第12話 青い布きれ
あのマヌケなうすら笑いは、ツラに貼りついたまま、剥がれる気配もなかった。
ヤツは、俺の拳の射程内にいた。なんなら今は、助っ人のナマダまでいる。だが、未来の王たる者、感情に流されるわけにはいかない。それに――あの前腕が、どうにも気になった。
レイスはナマダに、俺の装備の面倒を見るよう命令を下した。まあ、ナマダは根が真面目なヤツだから、きっちり面倒を見てくれたはずだ――その装備が、俺の部屋に置き去りになってさえいなけりゃな。
レイスに軽く笑いかけてやった。返ってこなかった。歯を食いしばりながら、視線で俺を串刺しにしてる。
「わーったわーった。ナマダ……じゃなくて、俺の専属田舎者よ」
ウインクを飛ばしてやった。
「ひとっ走りして、俺の剣と残りのガラクタども、取ってきてくれ」
レイスが赤くなった。上空を飛んでた鳥どもすら、ヤツの軌道を避けてった。眉を寄せて、歯の隙間から絞り出してきた。
「宮殿の。中には。使用人しか。」
「使用人しか、何だよ?」
「――入れません。」
「なら、いいじゃねえか」
開いた手のひらで、ナマダを指し示してやった。
「使用人なら、ここに立ってるぜ。準備万端、支払い済みだ」
「従者は。使用人では。ありません。」
ナマダの額を、汗の粒が流れ落ちてった。腹の上で縮こまった両手が、震え始めてる。俺の値切り交渉のツケを、自分が払わされるとでも思ってるみてえだった。
「わーったよ、締まりすぎたパンツでもゆるめてろ。自分で行ってくる」
宮殿ん中のあのグネグネは、やっぱり別リーグだった。絨毯をマップ代わりにする作戦は、まるで役に立たなかった。あの柄、どうやら適当に刺繍されてたらしい。何回か曲がったところで、見覚えのあるドアにたどり着いた。王様稼業なんて全部投げ捨てて、調理師だか調律師だかの道に進むのが俺の運命なんじゃねえかと、考え始めてた。
反射的に、ドアを開けてた。
鼓動が速くなった。こっちに背中を向けて、耳の長すぎる、スタイルのいい銀髪のメイドが立ってた。アリスだ。後ろからの眺めは、少なく見積もっても、前からと同レベルだった。挨拶がわりの一言をかまそうと口を開きかけて――そこで、もう一つの見覚えのあるツラが目に入った。あの叩き起こしのイカレ女だ。
(あの女、アリスに何してやがる!)
アリスの肩は小刻みに震えてて、髪が、微かに跳ねてた。自分の呼吸が落ち着いて、ようやく、小さなすすり泣きが聞こえた。イカレ女はアリスを胸に抱き寄せて、頭を撫でながら、何かを囁いてた。
俺は、ドアのとこで棒立ちになってた。団地じゃ、女の子が泣いてたら、泣かせた野郎のとこに行くのがルールだった。ここには、行く相手がいなかった。仮にいたとしても、時間がねえ――もうすぐレイスが俺を回収しに来る。そもそも、ここに突っ立っててもいいのかすら分からなかった。何かが胸ん中を掴んで、離さなかった。
邪魔はしたくなかった。そーっと、ドアを閉めにかかった。王様とやらになったら真っ先にやるのは大工をクビにすることだ――ドアがひでえ音で軋みやがって、イカレ女の視線が俺に突き刺さった。視線を、物理で食らった。アリスが顔を上げたのは、その少し後だった。頬を拭ってからだ。
「わりぃ……」
頭をかきながら、言った。
「ドア、間違えた……」
「ヤン様! お待ちください!」
アリスはそう叫んで、厨房の奥のどこかへ駆けてった。
少しして、俺の前に立ってた。両手を差し出して、潤んだ目の奥からなんとか浮かび上がろうとする笑顔と一緒に、だ。
「これを、若様に!」
両手のひらの上には、青い布きれが載ってた。きのう俺が返した、あれによく似たヤツだ。布きれとアリスを、交互に見つめてた。
「お気に召しません……でしたか……?」
声がしぼんで、両手が引っ込んだ。
「申し訳、ありません……」
「違う!」
叫んでた。自分でもビックリするくれえの声で。
「気に入ってる。ただ、その……予想してなかっただけだ……」
アリスがまた笑った。目の潤みは、さっきより少しマシになってた。その手のひらから布を受け取って、空中でバッと広げて、心の底から笑いかけてやった。
「ありがとな!」
「若様がそれで拭う血が、少しでも少なくて済みますように」
アリスはニッコリと笑った。今度は、もう澄んだ目で、だ。
何か気の利いたセリフを言いたかった。女の子がコロッと腕ん中に落ちてくる、例のヤツだ。何も出てこなかった。厨房の奥から男の声がして、最初にアリスを、次に「マーティ」を呼んだ――俺の推理じゃ、あのイカレ女のことだ。ドアがゆっくり閉まって、その向こうにアリスは消えてった。
畳もうとしたとき、上の隅の刺繍が目に入った。「Y」の一文字。右の靴ん中に、そいつを突っ込んだ。
かかとでクルッと回った。体重なんてゼロかってくれえ、軽く。心臓があばらをブッ叩く音は、テリクスとの、トレーニングという名の猿芝居の後よりデカかった。で、驚いたことに、今のシーンには目撃者がいた。つまり、ナマダに証言してもらえるってわけだ。マジで俺に惚れてる女の子がいるってことをな。
「あらあら。でも、愛人を探すのは、式を挙げてからになさい」
正面に、金髪の女が立ってた。青と赤の、長い衣装。髪は、肩の下までクルクル巻いてる。丸い顔に、デカい青の瞳。それが俺に、まっすぐ突き刺さってた。中に、火を灯したまま。
「え?」
「式までは、体裁というものを保ちなさい。その後は――好きにすればいいわ」
「えええ?」
それ以上何かをどもり出す前に、女はもう廊下の奥に消えかけてた。目は燃えてたし、腹の前で組んだ指は食い込むくれえ強く絡んでた。それでも足取りは軽くて、優雅で――そこらの女王サマなら嫉妬するレベルだった。
(なんの結婚だよ、クソが?)
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