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言葉にならなかった約束の先で  作者: 久遠 睦


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11/20

第十一章 二人分の食卓

藤堂から好きだと告げられた翌週、結衣は健太と二人で取引先コードの確認をすることになった。

 会議室には、量販店ごとの商品コードをまとめた資料が積まれている。

 福岡支社で使われていた一覧と、本社で現在使っている一覧。同じ取引先でも、支社によって管理の方法が異なっていた。

 健太が福岡から持ち帰った資料は整理されていた。

 変更された日付、変更した理由、現在使われているコード。誰が見ても分かるように必要な情報が並べられている。

「これ、健太が作ったの?」

 結衣が尋ねる。

「最初の形だけ。後は向こうの事務の人たちが直してくれた」

「分かりやすいね」

「本社の資料を見たとき、結衣なら怒るだろうなと思った」

「どうして?」

「担当者の名前だけで保存されたファイルが多かったから」

「怒るというより、困るよ。本人がいなかったら、誰も分からないでしょう」

「福岡で同じことを言われた。俺が休みの日に、俺のファイルを誰も開けなかったんだ」

「それで変えたんだ」

「うん。昔の俺は、自分が分かっていればいいと思ってた」

 健太は資料のページをめくった。

「結衣にも何度か言われたよな。情報は自分の中に持たないでって」

「覚えてたの?」

「言われたことは覚えてる。守ってなかっただけで」

「それは、覚えているとは言わないんじゃない?」

「今は守ってる」

 健太が笑う。

 こうして仕事をしていると、五年前へ戻ったような気がした。

 健太が取引先の情報を持ち込み、結衣が注文の流れを確認する。意見が違えば、その場で話し合う。

 彼は相手へ伝えることが得意で、結衣は情報の抜けを見つけることが得意だった。

 二人で仕事をすると、進むのが早い。

 その感覚も、身体が覚えていた。

 けれど、以前と同じではない。

 今の健太は、結衣に指摘される前に資料を共有する。結衣の意見を聞き、必要なら自分の案を変える。

 五年間で、仕事の進め方も変わっていた。

「この取引先は、福岡と本社でコードを統一できそう」

 結衣は二つの資料を並べた。

「ただ、東日本と西日本で商品の容量が違うから、末尾だけ分ける必要があると思う」

「藤堂さんに確認した方がいい?」

「そうだね。システム上、一つの取引先に複数の変換条件を持てるか聞いてみる」

 藤堂の名前を口にした瞬間、健太の動きがわずかに止まった。

 ほんの短い変化だった。

 すぐに資料へ視線を戻したが、結衣には分かった。

「健太」

「何?」

「少し休憩しない?」

 時計は午後四時を過ぎている。

 二時間近く、続けて作業していた。

「そうだな」

 二人は資料をそのままにし、休憩スペースへ移った。

 結衣は温かいカフェオレ、健太は無糖のコーヒーを買った。

 窓際のテーブルへ向かい合って座る。

「仕事の話じゃないことを言ってもいい?」

 結衣が尋ねると、健太は少し身構えた。

「うん」

「藤堂さんに、好きだと言われた」

 健太はカップを持ったまま、動かなかった。

「いつ?」

「先週の土曜日」

「食事に行った日?」

「うん」

「結衣は、何て答えたの?」

「私も好きだと思うと伝えた」

 健太の視線が落ちた。

「でも、健太への気持ちを終わったものだとは、まだ言い切れないとも伝えた」

「それで、藤堂さんは?」

「すぐに答えなくていいと言ってくれた」

「そうか」

 健太はコーヒーを一口飲んだ。

「ごめん」

「何で謝るんだよ」

「傷つけたと思ったから」

「傷ついたよ」

 健太は正直に言った。

「でも、結衣が悪いことをしたわけじゃない。俺が戻ってくる前から、藤堂さんとは会ってたんだろ」

