第9話 哀れな田舎者
否定はしねえ。アリスの学院の話は、まだしばらく頭ん中をぐるぐる回ってた。ただ、あの警告の中でいちばん響いてたのは意味のほうじゃなく、あの甘くて、はにかんだ声のほうだった。
その声はすぐ、別のヤツにかき消された。ガラガラで、重くて、そして相変わらず息切れしてる声だ。ベンチから腰を上げかけた、ちょうどそのタイミングで、疲れた足取りに捕まった。作戦はシンプルだった。数メートル距離を取って、ヤツが道半ばで息を切らしたスキに、ずらかる。
不発だった。で、それが幸いした。かなり意外なことに、ヤツが差し出してきたのは、金貨のぎっしり詰まった革袋だったからだ。
何度か宙に放り上げてやると、金貨に刻まれた「1」の数字がキラリと光った。俺のプロの目利きは、重さから「かなりの大金」と見積もった。だが、分析官レイスがその見積もりを、固い数字一発で撃ち落とした。
十五枚。
しかも残念ながら、こいつを酒とネエちゃんにブッ込むわけにはいかねえ。待ち受けてるのは、はるかに退屈な運命――例の伝説の学院とやらのための、装備一式だ。この辺で一番の酒場はどこだと聞きたくてウズウズしたが、やめといた。どうせレイスのことだ。嫌がらせに、一番ヒデえ店を教えるに決まってる。
商店の並ぶ通りへの道は、覚えてた。少なくとも、覚えてるつもりだった。ルートはわりとシンプルだ。まっすぐ、それから右。だったか、左。ついでに、近所の女子たちに知らせておくのも名案に思えた。王子様は――まあ、跡継ぎでも若様でも、好きに呼べばいいが――金持ちだぜ、と。というわけで、革袋を体の前の、よく見える位置に括り付けた。色とりどりの日よけが、市場通りの入り口を告げてる。ごった返す通りへ乗り込んで、人混みをパレードしながら、誇らしげに腰を突き出してやった。
道は、やけに長く感じられた。何せあばらときたら、再生を始める気配すらねえ。旅に耐えるなんざ、なおさら先の話だ。深く息を吸うたびに、まぶたの裏へ、剣を構えて立ってたテリクスの、あのマヌケなツラが浮かんでくる。拳が勝手に、革袋の上で握り込まれてた。
(むしろ好都合だぜ、武器を買わなきゃならねえってのは。次はハンデなしだ)
屋台を通り過ぎれば過ぎるほど、路地はどんどん密になっていった。最大の問題は、決断だった。右か、左か。左を選んだ。数歩も行かねえうちに、嫌な予感がしてた。看板が、ない。建物はどれも、なんか薄汚え。こっちには壊れた鎧戸、あっちには穴あきのドア、その先には、階段の下からこっちを窺う物乞い。引き返す決断は、わりとすぐに来た。
だが。
連中が何者なのか、いつから俺をつけてたのかは、知らねえ。そもそも俺が狙いだったのかどうかも、だ。ひとつだけ確かなのは――帰り道を塞いでた、ってことだ。
(若様には手ぇ出せねえだろ)
自信たっぷりの足取りで、連中の方へ進んだ。向こうは、じっとこっちを観察してる。ツラの説明をしてやりてえところだが、揃いも揃ってブサイクな面で、しかも笑える仮面をつけてやがった。ガキの頃に観た映画のアレだ――『ロビン・フッド』だか何だか。隠してるのは主に目元と、額の上半分。その代わり、体格のほうは笑えなかった。三人とも図体がデカくて、飢えとは無縁そうな面構えだ。それどころか、主食はタンパク質に違いねえ。一人は俺と同じくらいの背丈。残りの二人は、なんか育ちすぎてた。
「これはこれは、紳士の皆様方」
連中に向かって、軽く会釈してやった。
「おい、どこほっつき歩いてんだ」
左のヤツが聞いてきた。剥き出しの前腕に、傷痕のある男だ。
「あいにく、若様は道をお間違えになった。よい一日を、臣民ども!」
連中の1メートル手前で、今日がそんなにいい日にはならねえと悟った。少なくとも、俺にとっては。
「まあ待てや」
また傷痕の男だ。しゃべれるのは、こいつだけらしい。
「何か問題でも、ご立派な皆様?」
一歩、後ずさった。
「ああ、あるんだなあ、それが。その首からぶら下がってるモン、そりゃ何だ?」
真ん中のヤツも、しゃべれると判明した。
「ああ、これ? イケてるだろ?」
チェーンを二本の指で持ち上げてやった。
「これはですね、皆様。私めの高貴なる生まれの証たる、王家の宝物であります」
言葉と言葉の間が、ちょい長すぎたらしい。囲まれるだけの時間を、たっぷりくれてやってた。だが、俺のせいじゃねえ。貴族モノのドラマの台詞なんざ、そうポンポン思い出せるかよ。
「なら、そいつをいただきに来たまでよ」
「お見受けするに、誉れ高き戦士の皆様。……ご自分の王から、盗みを働くおつもりか?」
「はっ、何が王だ。クソくらえ」
