第十一章 二人分の食卓
藤堂から好きだと告げられた翌週、結衣は健太と二人で取引先コードの確認をすることになった。
会議室には、量販店ごとの商品コードをまとめた資料が積まれている。
福岡支社で使われていた一覧と、本社で現在使っている一覧。同じ取引先でも、支社によって管理の方法が異なっていた。
健太が福岡から持ち帰った資料は整理されていた。
変更された日付、変更した理由、現在使われているコード。誰が見ても分かるように必要な情報が並べられている。
「これ、健太が作ったの?」
結衣が尋ねる。
「最初の形だけ。後は向こうの事務の人たちが直してくれた」
「分かりやすいね」
「本社の資料を見たとき、結衣なら怒るだろうなと思った」
「どうして?」
「担当者の名前だけで保存されたファイルが多かったから」
「怒るというより、困るよ。本人がいなかったら、誰も分からないでしょう」
「福岡で同じことを言われた。俺が休みの日に、俺のファイルを誰も開けなかったんだ」
「それで変えたんだ」
「うん。昔の俺は、自分が分かっていればいいと思ってた」
健太は資料のページをめくった。
「結衣にも何度か言われたよな。情報は自分の中に持たないでって」
「覚えてたの?」
「言われたことは覚えてる。守ってなかっただけで」
「それは、覚えているとは言わないんじゃない?」
「今は守ってる」
健太が笑う。
こうして仕事をしていると、五年前へ戻ったような気がした。
健太が取引先の情報を持ち込み、結衣が注文の流れを確認する。意見が違えば、その場で話し合う。
彼は相手へ伝えることが得意で、結衣は情報の抜けを見つけることが得意だった。
二人で仕事をすると、進むのが早い。
その感覚も、身体が覚えていた。
けれど、以前と同じではない。
今の健太は、結衣に指摘される前に資料を共有する。結衣の意見を聞き、必要なら自分の案を変える。
五年間で、仕事の進め方も変わっていた。
「この取引先は、福岡と本社でコードを統一できそう」
結衣は二つの資料を並べた。
「ただ、東日本と西日本で商品の容量が違うから、末尾だけ分ける必要があると思う」
「藤堂さんに確認した方がいい?」
「そうだね。システム上、一つの取引先に複数の変換条件を持てるか聞いてみる」
藤堂の名前を口にした瞬間、健太の動きがわずかに止まった。
ほんの短い変化だった。
すぐに資料へ視線を戻したが、結衣には分かった。
「健太」
「何?」
「少し休憩しない?」
時計は午後四時を過ぎている。
二時間近く、続けて作業していた。
「そうだな」
二人は資料をそのままにし、休憩スペースへ移った。
結衣は温かいカフェオレ、健太は無糖のコーヒーを買った。
窓際のテーブルへ向かい合って座る。
「仕事の話じゃないことを言ってもいい?」
結衣が尋ねると、健太は少し身構えた。
「うん」
「藤堂さんに、好きだと言われた」
健太はカップを持ったまま、動かなかった。
「いつ?」
「先週の土曜日」
「食事に行った日?」
「うん」
「結衣は、何て答えたの?」
「私も好きだと思うと伝えた」
健太の視線が落ちた。
「でも、健太への気持ちを終わったものだとは、まだ言い切れないとも伝えた」
「それで、藤堂さんは?」
「すぐに答えなくていいと言ってくれた」
「そうか」
健太はコーヒーを一口飲んだ。
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「傷つけたと思ったから」
「傷ついたよ」
健太は正直に言った。
「でも、結衣が悪いことをしたわけじゃない。俺が戻ってくる前から、藤堂さんとは会ってたんだろ」
「うん」
「俺が何も知らないまま、五年ぶりに戻ってきただけだ」
「健太は何も悪くないよ」
「誰も悪くないなら、仕方ないな」
そう言いながらも、声には痛みが滲んでいた。
「どうして俺に話したの?」
「健太が、今の私を知りたいと言ったから」
「藤堂さんとのことも?」
「都合のいいところだけ見せて、今の私を知ってもらうことはできないでしょう?」
「正直すぎて、つらいけどな」
「隠して期待させる方が、もっとつらいと思う」
「それは、分かってる」
健太は窓の外へ目を向けた。
夕方の薄い光が、向かいのビルの壁を照らしている。
「結衣」
「何?」
「藤堂さんのこと、どういうところが好きなんだ?」
