第八章 言えなかった夜
一月十八日の土曜日、結衣は待ち合わせの三十分前に最寄り駅へ着いた。
昔と変わらない改札を出ると、駅前の景色は大きく変わっていた。
健太とよく立ち寄った書店は、携帯電話の販売店になっている。古いパン屋があった場所には高層マンションが建ち、その一階に明るいカフェが入っていた。
五年という時間は、人の目には見えない。
けれど町を歩けば、確かに存在したことが分かる。
同じ場所に見えても、同じではない。
結衣はコートのポケットに手を入れ、ゆっくり歩いた。
健太と待ち合わせた喫茶店は、駅から十分ほど離れた路地にある。
木製の看板には、以前と同じ店名が書かれていた。入口の横に置かれた鉢植えは種類が変わっていたが、少し曇ったガラス窓と真鍮の取っ手は記憶のままだった。
午後一時五十分。
結衣は店の前で足を止めた。
まだ入らなくてもいい。
あと十分、外で待とうと思った。
しかし、ガラス越しに健太の姿が見えた。
奥の窓際の席に座り、メニューを開いている。
以前、二人がよく選んだ席ではなかった。
そのことに安堵し、同時に少しだけ寂しさを覚えた。
結衣が扉を開けると、小さなベルが鳴った。
健太が顔を上げる。
「早かったね」
「健太も」
「落ち着かなくて、二十分前に着いた」
「私も同じ」
向かい側の椅子へ座る。
店内の壁紙は張り替えられていた。以前は深い緑色だったが、今は明るい灰色になっている。テーブルと椅子は同じものらしく、木の表面についた細かな傷には見覚えがあった。
店員が水とメニューを運んできた。
「結衣はミルクティー?」
健太が尋ねる。
「今日はコーヒーにする」
「コーヒーを飲むようになったんだ」
「前から飲めたよ」
「俺と来るときは、いつもミルクティーだった」
「そうだったかな」
「冬でもアイスミルクティー」
言われて思い出した。
この店のミルクティーには小さなクッキーが一枚ついていて、結衣はそれが好きだった。
健太はいつもブレンドコーヒーを頼み、クッキーだけ結衣に譲った。
「今は、温かいものがいい」
結衣は答えた。
「冷えると、なかなか温まらなくなったから」
「五年分、年を取ったな」
「健太もでしょう」
「俺は福岡で、毎日のように外を歩いてたから」
「それと年齢は関係ないと思う」
健太が笑った。
その笑い方を見て、結衣も口元を緩める。
店員が注文を取りに来た。
結衣はカフェオレ、健太はブレンドコーヒーを頼んだ。
「やっぱり同じなんだね」
「これが好きだから」
「変わってない」
「結衣は変わった?」
「少しは」
健太は結衣の顔を見た。
確かめるような視線だったが、不快ではなかった。
「髪、短くなった」
「別れた頃よりはね。でも、一度もっと短くしたよ」
「そうなんだ」
「健太は日焼けした」
「福岡の日差しは強いから」
「東京でも外回りしてたでしょう?」
「向こうでは車で移動することが多かったんだけど、駐車場から店舗まで歩くことも多くて」
「車の運転、上手になった?」
「以前から下手ではなかったと思うけど」
「縦列駐車が苦手だった」
「それは今も苦手」
「変わってないじゃない」
二人で笑った。
五年間の空白があるとは思えないほど、会話は自然だった。
互いの言葉を待つ長さも、冗談を言うときの間も、身体のどこかが覚えている。
それが嬉しく、同時に怖かった。
懐かしさは、今の気持ちに似た顔をして現れる。
この安らぎを、まだ好きだからだと決めてしまうのは簡単だった。
けれど、目の前にいる健太は、五年前の彼ではない。
結衣も、五年前の自分ではなかった。
飲み物が運ばれてくる。
カフェオレの表面には、細かな泡が浮かんでいた。小さな皿には、昔と同じ形のクッキーが一枚添えられている。
「あった」
結衣が言うと、健太も気づいた。
「それが目当てだったんだよな」
「ミルクティーについていたから」
「俺の分も食べてた」
「健太は甘いもの、あまり食べなかったから」
「今は食べるよ」
「そうなの?」
「福岡で取引先に教えてもらった和菓子屋があって。最初は断ってたんだけど、付き合いで食べてるうちに好きになった」
健太は自分の皿に置かれたクッキーを手に取った。
「これも、もらわずに食べる」
「どうぞ」
健太がクッキーを口へ運ぶ。
以前なら、何も言わなくても結衣の皿へ置いていた。
