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言葉にならなかった約束の先で  作者: 久遠 睦


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6/20

第六章 五年ぶりの名前

人事異動のメールを開いたのは、その日の午後四時を過ぎてからだった。

 年末出荷の変更処理を終え、営業担当者へ確認事項を送り、ようやく一息ついたところで、結衣は未読のまま残していた通知を思い出した。

 件名は「一月一日付 人事異動について」。

 添付された一覧を開く。

 部長職の異動から始まり、支社長、課長、係長、一般社員と続いている。結衣は自分の部署に関係する名前がないか、上から順に目を通した。

 東京本社営業企画部。

 福岡支社営業一課より異動。

 その下に記された名前を見た瞬間、指が止まった。

 城島健太。

 見間違いかと思った。

 けれど、何度読み直しても文字は変わらない。

 城島という名字はそれほど珍しくない。健太という名前も多い。だが、所属していた福岡支社も、年齢に見合う役職も、結衣の知る彼と一致している。

 胸の内側で、何かが強く鳴った。

 周囲の音が、一瞬だけ遠くなる。

 電話の呼び出し音。キーボードを打つ音。複合機から紙が送り出される音。

 すべてが聞こえているのに、意味を持たずに通り過ぎていく。

「佐伯さん?」

 小野寺に呼ばれ、結衣は画面から顔を上げた。

「どうしました?」

「さっきから同じところを見てるけど」

「人事異動を確認していました」

「ああ、今日出たんだ」

 小野寺が椅子を寄せ、結衣の画面を覗き込んだ。

 反射的に閉じるほどの理由はない。人事異動は全社員に公開されている。

「営業企画、ずいぶん増えるね。福岡から戻ってくる人もいるんだ」

 小野寺の視線が、名前の上を流れていく。

「城島健太さん。知ってる?」

 結衣は一拍遅れて答えた。

「以前、東京本社にいた人です」

「そうなんだ。私は会ったことないかも」

「五年前に福岡へ異動したので、小野寺さんが今の部署へ来る前ですね」

「佐伯さんとは一緒に仕事してた?」

「営業担当と営業事務として、何度か」

 嘘ではなかった。

 健太は営業部にいて、結衣は営業事務だった。仕事で関わる機会は多かった。

 ただ、それだけではなかったことを言わなかっただけだ。

「仕事できる人?」

「できると思います」

「じゃあ、年明けは少し楽になるかな。営業企画なら、新しいシステムにも関わるかもしれないね」

 小野寺はそう言って、自分の席へ戻った。

 結衣は一覧を閉じた。

 画面には、先ほどまで作業していた受注データが表示されている。

 商品名。取引先名。数量。納品日。

 見慣れた数字へ戻れば、呼吸も元に戻ると思った。

 けれど、何度入力欄を見ても、頭の奥には名前が残っていた。

 城島健太。

 五年ぶりに目にした四文字は、思っていた以上に鮮明だった。

     *

 健太が福岡への転勤を告げたのは、五年前の六月だった。

 当時、結衣は三十歳。健太は三十一歳だった。

 二人が付き合い始めて、四年目を迎えたばかりだった。

 結衣は営業事務の仕事を任されるようになり、社内の業務改善チームにも選ばれていた。毎日忙しかったが、仕事が面白くなり始めた時期でもあった。

 健太も営業部で大きな取引先を担当し、社内で将来を期待されていた。

 福岡支社への異動は、左遷ではなかった。

 地方の市場を経験し、将来的に本社の営業企画へ戻るためのものだと、上司から説明されたという。

 期間は明確に決まっていなかった。

 短ければ三年。

 長ければ五年か、それ以上。

 健太は転勤を断ろうとはしなかった。

 結衣も、断ってほしいとは言わなかった。

 二人とも、それが彼にとって大切な機会だと分かっていた。

 問題は、その先だった。

 健太は、結衣に一緒に来てほしいと言った。

 結婚して、福岡で暮らさないかと。

 強引な言い方ではなかった。結衣が仕事を好きなことも、ようやく責任ある立場を任され始めたことも理解していた。

 だからこそ、話し合いは苦しかった。

「すぐに辞めてくれとは言わない」

 健太は言った。

「向こうで仕事を探すまで、少し休んでもいい。結衣が働きたいなら、俺も応援する」

「今の仕事を辞めたくないの」

「東央食品じゃなきゃ駄目なのか?」

