第十二章 今度こそ、という言葉
一月最後の月曜日、新しい受発注システムの試験運用に、予定外の変更が持ち上がった。
午前十時、営業本部長から部長へ電話が入った。
全面移行の時期を、六月から四月へ前倒しできないかという相談だった。
大手量販店との新しい契約が四月から始まる。その取引先は注文をすべて電子データで送るため、新システムを使えば事務処理を大幅に減らせるというのが理由だった。
営業側にとっては、都合のいい話だった。
しかし、営業事務と倉庫にとっては違う。
試験運用は、まだ一部の取引先で始めたばかりだった。警告表示の条件も決まっていない。取引先コードの整理は全体の三分の一ほどしか終わっておらず、倉庫側の在庫区分も調整が続いている。
四月から全面移行するなら、二月中にすべての設定を終え、三月には全取引先の注文を新旧両方のシステムで処理しなければならない。
春の新商品登録と重なる時期だった。
「できなくはないんじゃないか」
部長は電話を終えた後、難しい顔で言った。
「みんなに少し残業してもらえば、三月の一か月くらいは」
「一か月では済まないと思います」
結衣は答えた。
「何が一番問題?」
「取引先コードの確認です。現在の進み方だと、完了するのは三月末です。前倒しするなら、通常業務と春の新商品登録をしながら、二月中に残りをすべて整理する必要があります」
「応援を増やしたら?」
「コードを知らない人が確認すると、かえって時間がかかります。それに、倉庫側の在庫区分もまだ決まっていません」
「システム会社へ頼めないのか」
「取引先ごとの事情は、藤堂さんたちには分かりません」
小野寺も隣で頷いた。
「警告表示も、試している途中です。今朝も新商品の一部で、販売計画が正しく反映されていませんでした」
「でも、本部長は四月から使いたいと言ってるんだよな」
部長がため息をつく。
「使いたいことと、使えることは違います」
結衣ははっきり言った。
以前なら、言い方を少し弱めていたかもしれない。
現場としては難しいと思います。
できれば当初の予定どおりに。
そう言って、最終的に決まれば引き受けていた。
けれど今は、無理な理由を曖昧にする方が無責任だと分かっていた。
「今日の午後、営業企画部と打ち合わせをする」
部長が言った。
「佐伯さんも出てくれる?」
「分かりました。現在の進捗と、必要な作業時間をまとめます」
「藤堂さんにも連絡しておいて」
「はい」
結衣は自席へ戻り、すぐに資料を作り始めた。
取引先コードの総数。確認が終わった件数。一件あたりにかかる平均時間。新商品登録の予定件数。試験運用で見つかった問題。
感覚だけで難しいと訴えても、営業側には伝わらない。
何人が、どの作業に、何時間必要なのか。
数字で示さなければならなかった。
藤堂へ連絡すると、午後の会議へ出席すると返信があった。
〈技術側でも、四月移行による問題を整理します〉
短い文章の後に、一行が続いていた。
〈無理な予定を、現場の努力だけで成立させるべきではありません〉
結衣はその言葉を読み、胸の力が少し抜けた。
*
午後三時、営業本部の会議室に十人ほどが集まった。
営業本部長、営業企画部長、結衣の部長、倉庫管理課の担当者。ネクサスリンクからは藤堂と中島が出席している。
健太は営業企画部の担当者として、本部長の斜め後ろに座っていた。
会議の冒頭、営業本部長が前倒しの理由を説明した。
「四月から新しい量販店との取引が始まる。月に千件以上の注文が見込まれている。これを現行システムで処理するとなると、かなりの人手が必要になる」
千件という数字に、部長がわずかに反応した。
「新システムなら、自動で読み込めるんですよね?」
営業本部長が藤堂へ尋ねる。
「データ形式が確定していれば、読み込むことはできます」
「では、四月から使った方がいいでしょう」