結衣はすぐには答えられなかった。
「聞きたくないんじゃない?」
「聞きたくない。でも、知りたい」
健太は困ったように笑った。
「俺は、今の結衣を知りたいって言ったから」
「仕事に誠実なところ」
「うん」
「分からないことを、分かったふりをしないところ。私の話を途中で決めつけずに聞いてくれるところ」
「それなら、俺もできると思うけど」
「比べているわけじゃないよ」
「分かってる。ごめん。続けて」
結衣はカップを両手で包んだ。
「少し不器用で、笑うのが苦手で、怖くなると先に離れようとするところもある」
「それは長所なの?」
「長所ではないと思う。でも、弱いところを隠したままにしないで話してくれた」
「過去のこと?」
「うん」
「聞いてもいい?」
「それは藤堂さんの話だから、私からは言えない」
「そうだな」
健太は頷いた。
「藤堂さんといると、今の自分でいられる気がする」
言葉にしてから、それがいちばん近い答えだと思った。
「健太といると、今の自分ではいられない?」
「そういう意味ではないよ」
「でも、俺といると、昔のことを思い出すだろ」
「うん」
健太には、若かった頃の結衣を知っている安心がある。
失敗も、迷いも、仕事に自信を持てなかった時期も知っている。
それは大切なことだった。
けれど藤堂が見ているのは、十三年働き、一人で生活を作り、自分の言葉を持ち始めた現在の結衣だった。
「俺は、昔の結衣に戻ってほしいわけじゃない」
健太が言った。
「分かってる」
「今の結衣を知りたい。藤堂さんだけが知っていることも、これから知りたいと思ってる」
「うん」
「だから、俺も気持ちは変わらない」
健太は結衣をまっすぐ見た。
「藤堂さんに好きだと言われたからって、俺は諦められない」
「健太」
「困らせたいわけじゃない。でも、何も言わずに引いたら、五年前と同じになる」
最後まで言えなかった言葉。
結衣に遮られ、そのまま飲み込んだ約束。
健太はもう、気持ちを言わないまま離れることを選ばない。
「分かった」
結衣は答えた。
「健太の気持ちも、きちんと考える」
「ありがとう」
「でも、いつ答えられるかは分からない」
「待つよ」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃない」
健太の声が少し強くなった。
「五年待ってたと言うつもりはない。約束してないし、俺も自分の生活をしてた。でも今は、結衣が考えてる間、待ちたいと思ってる」
「気持ちが変わるかもしれないよ」
「変わったら話す」
健太は言った。
「それでいいんだろ?」
藤堂と交わした約束と同じだった。
変わらないことを誓うのではない。
変わったときに、黙らない。
「うん」
結衣は頷いた。
「それなら」
二人は休憩を終え、会議室へ戻った。
仕事を再開すると、健太はそれ以上、私的な話をしなかった。
藤堂についても聞かなかった。
資料へ向かう横顔には、まだ痛みが残っている。
それでも健太は、結衣へ答えを迫らなかった。
*
日曜日の午前十時、結衣と藤堂は都内にある小さな庭園の入口で待ち合わせた。
空は薄い雲に覆われ、天気予報では午後から冷え込むと言われていた。
藤堂は今日も折り畳み傘を持っていた。
「降水確率は二十パーセントです」
結衣が尋ねる前に、藤堂が言った。
「聞いていませんけど」
「傘を見ていたので」
「今日は持ってきていません」
「どうしてですか?」
「二十パーセントなら、藤堂さんの傘に入れてもらえばいいと思って」
口にした途端、藤堂の表情が止まった。
「嫌ですか?」
「いいえ」
「では、降ったらお願いします」
「分かりました」
藤堂は折り畳み傘を鞄の奥へしまい直した。
庭園には、江戸時代から残る池と、明治期に建てられた小さな洋館があった。冬のため花は少なかったが、松の枝が丁寧に整えられ、池の水面には灰色の空が映っている。
二人は砂利道をゆっくり歩いた。
休日の午前中だが、人はそれほど多くない。年配の夫婦や、カメラを持った人が静かに景色を眺めている。
「藤堂さんは、こういう場所へ一人で来るんですか?」
「以前は」
「今は?」
「一人でも来ます。でも、今日は佐伯さんと来たかったので」
告白される前なら、その言葉の意味を何度も考えただろう。
今は、素直に受け取ることができた。
