第15話 木に登って
首を横に振った。
(つまり、俺はもうすぐ死ぬ)
ナマダは獣を凝視したまま、一歩後ずさった。つまずいて、ドタッと転んだ。獣は、俺たちから十数メートルってとこだった。
「ナマダ! 逃げろ!」
俺を見た。両手は腹の上で縮こまって、鼻水を垂らして、足はゼリーみてえに震えてた。
硬直を振り払った。駆け寄った。あんな栄養不足のヒョロガリにしちゃ、重かった。
「木の陰に隠れてろ」
投げてやった。
(あのクソガキに、上を行かせてたまるか。あのケダモノ、ブッ倒してやる)
ナマダは従った。震える足取りで、数メートル先の木の陰に立った。
手には何もなかった。だが、団地の下じゃ、こんなヤツよりタチの悪いマヌケどもが、いくらでもボコられてきたんだ。拳を握り込んだ。獣を見た。カウントした。さん……に……いち……左ストレート。
まぶたは開けなかった。前腕に、温かさを感じた。当たった。当たった?
まぶたを開けた。当たってなかった。
獣は、いきなり俺の右にいた。前腕に加えて、背中に突き刺すような痛みが走った。手で頭を撫でてみた。見えたのは、ぼやけた画と赤いシミだけだった。頭がクラッときた。耳鳴りのキーンって音を突き破って、数メートル先から荒い息が聞こえてくる。ゆっくり歩いてくる。まるで、これから俺をズタズタに引き裂いてやるって確信してるみてえに。正直に言うと――俺も、そう確信してた。
残った力で木にもたれて、体を起こした。拳を上に構えた。
(少なくとも、戦わずに食われてやるつもりはねえ)
腕が重かった。重すぎて、ひと振りすらできやしなかった。
二発目を待った。待ちすぎて、耳鳴りは止んで、シルエットがはっきりした画にまとまり始めた。獣は俺に横っ腹を向けて立ってた。ヤツの頭が向いてる先を見た。
ナマダ。木の陰から身を乗り出して、石を投げてた。かなりヘタクソで、一発も当たってなかった。目をこすった。それでも、投げ続けてた。
それが、俺に時間をくれた。ひらめきは速かった。
(膝だ。ジムの連中は、いつも脚の日をサボってた。膝――最高の的だ)
足を、できる限り後ろに引いた。狙いを定めた。蹴った――足の甲全体で、膝の真横に。団地の階段の、言うことを聞かねえ重いドアを蹴り開けるみてえに。
くぐもった咆哮は、数キロ先まで聞こえたに違いねえ。耳がまたキーンと鳴った。
「……って!」
ナマダが何か叫んでる。
「き……ぼって!」
だんだんデカくなる。
まばたきした。頭を振った。獣はまた、目玉を俺に据えてた。
「木に登って!」
お誘いを長く検討はしなかった。ナマダのほうへ走り出した。走りは、速いほうとは言えなかった。一歩ごとに背中がズキッと刺して、前腕の温かさは、残酷な引きつりに変わってきてた。血は、ダラダラ流れてた。
ナマダが両手を組んで足がかりを作って、最初の枝まで俺を押し上げた。地上2メートル半ってとこだ。ギリギリで、自分もよじ登ってきた。手際は良かった――獣は、あいつのふくらはぎを引っかくのがやっとだった。
獣は木の下に立って、あの胸クソ悪い目玉を俺たちに据えてた。昔『ER緊急救命室』を見てたおかげで、止血のやり方は知ってた。そのすぐ後に、ナマダのふくらはぎも手当てした。獣は身じろぎもせずに、俺たちを見上げてた。俺たちの選択肢がどれだけ限られてるか、完璧にわかってやがる。唯一のプラス面は、乗り物どもが捕まらずに済んだことだ。逃げおおせてた。
数分で待つのに飽きたらしく、両の拳で交互に幹をブッ叩き始めた。枝はジェットコースターみてえに左右に揺れて、何度かナマダにしがみつくハメになった。あいつは隣の枝にまたがって、木に抱きついてた。
「ここまでは、登ってこられません。いつも、バカに作られてますから……」
ナマダのツラにあのトレードマークの笑いが浮かぶのを、初めて見た。
「え、獣どもをか? 知ってんのか、お前?」
「いえ……でも……」
一瞬、言葉が切れた。
「なんとなく……」