小さな違いだった。
けれど、その違いが五年間を示しているように思えた。
「福岡では、どんな生活だったの?」
結衣が尋ねると、健太はコーヒーカップを両手で包んだ。
「最初の一年は、ほとんど仕事だけだった。知り合いもいなかったし、方言も慣れなくて」
「仕事、大変だった?」
「本社で通用してたやり方が、向こうでは全然通じなかった」
「健太でも?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「どこでもすぐに馴染める人」
「馴染んだふりはできる。でも、本当に慣れるのには時間がかかった」
健太は窓の外へ視線を向けた。
「最初に任された取引先で、いきなり大きな返品を出した。東京で売れた企画を、そのまま向こうへ持っていったんだ。数字だけ見て、地域の売れ方を分かったつもりになってた」
「何の商品?」
「常温のパスタソース。東京では単身者向けの小さいサイズが売れてたけど、向こうでは家族向けの方が強かった。店の人には最初から言われてたんだけど、俺は全国のデータがあるから大丈夫だと思ってた」
「それで、売れなかった」
「棚に残った。店長に、商品を売りたいなら、まずここで暮らしてる人を見ろって言われた」
「厳しいね」
「正しかったよ」
健太は苦笑した。
「それから、休日に町を歩くようになった。スーパーを見て、商店街を見て、地元の人がどんなものを買ってるのか聞いた。市場へも行ったし、料理も少し覚えた」
「健太が料理?」
「驚きすぎだろ」
「だって、付き合っていた頃は卵焼きも作れなかった」
「卵焼きは今もきれいには作れない。でも、煮物ならできる」
「味が濃そう」
「福岡だからって、何でも濃いわけじゃない」
健太は笑った。
結衣の知らない五年間が、言葉の中に広がっていく。
失敗し、学び、知らない町に居場所を作った。
健太は東京へ戻ることだけを考えながら、時間を止めていたのではない。
結衣が一人で生活を築いたように、彼も自分の人生を進めていた。
「友達もできたんでしょう?」
「うん。会社の人だけじゃなくて、よく行く店の店主とか、取引先を辞めた人とも、今も連絡を取ってる」
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
迷いのない答えだった。
結衣は、少し安心した。
健太が五年間ずっと苦しんでいたと聞けば、自分に責任があるように感じただろう。
「寂しくなかった?」
「最初は、かなり」
健太は正直に言った。
「知らない町だから?」
「それもある。でも、一番は結衣がいなかったから」
結衣の指が、カップの持ち手に触れたまま止まった。
健太は視線をそらさなかった。
「毎日泣いてたとか、ずっと仕事が手につかなかったとか、そういう話じゃないよ。普通に働いてたし、楽しいこともあった。でも、何かあったときに最初に話したい相手がいないのは、きつかった」
「連絡しようと思った?」
「何度も」
「どうしてしなかったの?」
「連絡しないと決めたから」
「決めたのは、二人で?」
「言葉にはしなかった。でも、そういう別れ方だっただろ」
そうだった。
待つ約束をしない代わりに、相手の生活を揺らさない。
はっきり確認しなくても、二人は同じことを考えていた。
「一年目の誕生日には、文章まで打った」
健太が言った。
「送らなかったけど」
「何て書いたの?」
「誕生日おめでとう。元気か。それだけ」
「消したの?」
「うん」
「私は、健太の誕生日にケーキを買った」
「どうして?」
「食べたかったから」
結衣は笑った。
「でも、普段は選ばないチョコレートケーキにした。健太が好きだったから」
「それは、俺の誕生日を祝ったことにならない?」
「自分で食べたんだから、ならない」
「俺は結衣の誕生日に、一人で明太子を食べた」
「それは毎日食べてたんじゃないの?」
「そんなに食べないよ」
二人は笑った。
笑いながら、胸の奥が痛んだ。
連絡を取らなかった五年間にも、互いを思い出す日はあった。
それを知らないまま、それぞれ一人で過ごした。
「三年目に、東京へ戻る話が出たんだ」
健太が続けた。
「本社の営業企画に空きが出て、候補に入ってると言われた」
「それで?」
