第十章 信じないという守り方
試験運用を始めて三日目、新しいシステムは朝から大量の警告を出した。
午前九時十五分。
結衣が前日の受注データを読み込むと、画面の右上に赤い数字が表示された。
未確認の警告、二百八十七件。
一瞬、操作を間違えたのかと思った。
「小野寺さん、昨日の試験データ、何件でしたか?」
「全部で三百二十件くらい」
「ほとんどに警告が出ています」
「そんなはずないでしょう。通常の注文を入れただけだよ」
小野寺が椅子を寄せ、画面を覗き込む。
警告の内容を一件ずつ開くと、どれも同じ文言が表示されていた。
〈過去の平均注文数を超えています。数量と単位をご確認ください〉
「平均注文数って、何を基準にしてるの?」
「過去三か月のデータのはずです」
結衣は商品ごとの注文履歴を確認した。
画面に表示されている平均値は、どの商品も極端に少ない。通常は一度に三十ケースほど注文される商品が、平均二ケースと計算されている。
「試験環境に取り込んだ履歴が足りないのかもしれません」
結衣はすぐに藤堂へメールを送った。
状況を説明し、警告一覧の画面と平均値が表示された画面を添付する。
十分ほどで返信が届いた。
〈確認します。警告は解除せず、そのままにしておいてください〉
さらに数分後、藤堂から電話がかかってきた。
「ネクサスリンクの藤堂です。おはようございます」
「おはようございます。メールの件ですが」
「試験環境へ取り込まれた過去データが、一部だけになっている可能性があります。今、確認しています」
「一部というのは?」
「月初の一週間分だけが取り込まれています。月初は取引先の在庫が多く、注文数が少ない。それを三か月分の平均として計算しているようです」
「では、警告の仕組みではなく、使っているデータの問題ですか?」
「その可能性が高いです。ただ、データが不足しているときに警告を止めるべきか、別の警告を出すべきかは検討が必要です」
「履歴が少ない新規の取引先でも、同じことが起きますよね」
「はい。平均を出せない場合の条件を決めていませんでした」
藤堂の声は落ち着いている。
自分たちの見落としを隠そうとはせず、原因と次に確認することを分けて話している。
「今日、そちらへ伺います」
「何時頃ですか?」
「午後一時までには」
「予定は大丈夫なんですか?」
「午前中の会議を変更しました」
「そこまで急がなくても」
「試験運用中に確認するための警告が、機能していない状態です。今日中に原因を特定します」
「分かりました。お待ちしています」
電話を切る。
小野寺が、分かりやすく結衣の顔を見ていた。
「何ですか?」
「声が違うなと思って」
「誰の?」
「佐伯さんの。藤堂さんと話してるとき、少しやわらかい」
「仕事の電話です」
「分かってるけど」
「警告の確認を続けます」
結衣は小野寺へ背を向け、画面へ戻った。
表情まで見られたくなかった。
*
午後十二時五十分、藤堂は予定より早く到着した。
その十分後には、営業企画部から健太も会議室へ来た。
「警告が大量に出たと聞きました」
健太がノートパソコンを開きながら言う。
「取引先ごとの注文履歴を確認するなら、営業側の情報も必要かと思って」
「助かります」
藤堂は試験環境へ接続し、原因を説明した。
過去の注文履歴は三か月分取り込む予定だった。しかし、データの量を抑えるため、各月の最初の一週間分だけが抽出されていた。
システムは、それを三か月すべての履歴だと判断して平均を出している。
「警告の条件を直すだけなら簡単です」
藤堂が言った。
「ただ、履歴の少ない取引先や、発売したばかりの商品では、今後も同じ問題が起こります」
「平均以外の基準は使えませんか?」
健太が尋ねる。
「営業が作っている販売計画の数字とか」
「販売計画は取引先ごとにありますか」
「特売商品ならあります。通常商品は、前年度の実績と営業の予測を合わせています」
「その予測をシステムへ入れると、営業担当者の作業が増えます」
「でも、平均だけだと季節商品に対応できないですよね。冬のスープは、気温が下がった週に一気に注文が増える。前年より寒ければ、警告ばかり出るかもしれない」
藤堂は健太の資料へ視線を移した。
「確かに、単純な平均だけでは足りません」
「警告の目的は、通常と違う注文を止めることではなく、確認することですよね」
結衣が言った。
「はい」
