第九章 選ばなかった人生
日曜日の朝、結衣は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から、冬の白い光が差し込んでいる。
スマートフォンを見ると、午前七時十二分だった。待ち合わせは十一時。二度寝をしても十分に間に合う。
それでも眠気は戻ってこなかった。
昨日、健太と話した言葉が頭に残っている。
俺は、もう一度、結衣と向き合いたい。
五年前に聞くことを拒んだ思いを、ようやく受け取った。
嬉しくなかったと言えば、嘘になる。
あの恋を、健太も大切にしていた。結衣だけが過去を捨てきれずにいたのではない。離れた町で過ごしている間も、彼の中に自分が残っていた。
その事実は、結衣が五年間抱えてきた小さな痛みを、少しだけやわらげた。
けれど、安心と復縁は同じではなかった。
昨日の健太は、懐かしく、優しかった。
会話の間も、笑うときに伏せる目も、結衣の歩調へ合わせようとする不器用さも、今でも愛おしいと思った。
その愛おしさが、過去に向けたものなのか、今の健太へ向けたものなのかは分からない。
結衣はベッドから起き上がった。
今日は藤堂と会う。
その約束を考えると、胸の中に昨日とは違う温度が生まれた。
健太と会う前から楽しみにしていた。
昨日の話を聞いた後も、会いたい気持ちは変わらなかった。
結衣はシャワーを浴び、髪を乾かした。
クローゼットの前で服を選ぶ。
仕事ではほとんど着ない淡い青色のニットと、足首まであるグレーのスカート。上から濃紺のコートを羽織る。鏡で確認すると、少しだけ気合いを入れすぎたようにも見えた。
別の服へ替えようとして、やめた。
藤堂に会うために選んだのだと認めればいい。
昨日、健太が戻ってきた理由を聞いた。
今日は、藤堂とこれから過ごす時間を知りたい。
どちらも、誰かに命じられたことではない。
結衣自身が選んだ予定だった。
朝食を取り、戸締まりを確認して家を出る。
空は晴れていた。
天気予報どおり、雨の気配はない。それでも結衣は、鞄の中に折り畳み傘を入れた。
*
神保町駅の改札へ着いたのは、午前十時五十分だった。
藤堂は柱のそばに立っていた。
仕事のときに着ている黒いコートではなく、濃いキャメル色のコートに、深緑のニットを合わせている。スーツ姿しか見たことがなかったため、一瞬、別人のように見えた。
藤堂も結衣に気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます。お待たせしましたか?」
「五分ほどです」
「待ち合わせは十一時です」
「分かっています」
「では、私が遅れたように言わないでください」
「以前も、同じことを言われましたね」
「覚えているなら直してください」
藤堂の口元が少し緩んだ。
「努力します」
結衣は彼の手元を見た。
仕事用の鞄ではなく、小さな黒いショルダーバッグを持っている。外側のポケットには、折り畳み傘が入っていた。
「本当に持ってきたんですね」
「何をですか?」
「傘です」
藤堂は結衣の鞄へ視線を向けた。
「佐伯さんも?」
「持ってきました」
「二人とも用心しすぎですね」
「最初に用心したのは藤堂さんです」
「私の影響ですか」
「いい影響かもしれません」
並んで地上へ出る。
休日の神保町は、平日とは違う空気に包まれていた。古書店の前には本を探す人が立ち、歩道に出された棚をゆっくり眺めている。大通りには車が多いが、一本裏へ入ると人の足音と、店の扉が開く音が聞こえた。
「探している本がある店は、ここから十分くらいです」
藤堂が言った。
「地図は?」
「確認してあります」
「紙にも書きましたか?」
「今日はスマートフォンだけです」
「少し進歩しましたね」
「電池が切れたときのために、店の住所は覚えています」
「やっぱり藤堂さんですね」
二人で歩き始める。
藤堂は地図を何度も見ることなく、迷わず路地を曲がった。
途中、店頭に料理の本を並べた古書店があった。
結衣が足を緩めると、藤堂も立ち止まった。
