第七章 選んで会う夜
一月十日の金曜日、結衣は朝から何度も時計を見ていた。
藤堂と食事をする約束は午後六時半だった。
予約した店は会社から歩いて十分ほどの場所にある。急ぎの仕事が入らなければ、余裕を持って向かえるはずだった。
それでも、年明けの業務は思った以上に忙しかった。
休みの間に届いていた注文の変更、販売終了商品の在庫調整、新しい取引先の登録。試験用データを使ったシステムの確認も始まり、通常業務の合間に新しい画面を操作する時間が必要だった。
午後三時を過ぎても、結衣の机には処理を待つ資料が残っていた。
「佐伯さん、今日、何か予定ある?」
小野寺が尋ねた。
「どうしてですか?」
「朝から時計ばかり見てるから」
「六時半から食事の約束があります」
「誰と?」
「友人です」
答えてから、少し違うと思った。
藤堂は友人なのだろうか。
取引先の担当者。
仕事を終えた後、二人で食事をした人。
今夜もう一度、会いたいと思っている人。
どの呼び方もしっくりこない。
「女性?」
小野寺が重ねて聞く。
「そこまで答える必要がありますか?」
「ないけど、気になるじゃない」
「仕事を終わらせないと行けないので、話しかけないでください」
「分かりました」
小野寺は笑いながら自分の席へ戻った。
結衣は資料へ視線を落としたが、意識の一部は別のことへ向いていた。
健太と再会してから、四日がたっている。
同じ会社に戻ってきても、毎日顔を合わせるわけではなかった。健太の席は別の階にあり、今のところ、新しいシステムに関する顔合わせも行われていない。
廊下ですれ違ったのは一度だけだった。
周囲に他の社員がいたため、互いに軽く会釈をしただけだった。
それでも健太が同じ建物にいるという事実は、結衣の日常へ静かに入り込んでいる。
エレベーターの扉が開くたび、乗っているかもしれないと思う。
社内の内線が鳴れば、健太からではないかと一瞬考える。
昼休みに営業企画部の社員が執務室へ来ると、その後ろに姿を探してしまう。
会いたいのか、避けたいのか、自分でも分からなかった。
午後四時十五分、社内のメッセージが届いた。
差出人は健太だった。
〈お疲れさま。先日話した件だけど、来週の土曜日は空いていますか〉
画面を見たまま、結衣は動きを止めた。
五年前のことと、この五年間のことを話したい。
健太はそう言っていた。
来週の土曜日に、特別な予定はない。
藤堂と会う約束も、今夜の食事だけだった。
〈午後なら空いています〉
結衣は返信した。
〈ありがとう。以前よく行った店が、まだあるみたいなんだ。そこでいいかな〉
店の名前が続けて送られてくる。
健太と付き合っていた頃、何度も訪れた喫茶店だった。
駅から少し離れた路地にあり、週末でも静かだった。二人で向かい合って座り、旅行の計画を立てたり、仕事の不満を話したりした。
福岡への転勤について、最初に話し合ったのも、その店だった。
思い出が多すぎる場所を選ぶことに、ためらいを覚えた。
けれど、人目の多い新しい店より、落ち着いて話せる場所がいいという健太の考えも分かった。
〈分かりました。午後二時でどうですか〉
〈大丈夫です。ありがとう〉
日時が決まる。
一月十八日、土曜日、午後二時。
予定表へ入力した。
すぐ下には、今夜の予定が表示されている。
一月十日、午後六時半。
藤堂さんと食事。
二つの予定を並べて見ると、胸の奥にわずかな罪悪感が生まれた。
けれど、誰に対する罪悪感なのか分からなかった。
藤堂とは付き合っていない。
健太と会うことを伝える義務はない。
健太に、藤堂と食事をすることを報告する必要もない。
それでも、どちらかに何かを隠しているような気がした。
結衣は予定表を閉じた。
今は目の前の仕事を終わらせるしかない。
*
午後五時五十五分、最後のメールを送信した。
パソコンを終了し、机の上を整える。
「間に合いそう?」
小野寺が聞いた。
「はい。お先に失礼します」
「楽しんできて」
「普通の食事です」
