第十三章 比べられない二人
健太から復縁を申し込まれた夜、結衣は眠れなかった。
照明を消してベッドへ入っても、二人の言葉が繰り返し浮かんだ。
今の結衣と、最初から始めたい。
佐伯さんが好きです。
どちらもまっすぐな言葉だった。
健太は、五年前には最後まで言えなかった思いを伝えた。
藤堂は、信じることを避けてきた自分を越えて気持ちを伝えた。
そのどちらかへ答えることは、もう一方を傷つけることでもある。
結衣は何度も寝返りを打った。
時計が午前二時を過ぎても、眠気は戻らなかった。
諦めて起き上がり、キッチンで白湯を作る。
テーブルには、一人分の空間が広がっている。
そこへノートとペンを置いた。
仕事で迷ったとき、結衣は問題を分けて考える。
必要なこと。
急ぐこと。
誰に確認するべきこと。
項目を整理すれば、見えなかった答えが見えることがある。
同じようにすればいいのかもしれない。
結衣はノートの左側に健太、右側に藤堂と書いた。
健太。
四年間付き合った。
家族を知っている。
仕事のことを理解し直そうとしている。
明るく、行動力がある。
一緒にいて安心する。
料理ができるようになった。
藤堂。
今の自分を見てくれる。
仕事に誠実。
話を最後まで聞く。
不器用だが、嘘をつかない。
一緒にいると心が落ち着く。
料理は練習中。
最後に書いた言葉を見て、結衣はペンを止めた。
何をしているのだろう。
家電や保険を選ぶように、二人を並べている。
結婚を考えるなら、条件を見ることも必要なのかもしれない。
仕事、住む場所、家族、将来への考え方。
けれど今書いたものは、どちらを選ぶべきかではなく、どちらが自分にとって都合がいいかを比べているだけだった。
健太が料理をできることと、藤堂ができないこと。
家族を知っていることと、知らないこと。
それで人への気持ちが決まるはずはない。
結衣はノートを閉じた。
書いたページを破ろうとして、やめた。
破っても、比べようとした自分まで消えるわけではない。
ノートを引き出しへしまい、もう一度ベッドへ戻った。
眠りについたのは、空がわずかに明るくなり始めてからだった。
*
翌朝、目覚ましの音で目を覚ました。
睡眠不足で身体は重かったが、仕事へ行かなければならない。
結衣は顔を洗い、いつもより濃いめにコーヒーを淹れた。
会社へ着くと、受信箱に藤堂からメールが届いていた。
新規取引先の先行運用に関する作業予定が添付されている。
業務上の文章だけだった。
健太からの私的な連絡もなかった。
二人とも、結衣に考える時間を渡そうとしている。
その気遣いがありがたく、同時に苦しかった。
午前中、結衣は試験データの確認に集中した。
取引先コード、数量、納品日。画面に並ぶ情報を一件ずつ確認する。
昼前、入力したはずの商品が検索結果に表示されなかった。
結衣はもう一度、商品名を入力した。
それでも出てこない。
「佐伯さん、その商品、春の限定品じゃない?」
小野寺に言われ、検索条件を確認する。
通常商品だけを表示する設定になっていた。
「本当だ。ごめんなさい」
「珍しいね。佐伯さんが検索条件を見落とすなんて」
「少し寝不足で」
「何かあった?」
「考え事をしていました」
「仕事?」
「違います」
小野寺が椅子を近づけようとする。
結衣はそれを目で止めた。
「ここでは話しません」
「じゃあ、今度ごはんに行こう」
「小野寺さんは、結婚記念日の食事へ行ったばかりでしょう?」
「結婚していても、友達とごはんくらい行くよ」
「そうですね」
結衣は小さく笑った。
結婚すれば、すべての時間を夫婦で過ごすわけではない。
誰かと暮らしても、自分の生活や友人が消えるわけではない。
当然のことなのに、結衣は結婚を考えるたび、自分の生活を丸ごと明け渡すように想像していた。
健太について福岡へ行くか、仕事を続けるか。
五年前に、二つしかないと思った選択肢の名残なのかもしれない。