「私も来られてよかったです」
結衣は答えた。
池の周りを半分ほど歩いたところに、小さな休憩所があった。
二人でベンチへ座る。
藤堂が水筒を取り出した。
「持ってきたんですか?」
「温かいお茶です」
「準備がいいですね」
「佐伯さんの分もあります」
もう一つ、小さな紙コップが出てくる。
「二人分?」
「はい」
藤堂は少し緊張したように答えた。
「必要ないと言われたら、自分で二杯飲むつもりでした」
「いただきます」
差し出された紙コップを受け取る。
藤堂がお茶を注ぐと、白い湯気が上がった。
「熱いので気をつけてください」
「藤堂さんは熱いものが苦手でしたね」
「少し冷ましてから飲みます」
二人で湯気の向こうに池を見る。
静かな時間だった。
「健太に、藤堂さんから好きだと言われたことを話しました」
結衣は紙コップを持ったまま言った。
藤堂の横顔が少し固くなる。
「そうですか」
「話さない方がよかったですか?」
「私が決めることではありません」
「健太は、今の私を知りたいと言いました。だから隠したくなかったんです」
「何と言っていましたか」
「傷ついた。でも、私が悪いことをしたわけではないと」
藤堂は黙った。
「それから、藤堂さんに好きだと言われても、自分の気持ちは変わらないと言いました」
「そうですか」
「待つとも」
藤堂の指が、紙コップの縁をゆっくりなぞった。
「私は、待つのが得意ではないかもしれません」
「はい」
「でも、勝手に離れないと約束しました」
「覚えています」
「今も、会いたい気持ちは変わっていません」
「私もです」
結衣は答えた。
「藤堂さんの気持ちを聞いたから、今日会ったのではありません。私も会いたかったからです」
藤堂は結衣を見た。
「それを聞くと、安心します」
「安心していいですよ。今の気持ちは」
「今の気持ち」
「先のことを言い切るのは、まだ怖いです」
「分かっています」
藤堂はお茶を一口飲み、熱かったのかすぐにカップを離した。
「熱かったですか?」
「少し」
「無理をしないでください」
「冷めるのを待ちます」
「それなら大丈夫です」
二人の間に、やわらかな沈黙が落ちた。
*
庭園を出たのは、午後一時を過ぎた頃だった。
駅へ向かう途中、結衣は立ち止まった。
「藤堂さん」
「はい」
「この後、予定はありますか?」
「ありません」
「夕方まで?」
「はい」
「では、少し寄っていきませんか」
「どこへですか?」
結衣は一度息を整えた。
「私の家です」
藤堂はすぐには反応しなかった。
聞き間違えたのかと思っているようだった。
「以前、青い皿を見たいと言いましたよね」
「言いました」
「今日、夕食を作ろうと思っていました。よければ、一緒に食べませんか」
「いいんですか?」
「嫌なら誘いません」
「嫌ではありません。ただ」
「何ですか?」
「緊張しています」
藤堂が正直に答えたため、結衣も少し力が抜けた。
「私もです」
「なら、無理をしなくても」
「行かない方が安全ですか?」
結衣が尋ねると、藤堂は困ったように口元を緩めた。
「その言い方をされると、断れません」
「断っても大丈夫です」
「行きたいです」
藤堂ははっきり言った。
「佐伯さんの部屋へ行って、青い皿を見たいです」
「では、スーパーへ寄りましょう」
二人は結衣の自宅へ向かう電車に乗った。
休日の午後、隣に座る藤堂は、何度も鞄の位置を直していた。
「落ち着きませんか?」
結衣が聞く。
「少し」
「普通に夕食を食べるだけです」
「分かっています」
「何か期待していますか?」
少し意地悪な聞き方だった。
藤堂はさらに困った顔をした。
「してはいけませんか」
予想していなかった答えに、今度は結衣が黙った。
「すみません」
「すぐに謝らないでください」
「では、言い直します」
藤堂は前を向いたまま続けた。
「期待はしています。でも、佐伯さんが望まないことはしません」
「何を期待しているんですか?」
「二人で夕食を作って、食べることです」
「それだけ?」
「今は、それだけにしておきます」
藤堂の耳が少し赤くなっている。
結衣は窓の外へ視線を移した。
自分から聞いておきながら、胸が落ち着かなくなっていた。
*
駅前のスーパーマーケットへ入る。
いつも一人で来る店を、今日は藤堂と並んで歩いた。
結衣がかごを持つと、藤堂が手を伸ばす。