「なら、警告を一種類にしなくてもいいのではないでしょうか」
二人が結衣を見る。
「履歴が十分にある商品は、過去の平均と比較する。新商品は、営業が登録した初回販売計画と比較する。履歴も販売計画もない場合は、基準がありませんと表示する」
「基準がないこと自体を知らせるわけですね」
藤堂が言う。
「はい。今は、正しい平均があるように見えることが問題です」
「それなら、無理に一つの数字を作る必要はない」
健太も頷いた。
「営業側で販売計画を登録する商品の条件をまとめます。全部の商品に入力するのは無理だから、新商品と特売商品だけに絞った方がいい」
「その一覧をいただければ、警告の区分を作ります」
藤堂は答えた。
二人の会話は、以前より滑らかだった。
健太は現場の売れ方を知り、藤堂はそれを仕組みに落とし込む方法を考える。結衣が業務上の負担を確認し、無理のない形へ調整する。
三人で話すと、問題が早く整理された。
結衣は安堵しながらも、不思議な感覚を抱いていた。
仕事の場にいる限り、健太も藤堂も一人の担当者だった。
どちらも感情を持ち込まない。
結衣も同じでいなければならない。
それでも藤堂が話すときには、昨日まで知らなかった苦しさを思い出す。
健太が資料をめくるときには、土曜日に聞いた言葉が胸へ戻ってくる。
もう一度、結衣と向き合いたい。
会いたいです。
二人の声は、仕事中にはどこにも存在しないことになっていた。
打ち合わせが一段落すると、藤堂は修正箇所をまとめ始めた。
健太は営業企画部へ戻るため、先に席を立った。
「では、販売計画の一覧は月曜日までに送ります」
「お願いします」
藤堂が会釈をする。
健太は扉へ向かいかけ、結衣を見た。
「佐伯さん、取引先別の新商品一覧を後で確認させてください」
「分かりました。今日中に共有します」
「お願いします」
必要な会話だけを交わし、健太は会議室を出た。
扉が閉まった後、藤堂が画面を見たまま言った。
「城島さんは、状況を整理するのが早いですね」
「福岡で同じような業務をしていたそうです」
「こちらが見落としていることにも気づく」
「そうですね」
「仕事の相手として、助かります」
その言葉に嘘はない。
けれど藤堂が自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。
「藤堂さん」
「はい」
「無理をして褒めなくても大丈夫です」
藤堂が顔を上げた。
「無理はしていません」
「なら、いいんです」
「ただ」
彼は一度言葉を切った。
「個人的には、複雑です」
「はい」
「仕事に出さないようにしています」
「分かっています」
「出ていたら、教えてください」
「そのときは遠慮なく言います」
「少しだけ加減してください」
いつもの言葉だった。
結衣は小さく笑った。
「努力します」
藤堂の目元も、わずかにやわらいだ。
*
午後五時半、結衣が一人で給湯室へ向かうと、健太が自動販売機の前に立っていた。
財布を持ち、飲み物を選んでいる。
「お疲れさま」
健太が言った。
「お疲れさま」
「何か飲む?」
「自分で買うよ」
「仕事中だから?」
「そういうわけじゃないけど」
結衣は温かいカフェオレを選んだ。
健太は無糖のコーヒーを買い、壁際へ寄った。
「システム、思ったより順調だね」
「今日は警告が二百件以上出たけど」
「試験中に出たなら、順調だよ。本番で初めて分かるよりいい」
「藤堂さんも同じことを言いそう」
「考え方が似てきた?」
「もともと似ているところがあるのかも」
健太は缶コーヒーの蓋を開けた。
「明日、会うの?」
唐突に聞かれ、結衣は健太を見た。
「誰と?」
「藤堂さん」
「どうして?」
「土曜日に会った翌日も約束してると言ってただろ。今週も会うのかなと思って」
結衣は隠さずに答えた。
「明日、食事に行く」
「そうか」
健太はカップへ視線を落とした。
「嫌?」
「嫌だよ」
正直な答えだった。
「でも、俺が嫌だからって、結衣がやめることじゃない」
「うん」
「藤堂さんは、昨日のことを聞いた?」
「話した」
「俺が何を言ったかも?」
「全部ではないけど、もう一度向き合いたいと言われたことは伝えた」
「そうか」
「怒らないの?」
「誰に?」
「私に。藤堂さんに話したことを」
「結衣が自分で決めて話したんだろ。俺との話を面白半分で誰かに言ったわけじゃない」