それまで黙ってたヤツが、低く凄んだ。
「テメェは、野良だろうが」
「おうよ! その通り。そいつはなあ、俺らの古いダチのモンなんだよ」
いつの間にか左に回り込んでたヤツが、切り込んできた。
「誤解だ! 金なら払っただろうが!」
もう一歩、後ずさる。
「払ってりゃ、俺らはここにいねえんだよ」
この一言で、議論は終わったらしい。
左右の二人が、嬉々として前に出た。真ん中のヤツは、催眠術にでもかかったみてえに、こっちを見つめてる。あばらは、まだ痛んでた。一歩、また一歩――今や前より張りつめた一歩が、かなり高くついた。
(剣さえありゃ、今ごろ全員転がってた)
だが、剣はなかった。つうか実際、何も持っちゃいなかった。稽古用に用意しといた石は、リングに置いてきた。こんな場所に危険が潜んでいようとは、一体誰が予想し得ただろうか。
頬に、硬いナックルを数発もらった。そのまま、地べたまで沈められた。一人が蹴りを入れ、もう一人が、その臭え手で俺からチェーンを剥ぎ取ってる。
「金は払うモンだぜ、クズが」
真ん中のヤツが、俺の足元に唾を吐いた。
顔を覆う指の隙間から、少年が見えた。俺と同い年か、少し下か。ブロンドの髪。女だったら惚れてたに違いねえレベルの、整ったツラ。艶めく青と白の衣に、金の糸を織り込んだズボン、くるぶしの半ばまである革のブーツ。堂々と、静かに歩いてくる。
「止まれ! これは一体、なんと極めておぞましい所業か!」
(ふむ……少なくとも、そのへんの道端の出じゃなさそうだった……)
襲撃者どもは、顔を見合わせた。が、反応する間もなく、少年はもう全速力でそっちへ突っ込んでた。分厚い革のベルトで、剣がぶらぶら揺れてる。だが、抜きはしなかった。素手のままの突撃だ――盗賊の一人は、状況を飲み込む前に、もう地面に伸びてた。二人目はアッパーを打とうとしたが、代わりに顎のほうが、闖入者の膝とご対面した。認めるしかねえ。動きが、ハンパねえ。三人目は仲間たちを神経質にチラ見しながら、拳を固めて、ガードらしきモンを上げた。が、大して役には立たなかった。俺の輝かしき救世主は、足のほうもなかなか達者だったからだ。足裏の圧に膝がガクンと崩れ、ドゴッと鈍い音が鳴って、最後の一人が足を抱えて、デカい声で喚いた。
俺の勇者様は両手の埃をパンパンと払い、地面で縮こまってるサンドバッグどもへ、ざっと視線を滑らせた。それから、俺を見た。ニカッと笑った。心臓が震えた。こんな素晴らしい人物と知り合えたことに、抑えようのねえ幸福を感じてた。
「立つがいい、哀れな田舎者よ! 案ずるな、もう危険はない!」
(おいクソ、今のはアウトだろ)
「……田舎者? おい、田舎者だと?」
埃を払いながら、唸るように言った。
「そうだ! お前はもう安全だ! 礼には及ばん!」
「はあ!?」
「お前のような者たちの安全を守ること――それが俺の責務の内にあると言っている!」
あごを反らすと、たてがみが微風に波打った。
「誰が田舎者だ、コラ」
拳が、勝手に握り込まれてた。
「その戸惑い、よく分かる! だが、あの三人がお前を煩わせることは、もう二度とない!」
何を言われてんのか、マジで分からねえ。田舎者ってのは、せいぜいテメェを育てた側のことだろうが。このゲス野郎が。この侮辱、一発お見舞いしてやってもいいところだ。だが、理由もなく臣民をボコるわけにはいかねえ。……たぶんな。リスクを冒す価値はねえ。
「おい、聞けって……」
言いかけて、無意識に腰のあたりをポンポン叩いてた。ない。ない? ――革袋。
あたりを見回した。石畳の上も、空っぽだった。文字通りの意味でな。革袋も、三人組も、なし。あるのは、地面から数十センチの高さで舞ってる土埃だけだった。
「追えよ!」
路地の出口を指さして、名前も知らねえソイツに怒鳴った。
「チェーンと革袋、パクられたんだよ! 早く!」
だが、微動だにしねえ。
「ふむ! 残念だが、今この瞬間にも、俺をより強く必要としている誰かがいるかもしれん! だが、忠告しておこう。追跡はよせ」
頭のてっぺんからつま先まで、じっくり俺を測ってきた。
「その資質では、勝ち目は薄い!」
ゆっくりと、誇らしげな足取りで、舞い上がる土埃とは逆の方向へ――大通りの方へ歩き去っていった。この国の歴史上、いちばん役に立たねえ勇者だ。
(テメェこそ田舎者だろうが。恩を売るみてえな助け方しやがって。ああいう親切ぶったキザ野郎どもは、よーく知ってんだ。先に助けといて、あとから『財布パクっただろ』って言い出すタイプだ)
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