「アニメだ! 絶対、お前のあのアニメで何か知ってんだろ!」
(やっぱりナマダだ! あの空っぽのおつむにも、何か引っかかってやがる)
「す、すみません……あ、アニメが、何か、わ、わかりません……」
頭を垂れた。
獣の目玉に、何かがよぎった。叩くのをやめた――拳がもうヒリヒリしてきたってのは、大いにありえる。俺なら、数分も樹皮をブン殴ってりゃヒリヒリしてくる。てか、十秒でヒリヒリする。それにしたって、タフなヤツに当たっちまったモンだ。
道のほうで、鳥が数羽飛び立った。何かに驚いたんだ。獣は動きを止めて、何かを嗅ぎ出そうとするみてえに、頭をぐるりと巡らせてた。ナマダを小突いた。あいつは指を妙な形に曲げて、俺に何かを伝えようとしてた。何ひとつわからなかった。まぶたをどんどん見開きながら、あいつを見てるだけだった。少しして、あいつは諦めた。俺の発達が軽く遅れてるとでも言いたげなツラで。
獣は、俺たちが来た方向へ数歩進んだ。遠くで、何かが鼻を鳴らした――一瞬、俺の馬みてえに聞こえた。ナマダが、俺たちの背中側を指した。ツネダの従者が、これ以上ねえってくれえ慎重に忍び寄ってきてる。従者は隣の木によじ登って、大声で叫び始めた。獣の注意を自分に向けた――獣は狂ったようにそいつの木へ駆け寄って、また何の罪もねえ樹皮を攻撃し始めた。
「つまり、お前を囮にしていいってことだな?」
ナマダに囁いた。返事の代わりに顔をしかめただけで、目にパニックの色がチラついた。
次に何が起きるかは、予感してた。大勇者サマが白馬に乗って登場して、俺のケツを救ってくださるってわけだ。あのマヌケなうすら笑いを、ツラに貼りつけたままでな。心臓のあたりで、何かがチクリと刺した。妙なのは、よりによってそこってことだ――前腕でもなく、背中でもなく。
長く待つ必要はなかった。当然、現れた。道のほうから。あのピカピカ光る一張羅を着込んで、金の剣を手に歩いてくる。地面に唾を吐いた。
獣を片付けるのにかかったのは、四十秒、いや五十秒ってとこか。その大半は、忍び寄る時間だ。獣が嗅ぎつけたときには、もう手遅れだった。膝を斬って、それから首を落とした。
「あの膝に先に当てたのは、俺だからな。だからうまくいったんだよ」
枝に貼りついたまま、投げてやった。
「降りるがいい、哀れな田舎者よ!」
もちろん、あのうすら笑いをツラに貼りつけたままで、だ。
ナマダを見た。あいつはもう地面にいた。
(田舎者だと? あのクソガキ)
「あ。それ、前にも聞いた気がするな……」
枝から手を離した。
黙って立ったまま、俺を見つめてた。額のシワを伸ばして、歯をむき出して笑った。
息が詰まった。もう一度、あいつのツラを見た。そうだ。これで、はっきり見えた。
(この国の歴史上、いちばん使えねえ勇者だ)
「お前だったのか! 自分の主君に向かって、よくもそんな口が利けたな!」
木を降りるスピードは、降りるべきスピードより速かった。膝がガクンと崩れた。足が樹皮の上でホップした。少しして、ナマダの隣で仰向けに倒れてた。まぶたを閉じた。
(殺す。最初のチャンスで、殺してやる)
「身を起こせ。見るに堪えん」
それ以上俺を見ることもなく、背を向けて、森の出口へ歩き出した。
「お前のせいで、遅れている」
世界が回ってた。ナマダは、持ってる中で一番デカく見開いた目で俺を見てた。何か聞きたそうだった。今はそのタイミングじゃねえってことは、俺のツラが効果的に教えてやった。
立ち上がって、埃と、あのケダモノの赤いネバネバを払い落とした。死骸の横を通りざま、腹立ちまぎれにもう一発、膝に入れてやった。ミスだった。足が変な方向に跳ね返って、残りの道は、ずっと足を引きずるハメになった。
「ああ、それと自分の持ち物くらい自分で見張れ。俺の従者は、お前の従者の仕事まで引き受けはしない」
ツネダの従者のロバが背中に担いでた荷物に、勢いよく突っ込んだ。リュックもどきの中身を、全部ぶちまけた。