「見ますか?」
「藤堂さんの本を先に探さなくて大丈夫ですか?」
「逃げません」
「予約が入っていた本は、図書館から逃げましたけどね」
「私が早く返しただけです」
店先の棚には、十年、二十年前に発行された料理本が並んでいる。現在では見かけない盛りつけや、昔ながらの調理法が載っていた。
結衣は一冊を手に取った。
家庭で作る各地の郷土料理を紹介した本だった。
ページをめくると、福岡の料理が載っている。水炊き、がめ煮、胡麻を使った魚料理。
昨日、健太が煮物を作れるようになったと話していたことを思い出した。
「その本、気になりますか?」
藤堂の声で、結衣は顔を上げた。
「少し」
「郷土料理ですか」
「はい。知らない料理が多いなと思って」
藤堂は開かれたページを見た。
「福岡ですね」
「そうですね」
彼が何を考えたのか、表情からは分からなかった。
結衣は本を閉じ、棚へ戻した。
「買わないんですか?」
「今日はいいです」
「昨日のことを思い出したから?」
藤堂の問いは静かだった。
結衣は否定しなかった。
「少しだけ」
「そうですか」
それ以上は聞かず、藤堂は歩き始めた。
結衣も隣へ並ぶ。
何も言わないことが、以前は優しさに思えた。
今もそう思う。
けれど今日は、その沈黙の内側に距離を感じた。
*
目的の古書店は、古い雑居ビルの一階にあった。
入口の横には専門書が積まれ、店内には紙と埃が混じった独特の匂いが満ちている。
通路は狭く、二人で並んでは歩けなかった。
藤堂が先に入り、結衣が後ろをついていく。
壁際の棚には歴史や地理に関する本が並び、天井近くまで背表紙が続いていた。
「見つけた」
藤堂が小さな声で言った。
棚の中段から、一冊の本を取り出す。
薄茶色の表紙は少し色あせ、角が丸くなっていた。藤堂は両手で持ち、状態を確かめるようにページをめくった。
「それですか?」
「はい」
「思っていたより古い本ですね」
「三十年ほど前に出たものです」
「どうして、その本を読みたかったんですか?」
「江戸から京都まで、実際に旧街道を歩いた人の記録なんです。今の道と昔の道を比べながら書かれていて」
藤堂は本の中にある地図を見せた。
手描きの線で街道が示され、宿場町の名前が細かく記されている。
「全部歩いたんですか?」
「何年かに分けて歩いたそうです」
「藤堂さんも歩きたいんですか?」
「全部は難しいですが、一部なら」
「一人で?」
「そのつもりでした」
過去形だった。
「今は?」
結衣が尋ねると、藤堂は少しだけ迷った。
「誰かと歩くのも、悪くないと思っています」
彼の視線が結衣へ向く。
すぐに次の言葉は続かなかった。
それでも、誰かが誰を意味するのかは分かった。
「長く歩くなら、私にも準備が必要です」
結衣は言った。
「行くとは、まだ決めていませんけど」
「分かっています」
「でも、どんな場所なのかは気になります」
「今度、本をお貸しします」
「返却日を間違えないようにしてください」
「買う本なので、返却日はありません」
「それなら安心ですね」
藤堂は少し笑い、本を持って会計へ向かった。
探していた本を見つけた後も、二人は何軒か古書店を回った。
結衣は昭和の食卓を撮影した写真集を一冊買った。
豪華な料理ではなく、家族が日常的に食べていたものが載っている。焼き魚、煮物、味噌汁。小さなテーブルを囲む人たちの手元だけが写った写真もあった。
「料理を作る参考にするんですか?」
藤堂が尋ねる。
「それもありますけど、食卓の写真が気になりました」
「人の顔は、ほとんど写っていませんね」
「料理を見ると、そこにいる人たちが少し分かる気がしませんか」
「どういうことですか?」
「取り皿が多ければ家族が多いとか、子ども用の箸があれば小さな子がいるとか。向かい側に湯飲みがあれば、写真を撮っている人も一緒に食べるんだろうな、とか」
藤堂は写真集を手に取り、数ページ眺めた。
「一人の食卓もあります」
「ありますね」
「寂しく見えますか?」