「うん」
「なら、怒る理由はない」
健太はコーヒーを一口飲んだ。
「藤堂さんは、何て?」
「仕事以外で会うのはやめた方がいいと言われた」
健太の眉がわずかに動いた。
「それで?」
「私が怒った」
「結衣が?」
「私だって怒るよ」
「知ってる。でも昔は、俺が余計なことを言っても、黙る方が多かった」
「今は言うようにしてる」
「そうみたいだな」
健太は少し寂しそうに笑った。
「俺と別れてから、変わったんだね」
「健太と別れたからだけじゃないよ。仕事や、一人の生活や、いろんなことがあったから」
「うん。分かってる」
「最後は、会いたいと言ってくれた。私も会いたいと答えた」
健太に話す必要があるのか、自分でも分からなかった。
それでも隠せば、健太が知らないところで藤堂との関係を進めているような気がした。
「正直に言うな」
「隠して期待させたくないから」
「俺には、かなり厳しいけど」
「ごめん」
「謝らなくていい。俺が向き合いたいと言ったんだから、今の結衣の気持ちも聞かないと駄目だ」
健太は空になった缶を手の中で軽く回した。
「明日、楽しんできて」
結衣はすぐに返事ができなかった。
「本当にそう思ってる?」
「思ってない」
「どっちなの?」
「行かないでほしい。でも、結衣が楽しみにしてるなら、楽しんできてほしい。両方」
健太は困ったように笑った。
「人の気持ちは、そんなにきれいに一つにはならないだろ」
結衣が以前、自分へ言い聞かせたことと同じだった。
「ありがとう」
「礼を言うところじゃない」
「でも、ありがとう」
健太は頷き、空き缶を回収箱へ入れた。
「また月曜日」
「うん」
休憩スペースを出ていく背中を、結衣は見送った。
健太は誠実だった。
自分が傷つく可能性を知っていても、結衣の選択を奪おうとはしない。
だからこそ、彼を簡単に過去へ戻すことができなかった。
*
翌日の土曜日、結衣と藤堂は正午に神田駅で待ち合わせた。
藤堂は約束の十分前に着いていた。
「今日は何分待ちましたか?」
結衣が尋ねる。
「四分です」
「待ち合わせは十二時です」
「分かっています」
「直りませんね」
「努力はしています」
二人は並んで歩き始めた。
藤堂が見つけた定食屋は、駅から十五分ほど離れた住宅街にあった。
先週、結衣が買った写真集にも掲載されていた店だ。創業から五十年以上たち、親子二代で続けているという。
店の前には、白い暖簾がかかっていた。
扉を開けると、焼き魚と味噌汁の匂いがする。木製のカウンターと、小さなテーブルが四つ。壁には手書きの献立が並んでいる。
「写真と同じです」
結衣が言う。
「壁の色は変わっています」
「そこまで覚えているんですか?」
「本を見直しました」
「借りていないのに?」
「同じ本を図書館で見つけました」
「また返却日を間違えないでくださいね」
「今回は三週間後です」
二人は窓際の席へ座った。
結衣はサバの味噌煮定食、藤堂はアジフライ定食を頼んだ。
運ばれてきた膳には、主菜のほかに、小鉢、漬物、味噌汁が並んでいる。
「きちんとした一人分ですね」
藤堂が言った。
「一人分だから、きちんとしているのかもしれません」
「どういう意味ですか?」
「大皿から取り分けるのではなく、その人のための分が最初から用意されているでしょう?」
結衣はサバの味噌煮へ箸を入れた。
「一人分という言葉は、少ないとか、寂しいという意味に聞こえることがあります。でも、必要なものがきちんと揃っているという意味でもあるんだと思います」
「青い皿も?」
「はい。自分のために選んだ一枚です」
「もう一枚、買おうとは思わなかったんですか」
「少し迷いました。でも、必要になったときに買えばいいと思って」
「必要になる可能性はある?」
藤堂の問いに、結衣は顔を上げた。
「あるかもしれません」
「そうですか」
「藤堂さんは、食器を何枚持っていますか?」
「正確には分かりません」
「藤堂さんでも?」
「もともと二人分あったものを処分して、必要なものだけ買い直しました」
それが婚約破談の後のことだと分かった。
「今は?」
「皿が三枚。茶碗が一つ。汁椀が一つ。カップが二つ」
「一人暮らしなら足りますね」
「カップは一つしか使っていません」
「もう一つは?」
「来客用に買いました。誰も使っていませんが」
藤堂にも、使われていない一つがある。
結衣の食器棚に重ねてある、白い皿と同じだった。