「持ちます」
「重くありません」
「まだ何も入っていないので」
「では、お願いします」
藤堂がかごを持ち、結衣が商品を選ぶ。
「何を作りますか?」
「鶏肉ときのこのクリーム煮はどうですか」
「以前、一人分の夕食に作った料理ですね」
「それも覚えているんですか?」
「青い皿を買った日に作ったと聞きました」
「皿を買ったのは、その次の日だったと思います」
「そうでしたか」
「言われたことを、全部正確に覚えているわけではないんですね」
「残念ながら」
「少し安心しました」
鶏肉売り場で、結衣は二枚入りのパックを手に取った。
以前は一枚入りを選んだ。
二枚入りの方が安くても、冷蔵庫に残ることが負担だった。
今日は迷う必要がない。
二人で一枚ずつ食べればいい。
「ほかに必要なものは?」
藤堂が尋ねる。
「しめじと玉ねぎ。サラダ用の野菜も買います」
「パンは?」
「クリーム煮なら、パンが合いますね」
「以前、結衣さんに言われて、スープとパンを一緒に買いました」
結衣は足を止めた。
藤堂も、何かに気づいたように動きを止める。
「今」
「はい」
「結衣さん、と呼びましたよね」
「すみません」
「謝ることではありません」
「会社では名字で呼ぶので、間違えました」
「嫌ではありません」
結衣は答えた。
「仕事以外では、結衣でいいです」
藤堂の目がわずかに揺れた。
「では」
一度、呼吸を整えるように間を置く。
「結衣さん」
「はい」
「私のことも、亮介で構いません」
「急には難しいです」
「私も、かなり緊張しました」
「では、少しずつ」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
名前で呼ばれた温度が、胸に残っていた。
*
マンションへ着き、結衣は玄関の鍵を開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
藤堂は靴を揃え、慎重に部屋へ入った。
結衣は普段より念入りに掃除しておけばよかったと思った。散らかってはいないが、棚の上には読みかけの本が置かれ、ソファには朝使ったひざ掛けが畳まずに残っている。
「きれいですね」
藤堂が言った。
「来客用の感想ですか?」
「本当にそう思いました」
「今朝、もう少し片づければよかったです」
「私を招く予定はなかったんですよね」
「庭園を歩いているときに、誘おうと思いました」
「どうして?」
結衣は買い物袋をキッチンへ置いた。
「藤堂さんと、もう少し一緒にいたいと思ったからです」
藤堂は何も言わなかった。
けれど、その目元がやわらいだことは分かった。
「コートをかけます」
「ありがとうございます」
藤堂のコートを受け取り、ハンガーへかける。
彼が自分の部屋にいる。
それだけで、見慣れた空間が少し違って見えた。
「何をすればいいですか?」
藤堂が袖をまくりながら尋ねた。
「料理、できますか?」
「味噌汁なら」
「今日は味噌汁ではありません」
「玉ねぎを切るくらいならできます」
「では、お願いします」
結衣はエプロンを一枚だけ持っていた。
藤堂へ貸し、自分はそのまま料理を始める。
藤堂がエプロンをつけると、紐が短く見えた。
「似合いますね」
結衣が言う。
「本当ですか?」
「少し小さいですけど」
「それは似合っていないのでは」
「記念に写真を撮りたいくらいです」
「やめてください」
藤堂が珍しく慌てる。
結衣は笑いながら、鶏肉を取り出した。
二人でキッチンに立つには、少し狭かった。
藤堂が玉ねぎを切り、結衣が鶏肉の下ごしらえをする。冷蔵庫を開けようとすると、彼の背中に当たりそうになる。
「すみません。少し動いてください」
「どちらへ?」
「右です」
藤堂が右へ動くと、今度は引き出しの前を塞いだ。
「やっぱり左へ」
「邪魔ですね」
「大きな観葉植物くらいです」
「最初の聞き取りの日と同じですね」
「覚えていましたか」
「はい」
藤堂は玉ねぎを切り終えた。
形は揃っていないが、問題はない。
「包丁の使い方、少し危なかったです」
結衣が言う。
「切れました」
「切れればいいというものではありません」
「次までに練習します」
「次も作るつもりですか?」
「機会があれば」
藤堂は遠慮がちに言った。
「ありますよ」
結衣が答えると、彼の表情がやわらいだ。