結衣は写真を見た。
小さな卓上に、ごはんと味噌汁、焼いた魚が一つずつ並んでいる。窓から差す夕方の光が、湯気を照らしていた。
「いいえ」
結衣は答えた。
「丁寧に用意されているから、寂しくは見えません」
「一人でも?」
「一人だから寂しいとは限りません」
「誰かといても、寂しいことはありますね」
「あります」
藤堂は写真集を結衣へ返した。
「佐伯さんの青い皿も、こんなふうに並んでいるんですか」
「どうして青い皿を知っているんですか?」
「以前、メールで夕食の話をしたとき、青い皿を買ったと書いていました」
結衣は思い返した。
藤堂が豆乳ポタージュを正しく作れたと報告してきた日、自分も新しい皿を使っていると書いた気がする。
「よく覚えていますね」
「言われたことは、だいたい覚えています」
「見たこともないのに」
「深い青色で、縁に金色の線があると聞きました」
「そこまで話しましたか?」
「はい」
藤堂は真顔で答えた。
「いつか見てみたいと思ったので、覚えていました」
結衣の胸が強く鳴った。
いつか、という言葉。
藤堂が結衣の部屋を訪れ、青い皿のある食卓を囲む未来を、一瞬だけ想像した。
それは具体的な約束ではない。
それでも、昨日まで存在しなかった光景だった。
「機会があれば」
結衣は答えた。
「見てください」
藤堂の目元がわずかにやわらいだ。
「はい」
*
昼食は、藤堂が調べていた近くのカレー店へ入った。
古い喫茶店を改装した店で、昼を過ぎても入口に数人が並んでいた。
二十分ほど待ち、奥の二人席へ案内される。
藤堂は辛口のビーフカレー、結衣は野菜カレーを頼んだ。
「辛いものは平気なんですか?」
結衣が尋ねる。
「人並みだと思います」
「どのくらいが人並みですか?」
「中辛なら問題ありません」
「それなのに辛口を?」
「店のおすすめなので」
「無理をしない方がいいですよ」
「説明には、少し辛いと書かれていました」
「その“少し”は、店によって違います」
料理が運ばれてくる。
藤堂は一口食べ、すぐに水を飲んだ。
「辛いんですね」
「思っていたより」
「顔には出ませんね」
「出さないようにしています」
「水を飲む速さで分かります」
結衣は笑った。
藤堂も口元を緩めたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
彼の中に、まだ聞かずにいる言葉がある。
それを感じながら、何も話さないまま楽しい時間だけを続けることはできなかった。
「昨日、健太と会いました」
結衣は言った。
藤堂のスプーンが止まる。
「そうですか」
「以前よく行った喫茶店で話しました」
「何を?」
今度は、藤堂から尋ねた。
「福岡での五年間のこと。私が東京で過ごした五年間のこと。それから、別れたときのことです」
「何か、分かりましたか」
「お互いに、相手より仕事を選んだわけではなかったということが分かりました」
藤堂は黙って聞いている。
「健太も向こうで仕事を続けるため、東京へ戻る機会を断ったことがあったそうです。そのとき、私が仕事を辞めなかった気持ちが初めて分かったと言っていました」
「理解し合えたんですね」
「以前よりは」
「それなら、戻れそうですか」
声の温度が少し下がった。
「何にですか?」
「その人との関係に」
「まだ分かりません」
「昨日、何と言われたんですか」
結衣は一度息を整えた。
「もう一度、私と向き合いたいと言われました」
藤堂の視線が、結衣から外れた。
「復縁したいということですか」
「今すぐ元に戻りたいという言い方ではありませんでした。五年前の続きをそのままできるとは思っていない。でも、今の私をもう一度知りたいと」
「同じことでは?」
「違うと思います」
「どう違うんですか」
藤堂の声は冷静だった。
しかし、いつものような余裕はなかった。
「私の気持ちを無視して、元に戻ろうとはしていません」
「気持ちが戻ることを期待している」
「それは、そうだと思います」
「佐伯さんも、戻る可能性を考えている」