「いつか、誰かが使うかもしれませんね」
結衣が言うと、藤堂は静かに頷いた。
「そう思えるようになりました」
食事を終えた後、二人は近くの商店街を歩いた。
昔ながらの乾物屋、和菓子店、小さな文房具店。新しい建物の間に、長く続いている店が残っている。
藤堂は時々立ち止まり、店の看板や古い建物を眺めた。
「歴史のあるものが好きなんですね」
結衣が尋ねる。
「残っている理由があると思うので」
「変わらないから?」
「変わりながら残っているからです」
藤堂は、古い店構えの和菓子店を見た。
「全部が昔のままなら、今まで続かないでしょう。作るものや売り方を少しずつ変えて、残したいものを守っている」
「人も同じでしょうか」
「どういう意味ですか?」
「変わりながら続く関係もあるのかなと思って」
健太とのことを考えていた。
五年前のままではない二人が、もう一度関係を作れる可能性。
そして、まだ始まったばかりの藤堂との関係が、変わりながら続く可能性。
「あると思います」
藤堂は答えた。
「ただ、変わったことを話さないと、相手には分かりません」
「昨日の約束ですね」
「はい」
「怖くなったときには話す」
「覚えています」
藤堂は商店街の先にある喫茶店を指した。
「少し入りませんか」
「甘いものは苦手では?」
「コーヒーだけにします」
「私は和菓子を食べたいです」
「どうぞ」
「藤堂さんの前で一人だけ?」
「気にしません」
「では、遠慮なく」
二人は喫茶店へ入った。
*
結衣は小さなあんみつとほうじ茶、藤堂はブレンドコーヒーを頼んだ。
窓際の席には午後の光が差している。
藤堂はコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
「先週、婚約されていた方のことを聞いてしまいました」
結衣は言った。
「はい」
「話したくなければ、答えなくて大丈夫です。でも、藤堂さんが何を怖がっているのか、もう少し知りたいと思っています」
藤堂はすぐには答えなかった。
「知って、どうするんですか」
「何かをしてあげられるとは思っていません」
「では、なぜ?」
「藤堂さんを知りたいからです」
藤堂の目が、わずかに動いた。
「私も、健太とのことを話しました。だから話してほしいという意味ではありません。話したくないなら、そのままでいいです」
「佐伯さんは、聞き出そうとしませんね」
「無理に聞いても、本当に話したいことは聞けませんから」
「そういうところが、ずるいと思います」
「ずるい?」
「話さなくてもいいと言われると、話したくなります」
藤堂はコーヒーカップへ視線を落とした。
しばらくして、静かに口を開いた。
「婚約していた人とは、四年付き合いました」
結衣は何も言わずに聞いた。
「大学時代の友人に紹介されました。最初は何人かで会って、その後、二人で食事をするようになった。明るくて、人と話すのが得意な人でした」
藤堂とは違う雰囲気の女性だったのだろう。
「私が黙っていても、気まずそうにしなかった。話したくないときは、そのままにしてくれた。だから、一緒にいて楽だと思いました」
藤堂の声に、懐かしさはほとんどなかった。
ただ、事実を一つずつ置いていくように話している。
「三年目に結婚の話が出ました。私から申し込みました」
「どんなふうに?」
「指輪を渡して、結婚してくださいと」
「藤堂さんらしいですね」
「面白くないですか」
「そういう意味ではありません。真っ直ぐだと思いました」
藤堂は少しだけ目を伏せた。
「彼女は喜んでくれました。両親にも挨拶して、式場を決めた。新居も契約しました」
「以前、家具も選んだと」
「はい。ダイニングテーブルとソファ、食器棚。二人で見に行きました」
「幸せでしたか」
「幸せだと思っていました」
思っていました。
その言い方が痛かった。
「彼女の様子が少し変わったことには、気づいていました。帰りが遅くなった。週末の予定が増えた。スマートフォンを手放さなくなった」
「疑わなかったんですか」
「結婚式の準備で忙しいと言われました。仕事も大変な時期だと知っていた」
「信じていたんですね」
「疑う方がおかしいと思っていました」
藤堂は自分の手元を見た。
「式の三か月前、知らない男性から連絡が来ました」
「その人も、婚約していることを知らなかった」