*
金曜日の夜、結衣は麻衣と智子に会った。
いつもの三人で集まるには急な誘いだったが、麻衣は夫に娘を任せ、智子は残業を切り上げて来てくれた。
駅近くの居酒屋へ入り、奥のテーブルへ座る。
「今日は結衣のおごり?」
智子がメニューを開きながら言った。
「どうして?」
「急に呼び出したから」
「相談料だと思えば安いかも」
「そんなに大きな相談なの?」
麻衣が心配そうに尋ねる。
結衣はおしぼりを畳みながら、一度息を整えた。
「健太が、東京へ戻ってきた」
二人の動きが同時に止まった。
「いつ?」
麻衣が身を乗り出す。
「今月。福岡支社から、本社へ異動になったの」
「会ったの?」
「会った」
「何て?」
「もう一度付き合ってほしいと言われた」
智子がゆっくりメニューを閉じた。
「それで、取引先の人は?」
「藤堂さん」
「名前で呼ぶようになったのね」
「藤堂さんからも、好きだと言われた」
「ちょっと待って」
麻衣が額へ手を当てた。
「半年会わない間に、どうしてそんなことになってるの?」
「私にも分からない」
「二人から告白されたってこと?」
「そう」
「結衣は?」
「二人とも、大切だと思ってる」
店員が注文を取りに来た。
三人は急いで飲み物と料理を選び、店員が離れるのを待った。
「健太とは復縁したいの?」
智子が尋ねる。
「分からない」
「藤堂さんとは付き合いたい?」
「それも、今すぐ答えられない」
「二人に、そう言ったの?」
「言った」
「怒られなかった?」
「二人とも、待つと言ってくれた」
智子は腕を組んだ。
「いい人が二人。最悪の状況ね」
「最悪?」
「どっちかがどうしようもない人なら簡単でしょう。健太が五年ぶりに現れて、自分勝手に復縁を迫ったとか。藤堂さんが、元彼と会うならもう知らないと言ったとか」
「どちらも言わなかった」
「だから最悪なの。選ぶ側が、全部引き受けないといけない」
麻衣が智子を見た。
「最悪って言い方はないでしょう」
「結衣にとって苦しいという意味。贅沢な悩みだとか言いたくないの」
智子の言葉に、結衣は少し救われた。
二人から好かれている。
それだけを聞けば、羨ましいと言われるかもしれない。
けれど結衣にとっては、どちらかを失うことへ向き合う時間だった。
飲み物が運ばれてくる。
三人で軽くグラスを合わせた。
「麻衣は、健太のことを知ってるでしょう?」
結衣が尋ねる。
「うん。何度か会ったから」
「どう思う?」
「いい人だったと思う。結衣のことを大切にしていたし」
「なら、健太がいいと思う?」
麻衣はすぐには答えなかった。
「今の健太を知らないから、分からない」
「私が話したことだけなら?」
「結衣、私たちに決めてもらおうとしてない?」
指摘され、結衣は黙った。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。誰かに答えを決めてほしくなるくらい、迷ってるんでしょう?」
「うん」
「でも、私が健太を勧めて、後でうまくいかなかったら、結衣は私を責めないとしても、自分で選ばなかったことを後悔すると思う」
「そうだね」
「藤堂さんのことは、会ったことがない。結衣から聞いた話しか知らない。だから、どちらがいいとは言えない」
智子も頷いた。
「条件だけなら、どちらも悪くないんでしょう?」
「うん」
「年齢は?」
「健太が三十六歳。藤堂さんが三十七歳」
「仕事は?」
「二人とも安定してる」
「結婚歴は?」
「ない」
「子どもは?」
「いない」
「家族との関係は?」
「どちらも悪くないと思う」
「ほら、条件では決められない」
智子は出された枝豆を一つ取った。
「じゃあ、一緒にいるときの結衣はどう違う?」
「どういう意味?」
「健太といるとき、藤堂さんといるとき、それぞれどんな自分になるの?」
結衣は考えた。
「健太とは、話す前に分かることが多い」