「今やっている仕事を、途中で投げ出したくない」

「投げ出すことにはならないだろう。転勤だって、結婚だって、人生の事情なんだから」

「事情があれば、手放してもいいものなの?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

 二人とも、相手を傷つけようとしていたわけではなかった。

 健太は一緒に生きる方法を考えていた。

 結衣は、自分が積み重ねてきたものを守ろうとしていた。

 どちらも間違っていない。

 だから、どちらも相手へ譲れなかった。

 遠距離で付き合い続ける案も出た。

 月に一度は会う。長い休みには一緒に過ごす。数年後、健太が東京へ戻れることになったとき、もう一度結婚を考える。

 けれど、戻れる保証はなかった。

 結衣が福岡へ移る気持ちになる保証もない。

 期限のないまま待ち続けることを、二人とも約束できなかった。

 最後に会った夜、健太は何かを言いかけた。

 もし、向こうへ行っても、俺たちが――。

 結衣は、その先を聞かなかった。

「言わないで」

 そう遮った。

 約束すれば、待たなければならない。

 約束したのに別の人を好きになれば、自分か健太のどちらかが裏切ることになる。

 何年先か分からない未来に、今の二人を縛りつけたくなかった。

 健太は長い間黙り、最後には頷いた。

「分かった」

 別れ際、二人は抱きしめ合った。

 嫌いになったわけではなかった。

 気持ちが冷めたわけでもない。

 好きなまま、別れた。

 だから結衣は、別れた後に健太へ連絡しなかった。

 一度でも声を聞けば、あの決断が揺らぐと思った。

 健太からも連絡は来なかった。

 誕生日も、年末も、異動から一年がたった日も。

 二人は約束をしなかった代わりに、何も言わないことを守った。

 五年間、一度も。

 結衣はそれを、終わった恋だと思っていた。

 思い出しても苦しくなくなった。

 友人から名前を出されても、静かに話せるようになった。

 仕事を選んだことを後悔していないと言えるようにもなった。

 それなのに、一覧に名前を見つけただけで、過去は昨日のことのように戻ってきた。

 声も、笑い方も、歩く速さも。

 すべてを身体のどこかが覚えていた。

     *

 その日の退勤後、結衣はまっすぐ駅へ向かった。

 いつものスーパーには寄らなかった。

 冷蔵庫には、前日に作ったミネストローネが残っている。パンもある。夕食を買う必要はなかった。

 けれど本当は、食材の並ぶ明るい店内を歩く気になれなかった。

 帰宅して、照明をつける。

「ただいま」

 いつもと同じように声を出す。

 部屋は何も変わっていなかった。

 テーブルも、ソファも、青い皿も、すべて結衣が一人で選んだものだった。

 健太と別れた後、この部屋へ引っ越した。

 それ以前に暮らしていた部屋は、健太の住むマンションから二駅離れた場所にあった。週末にはどちらかの部屋で過ごし、平日の夜にも一緒に夕食を食べることがあった。

 健太が福岡へ行った後、同じ沿線に住み続けることが苦しくなった。

 駅のホームにも、商店街にも、二人で立ち寄った店にも記憶が残っていた。

 結衣は更新の時期に合わせて引っ越した。

 家具の多くも買い替えた。

 思い出を捨てるためではない。

 一人の生活を、自分の手で始めるためだった。

 コートを脱ぎ、ミネストローネを鍋で温める。

 食器棚から青い皿を一枚取り出した。

 少し前まで、この皿に料理を盛るたび、一人分であることを意識していた。

 最近は違った。

 藤堂から届く短いメール。

 仕事を終えた後の夕食。

 遠回りした冬の道。

 日常の端に、彼の姿が入り始めていた。

 それなのに、健太の名前を見た瞬間、その温かさを忘れた。

 結衣は温めたミネストローネを皿へ注ぎ、テーブルに座った。

 スマートフォンを手に取り、連絡先を開く。

 城島健太の名前はなかった。

 別れた後、番号もメールアドレスも削除した。連絡を取らないためには、残さない方がいいと思ったからだ。

 ただ、番号そのものは今でも覚えている。

 最後の四桁。

 誕生日とは関係のない、彼が気に入っていた数字。

 五年使わなかった記憶が、指先へ戻ってくる。

 結衣は電話の入力画面を開き、最初の三桁を押した。

 そこで止めた。

 何を話すつもりなのだろう。

 東京へ戻ってくるんだね。

 おかえり。

 元気だった?