「そのときは、結衣に連絡しようと思った」
「戻れると決まる前に?」
「戻れたら、ちゃんと会いたいと思ってた。でも、結局、向こうの担当を続けることになった。大きな取引先との契約が決まりかけていて、俺も残ることを選んだ」
「自分で?」
「うん。戻りたい気持ちはあった。でも、途中で放り出したくなかった」
五年前の結衣と同じだった。
仕事を途中で投げ出したくない。
それが大切だと分かっていたから、結衣は健太を責められなかった。
「結衣も、あのとき、こういう気持ちだったのかなと思った」
「仕事を続けたかった気持ち?」
「うん。頭では分かってた。でも、東京にいた頃の俺は、結衣が仕事を選んだと思ってた」
「選んだよ」
「俺を捨てて、仕事を選んだっていう意味で」
健太はゆっくり言った。
「向こうへ行って、自分が戻る機会を断ったとき、初めて分かった。誰かより仕事が大事なんじゃない。今の自分が引き受けたものを、途中で手放したくなかったんだって」
「そうだった」
結衣は頷いた。
「健太より仕事を愛していたわけじゃない。健太と一緒にいたい気持ちも、仕事を続けたい気持ちも、どちらも本当だった」
「それを、俺は二つに分けた」
「私も分けたよ。仕事を取るなら健太を諦めるしかないと思った」
「両方を選ぶ方法を、もっと考えればよかった」
「遠距離の話はしたでしょう?」
「した。でも俺は、本気で続ける方法を考えてなかった。結衣がついて来てくれることを期待してた」
「私は、健太が東京へ残ってくれることを、どこかで期待してた」
二人とも、相手が自分の方へ来てくれることを待っていた。
愛しているなら選んでくれる。
言葉にはしなくても、そう願っていた。
けれど、愛することと、自分の人生をすべて手放すことは同じではない。
五年前の二人には、その違いを落ち着いて考える余裕がなかった。
「最後の夜のこと、覚えてる?」
健太が尋ねた。
「忘れてない」
「あの店、もうなくなったんだな」
「去年、前を通ったら、別の店になってた」
最後に会ったのは、二人が住んでいた場所の中間にある小さな居酒屋だった。
健太の送別会が続いていたため、二人だけで会えるのはその日が最後だった。
仕事を終えた結衣が店へ着くと、健太は先に待っていた。
普段と同じように料理を頼み、普段と同じ話をした。
福岡で住む部屋が決まったこと。
引っ越しの荷物がまとまらないこと。
結衣が担当していた仕事が、ようやく一段落したこと。
どちらも、別れについて話そうとしなかった。
話し始めれば、最後の夜になってしまう。
それでも閉店の時間は近づいた。
店を出た後、二人は駅へ向かわず、川沿いの道を歩いた。
六月の夜は湿っていて、風には雨の匂いが混じっていた。
「結衣」
健太が呼んだ。
「何?」
「もし、向こうへ行っても、俺たちが――」
「言わないで」
結衣は遮った。
健太の足が止まった。
「どうして?」
「約束できないから」
「まだ何も言ってない」
「分かるよ」
東京へ戻ったら。
そのときも二人が一人だったら。
まだ気持ちが残っていたら。
もう一度会おう。
健太が言おうとしていたことを、結衣は分かっていた。
「五年かかるかもしれない」
結衣は言った。
「もっとかかるかもしれない。そんな先まで、今の気持ちを約束できない」
「俺はできる」
「今はそう思ってるだけかもしれない」
「結衣は、変わるつもりなのか?」
「分からない」
健太の声に、初めて苛立ちが混じった。
「分からないって、便利な言葉だな」
「嘘をつくよりいいでしょう?」
「待ってるって言ってくれれば、それでいいんだよ」
「待てなかったときは? 誰かを好きになったときは?」
「そんなこと、今考える必要あるのか?」
「あるよ。健太だって、向こうで誰かを好きになるかもしれない」
「ならない」
「どうして言い切れるの?」
「結衣が好きだからだよ」
結衣も健太が好きだった。
その言葉を聞いて、ついていきたいと思った。
仕事を辞めてもいい。
知らない町でも、健太と一緒ならやり直せる。
一瞬、本気でそう思った。
けれど、その先にいる自分を想像できなかった。
仕事を手放した後、結衣は本当に健太へ笑っていられるのか。
慣れない土地でうまくいかないことがあったとき、彼のせいにせずにいられるのか。