「長く付き合っていたから?」
「たぶん。言葉の癖も、考え方も知ってる。安心するし、昔の自分に戻ったような気がすることもある」
「藤堂さんは?」
「言わないと分からないことが多い。私も言葉にしようとする」
「どっちが楽?」
「楽なのは、健太かもしれない」
「では健太?」
「でも、藤堂さんと話していると、自分の気持ちが前より分かるようになる」
結衣はグラスを見つめた。
「藤堂さんは、何でも受け入れてくれる人ではない。怖くなると離れようとするし、私が怒らなければ、そのまま終わっていたかもしれない」
「健太とは喧嘩しなかったの?」
「した。でも最後の頃は、言いたいことを言えなかった」
「どうして?」
「言えば、どちらかが何かを諦めなければならないと思ってたから」
五年前の二人は、話し合うたびに出口が狭くなっていった。
健太の転勤日は決まっている。
結衣の仕事も待ってくれない。
時間に追われる中で、二人は相手の言葉を聞くより、自分が失いたくないものを守ろうとしていた。
「今の健太とは話せる?」
麻衣が尋ねる。
「話せる。健太も変わった。今度状況が変わったら、二人で考えたいと言ってくれた」
「結衣は、どうしたい?」
「それが分からないから困ってるの」
「結婚だけが目的なら、どちらでもできるのかもしれないね」
麻衣が静かに言った。
「でも結衣が欲しいのは、結婚する相手じゃなくて、一緒に生活を作れる相手なんでしょう?」
その言葉が、胸に残った。
「たぶん」
「だったら、今うまくいく条件より、うまくいかなくなったときにどうしたいかを考えた方がいいんじゃない?」
「うまくいかなくなったとき?」
「仕事が変わる。住む場所が変わる。病気になる。親のこともある。人の気持ちだって変わるかもしれない」
麻衣は少し笑った。
「夫と娘と暮らしてると、予定どおりにならないことばかりだから」
「それでも一緒にいるのは、どうして?」
「そのたびに話して、怒って、また決めるしかないと思ってるから。結婚した日に決めたことだけで、ずっと暮らせるわけじゃないよ」
「離婚した私からも言っていい?」
智子が続ける。
「私は、話し合ってるつもりだった。でも元夫は、決まったことを私に伝えていただけだった。家を買う場所も、仕事を辞める時期も、子どものことも」
「智子は、仕事を辞めなかったよね」
「うん。最後は、それで別れた。仕事だけが理由じゃないけど」
智子は枝豆の殻を皿へ置いた。
「だから私は、自分の意見を言ったときに、どんな顔をする人かが大事だと思う」
「二人とも、聞いてくれる」
「だったら、どちらが正解かは分からない」
「結局、そこに戻るんだね」
結衣が苦笑すると、智子も笑った。
「ごめん。でも、人に聞いて簡単に答えが出るなら、結衣もこんなに迷ってないでしょう?」
「うん」
「それから」
智子は少し真剣な顔になった。
「二人を比べ続けない方がいい」
結衣は、夜中に書いたノートを思い出した。
「どうして?」
「どちらが優しい、どちらが楽しい、どちらが安定してる。そうやって並べたら、相手の欠点を探すようになる。選ばなかった方が、本当はよかったんじゃないかって、後から何度でも思える」
「じゃあ、何を考えればいいの?」
「自分がどちらを好きか」
「両方だと思う」
「なら、もう少し時間をかけるしかない」
「二人を待たせても?」
「待てないなら、二人がそう言うでしょう。結衣が勝手に先回りして答えを出す必要はない」
藤堂が勝手に離れようとしたとき、結衣は怒った。
自分も同じことをしようとしていたのかもしれない。
待たせてはいけない。
早く決めなければいけない。
そう考え、二人が何を望んでいるかを聞く前に、結論を急いでいた。
「ありがとう」
結衣は言った。
「少しだけ、考え方が変わった気がする」
「相談料は?」
智子が尋ねる。
「今日は私が払う」
「本当に?」
「その代わり、最後まで聞いて」
「まだあるの?」
