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言葉にならなかった約束の先で  作者: 久遠 睦


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8/20

第八章 言えなかった夜

一月十八日の土曜日、結衣は待ち合わせの三十分前に最寄り駅へ着いた。

 昔と変わらない改札を出ると、駅前の景色は大きく変わっていた。

 健太とよく立ち寄った書店は、携帯電話の販売店になっている。古いパン屋があった場所には高層マンションが建ち、その一階に明るいカフェが入っていた。

 五年という時間は、人の目には見えない。

 けれど町を歩けば、確かに存在したことが分かる。

 同じ場所に見えても、同じではない。

 結衣はコートのポケットに手を入れ、ゆっくり歩いた。

 健太と待ち合わせた喫茶店は、駅から十分ほど離れた路地にある。

 木製の看板には、以前と同じ店名が書かれていた。入口の横に置かれた鉢植えは種類が変わっていたが、少し曇ったガラス窓と真鍮の取っ手は記憶のままだった。

 午後一時五十分。

 結衣は店の前で足を止めた。

 まだ入らなくてもいい。

 あと十分、外で待とうと思った。

 しかし、ガラス越しに健太の姿が見えた。

 奥の窓際の席に座り、メニューを開いている。

 以前、二人がよく選んだ席ではなかった。

 そのことに安堵し、同時に少しだけ寂しさを覚えた。

 結衣が扉を開けると、小さなベルが鳴った。

 健太が顔を上げる。

「早かったね」

「健太も」

「落ち着かなくて、二十分前に着いた」

「私も同じ」

 向かい側の椅子へ座る。

 店内の壁紙は張り替えられていた。以前は深い緑色だったが、今は明るい灰色になっている。テーブルと椅子は同じものらしく、木の表面についた細かな傷には見覚えがあった。

 店員が水とメニューを運んできた。

「結衣はミルクティー?」

 健太が尋ねる。

「今日はコーヒーにする」

「コーヒーを飲むようになったんだ」

「前から飲めたよ」

「俺と来るときは、いつもミルクティーだった」

「そうだったかな」

「冬でもアイスミルクティー」

 言われて思い出した。

 この店のミルクティーには小さなクッキーが一枚ついていて、結衣はそれが好きだった。

 健太はいつもブレンドコーヒーを頼み、クッキーだけ結衣に譲った。

「今は、温かいものがいい」

 結衣は答えた。

「冷えると、なかなか温まらなくなったから」

「五年分、年を取ったな」

「健太もでしょう」

「俺は福岡で、毎日のように外を歩いてたから」

「それと年齢は関係ないと思う」

 健太が笑った。

 その笑い方を見て、結衣も口元を緩める。

 店員が注文を取りに来た。

 結衣はカフェオレ、健太はブレンドコーヒーを頼んだ。

「やっぱり同じなんだね」

「これが好きだから」

「変わってない」

「結衣は変わった?」

「少しは」

 健太は結衣の顔を見た。

 確かめるような視線だったが、不快ではなかった。

「髪、短くなった」

「別れた頃よりはね。でも、一度もっと短くしたよ」

「そうなんだ」

「健太は日焼けした」

「福岡の日差しは強いから」

「東京でも外回りしてたでしょう?」

「向こうでは車で移動することが多かったんだけど、駐車場から店舗まで歩くことも多くて」

「車の運転、上手になった?」

「以前から下手ではなかったと思うけど」

「縦列駐車が苦手だった」

「それは今も苦手」

「変わってないじゃない」

 二人で笑った。

 五年間の空白があるとは思えないほど、会話は自然だった。

 互いの言葉を待つ長さも、冗談を言うときの間も、身体のどこかが覚えている。

 それが嬉しく、同時に怖かった。