「うん」

「俺が何も知らないまま、五年ぶりに戻ってきただけだ」

「健太は何も悪くないよ」

「誰も悪くないなら、仕方ないな」

 そう言いながらも、声には痛みが滲んでいた。

「どうして俺に話したの?」

「健太が、今の私を知りたいと言ったから」

「藤堂さんとのことも?」

「都合のいいところだけ見せて、今の私を知ってもらうことはできないでしょう?」

「正直すぎて、つらいけどな」

「隠して期待させる方が、もっとつらいと思う」

「それは、分かってる」

 健太は窓の外へ目を向けた。

 夕方の薄い光が、向かいのビルの壁を照らしている。

「結衣」

「何?」

「藤堂さんのこと、どういうところが好きなんだ?」

 結衣はすぐには答えられなかった。

「聞きたくないんじゃない?」

「聞きたくない。でも、知りたい」

 健太は困ったように笑った。

「俺は、今の結衣を知りたいって言ったから」

「仕事に誠実なところ」

「うん」

「分からないことを、分かったふりをしないところ。私の話を途中で決めつけずに聞いてくれるところ」

「それなら、俺もできると思うけど」

「比べているわけじゃないよ」

「分かってる。ごめん。続けて」

 結衣はカップを両手で包んだ。

「少し不器用で、笑うのが苦手で、怖くなると先に離れようとするところもある」

「それは長所なの?」

「長所ではないと思う。でも、弱いところを隠したままにしないで話してくれた」

「過去のこと?」

「うん」

「聞いてもいい?」

「それは藤堂さんの話だから、私からは言えない」

「そうだな」

 健太は頷いた。

「藤堂さんといると、今の自分でいられる気がする」

 言葉にしてから、それがいちばん近い答えだと思った。

「健太といると、今の自分ではいられない?」

「そういう意味ではないよ」

「でも、俺といると、昔のことを思い出すだろ」

「うん」

 健太には、若かった頃の結衣を知っている安心がある。

 失敗も、迷いも、仕事に自信を持てなかった時期も知っている。

 それは大切なことだった。

 けれど藤堂が見ているのは、十三年働き、一人で生活を作り、自分の言葉を持ち始めた現在の結衣だった。

「俺は、昔の結衣に戻ってほしいわけじゃない」

 健太が言った。

「分かってる」

「今の結衣を知りたい。藤堂さんだけが知っていることも、これから知りたいと思ってる」

「うん」

「だから、俺も気持ちは変わらない」

 健太は結衣をまっすぐ見た。

「藤堂さんに好きだと言われたからって、俺は諦められない」

「健太」

「困らせたいわけじゃない。でも、何も言わずに引いたら、五年前と同じになる」

 最後まで言えなかった言葉。

 結衣に遮られ、そのまま飲み込んだ約束。

 健太はもう、気持ちを言わないまま離れることを選ばない。

「分かった」

 結衣は答えた。

「健太の気持ちも、きちんと考える」

「ありがとう」

「でも、いつ答えられるかは分からない」

「待つよ」

「簡単に言わないで」

「簡単じゃない」

 健太の声が少し強くなった。

「五年待ってたと言うつもりはない。約束してないし、俺も自分の生活をしてた。でも今は、結衣が考えてる間、待ちたいと思ってる」

「気持ちが変わるかもしれないよ」

「変わったら話す」

 健太は言った。

「それでいいんだろ?」

 藤堂と交わした約束と同じだった。

 変わらないことを誓うのではない。

 変わったときに、黙らない。

「うん」

 結衣は頷いた。

「それなら」

 二人は休憩を終え、会議室へ戻った。

 仕事を再開すると、健太はそれ以上、私的な話をしなかった。

 藤堂についても聞かなかった。

 資料へ向かう横顔には、まだ痛みが残っている。

 それでも健太は、結衣へ答えを迫らなかった。

     *

 日曜日の午前十時、結衣と藤堂は都内にある小さな庭園の入口で待ち合わせた。