「その取引先だけを先行して使うことは可能です」
藤堂は落ち着いて答えた。
「ただ、すべての取引先を四月から移行することには、賛成できません」
「なぜですか?」
「現在、試験運用で確認できているのは、全体の一割程度です。警告表示、在庫区分、取引先コードの変換に未確定の部分があります」
「二か月あれば、直せるのでは?」
「修正することは可能です。しかし、修正したものが正しく動くかを確認する時間が必要です」
「確認しながら使えばいいでしょう」
営業本部長は簡単に言った。
結衣は手元の資料を握った。
確認しながら使う。
その確認を誰が行うのかが、話から抜けている。
藤堂が答える前に、健太が手を挙げた。
「本部長、一つよろしいでしょうか」
「何だ」
「新しい量販店だけを四月から先行して動かす案を、検討した方がいいと思います」
「一部だけでは、システムを新しくする意味が薄いんじゃないか?」
「いいえ。新規取引先は過去のコードや古い運用がないので、移行に適しています。既存の取引先をすべて動かすより、問題も切り分けやすいです」
「他の取引先は、六月まで今のまま?」
「はい」
「それでは二つのシステムを同時に使うことになる」
「当初の計画でも、三月から一部で試験運用をしています。新規取引先を加えても、同じ形で進められます」
「現場が大変じゃないのか」
ようやく出てきた言葉に、結衣は顔を上げた。
健太が結衣を見る。
「その点は、佐伯さんから説明してもらった方がいいと思います」
突然名前を出されたことに驚いた。
けれど、健太は自分で代わりに説明しようとはしなかった。
現場の負担を知っている結衣が話すべきだと、席を渡した。
結衣は資料を開いた。
「現在、取引先コードの整理は全体の三十四パーセントまで進んでいます」
少し緊張していたが、声は落ち着いていた。
「一件あたりの確認時間は、平均で十二分です。残っている件数を二月中に処理する場合、通常業務とは別に、合計でおよそ四百八十時間が必要です」
「四百八十時間?」
営業本部長が聞き返す。
「はい。営業事務六名が毎日二時間ずつ残業しても、四十営業日かかります。二月だけでは終わりません」
「営業にも手伝わせたら?」
「取引先の情報を持っている営業担当者の協力は必要です。ただし、最終的にシステムへ登録し、受注データと照合する作業は営業事務が行います」
「外部へ頼むことは?」
「商品コードと容量、取引先独自の名称を理解していない人では、正しいか判断できません」
結衣は次の資料を示した。
「また、二月から三月にかけて、春の新商品を百六十二件登録します。こちらは納品日が決まっているため、後へずらすことができません」
「今までも残業で対応してきたんだろう?」
その言葉に、会議室が静かになった。
結衣はすぐに答えなかった。
今まで対応できたのだから、今回もできる。
そうして、現場の負担は積み重なってきた。
「対応してきました」
結衣は言った。
「ただし、それは通常業務を続けるために必要な残業でした。今回は、六月の予定を四月へ変更するために発生する作業です」
「会社の都合には変わりないでしょう」
「はい。だからこそ、無理のない方法を選ぶ必要があります」
営業本部長の表情が少し固くなる。
結衣は怖くなった。
自分の立場で、言いすぎたかもしれない。
それでも言葉を引っ込めなかった。
「前倒しすることで入力ミスが増えれば、取引先や倉庫に迷惑をかけます。問題が起きたとき、修正するのも現場です。残業時間だけでなく、その危険も含めて判断していただきたいです」
沈黙の後、藤堂が口を開いた。
「技術側からも、全面移行の前倒しは推奨できません」
彼は試験運用で見つかった問題を説明した。
過去の履歴が少ない場合の警告。
特売商品の販売計画。
検品中の在庫表示。