愛情だけで、すべてを支えられるのか。
「私も好きだよ」
結衣は言った。
「でも、好きだからこそ、守れるか分からない約束はしたくない」
「じゃあ、終わりにするのか?」
「うん」
言った瞬間、胸の内側が崩れた。
健太は何も言わなかった。
結衣も泣かなかった。
泣けば、健太が抱きしめてくれると分かっていた。抱きしめられれば、離れられなくなる。
しばらくして、健太が小さく頷いた。
「分かった」
二人は駅まで歩いた。
改札前で、健太が両腕を広げた。
結衣は迷った末、その胸へ入った。
聞き慣れた心臓の音がした。
背中に回された腕が、いつもより強かった。
「元気で」
健太が言った。
「健太も」
「仕事、頑張れよ」
「うん」
「無理しすぎるなよ」
その言葉が最後だった。
健太は改札を通り、一度も振り返らなかった。
結衣は姿が見えなくなるまで、同じ場所に立っていた。
「俺があのとき言いたかったこと」
現在の健太の声に、結衣は喫茶店へ引き戻された。
「分かってたんだよな」
「分かってた」
「東京へ戻って、そのときも俺たちが一人なら、もう一度会おうって言いたかった」
「うん」
「約束しなくてよかったと思ってる?」
結衣はカフェオレを見つめた。
温かかった飲み物は、すでに冷め始めている。
「分からない」
五年前と同じ答えだった。
「約束していたら、支えになったかもしれない。でも、重荷にもなったと思う」
「俺は、約束してほしかった」
「そうだね」
「でも今は、結衣が断った理由も分かる」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
健太は穏やかに言った。
「あのときの結衣は、間違ってなかった。俺も間違ってなかったと思う」
「両方正しいのに、別れたんだね」
「そういうこともあるんだろうな」
二人は黙った。
どちらかが悪ければ、もっと簡単だった。
責めて、嫌いになり、忘れることができた。
けれど二人は、互いの選択を理解できるようになってしまった。
「結衣は、この五年、どうだった?」
健太が尋ねた。
「仕事ばかり?」
「仕事もしてた。でも、それだけじゃないよ」
引っ越したこと。
一人の部屋を整えたこと。
料理を覚えたこと。
友人と旅行したこと。
休日に一人で映画を観るようになったこと。
体調を崩した夜、自分で病院を探したこと。
仕事で後輩から頼られるようになったこと。
結衣は少しずつ話した。
「寂しくなかった?」
「寂しい日はあった。でも、一人の生活が不幸だったわけじゃない」
「結衣らしいな」
「どういう意味?」
「きちんと自分の生活を作るところ」
「健太も作ったでしょう?」
「俺は最初、結衣がいなくなった穴を仕事で埋めてただけだった」
「途中からは?」
「福岡で暮らすこと自体を、楽しめるようになった。東京へ戻るための仮の生活じゃなくなった」
健太はコーヒーを一口飲んだ。
「だから、戻ってきたのは結衣のためだけじゃない」
「うん」
「仕事の話があって、自分で選んだ。家族のこともある。親も年を取ったし」
「お母さん、元気?」
「元気。ただ、膝を悪くしてる」
「そうなんだ」
「結衣のこと、今でも覚えてるよ」
「それは、当然でしょう」
「戻るって言ったら、結衣には会ったのかって聞かれた」
「何て答えたの?」
「まだ会ってないって」
「今度は?」
「会ったと言うと思う」
結衣は少し困った。
「余計な期待をさせないでね」
「分かってる」
健太はすぐに答えた。
「俺たちは、まだ何も決まってない」
「まだ、という言い方をするんだね」
「気になる?」
「少し」
「じゃあ、言い直す。結衣は今、俺とは別の人生を生きてる」
健太はまっすぐ結衣を見た。
「気になっている人もいる」
「うん」
「藤堂さんだよな」
結衣は驚いた。
「どうして分かったの?」
「会議の後、課長から聞いた。システム会社の担当者と佐伯さんが、現場の調整をしてるって」
「それだけで?」
「会議中、結衣が笑ったとき、藤堂さんが見てた」
「見てた?」
「うん」
「それで、どう思ったの?」
「嫌だったよ」
健太は正直に言った。
「でも、結衣が悪いわけじゃない。五年間、何も言わなかったのは俺だから」
「藤堂さんとは、まだ付き合ってない」
「聞いていいのか迷った」