「普通じゃない食事もあるの?」
「小野寺さんも早く帰ってください」
結衣はコートを持ち、化粧室へ向かった。
鏡の前で髪を整える。
朝より少しだけ丁寧に口紅を塗り直した。頬の乾燥が気になり、鞄に入れていた小さな化粧品を重ねる。
服は仕事用の淡いグレーのニットに、紺色のスカートだった。特別に華やかではない。それでも今朝は、何を着るか少し迷った。
藤堂に会うために服を選んだ。
そう認めると、胸が落ち着かなくなる。
健太と会う予定を決めたばかりなのに、別の人へ会うために口紅を塗り直している。
けれど、順番が逆なのだ。
藤堂との約束は、健太が戻ってくると知る前からあった。
だから守るのではない。
結衣自身が、藤堂に会いたいと思っている。
その気持ちまで過去に譲る必要はなかった。
化粧室を出て、会社を後にした。
冬の夜はすでに暗く、空気が乾いていた。駅へ向かう人の流れから外れ、店のある通りへ曲がる。
予約したのは、旬の野菜と魚を使った料理を出す小さな和食店だった。
入口には暖色の照明が灯り、細い木の格子から店内の様子が少しだけ見える。
六時二十分。
結衣は予定より早く着いた。
店の前で待とうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「佐伯さん」
振り返ると、藤堂が歩いてきた。
黒いコートの下に濃紺のスーツを着ている。仕事帰りらしく、片手にはいつもの鞄を持っていた。
「早いですね」
結衣が言う。
「佐伯さんも」
「予約した側が遅れるわけにはいきませんから」
「ごちそうになる側も、遅れるわけにはいきません」
「今日は本当に私が払います」
「分かっています」
藤堂の目元がやわらいだ。
「楽しみにしていました」
メールにも書かれていた言葉だった。
けれど、声で聞くと温度が違った。
「私もです」
結衣は答えた。
今度は迷わなかった。
二人で店へ入る。
案内されたのは、奥の小さな個室だった。木製の引き戸で区切られているが、上部が開いているため、店内の話し声がかすかに聞こえる。
向かい合って座り、藤堂はビールを、結衣は梅酒のソーダ割りを頼んだ。
「和食はよく食べますか?」
結衣が尋ねる。
「外では、あまり」
「では、普段は何を?」
「定食か、蕎麦か、カレーです」
「選択肢が少ないですね」
「決めるのが楽なので」
「食べたいものから選ばないんですか?」
「食べたくないものを除いて、残ったものから選びます」
「消去法なんですね」
「佐伯さんは?」
「その日の気分で決めます。今日は魚が食べたいとか、温かいものがいいとか」
「迷いませんか」
「迷います。でも、迷う時間も嫌いではありません」
藤堂は少し考えた。
「食事以外でも?」
「何の話ですか?」
「選ぶときです」
結衣の胸に、昼間に決めた予定が浮かんだ。
健太と会うこと。
藤堂と向かい合っていること。
「迷う内容によります」
結衣は答えた。
「迷っている間が苦しいこともあります。でも、早く決めれば正しいとは限りません」
「そうですね」
料理が運ばれてきた。
菜の花の白和え、寒ブリの刺身、里芋の煮物。小さな器へ丁寧に盛られている。
藤堂は一品ずつ確かめるように食べた。
「どうですか?」
結衣が尋ねる。
「おいしいです」
「今日は作り方を間違える心配もありません」
「その話は、まだ続くんですね」
「新しい失敗をするまでです」
「失敗しないようにしています」
「最近、何かありませんでしたか?」
藤堂は箸を置き、考えた。
「昨日、図書館へ本を返しに行きました」
「それは失敗ではありません」
「返却日を一週間間違えていました。まだ借りていてよかったそうです」
「早く返してしまったんですか?」
「はい」
「読み終わっていたならいいでしょう?」
「最後の一冊は、まだ半分でした」
「それは失敗ですね」
「認めます」
「どんな本だったんですか?」
「江戸時代の街道について書かれた本です」
「歴史小説だけではなく、そういう本も読むんですね」