「考えていないとは言えません」
嘘はつきたくなかった。
藤堂を安心させるために健太への気持ちを小さく見せれば、いずれどこかで歪みが生まれる。
「そうですか」
藤堂は短く言い、再びカレーへスプーンを入れた。
けれど、口へ運ばなかった。
「藤堂さん」
「はい」
「何を考えていますか」
「仕事以外で会うのは、今日までにした方がいいのかもしれないと思っています」
胸の内側を、冷たいものが通った。
「どうしてですか?」
「佐伯さんには、戻るかもしれない人がいる」
「だから?」
「考える時間が必要でしょう」
「考える時間が必要なら、私がそう言います」
「でも、私と会い続ければ、判断しにくくなる」
「それを決めるのは藤堂さんですか?」
思っていたより強い声が出た。
藤堂が顔を上げる。
「佐伯さん」
「私は、今日会いたいから来ました。日曜日なら空いていると言ったのも、藤堂さんとここへ来たかったからです」
「分かっています」
「分かっていないから、今日までにしようと言うんでしょう?」
「私は」
藤堂は言葉を止めた。
周囲には食器の音と、人々の会話がある。
二人の席だけ、別の場所に切り離されたように感じた。
「私は、誰かと比べられて選ばれるのを待つことができません」
藤堂が低い声で言った。
「比べているつもりはありません」
「一人を選べば、もう一人は選ばれない。それは比較ではないんですか」
「条件を並べているわけではありません」
「結果は同じです」
「では藤堂さんは、結果が分かる前に離れるんですか?」
藤堂は答えなかった。
「私が健太を選ぶかもしれないから、自分から終わらせるんですか」
「その方が、傷が浅い」
静かな言葉だった。
結衣は彼を見つめた。
婚約していた人。
式場も、新居も決めていた。
それなのに約束が守られなかった。
藤堂が先のことを考えず、期待しないようにしてきた理由が、今の言葉にすべて表れていた。
「婚約していた方も、別の人を選んだんですか」
結衣が尋ねると、藤堂の表情が固くなった。
しばらく沈黙した後、彼は小さく頷いた。
「はい」
「浮気だったんですか」
「そうです」
藤堂はカレーの皿へ視線を落とした。
「私が知らなかっただけで、半年以上前から別の人と付き合っていました」
「結婚の準備をしながら?」
「はい」
「どうして分かったんですか」
「相手の男性が、私に連絡してきました」
結衣は言葉を失った。
「彼女は私にも、その人にも、本当のことを話していなかった。相手の男性は、私たちの結婚が決まっていることを知らなかったそうです」
「それで、婚約を」
「やめました」
藤堂の声は平坦だった。
けれど、その出来事を話すことが簡単ではないのは分かった。
「私と結婚したいと言いながら、別の人にも好きだと言っていた。最後まで、どちらを選べばいいか分からないと言われました」
「藤堂さんが断ったんですか」
「はい。選ばれるのを待つことができませんでした」
目の前の結衣と、過去の婚約者が重なっている。
藤堂自身も、それを分かっているのだろう。
「私は、その方ではありません」
結衣は言った。
「分かっています」
「健太と隠れて付き合いながら、藤堂さんにも期待させているわけではありません」
「分かっています」
「それでも、同じことになると思うんですか?」
「頭では違うと分かっています」
藤堂は両手をテーブルの下へ下ろした。
「でも、誰かと比べられていると思うと、同じ場所に戻る」
「だから、私の気持ちを聞く前に離れようとした」
「そうです」
否定しなかった。
その不器用な正直さに、怒りだけを向けることはできなかった。
「怖いんですね」
「はい」
藤堂は初めて、はっきり認めた。
「また、選ばれないことが?」
「違うと思います」
「では、何が?」
「信じた後で、何も分かっていなかったと知ることがです」
藤堂は結衣を見た。
「結婚式の日も決まっていました。両親も喜んでいた。新居には、二人で選んだ家具が届き始めていた。私は、疑う理由がないと思っていた」