「今は、仕事以外でも会うようになったところ」
「好き?」
結衣はすぐに答えられなかった。
藤堂といる時間は心地よい。
次に会えることが嬉しい。
彼が笑うと、自分まで嬉しくなる。
誰にも話さなかった過去を打ち明けてくれたことを、大切に思う。
「惹かれていると思う」
結衣は答えた。
健太の目に痛みが浮かんだ。
それでも彼は視線をそらさなかった。
「明日も、会う約束をしてる」
「そうか」
「隠したまま健太と会うのは違うと思ったから」
「ありがとう」
健太は一度深く息を吐いた。
「それでも、俺の気持ちは伝えておきたい」
結衣の心臓が強く打った。
「今日、ここへ来たのは、懐かしい話をしたかっただけじゃない」
健太は続けた。
「五年前の別れをなかったことにしたいわけでもない。結衣が選んだ仕事や、この五年間を否定するつもりもない」
「うん」
「俺も福岡で五年暮らした。楽しいこともあったし、東京へ戻らない人生を考えたこともある」
健太の声は落ち着いていた。
「でも、誰かとこの先を考えようとすると、結衣のことが浮かんだ」
「誰かと付き合ったの?」
「付き合ってない。紹介されたことはあるし、食事に行った人もいる。でも、その先へ進めなかった」
「私を待っていたから?」
「待ってると決めてたわけじゃない。約束してないから」
健太は少しだけ苦く笑った。
「ただ、結衣とのことが自分の中で終わってなかった。新しい人と始める前に、そこを確かめる必要があると思ってた」
「それで、東京へ戻ってきた」
「うん」
「もし私が結婚していたら?」
「何も言わなかった。仕事だけして、今度こそ終わらせたと思う」
「藤堂さんと付き合っていたら?」
健太は少し黙った。
「それでも、五年前のことを一度謝りたいとは思った。でも、やり直したいとは言わなかった」
「今は、付き合っていないから?」
「それだけじゃない。今日、結衣と話して、やっぱり思った」
健太はテーブルの上で両手を組んだ。
「俺は、もう一度、結衣と向き合いたい」
静かな店内で、その言葉だけがはっきり聞こえた。
「今すぐ戻ってきてほしいとは言わない。五年前の続きが、そのままできるとも思ってない」
「五年たってるからね」
「うん。結衣の知らない俺がいるし、俺の知らない結衣もいる」
健太は一度言葉を止めた。
「だから、もう一度知りたい。今の結衣が何を大切にして、どんな生活をしているのか。俺も、今の自分を見てほしい」
結衣は何も言えなかった。
復縁を迫られたわけではない。
答えを求められてもいない。
それでも、健太が向ける気持ちの重さは十分に伝わった。
「迷惑?」
「迷惑ではない」
「困ってる?」
「困ってる」
「正直だな」
「健太が正直に言ったから」
「そうだな」
健太は少し寂しそうに笑った。
「答えは、急がなくていい」
「まだ何も始めるとは言ってないよ」
「分かってる。俺が勝手に言ってるだけだ」
「藤堂さんのこともある」
「それも分かってる」
「仕事では、二人とも同じプロジェクトに関わることになる」
「仕事に持ち込むつもりはない。藤堂さんにも失礼な態度は取らない」
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない。当たり前だから」
健太はそう言って、冷めたコーヒーを飲んだ。
昔の健太なら、もう少し感情を表に出していたかもしれない。
なぜ他の人に惹かれたのか。
自分では駄目なのか。
そう尋ねていたかもしれない。
けれど今の彼は、結衣の生活に自分の希望だけを押し込もうとしなかった。
それが五年間の変化なのだろう。
結衣には、その成長が嬉しくもあり、苦しくもあった。
*
店を出たのは、午後四時を過ぎた頃だった。
冬の日は傾き、路地には長い影が伸びていた。
「駅まで歩こうか」
健太が言う。
「うん」
二人は並んで歩いた。
以前は、健太が少し前を歩くことが多かった。歩幅が違うため、結衣が追いつくように歩いていた。
今は、健太が結衣に速度を合わせている。
「歩くの、遅くなった?」
結衣が尋ねる。
「結衣が前より速くなったんじゃない?」
「毎日、駅まで歩いてるから」
「俺も歩いてたよ」
「じゃあ、合わせてる?」
「少し」
健太は認めた。
「向こうで、取引先の人に言われたんだ。自分の速さで歩いて、ついてきてもらうのが癖になってるって」