 空は薄い雲に覆われ、天気予報では午後から冷え込むと言われていた。

 藤堂は今日も折り畳み傘を持っていた。

「降水確率は二十パーセントです」

 結衣が尋ねる前に、藤堂が言った。

「聞いていませんけど」

「傘を見ていたので」

「今日は持ってきていません」

「どうしてですか?」

「二十パーセントなら、藤堂さんの傘に入れてもらえばいいと思って」

 口にした途端、藤堂の表情が止まった。

「嫌ですか?」

「いいえ」

「では、降ったらお願いします」

「分かりました」

 藤堂は折り畳み傘を鞄の奥へしまい直した。

 庭園には、江戸時代から残る池と、明治期に建てられた小さな洋館があった。冬のため花は少なかったが、松の枝が丁寧に整えられ、池の水面には灰色の空が映っている。

 二人は砂利道をゆっくり歩いた。

 休日の午前中だが、人はそれほど多くない。年配の夫婦や、カメラを持った人が静かに景色を眺めている。

「藤堂さんは、こういう場所へ一人で来るんですか?」

「以前は」

「今は?」

「一人でも来ます。でも、今日は佐伯さんと来たかったので」

 告白される前なら、その言葉の意味を何度も考えただろう。

 今は、素直に受け取ることができた。

「私も来られてよかったです」

 結衣は答えた。

 池の周りを半分ほど歩いたところに、小さな休憩所があった。

 二人でベンチへ座る。

 藤堂が水筒を取り出した。

「持ってきたんですか?」

「温かいお茶です」

「準備がいいですね」

「佐伯さんの分もあります」

 もう一つ、小さな紙コップが出てくる。

「二人分?」

「はい」

 藤堂は少し緊張したように答えた。

「必要ないと言われたら、自分で二杯飲むつもりでした」

「いただきます」

 差し出された紙コップを受け取る。

 藤堂がお茶を注ぐと、白い湯気が上がった。

「熱いので気をつけてください」

「藤堂さんは熱いものが苦手でしたね」

「少し冷ましてから飲みます」

 二人で湯気の向こうに池を見る。

 静かな時間だった。

「健太に、藤堂さんから好きだと言われたことを話しました」

 結衣は紙コップを持ったまま言った。

 藤堂の横顔が少し固くなる。

「そうですか」

「話さない方がよかったですか?」

「私が決めることではありません」

「健太は、今の私を知りたいと言いました。だから隠したくなかったんです」

「何と言っていましたか」

「傷ついた。でも、私が悪いことをしたわけではないと」

 藤堂は黙った。

「それから、藤堂さんに好きだと言われても、自分の気持ちは変わらないと言いました」

「そうですか」

「待つとも」

 藤堂の指が、紙コップの縁をゆっくりなぞった。

「私は、待つのが得意ではないかもしれません」

「はい」

「でも、勝手に離れないと約束しました」

「覚えています」

「今も、会いたい気持ちは変わっていません」

「私もです」

 結衣は答えた。

「藤堂さんの気持ちを聞いたから、今日会ったのではありません。私も会いたかったからです」

 藤堂は結衣を見た。

「それを聞くと、安心します」

「安心していいですよ。今の気持ちは」

「今の気持ち」

「先のことを言い切るのは、まだ怖いです」

「分かっています」

 藤堂はお茶を一口飲み、熱かったのかすぐにカップを離した。

「熱かったですか?」

「少し」

「無理をしないでください」

「冷めるのを待ちます」

「それなら大丈夫です」

 二人の間に、やわらかな沈黙が落ちた。

     *

 庭園を出たのは、午後一時を過ぎた頃だった。

 駅へ向かう途中、結衣は立ち止まった。

「藤堂さん」

「はい」

「この後、予定はありますか?」

「ありません」

「夕方まで?」

「はい」

「では、少し寄っていきませんか」

「どこへですか?」

 結衣は一度息を整えた。

「私の家です」

 藤堂はすぐには反応しなかった。