「でも、嘘をつかれていた」
「はい」
「それは藤堂さんが人を見る目を持っていなかったからではありません」
「そう言われても、自分が見落としていた事実は変わりません」
「だから今は、傷つく可能性を先に探しているんですか」
「たぶん」
「私が健太のことを黙っていれば、安心できましたか?」
藤堂は少し考えた。
「何も知らなければ」
「でも、それこそ同じでしょう? 知らないところで気持ちが揺れている人を信じることになる」
「そうですね」
「私は、隠したくなかったから話しました。今は分からないと、正直に伝えました」
「はい」
「それでも信じられないなら、私は何を言えばいいんですか?」
藤堂は答えなかった。
結衣も次の言葉を急がなかった。
カレーは冷め始めている。
店内には、スパイスの匂いが漂っていた。
「すみません」
藤堂が言った。
「謝って終わらせないでください」
「では、どうすれば」
「藤堂さんが、どうしたいのかを言ってください。私のために離れるとか、考える時間を与えるとかではなくて」
藤堂は長い間黙った。
結衣は待った。
以前なら、相手を困らせたことに気づけば、笑って話を終わらせていたかもしれない。
大丈夫です。
気にしないでください。
そう言えば、空気は元に戻る。
けれど、それでは藤堂の気持ちも、自分の気持ちも分からないままだった。
「会いたいです」
やがて藤堂が言った。
「今日で終わらせたくはありません」
結衣は静かに息を吐いた。
「では、どうして逆のことを言ったんですか」
「終わらせた方が安全だからです」
「安全でいることと、望んでいることは違うでしょう?」
「はい」
「私は、藤堂さんの安全のために会っているわけではありません」
藤堂の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったわけではない。
困りながら、何かを受け止めようとしている顔だった。
「佐伯さんは、思っていたより厳しいですね」
「少しだけ加減しているつもりです」
「これで?」
「はい」
「遠慮なく言われたら、かなり厳しそうです」
「次は気をつけてください」
「次があるんですね」
「藤堂さんが会いたいなら」
「会いたいです」
今度は迷わなかった。
「私も会いたいです」
結衣も答えた。
「ただ、健太のことをすぐに決めるとは約束できません」
「分かっています」
「気持ちが変わったときには、話します。何も言わずに別の人と始めるようなことはしません」
藤堂の目が、わずかに揺れた。
「その言葉を信じたいです」
「信じてくださいとは言いません」
「どうしてですか」
「信じるかどうかは、藤堂さんが決めることだからです。でも、私は嘘をつかないようにします」
藤堂はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「それから、勝手に私のためだと決めて離れないでください」
「努力します」
「そこは約束できないんですか?」
「怖くなったときに、同じことを考える可能性はあります」
「では、考えたときに話してください」
「それなら、約束できます」
結衣は手を差し出したくなった。
けれどテーブルの上に置いたまま、指先をわずかに動かしただけだった。
二人は、冷めたカレーを食べ始めた。
藤堂は先ほどまでよりゆっくり食べ、水を何度も飲んだ。
「やはり辛いんですね」
結衣が言う。
「かなり」
「途中で甘口を頼み直してもよかったのに」
「残すのはもったいないので」
「我慢する人ほど、自分は大丈夫だと言いますね」
「佐伯さんに言われたくありません」
「私は最近、少し変わりました」
「誰かに何か言われたんですか?」
「藤堂さんに」
彼が顔を上げる。
「私の負担を後回しにしていると言われてから、仕事の受け方を変えました」
「覚えていたんですか」
「言われたことは、だいたい覚えています」
「役に立ったならよかったです」
「だから、私が藤堂さんへ言ったことも、覚えてください」