「はい。彼女からは、恋人はいないと聞いていたそうです。けれど、部屋で式場から届いた封筒を見つけた」
「それで、藤堂さんへ?」
「招待客の名簿に私の勤務先が書かれていたので、会社へ連絡してきました」
「信じられましたか」
「最初は、何かの間違いだと思いました」
「会ったんですか」
「はい」
藤堂は一度息を吐いた。
「彼は、半年以上前から付き合っていると言いました。二人で旅行へ行った写真も、メッセージも見せられました」
「相手の方も、傷ついたんですね」
「そうだと思います」
「彼女は、何と?」
「どちらも大切だったと」
藤堂の声が少し低くなった。
「私とは結婚したかった。でも、彼とも別れられなかった。自分でも何をしたいのか分からなかったと言いました」
「藤堂さんに、待ってほしいと?」
「時間がほしいと言われました」
「それで、別れた」
「はい」
「迷わなかったんですか」
「その場では」
藤堂は窓の外へ目を向けた。
「後から、何度も考えました。もう一度信じられたのではないか。四年間を全部捨てる必要があったのか。自分が気づけなかっただけで、彼女にも寂しさや不満があったのではないか」
「今は、どう思いますか」
「別れたことは後悔していません」
藤堂ははっきり答えた。
「ただ、自分が何も知らずに幸せだと思っていたことが、今も怖い」
「恥ずかしいと思っていますか?」
藤堂の指が止まった。
「少し」
「どうして?」
「周りは知っていました。両親も、友人も、会社の人も。式を中止すると説明して、招待状を出した人へ謝りました」
「藤堂さんが謝ることではないでしょう」
「頭では分かっています。でも、自分だけが何も見えていなかったと思われるのが嫌でした」
結衣は、藤堂が笑わなくなった理由を少し理解した。
感情を表に出さず、簡単に人を信じない。
先に問題を見つけ、正しい答えを探す。
それは仕事の姿勢であると同時に、二度と何も知らないまま傷つかないための守り方だった。
「新居は、どうしたんですか?」
「契約を解除するには費用がかかりすぎたので、しばらく一人で住みました」
「二人で選んだ家具のある部屋に?」
「はい」
「つらかったでしょう」
「最初の三か月は」
「その後は?」
「家具を処分して、引っ越しました」
「全部?」
「必要なものもありましたが、残せませんでした」
藤堂が一人分の食器を買い直した理由。
使われていない来客用のカップ。
それらは、過去を捨てるためではなく、一人の生活を作り直すために選ばれたものだった。
結衣が五年前に部屋を変えたのと同じだった。
「私も、健太と別れた後に引っ越しました」
結衣は言った。
「以前の部屋にいると、思い出すことが多かったから」
「家具も?」
「ほとんど買い替えました」
「似ていますね」
「はい。でも、違うところもあります」
「何ですか」
「私は、健太に嘘をつかれたわけではありません。だから、誰かを信じることそのものが怖くなったわけではない」
「私は臆病になった」
「臆病になって当然だと思います」
結衣は言葉を選んだ。
「でも、藤堂さんが彼女を信じたことは、間違いではなかったと思います」
「結果として裏切られました」
「裏切った人に問題があるのであって、信じた人が愚かだったわけではありません」
「気づけなかった」
「信じるということは、相手のすべてを監視することではないでしょう?」
藤堂は答えなかった。
「毎日スマートフォンを確認して、予定を疑って、嘘を見抜こうとし続けなければ守れない関係なら、それは信頼とは呼べないと思います」
「では、どうすればよかったんですか」
「藤堂さんにできることは、なかったのかもしれません」
「それでは、また同じことが起きる」
「起きる可能性はあります」
結衣は正直に言った。
「人の気持ちが絶対に変わらない方法はないと思います」
「だから、信じない方が安全です」
「安全かもしれません。でも、藤堂さんはそれで幸せでしたか?」
藤堂は黙った。
「先週、もう会わない方がいいと言いましたよね」
「はい」
「私が帰っていたら、傷つかずに済んだかもしれません。でも、今日ここにはいなかった」
「そうですね」
「怖くない関係だけを選べば、誰とも深く関わらずに済みます。けれど、誰かと一緒にいたいと思うなら、少しは相手へ渡さなければならないものがあるんじゃないでしょうか」
「信頼を?」
「自分の気持ちを」
藤堂はコーヒーカップを見つめた。