「藤堂さんが、私の部屋に来た」
麻衣と智子が同時に身を乗り出した。
「それを先に言ってよ」
「何があったの?」
「夕食を作って、手を握っただけ」
「だけ?」
「それ以上は何もない」
智子は大きく息を吐いた。
「三十五歳の恋愛とは思えないくらい慎重ね」
「いろいろあるの」
「でも、嬉しかったんでしょう?」
「うん」
結衣は正直に頷いた。
「二人分の食事を作るのが、思っていたより楽しかった」
「それは藤堂さんだから?」
麻衣が尋ねる。
「分からない。でも、もう一度一緒に作りたいと思った」
口にすると、その気持ちが胸の中ではっきりした。
もう一度、藤堂と食卓を囲みたい。
それは条件でも、過去でもない。
今の結衣が望んでいることだった。
*
日曜日、結衣は藤堂と都内の美術館へ行った。
建物と暮らしを題材にした展示で、古い住宅の図面や、時代ごとの食卓が紹介されていた。
二人は音声案内を借り、同じ順路をゆっくり歩いた。
展示室の中では、ほとんど話さなかった。
藤堂は一つの資料を長く見る。結衣は少し先へ進み、彼が追いつくのを待つ。
歩調は同じではない。
それでも、どちらかが無理に合わせるのではなく、離れたら待ち、また並んだ。
「この台所、結衣さんの部屋より狭いですね」
昭和初期の台所を再現した展示の前で、藤堂が小声で言った。
「二人で立つのは無理そうです」
「私が観葉植物より場所を取るので」
「それ、まだ覚えていたんですか?」
「最初に言われましたから」
「次に料理するときは、もう少し動きやすいものにしましょう」
「次があるんですね」
「玉ねぎを練習する約束でしょう?」
「練習しました」
「本当に?」
「昨日、味噌汁へ入れました」
「味噌汁だけ?」
「焼いた魚も買いました」
「作ったとは言いません」
結衣は笑いをこらえた。
周囲にいた人が振り返ったため、二人で声を抑える。
展示を見終え、館内のカフェへ入った。
窓際の席に座り、結衣は紅茶、藤堂はコーヒーを頼んだ。
「今日は、健太のことを聞かないんですね」
結衣が言うと、藤堂はメニューを閉じた。
「聞いてほしいですか?」
「聞いてほしいわけではありません。ただ、気にしていると思ったので」
「気にしています」
藤堂は否定しなかった。
「でも、会うたびに城島さんの話をしたくはありません」
「どうして?」
「私といるときまで、三人でいるように感じるからです」
結衣は返事に詰まった。
「すみません」
「藤堂さんが謝ることではありません」
「城島さんを無視したいわけではありません。ただ、今日は結衣さんと二人で過ごしたかった」
「はい」
「私を選んでもらうために、城島さんより優れたところを見せようとも思っていません」
「比べられたくないんですね」
「はい」
藤堂はまっすぐ答えた。
「仕事では、能力や提案を比べることがあります。でも、人として並べられるのは苦しい」
「私も、比べようとしていました」
結衣は告白した。
「二人のいいところをノートに書きました」
「どんなことを?」
「健太は料理ができる。藤堂さんは、料理を練習している」
「かなり不利ですね」
「そういう反応をするから、比べられないと思ったんです」
藤堂の口元が少し緩んだ。
「ほかには?」
「健太は私の家族を知っている。藤堂さんは知らない。健太とは四年間付き合った。藤堂さんとは出会って数か月」
「さらに不利です」
「でも、そういうことでは決められない」
「では、何で決めるんですか?」
「まだ分かりません」
結衣は正直に答えた。
「友人に、自分がどんな関係を作りたいか考えた方がいいと言われました」
「どんな関係を作りたいですか」
「状況が変わったときに、二人で話せる関係です」
「私たちが約束したことですね」
「はい。でも、藤堂さんは怖くなると、話す前に離れようとします」
「今のところ、一度だけです」
「一度あれば、二度目もあるかもしれません」