 懐かしさは、今の気持ちに似た顔をして現れる。

 この安らぎを、まだ好きだからだと決めてしまうのは簡単だった。

 けれど、目の前にいる健太は、五年前の彼ではない。

 結衣も、五年前の自分ではなかった。

 飲み物が運ばれてくる。

 カフェオレの表面には、細かな泡が浮かんでいた。小さな皿には、昔と同じ形のクッキーが一枚添えられている。

「あった」

 結衣が言うと、健太も気づいた。

「それが目当てだったんだよな」

「ミルクティーについていたから」

「俺の分も食べてた」

「健太は甘いもの、あまり食べなかったから」

「今は食べるよ」

「そうなの?」

「福岡で取引先に教えてもらった和菓子屋があって。最初は断ってたんだけど、付き合いで食べてるうちに好きになった」

 健太は自分の皿に置かれたクッキーを手に取った。

「これも、もらわずに食べる」

「どうぞ」

 健太がクッキーを口へ運ぶ。

 以前なら、何も言わなくても結衣の皿へ置いていた。

 小さな違いだった。

 けれど、その違いが五年間を示しているように思えた。

「福岡では、どんな生活だったの?」

 結衣が尋ねると、健太はコーヒーカップを両手で包んだ。

「最初の一年は、ほとんど仕事だけだった。知り合いもいなかったし、方言も慣れなくて」

「仕事、大変だった?」

「本社で通用してたやり方が、向こうでは全然通じなかった」

「健太でも?」

「俺を何だと思ってるんだよ」

「どこでもすぐに馴染める人」

「馴染んだふりはできる。でも、本当に慣れるのには時間がかかった」

 健太は窓の外へ視線を向けた。

「最初に任された取引先で、いきなり大きな返品を出した。東京で売れた企画を、そのまま向こうへ持っていったんだ。数字だけ見て、地域の売れ方を分かったつもりになってた」

「何の商品?」

「常温のパスタソース。東京では単身者向けの小さいサイズが売れてたけど、向こうでは家族向けの方が強かった。店の人には最初から言われてたんだけど、俺は全国のデータがあるから大丈夫だと思ってた」

「それで、売れなかった」

「棚に残った。店長に、商品を売りたいなら、まずここで暮らしてる人を見ろって言われた」

「厳しいね」

「正しかったよ」

 健太は苦笑した。

「それから、休日に町を歩くようになった。スーパーを見て、商店街を見て、地元の人がどんなものを買ってるのか聞いた。市場へも行ったし、料理も少し覚えた」

「健太が料理?」

「驚きすぎだろ」

「だって、付き合っていた頃は卵焼きも作れなかった」

「卵焼きは今もきれいには作れない。でも、煮物ならできる」

「味が濃そう」

「福岡だからって、何でも濃いわけじゃない」

 健太は笑った。

 結衣の知らない五年間が、言葉の中に広がっていく。

 失敗し、学び、知らない町に居場所を作った。

 健太は東京へ戻ることだけを考えながら、時間を止めていたのではない。

 結衣が一人で生活を築いたように、彼も自分の人生を進めていた。

「友達もできたんでしょう?」

「うん。会社の人だけじゃなくて、よく行く店の店主とか、取引先を辞めた人とも、今も連絡を取ってる」

「楽しかった?」

「楽しかったよ」

 迷いのない答えだった。

 結衣は、少し安心した。

 健太が五年間ずっと苦しんでいたと聞けば、自分に責任があるように感じただろう。

「寂しくなかった?」

「最初は、かなり」

 健太は正直に言った。

「知らない町だから?」

「それもある。でも、一番は結衣がいなかったから」

 結衣の指が、カップの持ち手に触れたまま止まった。

 健太は視線をそらさなかった。

「毎日泣いてたとか、ずっと仕事が手につかなかったとか、そういう話じゃないよ。普通に働いてたし、楽しいこともあった。でも、何かあったときに最初に話したい相手がいないのは、きつかった」