二人で料理を作る。
一人なら三十分ほどで終わる作業に、倍近い時間がかかった。
それでも結衣は、面倒だと思わなかった。
使ったまな板を置く場所。
塩を取る順番。
冷蔵庫を開けるために、相手へ声をかけること。
一人なら必要のない小さなやり取りが、楽しかった。
「お皿を出してもらえますか」
結衣が頼む。
「どれですか?」
「食器棚の上から二段目です」
藤堂が扉を開けた。
青い皿と、その隣に重ねてある白い皿を見つける。
「これですね」
「はい」
「青い皿は一枚だけ?」
「一枚だけ買いました」
「では、結衣さんが使ってください」
「今日は亮介さんが使ってください」
名前を呼ぶと、藤堂の手が止まった。
結衣自身も、胸が速く打った。
「今」
「はい」
「呼びましたね」
「少しずつと言ったでしょう?」
照れを隠すように答える。
「嫌でしたか?」
「いいえ」
藤堂は青い皿を持ったまま、静かに笑った。
「もう一度、呼んでください」
「今は料理を盛ります」
「そうですか」
「次に、自然に呼べるときに」
「待っています」
結衣は青い皿へ藤堂の分を、白い皿へ自分の分を盛った。
サラダとパンも並べる。
テーブルに二人分の夕食が揃った。
向かい側の席に、藤堂が座る。
何度も見てきた空席が、今日は空いていない。
「いただきます」
二人で同時に言った。
藤堂はクリーム煮を一口食べた。
「どうですか?」
「おいしいです」
「少し水を入れますか?」
「必要ありません」
「濃すぎませんか?」
「適切な濃さです」
結衣は笑った。
「その話も、長く続きましたね」
「結衣さんが続けたんです」
「新しい失敗をしてくれなかったので」
「今日、玉ねぎの切り方で失敗しました」
「それは少し弱いですね」
「では、次はもう少し大きな失敗を」
「期待していません」
「どちらですか?」
二人の笑い声が、部屋に広がった。
テレビはつけていない。
いつもなら静かすぎると感じる部屋が、今日は会話だけで満たされていた。
「この部屋に、誰かを招くことは多いですか?」
藤堂が尋ねる。
「友人が何度か。最近は、あまりありません」
「男性は?」
「健太と別れてからは、初めてです」
藤堂の表情が変わった。
「私が?」
「はい」
「そういうことは、先に言わない方がいいです」
「どうして?」
「緊張するので」
「もう来ているんだから、同じでしょう」
「意味が違います」
藤堂は青い皿へ視線を落とした。
「招いていただいて、ありがとうございます」
「来てくださって、ありがとうございます」
「この皿を見られてよかったです」
「見たかったんですよね」
「はい。でも」
藤堂はテーブルの上に並ぶ二枚の皿を見た。
「一枚だけで置かれているところを想像していました」
「今日は二人なので」
「白い皿も、きれいですね」
「二枚一組で買ったものです」
「以前のもの?」
「健太と別れた後、この部屋へ引っ越したときに買いました」
「なぜ二枚を?」
「来客用のつもりでした。でも本当は、いつか誰かと食卓を囲むことを、完全には諦めたくなかったのかもしれません」
「今日、その一枚を使っている」
「はい」
「私が使ってもよかったのに」
「青い皿を見たいと言ったのは、亮介さんでしょう?」
今度は、少し自然に呼べた。
藤堂は顔を上げた。
「ありがとうございます、結衣さん」
二人の名前が、部屋の中に静かに残った。
*
食事を終えると、藤堂は立ち上がった。
「洗います」
「お客様に洗わせられません」
「料理を作ってもらいました」
「玉ねぎを切ってくれました」
「それだけです」
「では、一緒に片づけましょう」
結衣が皿を洗い、藤堂が布巾で拭くことになった。
青い皿を手渡すと、藤堂は慎重に受け取った。
「割らないでくださいね」
「緊張させないでください」
「一枚しかありませんから」
「それなら、なおさら私が洗わない方がよかったのでは」
「大丈夫です。信じています」
冗談のつもりで言った。
けれど藤堂の表情が、わずかに変わった。
「信じるんですか」
「皿を割らないことくらいは」
「それだけ?」
「今は」
「今は、ですね」
藤堂は青い皿を丁寧に拭き、水切りかごへ置いた。
次の皿を渡そうとしたとき、結衣の指と藤堂の指が触れた。
二人の動きが止まる。
藤堂は手を引かなかった。
結衣も引かなかった。