 聞き間違えたのかと思っているようだった。

「以前、青い皿を見たいと言いましたよね」

「言いました」

「今日、夕食を作ろうと思っていました。よければ、一緒に食べませんか」

「いいんですか?」

「嫌なら誘いません」

「嫌ではありません。ただ」

「何ですか?」

「緊張しています」

 藤堂が正直に答えたため、結衣も少し力が抜けた。

「私もです」

「なら、無理をしなくても」

「行かない方が安全ですか?」

 結衣が尋ねると、藤堂は困ったように口元を緩めた。

「その言い方をされると、断れません」

「断っても大丈夫です」

「行きたいです」

 藤堂ははっきり言った。

「佐伯さんの部屋へ行って、青い皿を見たいです」

「では、スーパーへ寄りましょう」

 二人は結衣の自宅へ向かう電車に乗った。

 休日の午後、隣に座る藤堂は、何度も鞄の位置を直していた。

「落ち着きませんか?」

 結衣が聞く。

「少し」

「普通に夕食を食べるだけです」

「分かっています」

「何か期待していますか?」

 少し意地悪な聞き方だった。

 藤堂はさらに困った顔をした。

「してはいけませんか」

 予想していなかった答えに、今度は結衣が黙った。

「すみません」

「すぐに謝らないでください」

「では、言い直します」

 藤堂は前を向いたまま続けた。

「期待はしています。でも、佐伯さんが望まないことはしません」

「何を期待しているんですか?」

「二人で夕食を作って、食べることです」

「それだけ?」

「今は、それだけにしておきます」

 藤堂の耳が少し赤くなっている。

 結衣は窓の外へ視線を移した。

 自分から聞いておきながら、胸が落ち着かなくなっていた。

     *

 駅前のスーパーマーケットへ入る。

 いつも一人で来る店を、今日は藤堂と並んで歩いた。

 結衣がかごを持つと、藤堂が手を伸ばす。

「持ちます」

「重くありません」

「まだ何も入っていないので」

「では、お願いします」

 藤堂がかごを持ち、結衣が商品を選ぶ。

「何を作りますか?」

「鶏肉ときのこのクリーム煮はどうですか」

「以前、一人分の夕食に作った料理ですね」

「それも覚えているんですか?」

「青い皿を買った日に作ったと聞きました」

「皿を買ったのは、その次の日だったと思います」

「そうでしたか」

「言われたことを、全部正確に覚えているわけではないんですね」

「残念ながら」

「少し安心しました」

 鶏肉売り場で、結衣は二枚入りのパックを手に取った。

 以前は一枚入りを選んだ。

 二枚入りの方が安くても、冷蔵庫に残ることが負担だった。

 今日は迷う必要がない。

 二人で一枚ずつ食べればいい。

「ほかに必要なものは?」

 藤堂が尋ねる。

「しめじと玉ねぎ。サラダ用の野菜も買います」

「パンは?」

「クリーム煮なら、パンが合いますね」

「以前、結衣さんに言われて、スープとパンを一緒に買いました」

 結衣は足を止めた。

 藤堂も、何かに気づいたように動きを止める。

「今」

「はい」

「結衣さん、と呼びましたよね」

「すみません」

「謝ることではありません」

「会社では名字で呼ぶので、間違えました」

「嫌ではありません」

 結衣は答えた。

「仕事以外では、結衣でいいです」

 藤堂の目がわずかに揺れた。

「では」

 一度、呼吸を整えるように間を置く。

「結衣さん」

「はい」

「私のことも、亮介で構いません」

「急には難しいです」

「私も、かなり緊張しました」

「では、少しずつ」

「はい」

 二人は再び歩き始めた。

 名前で呼ばれた温度が、胸に残っていた。

     *

 マンションへ着き、結衣は玄関の鍵を開けた。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 藤堂は靴を揃え、慎重に部屋へ入った。