「連絡しようと思った?」

「何度も」

「どうしてしなかったの?」

「連絡しないと決めたから」

「決めたのは、二人で?」

「言葉にはしなかった。でも、そういう別れ方だっただろ」

 そうだった。

 待つ約束をしない代わりに、相手の生活を揺らさない。

 はっきり確認しなくても、二人は同じことを考えていた。

「一年目の誕生日には、文章まで打った」

 健太が言った。

「送らなかったけど」

「何て書いたの?」

「誕生日おめでとう。元気か。それだけ」

「消したの?」

「うん」

「私は、健太の誕生日にケーキを買った」

「どうして?」

「食べたかったから」

 結衣は笑った。

「でも、普段は選ばないチョコレートケーキにした。健太が好きだったから」

「それは、俺の誕生日を祝ったことにならない?」

「自分で食べたんだから、ならない」

「俺は結衣の誕生日に、一人で明太子を食べた」

「それは毎日食べてたんじゃないの?」

「そんなに食べないよ」

 二人は笑った。

 笑いながら、胸の奥が痛んだ。

 連絡を取らなかった五年間にも、互いを思い出す日はあった。

 それを知らないまま、それぞれ一人で過ごした。

「三年目に、東京へ戻る話が出たんだ」

 健太が続けた。

「本社の営業企画に空きが出て、候補に入ってると言われた」

「それで?」

「そのときは、結衣に連絡しようと思った」

「戻れると決まる前に?」

「戻れたら、ちゃんと会いたいと思ってた。でも、結局、向こうの担当を続けることになった。大きな取引先との契約が決まりかけていて、俺も残ることを選んだ」

「自分で?」

「うん。戻りたい気持ちはあった。でも、途中で放り出したくなかった」

 五年前の結衣と同じだった。

 仕事を途中で投げ出したくない。

 それが大切だと分かっていたから、結衣は健太を責められなかった。

「結衣も、あのとき、こういう気持ちだったのかなと思った」

「仕事を続けたかった気持ち?」

「うん。頭では分かってた。でも、東京にいた頃の俺は、結衣が仕事を選んだと思ってた」

「選んだよ」

「俺を捨てて、仕事を選んだっていう意味で」

 健太はゆっくり言った。

「向こうへ行って、自分が戻る機会を断ったとき、初めて分かった。誰かより仕事が大事なんじゃない。今の自分が引き受けたものを、途中で手放したくなかったんだって」

「そうだった」

 結衣は頷いた。

「健太より仕事を愛していたわけじゃない。健太と一緒にいたい気持ちも、仕事を続けたい気持ちも、どちらも本当だった」

「それを、俺は二つに分けた」

「私も分けたよ。仕事を取るなら健太を諦めるしかないと思った」

「両方を選ぶ方法を、もっと考えればよかった」

「遠距離の話はしたでしょう?」

「した。でも俺は、本気で続ける方法を考えてなかった。結衣がついて来てくれることを期待してた」

「私は、健太が東京へ残ってくれることを、どこかで期待してた」

 二人とも、相手が自分の方へ来てくれることを待っていた。

 愛しているなら選んでくれる。

 言葉にはしなくても、そう願っていた。

 けれど、愛することと、自分の人生をすべて手放すことは同じではない。

 五年前の二人には、その違いを落ち着いて考える余裕がなかった。

「最後の夜のこと、覚えてる?」

 健太が尋ねた。

「忘れてない」

「あの店、もうなくなったんだな」

「去年、前を通ったら、別の店になってた」

 最後に会ったのは、二人が住んでいた場所の中間にある小さな居酒屋だった。

 健太の送別会が続いていたため、二人だけで会えるのはその日が最後だった。

 仕事を終えた結衣が店へ着くと、健太は先に待っていた。

 普段と同じように料理を頼み、普段と同じ話をした。

 福岡で住む部屋が決まったこと。

 引っ越しの荷物がまとまらないこと。

 結衣が担当していた仕事が、ようやく一段落したこと。