 どれも、今の自分が先に伝える言葉ではない気がした。

 人事異動の発表を見て、すぐに連絡したと思われるのも嫌だった。未練があると誤解されたくないというより、自分でも分からない気持ちを、健太に渡したくなかった。

 結衣は入力した数字をすべて消した。

 スマートフォンを伏せ、ミネストローネを口へ運ぶ。

 温めたはずなのに、味がよく分からなかった。

 そのとき、短い通知音が鳴った。

 画面には藤堂の名前が表示されていた。

〈先日の食事のお返しですが、一月の第二週はいかがですか〉

 結衣はしばらく、その文章を見つめた。

 自分から誘うと約束していた。

 藤堂は覚えていて、待っている。

 健太の名前を見つけるまでは、どの店にしようか考えることが楽しかった。藤堂が行ったことのない店を探し、今度は結衣が支払おうと思っていた。

 その気持ちまで、嘘になったわけではない。

 過去が戻ってきたからといって、それまでの時間が消えるわけではない。

 結衣は予定表を開いた。

 第二週の金曜日は空いている。

〈十日の金曜日はいかがですか。会社の近くに、気になっている和食のお店があります〉

 送信して間もなく、返信が届いた。

〈大丈夫です。楽しみにしています〉

 楽しみにしています。

 結衣はその言葉を読み、ゆっくり息を吐いた。

〈私も楽しみにしています〉

 そう返した。

 嘘ではなかった。

 藤堂に会いたい。

 もう一度、仕事ではない話をしながら食事がしたい。

 その気持ちと、健太の名前に動揺したことは、同時に存在していた。

 どちらかが偽物なのではない。

 人の心は、一つの感情だけできれいに満たされるものではないのだろう。

 結衣は冷めかけたミネストローネを食べた。

 いつもの味が、少しずつ戻ってきた。

     *

 年末の最終出勤日まで、健太から連絡はなかった。

 社内の人事異動が発表された以上、彼も結衣が知ったことは分かっているはずだった。

 それでも、何も言ってこない。

 結衣も連絡しなかった。

 仕事納めの日、藤堂から短いメールが届いた。

〈今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします〉

 取引先へ送る定型的な文面だった。

 けれど、その下に一行だけ加えられていた。

〈十日の食事も楽しみにしています〉

 結衣は周囲に見られないよう、少しだけ画面を小さくした。

〈こちらこそ、来年もよろしくお願いいたします。お店は予約しておきます〉

 送った後、もう一文を加えるべきか迷った。

〈よいお年を〉

 それだけを送り直す。

 藤堂からも、同じ言葉が返ってきた。

 年末年始、結衣は実家で二泊した。

 母は例年どおり、近所の同年代の女性に子どもが生まれた話をした。父は年金と健康診断の話をし、兄は家族を連れて昼過ぎにやってきた。

 結衣は姪と遊び、食事の片づけを手伝い、紅白歌合戦を途中まで見た。

 健太が戻ってくることは、誰にも話さなかった。

 両親は健太と会ったことがある。

 正式な結婚の挨拶ではなかったが、四年付き合っていた間に、実家へ何度か連れてきた。母は健太を気に入っていた。

 別れたと伝えたとき、母は理由を聞いた。

 結衣が仕事を辞めなかったからだと知ると、残念そうな顔をした。

 それでも「ついていけばよかったのに」とは言わなかった。