「今、私が話したことも?」
「はい。話したくないと言うこともできたのに、話してくれた」
「佐伯さんになら、話してもいいと思いました」
静かな声だった。
結衣の胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
「これで、同情されるのは嫌ですが」
「同情だけで、休日に何度も会いません」
藤堂が顔を上げた。
「では、なぜ会っているんですか」
まっすぐな問いだった。
結衣はすぐに答えられなかった。
会いたいから。
楽しいから。
藤堂のことを、もっと知りたいから。
どれも本当だった。
「惹かれているからです」
結衣は言った。
藤堂の目が、わずかに見開かれた。
「以前も言いましたよね。藤堂さんに惹かれていると思うと」
「城島さんにも、そう言ったと聞きました」
「はい」
「それが、どのくらいの気持ちなのか分かりません」
「私にも、まだ分かりません」
「そうですか」
「でも、会いたいと思う気持ちは本当です。藤堂さんが笑うと嬉しい。仕事のメールに一行だけ別のことが書いてあると、少し楽しみになります」
言葉にするほど、自分の気持ちが形を持っていく。
「次の予定を決めてもらえると嬉しいし、今日も何を着るか迷いました」
「今日の服は」
藤堂が途中で止めた。
「何ですか?」
「似合っています」
結衣は一瞬、言葉を失った。
「ありがとうございます」
「もっと早く言えばよかったですね」
「藤堂さんから服を褒められるとは思いませんでした」
「似合っていると思っていました。でも、言う必要があるか分からなくて」
「今後は、思ったら言ってください」
「努力します」
「そこは約束ではないんですね」
「褒めることを義務にすると、嘘になるので」
「確かに、そうですね」
二人の間に小さな笑いが生まれた。
藤堂は少し冷めたコーヒーを飲んだ。
「私も、佐伯さんに惹かれています」
結衣の手が止まる。
「最初は、仕事がしやすい人だと思いました。現場のことを理解していて、分からないことは分からないと言う。私の説明に問題があれば、遠慮なく指摘する」
「少しは加減しました」
「そうでしたか?」
「はい」
「その後、仕事以外でも話したいと思うようになった。次に会う日を考えるようになりました」
藤堂は結衣をまっすぐ見た。
「好きです」
喫茶店の音が、一瞬だけ遠くなった。
藤堂の声は大きくなかった。
飾った言葉もない。
それでも、迷わず届いた。
「佐伯さんが好きです」
結衣はすぐに答えられなかった。
胸が強く打っている。
嬉しい。
その感情は、考えるより早く身体に広がった。
けれど、その奥には健太の顔がある。
昨日までではなく、今の健太。
五年間を過ごし、結衣の選択を理解しようとしている人。
「ありがとうございます」
結衣はようやく言った。
「嬉しいです」
「答えは、今でなくて構いません」
「でも」
「待てるか分からないと言いましたが」
藤堂は少しだけ口元を緩めた。
「今すぐ答えをもらうために、言ったわけではありません」
「どうして今、伝えようと思ったんですか?」
「話したくなったときには話すと、約束したので」
「怖くなったことだけではなく?」
「気持ちが変わったときにも」
藤堂は続けた。
「私は、佐伯さんが城島さんのことを考えていると知って、怖くなりました。でも、離れたいのではなく、そばにいたいと思った」
結衣は彼の言葉を聞いた。
「だから、それを言うことにしました」
「正直ですね」
「佐伯さんに、そうするよう言われたので」
「私のせいですか?」
「おかげです」
藤堂は言い直した。
「答えを急がせたくありません。私の気持ちを知った上で、佐伯さんが考えてください」
「藤堂さん」
「はい」
「私も、藤堂さんが好きだと思います」
藤堂の目が揺れた。
「でも、まだ健太への気持ちを、終わったものだと言い切れません」
「分かっています」
「中途半端ですよね」
「中途半端なことを、完成したように言われるよりいいです」
「それでも、会い続けてくれますか?」
「会いたいです」
藤堂は答えた。
「ただし、私が耐えられなくなったら、そのときは話します」
「分かりました」
「勝手に離れないようにします」
「お願いします」
二人は向かい合ったまま、しばらく何も言わなかった。
恋人になったわけではない。
結衣は答えを出していない。