「昔の人がどう移動したのか、興味があります」
「旅行をしなくても?」
「最近はしないだけです。地図を見るのは好きです」
「地図があれば迷わないんですよね」
「その話も覚えているんですか」
「言われたことは、だいたい覚えています」
結衣が答えると、藤堂は小さく笑った。
会うたびに、その笑顔が少しずつ分かるようになっていた。
最初は、口元がほんのわずかに変わるだけだった。
今は目元もやわらかくなる。声にも微かな明るさが混じる。
藤堂が誰に対してもこのように笑うのか、結衣は知らない。
仕事中の彼を見る限り、少なくとも頻繁ではなかった。
「今度、図書館へ行くんですか?」
「返した本をもう一度借りに行きます」
「同じ本を?」
「最後まで読んでいないので」
「予約が入っていなければいいですね」
「確認したら、入っていました」
「では、しばらく読めませんね」
「別の図書館を探します」
「買った方が早くないですか?」
「絶版です」
「古書店ならあるかもしれません」
「神保町に一軒、在庫がある店を見つけました」
「もう調べたんですね」
「地図も確認しました」
「準備が早いですね」
「来週、行こうと思っています」
藤堂はそこで一度言葉を止めた。
「佐伯さんは、古書店へ行きますか?」
「ときどき。詳しくはありませんけど、本屋を見るのは好きです」
「もし予定がなければ」
藤堂の声が少し慎重になった。
「一緒に行きませんか」
予想していなかった誘いだった。
食事をするだけでも、結衣にとっては仕事の外で会う時間だった。さらに休日まで一緒に過ごすとなれば、意味が少し変わる。
「来週のいつですか?」
「土曜日です」
胸の中で、予定表が開いた。
一月十八日。
午後二時に、健太と会う。
「土曜日は、先約があります」
結衣は答えた。
藤堂の表情は変わらなかった。
「そうですか」
「日曜日なら空いています」
藤堂が顔を上げた。
「日曜日でもいいんですか?」
「藤堂さんの予定が合えば」
「大丈夫です」
「では、日曜日にしましょう」
「ありがとうございます」
藤堂は静かに言った。
その声には、わずかな安堵が混じっていた。
結衣は日曜日の予定を頭の中で確かめた。
前日に健太と会い、翌日に藤堂と会う。
二つの時間が、隣り合って並ぶ。
それが正しいことなのか、結衣には分からなかった。
けれど、どちらかを先に選ぶ段階ではない。
健太の話を聞くことも、藤堂と古書店へ行くことも、今の結衣が自分で決めたことだった。
「佐伯さん」
藤堂に呼ばれ、顔を上げる。
「無理をしていませんか?」
「何がですか?」
「先約があるなら、日曜日は休みたいのでは」
「大丈夫です。行きたいと思ったから、日曜日を提案しました」
結衣は、はっきり伝えた。
「藤堂さんと一緒に行きたいです」
言葉にした途端、胸が速く打った。
藤堂はしばらく結衣を見つめていた。
やがて、目元がゆっくりやわらいだ。
「私も、一緒に行きたいです」
静かな声だった。
華やかな告白ではない。
それでも、二人の間にあった曖昧なものが、初めて言葉になった気がした。
*
料理が半分ほど進んだ頃、藤堂が結衣の顔を見た。
「今日は、少し疲れていますか?」
「顔に出ていますか?」
「いつもより、考え込む時間が長いので」
結衣は箸を置いた。
健太のことを話すべきか迷った。
隠しているわけではない。
けれど、話せば今夜の空気を変えてしまう。
「仕事で何かありましたか?」
「仕事ではありません」
「なら、聞かない方がいいですね」
藤堂はそれ以上尋ねず、料理へ視線を戻した。
その態度に、結衣はかえって話したくなった。
話したくないことを無理に聞かない。
その距離を守ってくれる人だからこそ、自分から扉を開けたいと思う。
「以前、物流センターの帰りに話した人を覚えていますか」
藤堂の手が止まった。
「結婚を考えていた人ですか」
「はい」
「何かあったんですか」
「東京へ戻ってきました」