あった。四つ折りで、一番底に。青い、いい匂いのする布きれ。
そっと、靴ん中に入れた。縁を軽く叩いた。この三日で、初めて自分の置き場所に戻ったモンだ。
ナマダを見た。言葉なしで通じた。数歩でロバに飛びついて、俺の全財産を手際よくその背中に積み上げた。
「乗り物なしでは、お前たちは足手まといになるだけだ」
ツネダが絞り出した。
「本当に、使えねえ奴だな」
「じゃあ、なんで助けた? あ? デカいエゴにエサをやるためか? 勇者のツネダ様が、ピカピカのたてがみを誇らしげになびかせるためか? え?」
言葉を吐き出すスピードは、俺が思ってたより速かった。
「……一応、誓ったことがあるのでな……」
ほとんど聞き取れねえくれえ小せえ声だった。
「ふむ。出発だ」
(そうかよ。他人は誓いで助ける。妹は断りもなしに持ってく――カウンターの上のブツをかっさらうみてえにな)
拳は勝手に握り込まれて、今度は、なかなかゆるまなかった。
自分の従者には荷物を背負うように命じて、ロバは俺によこした。俺たちは先へ進んだ。
「学院まで三時間の場所で道に迷うとは、よほどの愚か者だな。しかも、一本道でだ」
十数分後、ツネダが我慢の限界を迎えた。
このボンクラより上等な人間として、ノーコメントで済ませてやることにした。品格ってのは生まれつき持ってるモンで、育てるモンじゃねえ。まあ、地図のことでナマダに相談しようかって考えは、前に一度よぎったんだけどな。でもあいつは田舎者だ――どうせ字も読めねえ。
ものすごく不本意だが、ツネダが正しいと認めるしかなかった。道はやたらと長く感じられて、数時間経ってようやく、前日に俺とナマダが誤ったロジスティクス判断を下したポイントにたどり着いた。
「ごきげんよう、旅の方々!」
声は、左手のどっかから聞こえた。
分かれ道に、ジイさんが一人立ってた。修道士みてえな、フード付きの長い衣――ただし、フードは肩に無造作に垂れてる。長い杖で体を支えてた。左目の下には、デカい黒ボクロ。ちょい長く見つめすぎたらしい。少しして、手でそっと隠された。
「ごきげんよう……見知らぬ人?」
自信なさげに返した。
「これは、あなた方の落とし物ではないかな?」
道を数メートル入ったところの木に繋がれてる、俺たちの乗り物を指した。
「ちょうどアベロから戻る途中でな。街道で出会ったのだよ」
「そうだ! ありがとう!」
考えるより先に、自分の馬に飛びついてた。
「ははっ! 野生ではないと、よい勘が働いたものだ」
「鞍が乗っているのだから、他に働きようもないだろう……」
ツネダが投げた。
「このゲス野郎のことは勘弁してやってくれ。改めて、ありがとな!」
ニカッと笑ってやった。
「なんのなんの! 善い行いには、宇宙がいずれ必ず報いてくれるものだ!」
同じ笑顔で返してきた。
礼として、ナマダとの一夜を提供してやった。丁重に断って、俺たちの安全な旅を祈りつつ、先へ行っちまった。
(数時間早く届けてくれてりゃ、もっとよかったんだけどな)
ツネダのナビは文句なしだった。数時間後には、現地に着いてた。
巨大な灰色の城壁は、数キロ先からもう見えてた。森はとっくに終わって、完全に開けた土地に入ってた。気温は明らかに高くて、真上に来た太陽は、まるで助けになってなかった。
「大したモンだな……」
高さ少なくとも10メートルはある、ぶ厚い鋼鉄の門に近づきながら、思わず口に出してた。守ってるのは衛兵四人――上に二人、下に二人。
「ああ、大したものだ。二度目に見るときは、特にな」
ツネダが歯の間から絞り出した。
「二度目って、どういうことだ? ハッ! わかってたぞ! 前にもここに来て、落とされたんだろ?」
「違う。今朝、ここから引き返したんだ。お前たちが、たどり着いていないと知ってな……」
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もっと面白い物語をお届けできるよう、これからも精進してまいります。