 結衣は普段より念入りに掃除しておけばよかったと思った。散らかってはいないが、棚の上には読みかけの本が置かれ、ソファには朝使ったひざ掛けが畳まずに残っている。

「きれいですね」

 藤堂が言った。

「来客用の感想ですか?」

「本当にそう思いました」

「今朝、もう少し片づければよかったです」

「私を招く予定はなかったんですよね」

「庭園を歩いているときに、誘おうと思いました」

「どうして?」

 結衣は買い物袋をキッチンへ置いた。

「藤堂さんと、もう少し一緒にいたいと思ったからです」

 藤堂は何も言わなかった。

 けれど、その目元がやわらいだことは分かった。

「コートをかけます」

「ありがとうございます」

 藤堂のコートを受け取り、ハンガーへかける。

 彼が自分の部屋にいる。

 それだけで、見慣れた空間が少し違って見えた。

「何をすればいいですか?」

 藤堂が袖をまくりながら尋ねた。

「料理、できますか?」

「味噌汁なら」

「今日は味噌汁ではありません」

「玉ねぎを切るくらいならできます」

「では、お願いします」

 結衣はエプロンを一枚だけ持っていた。

 藤堂へ貸し、自分はそのまま料理を始める。

 藤堂がエプロンをつけると、紐が短く見えた。

「似合いますね」

 結衣が言う。

「本当ですか?」

「少し小さいですけど」

「それは似合っていないのでは」

「記念に写真を撮りたいくらいです」

「やめてください」

 藤堂が珍しく慌てる。

 結衣は笑いながら、鶏肉を取り出した。

 二人でキッチンに立つには、少し狭かった。

 藤堂が玉ねぎを切り、結衣が鶏肉の下ごしらえをする。冷蔵庫を開けようとすると、彼の背中に当たりそうになる。

「すみません。少し動いてください」

「どちらへ?」

「右です」

 藤堂が右へ動くと、今度は引き出しの前を塞いだ。

「やっぱり左へ」

「邪魔ですね」

「大きな観葉植物くらいです」

「最初の聞き取りの日と同じですね」

「覚えていましたか」

「はい」

 藤堂は玉ねぎを切り終えた。

 形は揃っていないが、問題はない。

「包丁の使い方、少し危なかったです」

 結衣が言う。

「切れました」

「切れればいいというものではありません」

「次までに練習します」

「次も作るつもりですか?」

「機会があれば」

 藤堂は遠慮がちに言った。

「ありますよ」

 結衣が答えると、彼の表情がやわらいだ。

 二人で料理を作る。

 一人なら三十分ほどで終わる作業に、倍近い時間がかかった。

 それでも結衣は、面倒だと思わなかった。

 使ったまな板を置く場所。

 塩を取る順番。

 冷蔵庫を開けるために、相手へ声をかけること。

 一人なら必要のない小さなやり取りが、楽しかった。

「お皿を出してもらえますか」

 結衣が頼む。

「どれですか?」

「食器棚の上から二段目です」

 藤堂が扉を開けた。

 青い皿と、その隣に重ねてある白い皿を見つける。

「これですね」

「はい」

「青い皿は一枚だけ?」

「一枚だけ買いました」

「では、結衣さんが使ってください」

「今日は亮介さんが使ってください」

 名前を呼ぶと、藤堂の手が止まった。

 結衣自身も、胸が速く打った。

「今」

「はい」

「呼びましたね」

「少しずつと言ったでしょう?」

 照れを隠すように答える。

「嫌でしたか?」

「いいえ」

 藤堂は青い皿を持ったまま、静かに笑った。

「もう一度、呼んでください」

「今は料理を盛ります」

「そうですか」

「次に、自然に呼べるときに」

「待っています」

 結衣は青い皿へ藤堂の分を、白い皿へ自分の分を盛った。

 サラダとパンも並べる。

 テーブルに二人分の夕食が揃った。

 向かい側の席に、藤堂が座る。

 何度も見てきた空席が、今日は空いていない。

「いただきます」

 二人で同時に言った。