「結衣さん」
「はい」
「手を握ってもいいですか」
聞かれたことに、胸が強く鳴った。
「はい」
結衣は水を止め、手をタオルで拭いた。
藤堂が右手を差し出す。
結衣は、その上へ自分の手を重ねた。
指がゆっくり重なる。
藤堂の手は大きく、温かかった。
強く握るのではなく、結衣が離そうと思えばいつでも離せるような触れ方だった。
「緊張していますか?」
結衣が尋ねる。
「かなり」
「顔には出ませんね」
「出さないようにしています」
「私は出ていると思います」
「少し」
二人は顔を見合わせた。
藤堂が笑う。
結衣も笑った。
しばらく手を重ねた後、どちらからともなく離れた。
食器はまだ一枚残っている。
二人は何もなかったように片づけを続けたが、指先の温度は消えなかった。
*
午後七時を過ぎると、藤堂は帰る支度を始めた。
「まだ大丈夫ですよ」
結衣が言う。
「遅くなる前に帰ります」
「気を遣っていますか?」
「はい」
「正直ですね」
「これ以上いると、帰りたくなくなるので」
藤堂の言葉に、結衣は胸の奥をつかまれたように感じた。
「私も」
小さく答える。
「もう少しいてほしいと思っています」
藤堂はコートを持ったまま、結衣を見た。
「それでも、今日は帰ります」
「どうして?」
「結衣さんが、考える時間を持っていることを忘れたくないからです」
「藤堂さん」
「急がせたくありません」
優しいだけではない。
藤堂自身も、ここにいたい気持ちを抑えている。
「分かりました」
結衣は頷いた。
「駅まで送ります」
「近いので大丈夫です」
「マンションの入口まで」
二人で玄関へ向かう。
藤堂が靴を履き、振り返った。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「料理、おいしかったです」
「次は、亮介さんが作ってください」
「味噌汁でいいですか?」
「それだけでは夕食になりません」
「ごはんも炊きます」
「おかずは?」
「練習します」
「期待しています」
「少しだけ加減してください」
「味を見てから決めます」
藤堂が笑った。
結衣は彼を一階まで見送った。
エントランスの外は暗く、冷たい風が吹いている。
「来週、仕事で会いますね」
結衣が言う。
「はい」
「次の日曜日も」
「約束しています」
「変わっていませんか?」
「変わっていません」
藤堂ははっきり答えた。
「結衣さんは?」
「私も変わっていません」
「それなら、安心しました」
少しの沈黙。
藤堂が一歩近づいた。
抱きしめられるのかと思い、結衣の身体がわずかに固くなる。
けれど藤堂は手を伸ばさなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
彼は軽く会釈をし、駅の方向へ歩いていった。
結衣は姿が見えなくなるまで、エントランスに立っていた。
部屋へ戻る。
テーブルには、二人で飲んだ水のグラスが残っている。
水切りかごには、青い皿と白い皿が並んでいた。
二枚の皿。
二人分の夕食。
たったそれだけの光景が、胸に深く残った。
誰かと暮らすことは、特別な日を重ねることだけではない。
買い物かごへ二人分の食材を入れること。
狭いキッチンで互いに場所を譲ること。
味の感想を聞くこと。
使った皿を一緒に洗うこと。
そんな小さなことを、何度も繰り返すことなのかもしれない。
健太と結婚していたら、同じような夜があっただろう。
彼はもっと手早く料理をし、違う冗談を言ったかもしれない。
その光景も想像できる。
けれど今、結衣の指先に残っているのは、藤堂の手の温度だった。
スマートフォンが震えた。
〈無事、駅に着きました〉
藤堂からだった。
〈ご連絡ありがとうございます。今日は楽しかったです〉
〈私もです。青い皿も、料理も、よかったです〉
〈玉ねぎの切り方は、練習してください〉
〈次までに練習します〉
結衣は笑いながら返信した。
〈次を楽しみにしています〉
数秒後、返事が届く。
〈私もです〉
画面を閉じる。
結衣は水切りかごから二枚の皿を取り、布巾で残った水滴を拭いた。
食器棚へ戻す。
青い皿の上へ白い皿を重ねようとして、やめた。
今日は二枚を隣り合わせに置いた。
次に使う日がいつになるかは分からない。
それでも、二人分の場所を空けておきたいと思った。