 どちらも、別れについて話そうとしなかった。

 話し始めれば、最後の夜になってしまう。

 それでも閉店の時間は近づいた。

 店を出た後、二人は駅へ向かわず、川沿いの道を歩いた。

 六月の夜は湿っていて、風には雨の匂いが混じっていた。

「結衣」

 健太が呼んだ。

「何?」

「もし、向こうへ行っても、俺たちが――」

「言わないで」

 結衣は遮った。

 健太の足が止まった。

「どうして?」

「約束できないから」

「まだ何も言ってない」

「分かるよ」

 東京へ戻ったら。

 そのときも二人が一人だったら。

 まだ気持ちが残っていたら。

 もう一度会おう。

 健太が言おうとしていたことを、結衣は分かっていた。

「五年かかるかもしれない」

 結衣は言った。

「もっとかかるかもしれない。そんな先まで、今の気持ちを約束できない」

「俺はできる」

「今はそう思ってるだけかもしれない」

「結衣は、変わるつもりなのか?」

「分からない」

 健太の声に、初めて苛立ちが混じった。

「分からないって、便利な言葉だな」

「嘘をつくよりいいでしょう?」

「待ってるって言ってくれれば、それでいいんだよ」

「待てなかったときは? 誰かを好きになったときは?」

「そんなこと、今考える必要あるのか?」

「あるよ。健太だって、向こうで誰かを好きになるかもしれない」

「ならない」

「どうして言い切れるの?」

「結衣が好きだからだよ」

 結衣も健太が好きだった。

 その言葉を聞いて、ついていきたいと思った。

 仕事を辞めてもいい。

 知らない町でも、健太と一緒ならやり直せる。

 一瞬、本気でそう思った。

 けれど、その先にいる自分を想像できなかった。

 仕事を手放した後、結衣は本当に健太へ笑っていられるのか。

 慣れない土地でうまくいかないことがあったとき、彼のせいにせずにいられるのか。

 愛情だけで、すべてを支えられるのか。

「私も好きだよ」

 結衣は言った。

「でも、好きだからこそ、守れるか分からない約束はしたくない」

「じゃあ、終わりにするのか?」

「うん」

 言った瞬間、胸の内側が崩れた。

 健太は何も言わなかった。

 結衣も泣かなかった。

 泣けば、健太が抱きしめてくれると分かっていた。抱きしめられれば、離れられなくなる。

 しばらくして、健太が小さく頷いた。

「分かった」

 二人は駅まで歩いた。

 改札前で、健太が両腕を広げた。

 結衣は迷った末、その胸へ入った。

 聞き慣れた心臓の音がした。

 背中に回された腕が、いつもより強かった。

「元気で」

 健太が言った。

「健太も」

「仕事、頑張れよ」

「うん」

「無理しすぎるなよ」

 その言葉が最後だった。

 健太は改札を通り、一度も振り返らなかった。

 結衣は姿が見えなくなるまで、同じ場所に立っていた。

「俺があのとき言いたかったこと」

 現在の健太の声に、結衣は喫茶店へ引き戻された。

「分かってたんだよな」

「分かってた」

「東京へ戻って、そのときも俺たちが一人なら、もう一度会おうって言いたかった」

「うん」

「約束しなくてよかったと思ってる?」

 結衣はカフェオレを見つめた。

 温かかった飲み物は、すでに冷め始めている。

「分からない」

 五年前と同じ答えだった。

「約束していたら、支えになったかもしれない。でも、重荷にもなったと思う」

「俺は、約束してほしかった」

「そうだね」

「でも今は、結衣が断った理由も分かる」

「ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」

 健太は穏やかに言った。

「あのときの結衣は、間違ってなかった。俺も間違ってなかったと思う」

「両方正しいのに、別れたんだね」

「そういうこともあるんだろうな」