「現在の問題は、四月までに修正できます。しかし、正しいかを確認する期間がありません。運用開始後に重大な問題が見つかった場合、現行システムへ戻すことも難しくなります」
「新規取引先だけなら?」
「可能です。既存の運用がないため、新システムへ合わせて最初から設定できます」
営業企画部長が資料を見ながら頷いた。
「新規だけ四月から。既存は予定どおり六月。この案が現実的ではないでしょうか」
営業本部長は腕を組み、しばらく黙った。
「城島」
「はい」
「営業側の調整はできるか」
「新規取引先とのデータ確認を優先します。既存取引先については、六月移行に必要なコード整理を予定どおり進めます」
「二つのシステムを使う負担は?」
「佐伯さんたちの部署と倉庫へ確認しながら、対象を限定します。新規取引先の専任担当を営業企画側にも置きます」
「専任を?」
「営業事務へ任せるだけでは、結局負担が偏ります。開始後一か月は、私が窓口を担当します」
「お前が?」
「福岡で同じ形式のデータを扱っていました。問題があれば、営業側で先に確認できます」
健太は迷わず答えた。
営業本部長は藤堂と結衣を順に見た。
「その形なら、できるのか」
「現場で作業を確認する必要はありますが、全面移行よりは現実的です」
結衣は答えた。
「技術側も対応できます」
藤堂が続ける。
営業本部長はようやく頷いた。
「分かった。四月は新規取引先だけ。全面移行は六月のまま進めよう」
結衣は静かに息を吐いた。
「ただし、新規取引で問題が出ないようにしてくれ」
「分かりました」
健太と藤堂が、ほとんど同時に答えた。
*
会議が終わると、結衣は廊下へ出た。
緊張が解けた途端、足元が少し頼りなく感じられた。
「佐伯さん」
藤堂が追いついてきた。
「お疲れさまでした」
「藤堂さんも」
「よく言いましたね」
「言いすぎたかもしれません」
「必要なことでした」
「本部長の顔が怖かったです」
「私も怖いと思いました」
「顔には出ていませんでしたけど」
「出さないようにしました」
いつものやり取りに、結衣は笑った。
「数字をまとめていてよかったです」
「説得力がありました」
「健太が、話す機会を作ってくれました」
藤堂の表情がわずかに変わる。
「はい」
「自分で説明することもできたのに、私に話させてくれた」
「城島さんは、佐伯さんの仕事を理解しているんですね」
「以前よりも」
藤堂は短く頷いた。
「今日の提案も、現実的でした。営業側に専任を置くことで、事務の負担も減ります」
「褒めるのは、複雑ですか?」
「かなり」
正直な答えだった。
「でも、仕事では正しく評価します」
「ありがとうございます」
「私が礼を言われることではありません」
藤堂は周囲に人がいないことを確認した。
「昨日の夕食も、ありがとうございました」
結衣の胸が温かくなる。
「こちらこそ」
「青い皿は、無事ですか」
「割らずに返していただいたので」
「かなり緊張しました」
「また使ってください」
結衣が言うと、藤堂の目元がやわらいだ。
「次も、ありますか」
「あると言いましたよね」
「はい」
「変わっていません」
「私もです」
二人はそれ以上話さず、それぞれの部署へ戻った。
*
午後六時を過ぎた頃、健太から社内メッセージが届いた。
〈今日、この後少し時間ある?〉
結衣は残っている仕事を確認した。
急ぎのものはない。
〈七時までなら〉
〈ありがとう。一階で待ってる〉
仕事を終え、一階へ下りる。
健太はエントランス近くに立っていた。
「外、歩かない?」
「寒いよ」
「ずっと会議室にいたから、少し外へ出たい」
二人はコートを着て、会社を出た。
駅とは反対側に、小さな公園がある。遊具はなく、ベンチと木々だけが並んでいる場所だった。
冬の夜は冷えていた。
公園の入口にある自動販売機で、健太が温かい飲み物を二本買った。
「今日は私が払うよ」
「俺が誘ったから」
「藤堂さんと同じことを言うんだね」