「努力します」
「私も、相手が何かを諦めなければならないと思うと、言葉を飲み込むところがあります」
「城島さんとの別れのときのように?」
「はい。だから、私にも直すところがあります」
「お互いに練習が必要ですね」
「玉ねぎと同じですか?」
「何度か切れば、少しは上手になると思います」
藤堂は冗談を言った後、表情を戻した。
「結衣さん」
「はい」
「私を選んでほしいとは思っています」
「分かっています」
「でも、私を選ぶ理由を、城島さんより優れているからにはしてほしくありません」
「はい」
「私と関係を作りたいと思ったときに、選んでください」
その言葉は、結衣の胸へ静かに届いた。
藤堂は、勝ちたいのではない。
結衣の未来に、自分と一緒にいる場所があるかを知りたいのだ。
「分かりました」
結衣は頷いた。
「私も、そうやって選びたいです」
飲み物が運ばれてきた。
藤堂がコーヒーを一口飲む。
「熱くないですか?」
「少し」
「冷めるまで待ってください」
「はい」
彼は素直にカップを置いた。
*
美術館を出ると、夕方の空に細い雲が伸びていた。
駅へ向かう途中、二人は自然に手をつないだ。
どちらから差し出したのか、結衣には分からなかった。
コートの袖が触れ、指先が重なり、そのまま離れなかった。
前回は、藤堂が握ってもいいかと尋ねた。
今日は言葉がなかった。
それでも結衣は嫌ではなかった。
むしろ、この手を離したくないと思った。
「結衣さん」
「はい」
「来週も、会いたいです」
藤堂が言った。
結衣は少し考えた。
「来週は、一人で過ごしたいです」
藤堂の手に、一瞬力が入った。
すぐに緩む。
「何かありましたか」
「何もありません。二人のことを、誰とも会わずに考えたいんです」
「そうですか」
「藤堂さんへの気持ちが変わったわけではありません」
「分かりました」
「健太にも、会わないと伝えます」
「私と同じように扱わなくても」
「同じようにするためではありません。私が一人になりたいからです」
藤堂は頷いた。
「では、連絡も控えた方がいいですか」
「仕事の連絡はお願いします」
「仕事以外は?」
「おはようと、おやすみくらいなら」
「それは送ってもいいんですか?」
「私も送ります」
藤堂の目元がやわらいだ。
「分かりました」
「一週間だけです」
「はい」
「次の週末は、また会ってください」
「もちろんです」
二人は手をつないだまま、駅まで歩いた。
答えはまだ出ていない。
けれど、答えを急がないことを、自分の意思で選べた。
それだけで、胸の中に少し空間が生まれた。
*
翌日の昼休み、結衣は健太へ連絡した。
〈今週末は、一人で過ごしたいと思っています〉
健太からの返事は、すぐに届いた。
〈分かった。何かあった?〉
〈何かがあったわけではありません。誰とも会わずに考える時間がほしいです〉
少し間があり、返信が届く。
〈了解。答えを急がせるつもりはないから、ゆっくり考えて〉
〈ありがとう〉
〈仕事では普通に話すけど、それは許して〉
結衣は少し笑った。
〈もちろんです〉
その夜、帰宅してから引き出しのノートを取り出した。
健太と藤堂の名前を並べたページを開く。
書かれている項目を、一つずつ読んだ。
どちらも間違っていない。
どちらも、本当の一面だった。
けれど、この中に答えはなかった。
結衣はページを破らなかった。
その下に、新しい言葉を書いた。
どちらが私を幸せにしてくれるかではなく、私は誰と、どんな関係を作りたいのか。
そこまで書いて、ペンを置いた。
まだ答えは続かなかった。
それでも、問いは少しだけ正しい形になった気がした。
結衣はノートを閉じ、食器棚を開けた。
青い皿と白い皿が並んでいる。
今日は青い皿だけを取り出した。
一人分の夕食を、自分のために整える。
一人で考える時間は、孤独とは違う。
誰かを選ぶ前に、自分の声を聞くための時間だった。