 二人は黙った。

 どちらかが悪ければ、もっと簡単だった。

 責めて、嫌いになり、忘れることができた。

 けれど二人は、互いの選択を理解できるようになってしまった。

「結衣は、この五年、どうだった?」

 健太が尋ねた。

「仕事ばかり?」

「仕事もしてた。でも、それだけじゃないよ」

 引っ越したこと。

 一人の部屋を整えたこと。

 料理を覚えたこと。

 友人と旅行したこと。

 休日に一人で映画を観るようになったこと。

 体調を崩した夜、自分で病院を探したこと。

 仕事で後輩から頼られるようになったこと。

 結衣は少しずつ話した。

「寂しくなかった?」

「寂しい日はあった。でも、一人の生活が不幸だったわけじゃない」

「結衣らしいな」

「どういう意味?」

「きちんと自分の生活を作るところ」

「健太も作ったでしょう?」

「俺は最初、結衣がいなくなった穴を仕事で埋めてただけだった」

「途中からは?」

「福岡で暮らすこと自体を、楽しめるようになった。東京へ戻るための仮の生活じゃなくなった」

 健太はコーヒーを一口飲んだ。

「だから、戻ってきたのは結衣のためだけじゃない」

「うん」

「仕事の話があって、自分で選んだ。家族のこともある。親も年を取ったし」

「お母さん、元気?」

「元気。ただ、膝を悪くしてる」

「そうなんだ」

「結衣のこと、今でも覚えてるよ」

「それは、当然でしょう」

「戻るって言ったら、結衣には会ったのかって聞かれた」

「何て答えたの?」

「まだ会ってないって」

「今度は?」

「会ったと言うと思う」

 結衣は少し困った。

「余計な期待をさせないでね」

「分かってる」

 健太はすぐに答えた。

「俺たちは、まだ何も決まってない」

「まだ、という言い方をするんだね」

「気になる?」

「少し」

「じゃあ、言い直す。結衣は今、俺とは別の人生を生きてる」

 健太はまっすぐ結衣を見た。

「気になっている人もいる」

「うん」

「藤堂さんだよな」

 結衣は驚いた。

「どうして分かったの?」

「会議の後、課長から聞いた。システム会社の担当者と佐伯さんが、現場の調整をしてるって」

「それだけで?」

「会議中、結衣が笑ったとき、藤堂さんが見てた」

「見てた?」

「うん」

「それで、どう思ったの?」

「嫌だったよ」

 健太は正直に言った。

「でも、結衣が悪いわけじゃない。五年間、何も言わなかったのは俺だから」

「藤堂さんとは、まだ付き合ってない」

「聞いていいのか迷った」

「今は、仕事以外でも会うようになったところ」

「好き?」

 結衣はすぐに答えられなかった。

 藤堂といる時間は心地よい。

 次に会えることが嬉しい。

 彼が笑うと、自分まで嬉しくなる。

 誰にも話さなかった過去を打ち明けてくれたことを、大切に思う。

「惹かれていると思う」

 結衣は答えた。

 健太の目に痛みが浮かんだ。

 それでも彼は視線をそらさなかった。

「明日も、会う約束をしてる」

「そうか」

「隠したまま健太と会うのは違うと思ったから」

「ありがとう」

 健太は一度深く息を吐いた。

「それでも、俺の気持ちは伝えておきたい」

 結衣の心臓が強く打った。

「今日、ここへ来たのは、懐かしい話をしたかっただけじゃない」

 健太は続けた。

「五年前の別れをなかったことにしたいわけでもない。結衣が選んだ仕事や、この五年間を否定するつもりもない」

「うん」

「俺も福岡で五年暮らした。楽しいこともあったし、東京へ戻らない人生を考えたこともある」

 健太の声は落ち着いていた。

「でも、誰かとこの先を考えようとすると、結衣のことが浮かんだ」

「誰かと付き合ったの?」

「付き合ってない。紹介されたことはあるし、食事に行った人もいる。でも、その先へ進めなかった」

「私を待っていたから?」