口にしてから、言わなくてもよかったと思った。
健太は苦笑する。
「今のは、聞きたくなかったな」
「ごめん」
「でも、仕方ない」
健太は結衣へカフェオレを渡し、自分の缶コーヒーを開けた。
二人はベンチへ座った。
「今日、助けてくれてありがとう」
結衣が言う。
「助けたつもりはないよ」
「私に説明させてくれたでしょう?」
「現場のことは、結衣が話した方が伝わるから」
「昔なら、健太が全部説明していたと思う」
「そうだな」
健太は缶を両手で包んだ。
「昔の俺は、自分がうまく話せば解決すると思ってた。結衣が何を考えてるか聞くより、俺が代わりに言った方が早いって」
「頼りになると思ったこともあるよ」
「でも、結衣の言葉を取ってた」
「そこまでは思ってない」
「俺は今、そう思ってる」
健太は前を向いたまま続けた。
「福岡で、事務の人に同じことをした。会議で自分が全部説明して、後から怒られた。その仕事を毎日しているのは私なのに、どうしてあなたが分かったように話すんですかって」
「はっきり言う人だね」
「結衣より、ずっと怖かった」
「私は怖くない?」
「怒ると怖い。でも、昔はほとんど怒らなかった」
「我慢してただけかも」
「それに気づかなかった」
健太は結衣を見た。
「五年前も、俺は結衣の気持ちを聞いてるつもりだった。でも本当は、自分が用意した選択肢から選んでほしかったんだと思う」
「福岡へ来るか、別れるか」
「遠距離も話したけど、俺は続かないと思ってた。結婚して一緒に来るのが正しいと決めてた」
「私も、仕事を続けるなら別れるしかないと思ってた」
「今なら、違う話ができる」
「今なら?」
「東京へ戻ってきたから、もう結衣に仕事を辞めてほしいとは言わない」
健太の言葉に、結衣は引っかかりを覚えた。
「今度は条件が整ったから、うまくいくってこと?」
「条件だけじゃない」
「でも、健太がまた転勤になったら?」
「当分は本社にいる予定だよ」
「当分って、何年?」
「それは分からない」
「三年後かもしれない。五年後かもしれない。また福岡かもしれないし、別の場所かもしれない」
「そのときは」
健太は答えようとして、言葉を止めた。
「ほら、分からないでしょう?」
「うん」
「今、東京にいるから問題がなくなったわけじゃない。状況は、また変わるよ」
「そうだな」
健太は否定しなかった。
「俺は、また同じ間違いをしようとしてた」
「間違い?」
「東京に戻れば、結衣とやり直せる条件が揃うと思ってた」
「健太」
「でも結衣が言うとおり、会社員でいる限り、転勤の可能性はある。結衣の仕事だって変わるかもしれない。親のことも、年齢のこともある」
「うん」
「条件が全部揃う日なんて、ないのかもしれない」
公園の木々が、冷たい風に揺れている。
健太はしばらく缶コーヒーを見つめていた。
「だったら、そのたびに話すしかないな」
やがて言った。
「今度転勤の話が出たら、ついてきてほしいと決めてから話すんじゃなくて、どうしたいかを二人で考える」
「遠距離になるかもしれない」
「俺が会社を辞めるかもしれない」
「そこまで簡単に言わないで」
「簡単には決めない。でも、結衣だけが仕事を手放す前提にはしない」
「健太の仕事も大切だよ」
「うん。だから二人で考える」
健太は結衣へ身体を向けた。
「今度こそ、そういう関係を作りたい」
今度こそ。
五年前には、二人とも持てなかった言葉だった。
「結衣」
「うん」
「俺と、もう一度付き合ってほしい」
はっきりした言葉だった。
「昔に戻りたいんじゃない。五年前の続きを、そのまま始めたいわけでもない」
健太は結衣から目をそらさなかった。
「今の結衣と、最初から始めたい」
胸の奥が強く揺れた。
健太は、懐かしい思い出だけを求めているのではない。
五年前の別れを理解し、同じ失敗を繰り返さないために、自分が変わろうとしている。