 藤堂はクリーム煮を一口食べた。

「どうですか?」

「おいしいです」

「少し水を入れますか?」

「必要ありません」

「濃すぎませんか?」

「適切な濃さです」

 結衣は笑った。

「その話も、長く続きましたね」

「結衣さんが続けたんです」

「新しい失敗をしてくれなかったので」

「今日、玉ねぎの切り方で失敗しました」

「それは少し弱いですね」

「では、次はもう少し大きな失敗を」

「期待していません」

「どちらですか?」

 二人の笑い声が、部屋に広がった。

 テレビはつけていない。

 いつもなら静かすぎると感じる部屋が、今日は会話だけで満たされていた。

「この部屋に、誰かを招くことは多いですか?」

 藤堂が尋ねる。

「友人が何度か。最近は、あまりありません」

「男性は?」

「健太と別れてからは、初めてです」

 藤堂の表情が変わった。

「私が?」

「はい」

「そういうことは、先に言わない方がいいです」

「どうして?」

「緊張するので」

「もう来ているんだから、同じでしょう」

「意味が違います」

 藤堂は青い皿へ視線を落とした。

「招いていただいて、ありがとうございます」

「来てくださって、ありがとうございます」

「この皿を見られてよかったです」

「見たかったんですよね」

「はい。でも」

 藤堂はテーブルの上に並ぶ二枚の皿を見た。

「一枚だけで置かれているところを想像していました」

「今日は二人なので」

「白い皿も、きれいですね」

「二枚一組で買ったものです」

「以前のもの?」

「健太と別れた後、この部屋へ引っ越したときに買いました」

「なぜ二枚を?」

「来客用のつもりでした。でも本当は、いつか誰かと食卓を囲むことを、完全には諦めたくなかったのかもしれません」

「今日、その一枚を使っている」

「はい」

「私が使ってもよかったのに」

「青い皿を見たいと言ったのは、亮介さんでしょう?」

 今度は、少し自然に呼べた。

 藤堂は顔を上げた。

「ありがとうございます、結衣さん」

 二人の名前が、部屋の中に静かに残った。

     *

 食事を終えると、藤堂は立ち上がった。

「洗います」

「お客様に洗わせられません」

「料理を作ってもらいました」

「玉ねぎを切ってくれました」

「それだけです」

「では、一緒に片づけましょう」

 結衣が皿を洗い、藤堂が布巾で拭くことになった。

 青い皿を手渡すと、藤堂は慎重に受け取った。

「割らないでくださいね」

「緊張させないでください」

「一枚しかありませんから」

「それなら、なおさら私が洗わない方がよかったのでは」

「大丈夫です。信じています」

 冗談のつもりで言った。

 けれど藤堂の表情が、わずかに変わった。

「信じるんですか」

「皿を割らないことくらいは」

「それだけ?」

「今は」

「今は、ですね」

 藤堂は青い皿を丁寧に拭き、水切りかごへ置いた。

 次の皿を渡そうとしたとき、結衣の指と藤堂の指が触れた。

 二人の動きが止まる。

 藤堂は手を引かなかった。

 結衣も引かなかった。

「結衣さん」

「はい」

「手を握ってもいいですか」

 聞かれたことに、胸が強く鳴った。

「はい」

 結衣は水を止め、手をタオルで拭いた。

 藤堂が右手を差し出す。

 結衣は、その上へ自分の手を重ねた。

 指がゆっくり重なる。

 藤堂の手は大きく、温かかった。

 強く握るのではなく、結衣が離そうと思えばいつでも離せるような触れ方だった。

「緊張していますか?」

 結衣が尋ねる。

「かなり」

「顔には出ませんね」

「出さないようにしています」

「私は出ていると思います」

「少し」

 二人は顔を見合わせた。

 藤堂が笑う。

 結衣も笑った。

 しばらく手を重ねた後、どちらからともなく離れた。

 食器はまだ一枚残っている。

 二人は何もなかったように片づけを続けたが、指先の温度は消えなかった。