「待ってると決めてたわけじゃない。約束してないから」

 健太は少しだけ苦く笑った。

「ただ、結衣とのことが自分の中で終わってなかった。新しい人と始める前に、そこを確かめる必要があると思ってた」

「それで、東京へ戻ってきた」

「うん」

「もし私が結婚していたら?」

「何も言わなかった。仕事だけして、今度こそ終わらせたと思う」

「藤堂さんと付き合っていたら?」

 健太は少し黙った。

「それでも、五年前のことを一度謝りたいとは思った。でも、やり直したいとは言わなかった」

「今は、付き合っていないから?」

「それだけじゃない。今日、結衣と話して、やっぱり思った」

 健太はテーブルの上で両手を組んだ。

「俺は、もう一度、結衣と向き合いたい」

 静かな店内で、その言葉だけがはっきり聞こえた。

「今すぐ戻ってきてほしいとは言わない。五年前の続きが、そのままできるとも思ってない」

「五年たってるからね」

「うん。結衣の知らない俺がいるし、俺の知らない結衣もいる」

 健太は一度言葉を止めた。

「だから、もう一度知りたい。今の結衣が何を大切にして、どんな生活をしているのか。俺も、今の自分を見てほしい」

 結衣は何も言えなかった。

 復縁を迫られたわけではない。

 答えを求められてもいない。

 それでも、健太が向ける気持ちの重さは十分に伝わった。

「迷惑?」

「迷惑ではない」

「困ってる?」

「困ってる」

「正直だな」

「健太が正直に言ったから」

「そうだな」

 健太は少し寂しそうに笑った。

「答えは、急がなくていい」

「まだ何も始めるとは言ってないよ」

「分かってる。俺が勝手に言ってるだけだ」

「藤堂さんのこともある」

「それも分かってる」

「仕事では、二人とも同じプロジェクトに関わることになる」

「仕事に持ち込むつもりはない。藤堂さんにも失礼な態度は取らない」

「ありがとう」

「礼を言われることじゃない。当たり前だから」

 健太はそう言って、冷めたコーヒーを飲んだ。

 昔の健太なら、もう少し感情を表に出していたかもしれない。

 なぜ他の人に惹かれたのか。

 自分では駄目なのか。

 そう尋ねていたかもしれない。

 けれど今の彼は、結衣の生活に自分の希望だけを押し込もうとしなかった。

 それが五年間の変化なのだろう。

 結衣には、その成長が嬉しくもあり、苦しくもあった。

     *

 店を出たのは、午後四時を過ぎた頃だった。

 冬の日は傾き、路地には長い影が伸びていた。

「駅まで歩こうか」

 健太が言う。

「うん」

 二人は並んで歩いた。

 以前は、健太が少し前を歩くことが多かった。歩幅が違うため、結衣が追いつくように歩いていた。

 今は、健太が結衣に速度を合わせている。

「歩くの、遅くなった?」

 結衣が尋ねる。

「結衣が前より速くなったんじゃない?」

「毎日、駅まで歩いてるから」

「俺も歩いてたよ」

「じゃあ、合わせてる?」

「少し」

 健太は認めた。

「向こうで、取引先の人に言われたんだ。自分の速さで歩いて、ついてきてもらうのが癖になってるって」

「仕事の話?」

「仕事も、それ以外も」

「直したんだね」

「直してる途中」

 健太は前を向いたまま答えた。

 駅前の交差点で、信号が赤になった。

 二人で立ち止まる。

「明日、藤堂さんと会うんだよな」

 健太が言った。

「うん」

「行かないでほしいとは言わない」

「言われても、行くよ」

「分かってる」

「でも、健太と今日話したことは、ちゃんと考える」

「ありがとう」

「期待させるために言ってるんじゃないよ」

「それも分かってる」

 信号が青に変わった。

 横断歩道を渡り、改札前で立ち止まる。

 五年前にも、別の駅で同じように向かい合った。

 あのときは、この先に別れしかなかった。