それでも、互いの気持ちはもう曖昧ではなかった。
好きです。
その言葉が、二人の間に静かに置かれている。
*
喫茶店を出る頃には、空が夕方の色へ変わっていた。
商店街の店先に明かりが灯り始めている。
二人は駅へ向かって歩いた。
藤堂は結衣の半歩前に出たり、隣へ戻ったりしている。話した後、どのくらいの距離を取ればいいのか迷っているように見えた。
「藤堂さん」
「はい」
「歩きにくいですか?」
「少し」
「どうして?」
「先ほどまでと同じ距離でいいのか、分からなくて」
「告白すると、歩く距離まで変わるんですか?」
「変わらない方が不自然かと思いました」
「では、どうしたいですか?」
藤堂は結衣の隣へ並んだ。
「このくらいで」
肩が触れない程度の距離だった。
「分かりました」
そのまま歩く。
横断歩道の手前で、二人の手が一度だけ触れた。
どちらからともなく離れた。
それでも結衣の指先には、温かさが残った。
駅へ着くと、藤堂が足を止めた。
「次に会う予定を決めてもいいですか」
「はい」
「来週の日曜日は?」
「空いています」
「行きたい場所があります」
「また古書店ですか?」
「違います。庭園です」
「藤堂さんが?」
「歴史のある建物もあります」
「やっぱり歴史ですね」
「興味はありませんか?」
「あります。藤堂さんとなら」
結衣が言うと、藤堂の目元がやわらいだ。
「では、調べて連絡します」
「地図も?」
「もちろん」
「天気予報も?」
「前日に確認します」
二人は小さく笑った。
「今日はありがとうございました」
結衣が言う。
「こちらこそ。話せてよかったです」
「私もです」
「後悔していませんか」
「何を?」
「好きだと言われたことを」
「どうして私が後悔するんですか?」
「答えに困らせたので」
「困りました。でも、嬉しかったです」
結衣ははっきり伝えた。
「今も、嬉しいです」
藤堂はしばらく結衣を見つめた後、静かに頷いた。
「それなら、よかったです」
「藤堂さんは?」
「何がですか?」
「言ったことを後悔していませんか」
「していません」
今度は迷わなかった。
「では、また来週」
「はい。また」
二人は別々の改札へ向かった。
結衣は数歩進んだ後、振り返った。
藤堂も、こちらを見ていた。
目が合う。
彼は少しだけ驚いた後、小さく手を上げた。
結衣も同じように返した。
*
帰宅すると、部屋の中は静かだった。
照明をつけ、コートを脱ぐ。
食器棚を開けると、青い皿の隣に白い皿が重なっている。
いつか見てみたい。
藤堂が言った言葉を思い出した。
機会があれば見てください。
結衣もそう答えた。
あのときは、まだ遠い可能性のように感じていた。
今は、少しだけ現実に近づいた気がする。
けれど、すぐに藤堂を部屋へ招くことはできなかった。
彼の気持ちに応えたいと思う自分と、健太への思いを確かめたい自分がいる。
どちらも嘘ではない。
藤堂は、それを知った上で好きだと言った。
答えを待つと言った。
その誠実さに甘えて、いつまでも曖昧なままでいることはできない。
結衣は冷蔵庫から野菜を取り出し、一人分の夕食を作った。
青い皿へ盛り、テーブルに置く。
スマートフォンが震えた。
藤堂からのメッセージだった。
〈今日は、話を聞いてくださってありがとうございました〉
続けて、もう一通届く。
〈好きだと伝えたことも、後悔していません〉
結衣は画面を見つめた。
〈私も、聞けてよかったです。伝えてくださって、ありがとうございました〉
送信した後、少し考えてから、もう一文を加える。
〈すぐに答えられなくて、ごめんなさい〉
藤堂からの返事は、すぐには来なかった。
数分後、画面が光る。
〈謝らないでください。答えが出る前に離れようとしたのは、私です〉
さらに続く。
〈今度は、自分で決めつけずに待ちます〉
結衣の胸が温かくなった。
〈変わったときには、話しましょう〉
〈はい。約束します〉
約束。
藤堂が避けてきた言葉だった。
先の気持ちを保証するためではない。
変わらないと誓うためでもない。
変わったときに黙らないことを、二人は約束した。
それなら、守れるかもしれない。
結衣はスマートフォンを置き、青い皿の料理を口へ運んだ。
一人分の食卓は、今日もきちんと満たされている。
それでも向かい側の空いた席を見たとき、そこに藤堂が座る光景を、以前よりはっきり思い描いている自分がいた。