藤堂の表情から、わずかな温度が消えた。
驚いたのかもしれない。
「同じ会社に勤めていると話しましたよね」
「はい」
「五年間、福岡支社にいたんです。今月から、本社へ戻ってきました」
「そうですか」
短い返事だった。
「先日、再会しました」
「それで、今日は考え込んでいたんですね」
「そうかもしれません」
藤堂は何も聞かなかった。
どんな話をしたのか。
気持ちが戻ったのか。
その人と会うのか。
尋ねようと思えば、いくらでも尋ねられるはずだった。
「藤堂さん」
「はい」
「何も聞かないんですか?」
「聞いてほしいですか?」
以前、結衣が藤堂へ返した言葉だった。
「分かりません」
「なら、今は聞きません」
「気にならないんですか?」
藤堂はしばらく黙った。
「気になります」
正直な答えだった。
「でも、私が知りたいからといって、佐伯さんが話す必要はありません」
「そうですね」
「それに、私が何かを言える立場なのかも分かりません」
藤堂の言葉に、胸が痛んだ。
立場。
確かに二人は、付き合っていない。
互いに好意を言葉にしたわけでもない。
けれど結衣にとって藤堂は、すでにただの取引先ではなかった。
「仕事の担当者として、聞いているわけではありません」
結衣は言った。
藤堂が顔を上げる。
「私は、藤堂さんに話したいと思ったから話しています」
「なぜですか」
「隠したくなかったからです」
「私に?」
「はい」
藤堂の視線が、結衣から離れなかった。
「戻ってきた人と、やり直したいんですか」
初めて、藤堂から踏み込んだ。
結衣はすぐには答えられなかった。
「分かりません」
ようやく口にしたのは、正直な言葉だった。
「五年たっています。彼も変わったし、私も変わりました。名前を見ただけで驚いたし、会ったら懐かしいと思いました。でも、それが今も好きということなのか、過去を思い出しただけなのか、まだ分かりません」
藤堂は黙って聞いていた。
「来週、一度会って話すことになっています」
結衣は続けた。
「土曜日の先約は、その人です」
「そうですか」
「黙って日曜日に会うこともできました。でも、それは違うと思いました」
「私に説明する義務はありません」
「義務ではありません。私が話したかったんです」
藤堂は視線を落とした。
しばらくして、静かに息を吐く。
「正直に言うと」
「はい」
「今日、佐伯さんに会うのを楽しみにしていました」
「私もです」
「来週も会いたいと思った」
「だから、日曜日に会います」
「でも、その前日に過去の人と会うと聞いて、何も感じないわけではありません」
「はい」
「自分でも、何を感じているのか、うまく説明できません」
藤堂は言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「私は、もう誰かの気持ちに期待しないと決めていました。期待しなければ、変わったときに傷つかずに済むと思っていた」
「それで、先のことを考えないようにしていたんですね」
「はい。でも、最近は次に佐伯さんと会う日を考えています。今日が終わる前に、その次の予定を決めたくなっている」
結衣の胸に、温かさと痛みが同時に広がった。
「それは、期待しているということですか?」
「たぶん」
藤堂は結衣を見た。
「私は、その期待をどうすればいいのか分かりません」
誰かを信じることを避けてきた人が、迷いながら口にした言葉だった。
結衣は安易に大丈夫とは言えなかった。
健太への気持ちが分からないまま、藤堂だけを安心させる約束もできない。
「今、答えを出すことはできません」
「分かっています」
「でも、今日ここへ来たのは、約束したからだけではありません」
結衣はまっすぐ藤堂を見た。
「藤堂さんに会いたかったからです」
藤堂の目が、わずかに揺れた。
「日曜日も、会いたいから行きます」
「それを信じてもいいですか」
「はい。今の気持ちは、信じてください」
「今の気持ち」