 今は、どこへ向かうのか分からない。

「今日はありがとう」

 健太が言った。

「私も、話せてよかった」

「また会社で」

「うん」

「今度は名字で呼ぶから」

「仕事中はね」

 健太が少し笑った。

「じゃあ、佐伯さん。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした、城島さん」

 二人は軽く頭を下げた。

 健太が改札を通り、人の流れへ入っていく。

 結衣は、その背中を見送った。

 五年前、健太は一度も振り返らなかった。

 今日は改札を抜けた後、一度だけ振り返った。

 結衣も、まだそこに立っていた。

 健太は何も言わず、小さく手を上げた。

 結衣も同じように返した。

 それから彼は前を向き、ホームへ向かっていった。

     *

 帰宅すると、部屋は冷えていた。

 暖房をつけ、コートを脱ぐ。

 朝に干した洗濯物を取り込み、いつものように畳んだ。手を動かしている間も、健太の言葉が頭から離れなかった。

 もう一度、結衣と向き合いたい。

 五年前、結衣が聞くことを拒んだ言葉の続きを、ようやく聞いた気がした。

 あのとき約束しなかった二人が、約束のないまま再び同じ町にいる。

 それは運命などではない。

 健太が仕事を積み重ね、東京へ戻る選択をした結果だった。

 結衣もここで働き続け、自分の生活を守ってきた。

 二人がそれぞれ歩いた道が、偶然もう一度交わった。

 だからといって、同じ方向へ進まなければならないわけではない。

 分かっている。

 それでも、心は簡単には整理できなかった。

 食器棚を開け、青い皿を取り出す。

 夕食は簡単なパスタにした。鍋に湯を沸かし、冷蔵庫に残っていたきのことベーコンを炒める。

 料理をしていると、スマートフォンが震えた。

 藤堂からだった。

〈明日は十一時に、神保町駅の改札前でお待ちしています〉

 結衣は火を弱め、画面を見た。

 健太と会ったことを、藤堂は知っている。

 どんな話をしたのか、明日尋ねるだろうか。

 尋ねなくても、結衣は話した方がいいのだろうか。

 答えは出なかった。

〈分かりました。私も十一時に伺います〉

 送信すると、すぐに返信が届いた。

〈天気予報は晴れです。降水確率は十パーセントです〉

 結衣は思わず笑った。

〈それでも折り畳み傘を持ってきますか〉

〈念のため〉

〈私も持っていきます〉

〈二人とも持っていれば安心です〉

 短い言葉のやり取りに、胸の緊張が少しほどけた。

 藤堂は、健太とは違う。

 声も、笑い方も、考え方も。

 隣にいるときの沈黙さえ違う。

 どちらが優れているということではない。

 健太には、結衣の過去を知っている安心がある。

 藤堂には、今の結衣を知ろうとしてくれる温かさがある。

 結衣は茹で上がったパスタを皿へ盛った。

 一人分の夕食。

 けれど今夜は、一人でいることがいつもより重く感じられた。

 誰にも答えを求められていないはずなのに、二人の言葉が胸の中で並んでいる。

 もう一度、結衣と向き合いたい。

 日曜日に会いたい。

 どちらも、結衣を自分の方へ無理に引こうとはしていない。

 だからこそ、結衣は自分の意思で進む方向を選ばなければならなかった。

 スマートフォンに、藤堂からもう一通届いた。

〈明日、お会いできるのを楽しみにしています〉

 結衣はしばらく画面を見つめた後、ゆっくり文字を打った。

〈私も楽しみにしています〉

 その気持ちは、今日健太と会う前から変わっていなかった。

 今も変わっていない。

 結衣はスマートフォンを置き、温かいパスタを口へ運んだ。

 明日、藤堂に会う。

 今夜は、その約束だけを信じることにした。


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