「分かりました」
「辛いものを無理に食べないことも」
「それは検討します」
「そこはすぐに変えてください」
藤堂の口元が、ようやくやわらいだ。
*
店を出ると、午後二時を過ぎていた。
冬の陽は明るかったが、風は冷たい。
「この後、どうしますか」
藤堂が尋ねた。
「予定では、喫茶店へ行くことになっていました」
「まだ行っていただけますか」
「藤堂さんが、今日で終わりにするつもりなら帰ります」
「終わりにしません」
「では、行きましょう」
二人は近くの喫茶店へ向かった。
歩き始めたときより、距離が少しだけ近くなっていた。
肩が触れるほどではない。
けれど、人とすれ違うたびに離れていた間隔が、いつの間にか元へ戻る。
喫茶店では、結衣がカフェオレ、藤堂がブレンドコーヒーを頼んだ。
「昨日も同じものを飲みました」
結衣が言う。
「その人と?」
「はい」
「以前は、何を?」
「ミルクティーです。冬でも冷たいものを飲んでいたそうです」
「変わったんですね」
「少しは」
「今の佐伯さんは、温かいカフェオレを選ぶ」
「はい」
藤堂は自分のコーヒーを見た。
「私は、昔からほとんど変わりません」
「コーヒーマシンで抹茶ラテを選ぶことはありますけど」
「あれは間違いです」
「でも、飲んだでしょう?」
「捨てるのはもったいないので」
「新しいものを試したことにはなります」
「好きにはなりませんでした」
「何でも好きになる必要はありません」
結衣はカフェオレを一口飲んだ。
「変わらないところがあってもいいし、変わるところがあってもいいと思います」
「佐伯さんは、この五年で何が一番変わりましたか」
「一人でいることを、怖がらなくなったことかもしれません」
「以前は怖かった?」
「健太と別れた頃は、このままずっと一人だったらどうしようと思いました。三十歳でしたから、周りは結婚や出産の話ばかりで」
「今は?」
「一人でも生活できると分かりました」
「だから、結婚しなくてもいい?」
「結婚しなくても生きていけます。でも、誰とも生きたくないという意味ではありません」
「一人でできることと、一人でしたいことは違う」
「覚えていたんですね」
「はい」
藤堂は窓の外を見た。
「私は、一人でいたいと思っているつもりでした」
「今は違いますか?」
「今日、佐伯さんにもう会わない方がいいと言ったとき」
藤堂は言葉を選ぶように続けた。
「自分で言いながら、嫌だと思っていました」
「では、言わなければよかったのに」
「そうですね」
「藤堂さんは、自分の気持ちより正しそうな答えを先に選ぶんですね」
「正しいと思っているわけではありません。安全な方です」
「安全でも、後悔することはあります」
「はい」
藤堂は結衣を見た。
「今日、帰られなくてよかったです」
「私もです」
「怒っていましたか」
「怒っていました」
「やはり」
「でも、今は少し落ち着きました」
「少しだけ?」
「全部許したと言うと、また同じことをするかもしれないので」
「気をつけます」
「お願いします」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
難しい話をした後でも、こうして向かい合っていられる。
結衣は、そのことを嬉しく思った。
健太との関係には、言葉を交わさなくても分かる安心がある。
藤堂との関係では、言わなければ分からないことが多い。
けれど、分からないからこそ話そうとする。
そこには、過去の続きを再現するのとは違う新しさがあった。
*
夕方近くまで歩き、二人は駅へ向かった。
日が傾き、建物の間を冷たい風が抜けていく。
横断歩道の手前で、藤堂が立ち止まった。
「佐伯さん」
「はい」
「次は、いつ会えますか」
今日が終わる前に、次の予定を決めたい。
藤堂が以前話していた言葉を思い出した。
「来週は、仕事で会いますね」
「仕事以外で」
はっきり言われ、結衣の胸が温かくなった。
「土曜日なら空いています」
「私もです」