「先のことを約束しても、人の気持ちは変わるかもしれません。でも、今思っていることまで疑ったら、何も始められないでしょう?」
藤堂はすぐには答えなかった。
以前、結衣が言ったことを思い出しているのかもしれない。
条件が変われば、約束を見直せばいい。
人との約束も、変わったときに話し合えばいい。
「そうですね」
やがて藤堂が言った。
「今の佐伯さんの言葉を、信じます」
結衣は頷いた。
「ありがとうございます」
「ただ」
藤堂が続ける。
「無理に早く答えを出さないでください」
「藤堂さんは、待てるんですか?」
「分かりません」
あまりにも率直な答えに、結衣は小さく笑った。
「そこは、待ちますと言うところでは?」
「できるか分からないことを、約束したくありません」
「藤堂さんらしいですね」
「でも、急がせたくないとは思っています」
「それで十分です」
結衣が言うと、藤堂の表情が少しだけやわらいだ。
*
店を出たのは、午後八時半頃だった。
約束どおり、結衣が二人分を支払った。
藤堂は金額の差を気にしたが、結衣は「次に調整してください」と、彼が前回使った言葉を返した。
「また私が払うんですか?」
「次はコーヒーでも構いません」
「日曜日の?」
「そうですね」
「では、古書店の後に行きましょう」
「約束です」
「はい」
外へ出ると、弱い風が吹いていた。
前回歩いた遊歩道とは違う道だったが、藤堂は今夜も駅までの近道を選ばなかった。
「こちらの方が遠いですよ」
結衣が言うと、藤堂は前を向いたまま答えた。
「知っています」
「地図を確認したんですか?」
「店へ来る前に」
「では、どうして?」
藤堂は少し黙った。
「すぐに駅へ着きたくなかったので」
結衣の足が一瞬遅れた。
藤堂も歩く速度を緩める。
「佐伯さんは、早く帰りたかったですか?」
「いいえ」
結衣は彼の隣へ並んだ。
「私も、もう少し歩きたいです」
冬の町を、二人でゆっくり歩いた。
話すことは多くなかった。
来週の古書店の場所。藤堂が探している本。結衣が近くで気になっていた喫茶店。
どれも大きな話ではない。
それでも、一つずつ次の時間へつながっていた。
駅へ着き、改札前で立ち止まる。
「日曜日、十一時に神保町でいいですか」
藤堂が尋ねる。
「はい」
「土曜日のことは、聞きません」
「分かりました」
「でも、日曜日に会えなくなったら、連絡してください」
「会えなくなるとは思っていません」
「予定は変わることがありますから」
「変わったときには、きちんと話します」
結衣は答えた。
藤堂は少し驚いた後、静かに頷いた。
「待っています」
「はい」
二人は別々の改札へ向かった。
結衣は振り返らなかった。
振り返れば、藤堂もこちらを見ているような気がした。
*
翌週の火曜日、受発注システムの試験運用に関する会議が開かれた。
結衣が会議室へ入ると、藤堂はすでに機材の準備をしていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
金曜日に食事をし、休日に会う約束をした後でも、会社ではいつもと変わらない挨拶だった。
それが少し寂しく、同時に安心でもあった。
「日曜日の天気は晴れだそうです」
藤堂が小声で言った。
「もう確認したんですか?」
「今回は忘れないようにしました」
「傘は必要なさそうですね」
「降水確率は二十パーセントです」
「十パーセントでも心配していましたよね」
「折り畳み傘は持っていきます」
結衣が笑ったところで、会議室の扉が開いた。
営業企画部の課長と、健太が入ってきた。
結衣の笑顔が、わずかに止まった。
「おはようございます」
健太は全員へ挨拶をし、結衣へも他の社員と同じように会釈した。
「佐伯さん、おはようございます」
「おはようございます」
名字で呼び合う。
藤堂が二人を見た気配がした。
部長と小野寺も入り、会議が始まった。
「本日から、営業企画部の城島さんにも参加してもらいます」
部長が紹介した。