「今すぐ答えなくていい」
健太が続けた。
「藤堂さんのことを考えているのも分かってる」
「健太」
「それでも、俺は言っておきたかった」
「うん」
「五年前は、最後まで言えなかったから」
言葉にならなかった約束。
東京へ戻ったとき、二人がまだ一人だったら。
あの夜、途中で消えた言葉が、今、別の形になって届いている。
「ありがとう」
結衣は答えた。
「嬉しい」
「それだけ?」
「今は、それ以上は言えない」
「分かってる」
「期待させるかもしれないけど、健太との未来を考えていないわけではない」
健太の目が、わずかにやわらいだ。
「でも、藤堂さんとの未来も考えてる」
「うん」
「そんな状態で、どちらかへ答えることはできない」
「分かってる」
健太は少しだけ笑った。
「俺も、待てるか分からなくなったら話す」
「うん」
「でも今は、待つよ」
「ありがとう」
結衣は両手でカフェオレを包んだ。
缶の温かさが、冷えた指へ伝わる。
公園の時計は、午後七時に近づいていた。
「そろそろ戻ろうか」
健太が立ち上がる。
二人は並んで会社の前まで戻った。
駅へ向かう道の分かれ目で、健太が足を止める。
「送ろうか?」
「一人で帰れるよ」
「知ってる。送らせてほしいと言っただけ」
結衣は少し迷った。
「今日は大丈夫」
「分かった」
健太は無理に食い下がらなかった。
「気をつけて」
「健太も」
「おやすみ」
「おやすみ」
二人は別々の方向へ歩き出した。
*
帰宅して、結衣は食器棚を開けた。
青い皿と白い皿が、隣り合わせに並んでいる。
藤堂と二人で使った皿。
健太と結婚していたら、違う皿を二人で選んでいたのだろう。
どちらの食卓も想像できた。
藤堂なら、料理を作る前に手順をすべて確認する。狭いキッチンで何度も場所を譲り合い、味噌汁だけでは足りないと言えば、真剣におかずを練習するだろう。
健太なら、冷蔵庫にあるものを見て、その場で料理を決める。結衣が仕事で遅くなれば、先に作って待っているかもしれない。福岡で覚えた煮物を、得意そうに食卓へ並べる姿も浮かんだ。
どちらも、あり得る未来だった。
どちらも、簡単に捨てられるものではない。
スマートフォンが震えた。
藤堂からだった。
〈今日の会議、お疲れさまでした〉
〈藤堂さんも、お疲れさまでした。助かりました〉
〈佐伯さんの説明があったから、予定を守れました〉
仕事のやり取りの後に、一行が続いた。
〈次の日曜日も、楽しみにしています〉
結衣は画面を見つめた。
健太から、もう一度付き合ってほしいと言われた。
藤堂には、まだそのことを伝えていない。
伝えれば、彼はまた怖くなるかもしれない。
それでも隠すことはできなかった。
〈今日、健太から、もう一度付き合ってほしいと言われました〉
送信ボタンを押すまでに、時間がかかった。
既読がつく。
藤堂からの返信は、しばらく来なかった。
五分。
十分。
結衣はスマートフォンを置き、夕食の準備を始めた。
十五分ほどして、通知音が鳴る。
〈そうですか〉
短い言葉だった。
続けて、もう一通届く。
〈正直に言うと、かなり怖いです〉
結衣の胸が痛んだ。
それでも、その後に届いた文章を見て、息を吐いた。
〈でも、勝手に離れません。次の日曜日も会いたいです〉
藤堂は約束を守ろうとしている。
怖くなったときに、先に離れない。
黙らずに話す。
〈私も会いたいです〉
結衣は返した。
〈私の気持ちも、まだ変わっていません〉
藤堂から届いたのは、短い返事だった。
〈信じます〉
信じることを避けてきた人が、何度もその言葉を選んでいる。
結衣はスマートフォンをテーブルへ置いた。
健太の「今度こそ」と、藤堂の「信じます」。
どちらも、過去の痛みを越えようとする言葉だった。
結衣は一人分の夕食を青い皿へ盛った。
向かい側の席は空いている。
そこに誰が座るのか。
まだ答えは出なかった。