「何をしますか?」
「佐伯さんが買った写真集を見て、行きたい店ができました」
「どこですか?」
「昔からある定食屋です。写真集に載っている食事と似たものを出すそうです」
「もう調べたんですね」
「地図も確認しました」
「では、そこへ行きましょう」
「約束してもいいですか」
藤堂の声はわずかに慎重だった。
約束を避けてきた人が、自分から口にしている。
「はい」
結衣は答えた。
「変わったときには、話しましょう」
「分かりました」
信号が青になり、人々が歩き出す。
結衣も一歩踏み出したところで、後ろから来た人に肩が当たった。身体がわずかに傾き、藤堂の手が結衣の腕へ伸びた。
「大丈夫ですか」
「はい」
コート越しに触れた手は、すぐには離れなかった。
結衣が顔を上げると、藤堂と目が合った。
ほんの数秒だった。
藤堂は静かに手を離した。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
二人は横断歩道を渡った。
触れられた腕に、温かさが残っていた。
駅の改札前で別れる。
「今日はありがとうございました」
藤堂が言った。
「本を探すだけの予定だったのに、いろいろ話しましたね」
「話せてよかったです」
「私もです」
「途中で帰られなくて、本当によかった」
藤堂は少し困ったように笑った。
「次は、帰ろうとする前に話します」
「そうしてください」
「来週の土曜日、また連絡します」
「待っています」
藤堂は一度頷き、改札へ向かった。
結衣も自分の路線へ歩き出す。
帰りの電車で、買った写真集を鞄から取り出した。
一人分の食卓。
家族で囲む食卓。
二人分の湯飲みが並ぶ小さなテーブル。
さまざまな暮らしが、一冊の中に収められている。
ページをめくっていると、昨日見た福岡の郷土料理の本を思い出した。
五年前、健太について福岡へ行っていたら、どんな食卓を囲んでいただろう。
知らない町で仕事を探し、慣れない料理を覚え、健太の帰りを待っていたかもしれない。
あるいは、結衣も向こうで新しい仕事を見つけ、二人で休日の市場を歩いていたかもしれない。
幸せだった可能性もある。
うまくいかなかった可能性もある。
どちらも、今となっては確かめられない。
選ばなかった人生は、現実より美しく見える。
失敗した日も、喧嘩した夜も存在しないからだ。
けれど、その人生を選ばなかったからこそ、今の結衣がいる。
十三年間続けた仕事。
一人で選んだ部屋。
青い皿のある食卓。
そして今日、藤堂と歩いた道。
過去の選択を否定しなければ、健太を否定することにはならない。
藤堂に惹かれることも、健太との時間を裏切ることにはならない。
結衣は写真集を閉じた。
自宅へ帰り、コートを脱ぐ。
食器棚から青い皿を取り出し、簡単な野菜スープを盛った。
一人分の夕食は、いつもと変わらない。
けれどテーブルの端には、藤堂と選んだわけではないのに、彼と歩いた日に買った本が置かれている。
スマートフォンが震えた。
藤堂からのメッセージだった。
〈今日はありがとうございました。途中で帰ると言って、すみませんでした〉
結衣は少し考えてから返信した。
〈次に同じことを思ったときは、帰る前に話してください〉
〈約束します〉
〈私も、変わったときには話します〉
しばらくして、返事が届く。
〈信じます〉
たった四文字だった。
結衣は画面を見つめた。
藤堂が何も疑わなくなったわけではない。
過去の傷が、今日一日で消えたわけでもない。
それでも彼は、怖さを抱えたまま信じることを選んだ。
〈ありがとうございます〉
結衣は送信した。
窓の外には、冬の夜が広がっている。
選ばなかった人生は、もう戻らない。
けれど、選ばなかった自分を責め続ける必要もない。
あのときの結衣が守ったものの先に、今の生活がある。
これから誰と歩くのかは、まだ分からない。
それでも、過去へ戻るためではなく、今の自分として選びたい。
結衣は温かいスープを飲みながら、青い皿の縁を指でなぞった。