「福岡支社で量販店向けの販売計画と、取引先コードの整理を担当していました。今回のシステムでは、営業側の運用をまとめてもらいます」
健太が立ち上がり、藤堂へ名刺を差し出した。
「東央食品の城島です。よろしくお願いいたします」
「ネクサスリンクの藤堂です。よろしくお願いいたします」
二人は静かに名刺を交換した。
健太は明るく人と接することが得意だ。藤堂は必要以上に距離を縮めない。
異なる雰囲気を持つ二人が向かい合う姿に、結衣は胸の奥が落ち着かなくなった。
「城島さんには、事前に現在の仕様をご確認いただいています」
営業企画部の課長が言った。
「福岡支社では、取引先ごとの特売予定を共通形式で管理していたそうです。先日問題になった特売データの読み込みに使えるのではないかと」
健太が資料を配った。
「福岡では、量販店ごとに形式が違っていた特売予定を、一度共通の表へ変換していました。営業担当者の入力は少し増えますが、倉庫と事務が確認する時間は減りました」
藤堂が資料へ目を通す。
「この入力項目を、そのまま新しいシステムへ取り込める可能性があります」
「本社では取引先数が多いので、同じ運用でいけるかは確認が必要ですが、試す価値はあると思います」
「変換前の資料も見せていただけますか」
「はい。福岡支社の許可を取ってあります」
健太はすぐにデータを渡した。
仕事は円滑に進んだ。
健太は現場の事情を知っている。
藤堂は必要な仕組みを判断できる。
二人の間に対立はなく、互いの説明を正確に理解していた。
結衣は安堵した。
同時に、二人のどちらかに欠点があれば楽だったのかもしれないとも思った。
健太が昔のまま、自分の希望だけを押しつける人なら。
藤堂が仕事はできても、結衣の気持ちを考えない人なら。
迷う必要はなかった。
けれど、目の前にいる二人は、どちらも相手の話を聞く人だった。
会議の途中、健太が結衣へ資料を示した。
「佐伯さん、この取引先は、今も月曜日の朝に注文が集中しますか?」
「はい。特売の翌週は、追加注文も重なります」
「では、福岡と同じ締め切りでは難しいですね」
「本社では火曜日の正午まで余裕を持たせた方がいいと思います」
「分かりました。こちらを修正します」
短いやり取りだった。
それでも、藤堂の視線を感じた。
結衣と健太の間にあるものを、会話の速さから気づいたのかもしれない。
四年間、仕事でも私生活でも近くにいた。
互いが何を見て、次に何を言おうとしているのか、今でも少し分かる。
五年の空白は、その感覚までは消していなかった。
会議が終わると、健太は営業企画部の課長と先に出ていった。
部長と小野寺も続き、会議室には結衣と藤堂が残った。
藤堂は無言でケーブルを片づけていた。
「藤堂さん」
「はい」
「城島さんが、以前お話しした人です」
藤堂の手が止まった。
「そうですか」
「隠していたわけではありません。ただ、会社で話すことではないと思って」
「分かっています」
「驚きましたか?」
「少し」
藤堂はケーブルを鞄へ入れた。
「仕事ができる方ですね」
「はい」
「福岡で、きちんと積み重ねてきたことが分かります」
藤堂の言葉には、嫌味も敵意もなかった。
健太を一人の仕事相手として正しく見ている。
その誠実さが、結衣にはかえって苦しかった。
「日曜日の約束は、変わりません」
結衣は言った。
藤堂が顔を上げる。
「変わっていません」
「はい」
「変わったときには、話すとおっしゃっていました」
「そのつもりです」
「なら、今は信じます」
藤堂は静かに答えた。
「日曜日、十一時に」
「はい」
彼はいつものように会釈をし、会議室を出ていった。
扉が閉まった後、結衣は一人で立ち尽くした。
土曜日には健太と会う。
日曜日には藤堂と会う。
過去を確かめる時間と、これからを知ろうとする時間。
二つの約束は、まだどちらも結衣に答えを求めていなかった。
けれど、答えを出さずにいられる時間が、いつまでも続くわけではないことだけは分かっていた。