     *

 午後七時を過ぎると、藤堂は帰る支度を始めた。

「まだ大丈夫ですよ」

 結衣が言う。

「遅くなる前に帰ります」

「気を遣っていますか?」

「はい」

「正直ですね」

「これ以上いると、帰りたくなくなるので」

 藤堂の言葉に、結衣は胸の奥をつかまれたように感じた。

「私も」

 小さく答える。

「もう少しいてほしいと思っています」

 藤堂はコートを持ったまま、結衣を見た。

「それでも、今日は帰ります」

「どうして?」

「結衣さんが、考える時間を持っていることを忘れたくないからです」

「藤堂さん」

「急がせたくありません」

 優しいだけではない。

 藤堂自身も、ここにいたい気持ちを抑えている。

「分かりました」

 結衣は頷いた。

「駅まで送ります」

「近いので大丈夫です」

「マンションの入口まで」

 二人で玄関へ向かう。

 藤堂が靴を履き、振り返った。

「今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ」

「料理、おいしかったです」

「次は、亮介さんが作ってください」

「味噌汁でいいですか?」

「それだけでは夕食になりません」

「ごはんも炊きます」

「おかずは?」

「練習します」

「期待しています」

「少しだけ加減してください」

「味を見てから決めます」

 藤堂が笑った。

 結衣は彼を一階まで見送った。

 エントランスの外は暗く、冷たい風が吹いている。

「来週、仕事で会いますね」

 結衣が言う。

「はい」

「次の日曜日も」

「約束しています」

「変わっていませんか?」

「変わっていません」

 藤堂ははっきり答えた。

「結衣さんは?」

「私も変わっていません」

「それなら、安心しました」

 少しの沈黙。

 藤堂が一歩近づいた。

 抱きしめられるのかと思い、結衣の身体がわずかに固くなる。

 けれど藤堂は手を伸ばさなかった。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 彼は軽く会釈をし、駅の方向へ歩いていった。

 結衣は姿が見えなくなるまで、エントランスに立っていた。

 部屋へ戻る。

 テーブルには、二人で飲んだ水のグラスが残っている。

 水切りかごには、青い皿と白い皿が並んでいた。

 二枚の皿。

 二人分の夕食。

 たったそれだけの光景が、胸に深く残った。

 誰かと暮らすことは、特別な日を重ねることだけではない。

 買い物かごへ二人分の食材を入れること。

 狭いキッチンで互いに場所を譲ること。

 味の感想を聞くこと。

 使った皿を一緒に洗うこと。

 そんな小さなことを、何度も繰り返すことなのかもしれない。

 健太と結婚していたら、同じような夜があっただろう。

 彼はもっと手早く料理をし、違う冗談を言ったかもしれない。

 その光景も想像できる。

 けれど今、結衣の指先に残っているのは、藤堂の手の温度だった。

 スマートフォンが震えた。

〈無事、駅に着きました〉

 藤堂からだった。

〈ご連絡ありがとうございます。今日は楽しかったです〉

〈私もです。青い皿も、料理も、よかったです〉

〈玉ねぎの切り方は、練習してください〉

〈次までに練習します〉

 結衣は笑いながら返信した。

〈次を楽しみにしています〉

 数秒後、返事が届く。

〈私もです〉

 画面を閉じる。

 結衣は水切りかごから二枚の皿を取り、布巾で残った水滴を拭いた。

 食器棚へ戻す。

 青い皿の上へ白い皿を重ねようとして、やめた。

 今日は二枚を隣り合わせに置いた。

 次に使う日がいつになるかは分からない。

 それでも、二人分の場所を空けておきたいと思った。



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