たぶん、今日だ。
片方のまぶたを開けてみる。ちょい離れたところに立ってた。つい、視線が下がった。白いフリルは胸元にも続いてる。重要なのは、それが肩のラインより大きく前へせり出してたことだ。
「わ、悪かった……って」
何かリアクションをもらって、集中する時間を稼ぐつもりだった。もらえたのはゼロ。あの恐ろしい視線だけ――今度は、腰に当てた両手のオマケ付きだ。
(さらにマズい)
「こ、ここは……ど、どこだ?」
「レイス様をお呼びします。若様、お熱があるのでは」
抗議しようとしたが、脳が舌に指令を出すより先に、もう戸口にいた。ドアだ。
(病院にしちゃ変なドアだな。上が丸い木のドアなんて初めて見た。しかも板の打ちつけが雑で、俺が打ったのかってレベルだ)
プラス面? イカレ女を追い払えた。マイナス面? 代わりに何が来るのか、わからん。少なくとも、光はある。部屋は病院の基準からするとかなり広かった。家具は妙ちくりんで――全部、木製。ちょっと高級っぽい。普段なら、年寄りのニオイがする安物プラスチックが標準装備だってのに。
(それとも、ここは精神病棟か?)
考え込んでたら、音に殴られた。遠く、下のほうから。一歩ごとに、金属を打ちつけるような、規則正しい重低音。
(おいおい、俺をベッドに鎖で繋ぐ気じゃねえだろうな)
あれは断じて、通行人の足音じゃない。あんな歩き方をするヤツはいない。少なくとも、俺の人生ですれ違った中にはいなかった。
重低音が加速した。階段を二段飛ばし――いや、五段飛ばしか。リズムが崩れて、金属音が怒り出した。
息を止めた。指が勝手にシーツを鷲掴みにする。
薄く開いてたドアが、コンマ数秒で壁に貼りついた。床が振動するレベルの衝撃だった。
戸口に、ゼエゼエ言ってる2メートル男が立ってた。髪はボサボサ、頬は真っ赤。その背後には、例のイカレ女。以上のことから推理するに、こいつを叩き起こしたのはあの女だ。
(なんなんだよ、この病院は)
男は鎧を着てた。鎧をだ。
(精神病棟で確定だ)
笑いが出た。止められなかった。戸口の二人は、俺が脳卒中でも起こしたみたいな目でこっちを観察してた。
「若様!」膝に両手をついて、あえいでる。「参上……いたしました!」
(なるほど。変人の輪が広がってるわけだ)
気づいたときには、もうベッドの横に立ってた。これが夜10時からやってる安っぽいドラマなら、極上のロマンチックシーンになってたはずだ。こっちは心臓が止まりかけてたが。
数瞬後には、戸口がぎゅうぎゅうになってた。枠の向こうから、頭がひとつ、またひとつと積み重なって覗き込んでくる――オレンジ色の光が、頭ひとつぶんずつ消えていく。全員が、動物園のスター動物でも見るみたいな目で俺を凝視してた。背後では、金属と金属のぶつかる音。最前列のチケットは、全員ぶんはなかったらしい。
「若様、ご危難か!?」群れのどこかから声が飛んだ。
ベッドの上で少し体を起こして、姿勢を直した。シャツが背中に貼りついてる。二本の指で、なんとか剥がした。
人生で初めての大観衆だった。こうなると、何か出し物をやる義務すら感じる。選択肢はいくつかあった。親指を切り落とす手品なら一度見たことがある。が、イカサマ扱いされて火あぶりにされかねん。却下。
「諸君……」控えめに始めた。「諸君!」トーンを修正する。「ならびに、そちらのレディ」
イカレナースのほうへ、頷いてみせた。それから、大きく咳払いをひとつ。
「ちょっとした誤解があった。若様は――エヘン、たぶん俺のことだが――何の問題もない」
沈黙が落ちた。何人かが顔を見合わせて、また俺に視線を戻す。例の「レイス」とおぼしき男が、かすかに身じろぎした。
(客席が揃ってんだ。使わねえ手はねえよな)
ベッドの上に立ち上がった。もう一度、深々とお辞儀をする。相手は……
(誰にだ? 自分でもわからん。たぶん、精神病棟のご同輩たちだ)
「ババアの裸の夢を見た」
もう一度お辞儀をして、それから頭まで布団に飛び込んだ。部屋が空になるまで、どれだけかかったのかは知らん。わかってるのは、効いたってことだけだ。
閉じたまぶたの裏で、ケンカ前の記憶が巻き戻されてた。デブの顔、転倒、店のガラスの向こうの女の子。それから、あの、しゃがれた「……こ……」。輪郭は、だんだんはっきりしてきてる。




