プロローグ ジーンズ――衣類の一種
その晩、ナマダは遅刻してた。約束は9時半。店が閉まる直前だ。
酒屋の向かいの建物のひとつに、寄りかかってた。店の緑のネオンが、真正面から目に刺さってくる。
あんまり眩しいモンだから、ナマダが遅刻してんのか、それとも俺がすれ違っちまったのか、自分でもわかんなくなってた。
だが、振り返る気はなかった。右手には、ガーヴァー社のガラス張りの高層ビルが立ってる。親父が守衛をやってたビルだ。
やってた――『牛乳を買ってくる』と言い出すまでは、な。で、その遠征は、K2登頂より難しかったらしい。
(救助隊に見つけてもらえよ、勇敢なる征服者様! できれば、警察と検察官で編成されたヤツにな)
左を向く理由も、なかった。
例のババアが、団地の棟のひとつの窓に突っ立ってる。棟の色は、こういう場所じゃお決まりの幸福の色――つまり、灰色だ。もう、この団地の展示物で通るレベルだ。
(じろじろ見てろ、チクリ屋め。チクった数だけ、墓の土が重くなりますように)
イラついて、また腕時計に目をやった。9時45分。
落ち着かなくて、足踏みを始めた。数秒おきに、歩道に唾を吐きながら。
肺がヤニを寄越せと騒いでる。だがヤニってのは、勝手に店から歩いてきちゃくれねえんだぜ。
ナマダの任務はひとつだけ――店のネエちゃんを、奥で話し込ませとくこと。それだけ。たったひとつの任務なのに、それすらブチ壊して、時間どおりに来やしねえ。
どうせまた、言い訳が来る。
「悪い、悪い! でも『進撃の巨人』観始めたら、エレンって実は……」
ベラベラベラ。
あいつの、絵に描いたちっこい女の子への妙な入れ込みようなんざ、マジで興味ねえ。一度なんか、衣装を縫う嬢ちゃんと、それを着るどっかの男の話――とか、そんな感じのヤツを観せようとしてきた。何言ってんのかサッパリだったし、なんか展開が速すぎて追えなかった。
そのとき、俺の頭がフリーズした。
店の角から、出てきたからだ――彼女が。
腰まである黒っぽい髪に、革ジャンと、ジーンズ。キツキツで、脱ぐには外科手術が必要なレベルだ。
こういう女って、どっから湧いてくるんだ? 見当もつかなかったが、この店が永遠に潰れませんようにと祈った。
歩道が羨ましくなるような足の運びだった。コツコツ響くヒールのリズムに合わせて、心臓が鳴り出す。
惚れた。確実以上に、確実だった。
突撃だ。こんなチャンス、見逃す手はねえ。
手早く、身なりを検証した。幸い、いちばんエレガントなパーカーと、よそ行きのジャージは、所定の位置にあった。
「ヘイ、お姉さん!」
こっちを向かなかった。なんなら、頭が逆方向に回った気さえした。聞こえなかったんだ。絶対、聞こえなかった。
「おい! こっちだ! お前の未来の旦那様は、通りの反対側にいらっしゃるぞ!」
今度は、確実に届くように、もっとデカい声で叫んだ。
信号をチラ見した。赤。
だが、待つわけがねえだろ。俺の子供らの未来の母親が、向こう側に立ってるってのに。
フードの紐を直しながら、歩き出した。なんせ、これは運命ってヤツに違いなかった。
声をかけるのにいいポイントを選ぼうと、顔を上げた。ウィンドウの前じゃ、たぶん目がくらんで、脳卒中でも起こしたみてえなツラになっちまう。
右手には、くっつき合った別の店が並んでる。だから、少し先――酒屋の左の角を曲がってすぐ、公園が始まるあたりが、理想的に思えた。なんつーか、ロマンチックだ。
数メートルのところまで近づいた――ちょうど、店の前を通り過ぎるところだ。
『こんな美人が、こんなとこで一人で何してんの?』から入るか、それとも『天から落ちてきたとき、痛くなかった?』のほうがいいか、考えた。
いや、どっちもダメだ。
こっちのほうがいい。『ヘイ、カノジョ、旦那とか探してない?』
うん、断然こっちだ。
ウィンドウを通り過ぎた。完璧だ。突撃。
だが俺の計画は、決断が下ったのと同じ瞬間に崩れ落ちた。
突撃予定地だった公園側の角から、大学生が三人、現れやがった。あいつの方へ歩いてきてたが、あいつを見つけた途端、横に広がって道を塞ぎやがった。
相手が何モンかは、わかってた。
小ぎれいなシャツに、赤い紋章入りのネクタイ。それに、あれ一台で家賃二ヶ月、いや三ヶ月分は払えそうな、高いスマホ。どうせ乗ってる車も、俺の部屋が買えるくらいの値段なんだろ。
ああいう連中なら、あいつをまともなディナーに連れてける。団地のケバブ屋なんかじゃなくてな。