「仕事の話?」
「仕事も、それ以外も」
「直したんだね」
「直してる途中」
健太は前を向いたまま答えた。
駅前の交差点で、信号が赤になった。
二人で立ち止まる。
「明日、藤堂さんと会うんだよな」
健太が言った。
「うん」
「行かないでほしいとは言わない」
「言われても、行くよ」
「分かってる」
「でも、健太と今日話したことは、ちゃんと考える」
「ありがとう」
「期待させるために言ってるんじゃないよ」
「それも分かってる」
信号が青に変わった。
横断歩道を渡り、改札前で立ち止まる。
五年前にも、別の駅で同じように向かい合った。
あのときは、この先に別れしかなかった。
今は、どこへ向かうのか分からない。
「今日はありがとう」
健太が言った。
「私も、話せてよかった」
「また会社で」
「うん」
「今度は名字で呼ぶから」
「仕事中はね」
健太が少し笑った。
「じゃあ、佐伯さん。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした、城島さん」
二人は軽く頭を下げた。
健太が改札を通り、人の流れへ入っていく。
結衣は、その背中を見送った。
五年前、健太は一度も振り返らなかった。
今日は改札を抜けた後、一度だけ振り返った。
結衣も、まだそこに立っていた。
健太は何も言わず、小さく手を上げた。
結衣も同じように返した。
それから彼は前を向き、ホームへ向かっていった。
*
帰宅すると、部屋は冷えていた。
暖房をつけ、コートを脱ぐ。
朝に干した洗濯物を取り込み、いつものように畳んだ。手を動かしている間も、健太の言葉が頭から離れなかった。
もう一度、結衣と向き合いたい。
五年前、結衣が聞くことを拒んだ言葉の続きを、ようやく聞いた気がした。
あのとき約束しなかった二人が、約束のないまま再び同じ町にいる。
それは運命などではない。
健太が仕事を積み重ね、東京へ戻る選択をした結果だった。
結衣もここで働き続け、自分の生活を守ってきた。
二人がそれぞれ歩いた道が、偶然もう一度交わった。
だからといって、同じ方向へ進まなければならないわけではない。
分かっている。
それでも、心は簡単には整理できなかった。
食器棚を開け、青い皿を取り出す。
夕食は簡単なパスタにした。鍋に湯を沸かし、冷蔵庫に残っていたきのことベーコンを炒める。
料理をしていると、スマートフォンが震えた。
藤堂からだった。
〈明日は十一時に、神保町駅の改札前でお待ちしています〉
結衣は火を弱め、画面を見た。
健太と会ったことを、藤堂は知っている。
どんな話をしたのか、明日尋ねるだろうか。
尋ねなくても、結衣は話した方がいいのだろうか。
答えは出なかった。
〈分かりました。私も十一時に伺います〉
送信すると、すぐに返信が届いた。
〈天気予報は晴れです。降水確率は十パーセントです〉
結衣は思わず笑った。
〈それでも折り畳み傘を持ってきますか〉
〈念のため〉
〈私も持っていきます〉
〈二人とも持っていれば安心です〉
短い言葉のやり取りに、胸の緊張が少しほどけた。
藤堂は、健太とは違う。
声も、笑い方も、考え方も。
隣にいるときの沈黙さえ違う。
どちらが優れているということではない。
健太には、結衣の過去を知っている安心がある。
藤堂には、今の結衣を知ろうとしてくれる温かさがある。
結衣は茹で上がったパスタを皿へ盛った。
一人分の夕食。
けれど今夜は、一人でいることがいつもより重く感じられた。
誰にも答えを求められていないはずなのに、二人の言葉が胸の中で並んでいる。
もう一度、結衣と向き合いたい。
日曜日に会いたい。
どちらも、結衣を自分の方へ無理に引こうとはしていない。
だからこそ、結衣は自分の意思で進む方向を選ばなければならなかった。
スマートフォンに、藤堂からもう一通届いた。
〈明日、お会いできるのを楽しみにしています〉
結衣はしばらく画面を見つめた後、ゆっくり文字を打った。
〈私も楽しみにしています〉
その気持ちは、今日健太と会う前から変わっていなかった。
今も変わっていない。
結衣はスマートフォンを置き、温かいパスタを口へ運んだ。
明日、藤堂に会う。
今夜は、その約束だけを信じることにした。