ああいう手合いから、女の子は顔を背けたりしねえ。むしろ逆だ――そっちに顔を向ける。おまけに目をデカくして見つめて、ジョークのひとつひとつに笑ってやるんだ。
勝ち目は、ねえ。
先へ進んだ。
足を速めてあいつを追い越し、連中とすれ違いざま、一人くらい一発かましてやろうかと考えた。
(カメラの前で、騒ぎを起こすこたあねえ)
公園に入って、連中の数メートル後ろで、ようやく足を止めた。木にもたれて、連中の背中越しに、あいつと、さっきまで俺が立ってた建物を眺めながら、最後の一本に火をつけた。
閉店まで、あと10分。ナマダは相変わらず、影も形もなかった。
意外なことに、あいつは連中に笑いかけもしなけりゃ、例のトロけた目もしてなかった。ってか、背を向けて店の方へ行こうとしてた。だが一人が、その前に立ち塞がった。
いちばんデブで、いちばんブサイクなヤツだ。
「放して」
店の方から、そんな声がした。どうせ誰かの彼女で、ケンカでもしたんだろ。首を突っ込む気はなかった――ただ、眺めてた。
少しして、あいつの叫び声がデカくなった。連中は、妙な笑い方をしてた。一人なんか、頬を撫でようとしてやがった。
血管の中で血が煮えたぎるのを感じた。いちばん近い出口から噴き出したがってるみてえに。
拳を握り込んだだけだ――俺には関係ねえ。なんで俺が気にしなきゃならねえんだ?
「助けて!」
俺が助ける。で、あいつは警察署で『あの男も仲間だった』と証言する。
そういうのは知ってる。聞いたことがある。人間、追い詰められると、誰でもいいから探すんだ。『正義』が誰かを捕まえりゃ、それでいい――有罪か無罪かは、二の次だ。
それに、向こうは三人だ。ナマダがいりゃ、パニックで逃げ回るあいつに、一人くらい釣られたかもしれねえ。一人じゃ、勝率は五分五分ってとこだ。うまくいくか、いかねえか。
煮えたぎる血に、こめかみが加勢してきた――一人が笑いながら、あいつのほっぺにチューをかまそうとしたときだ。
それが、決め手になった。
「クソ食らえ」
タバコを歩道に投げ捨てて、フードを深くかぶった。カメラはいつでも見てる。で、これから連中にしてやることは、俺のツラ付きでTikTokでバズるべきモンじゃねえ。
一瞬、考えた。お決まりの『おい、マヌケども』で正面から行くか、それとも忍者みてえに、後ろからこっそり回り込むか。
今の状況なら、二つ目のほうがいい。
歩幅を安定させる。思い出すのは、我らが団地の教授――ブー先生の教えだ。先生の口癖はこうだった。
『自信がねえときこそ、自信満々のツラをしろ』
金言だ。
数秒後には、できる限りの大振りで振りかぶってた。狙いはデブ――最初に潰しとくべきは、こいつだ。倒れりゃ、勝率はちょい上がる。
次の一秒で、拳がヤツの後頭部とご対面した。指の骨が、全部逝った気がした。
(硬えキャスケットかぶってやがる)
それから見えたのは、ゆっくりこっちを振り返る相手のシルエットだけだった。
(火力、敗北。プロトコル『全力とんずら』、起動)
左足が発進した。右足は、間に合わなかった。
感じたのは、右目の下あたりを貫く痛みだけ。それから、画が切り替わった。三人の大学生どもも、店のネオンも、もう見えなかった――暗くなっていく空に、星がいくつか瞬いてるだけだ。
指の下に、冷たくてザラついたコンクリ。この体勢で着地するときの、いつものヤツだ。
どっかで『クソマヌケが』って声がして、別の誰かが、通りで騒ぎを起こすなと怒鳴った。
車が二台、一瞬スピードを落とした――次の瞬間、また上げるためだけに。
視線が、ババアの窓へ流れていった。今度こそ、何かの役に立つか? 救急車を呼ぶか? 心配して、あのチクリが一度くらい役に立つか?
いや。笑ってた。なんなら、声を出して笑ってたかもしれねえ。まあ、俺の想像って線もあるけどな。人間、あそこまでひねくれられるモンか?
店を見た。あいつはもう、店のガラスの向こうで安全だった。怯えた顔で、スマホを耳に当ててる。
(よかった)
胸ん中が、なんかあったかくなった。最後の力を振り絞って、手のひらで頭をなぞった。
濡れてる。
(よくねえ)
信号が鳴って、青に変わった。視界の隅で、誰かが横断歩道に足を踏み出す。ナマダ。いつだって、律儀に青を待つヤツだ。
(バカだ。昔っから知ってたけどな)
周りのシルエットは、どんどん滲んでいった。頭ん中で鳴ってるのは、もう、エレベーターのぼやけたジングルだけだ。
「……るのだ、わ、わが……こ……」
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