 結衣が仕事を大切にしていることも、母なりに理解していたのだろう。

 もし健太が東京へ戻ると知れば、母はどんな顔をするのだろう。

 また会うのか。

 やり直す可能性はあるのか。

 そう聞かれても、結衣には答えられない。

 一月二日の午後、自宅へ戻った。

 駅前のスーパーで正月明けの食材を買い、静かな部屋へ帰る。

 青い皿で簡単な雑煮を食べながら、結衣は一人の時間に安堵していた。

 実家が嫌なわけではない。

 けれど、自分の時間、自分の順番、自分で選んだ静けさへ戻ると、身体から余計な力が抜けていく。

 誰かと暮らすことになれば、この静けさを手放すのだろうか。

 それとも、分け合える相手がいるのだろうか。

 健太と結婚していたら。

 考えないようにしていた想像が浮かんだ。

 福岡のどこかで暮らし、別の会社で働いていたかもしれない。子どもがいた可能性もある。正月には二人でどちらかの実家へ帰り、家族として並んでいたかもしれない。

 だが、それは存在しなかった人生だった。

 どれほど細かく想像しても、現実にはならない。

 今の結衣には、十三年続けた仕事がある。

 一人で選んだ部屋がある。

 そして、次の金曜日に藤堂と食事をする約束がある。

 結衣は空想を振り払い、食べ終えた皿を洗った。

     *

 一月六日。

 仕事始めの日、結衣は普段より十五分早く出社した。

 年末に止めた業務を確認し、取引先から届いているメールへ目を通す。朝礼では部長が年始の挨拶をし、今月から始まる試験運用について説明した。

「それから、営業企画部へ新しく異動してきた方が、午後に挨拶へ来るそうです」

 部長の言葉に、結衣の指先がわずかに止まった。

「福岡支社から戻ってきた城島さんです。向こうで量販店向けの販売計画を担当していたので、新システムの取引先コード整理にも加わってもらうことになりました」

 小野寺が結衣の方を見た。

「前に一緒に仕事してた人だよね」

「はい」

「じゃあ、やりやすいね」

「どうでしょう。五年もたっていますから」

 結衣は画面を見たまま答えた。

 午後二時頃、営業企画部の課長とともに、健太は執務室へ入ってきた。

 最初に目に入ったのは、濃紺のスーツだった。

 次に、以前より短く整えられた髪。日に焼けた肌。目元には五年前にはなかった細い線が刻まれている。

 大きく変わったようにも、何も変わっていないようにも見えた。

 健太は部長と挨拶を交わし、順番に社員たちへ頭を下げた。

「福岡支社から異動してきました、城島健太です。本社勤務は五年ぶりになります。営業企画部で、量販店向けの販売計画と受発注システムの連携を担当します。よろしくお願いいたします」

 声を聞いた瞬間、胸の奥が強く反応した。

 五年たっても、声は変わっていなかった。

 人前で話すとき、最初の言葉だけ少しゆっくりになる癖も同じだった。

 健太の視線が、結衣のところで止まる。

 ほんの一秒ほどだった。

 それから彼は、他の社員へ向けるのと同じ穏やかな表情で会釈した。

「よろしくお願いします」

 結衣も同じように頭を下げた。

 佐伯さん。

 城島さん。

 まだどちらも名前を呼んでいない。

 それでも、名字で呼び合う場面を想像しただけで、二人の間に過ぎた五年の長さを感じた。

 挨拶が終わると、健太は営業企画部の課長とともに部屋を出ていった。

 結衣は息を吐き、入力途中だった画面へ戻った。

「以前と変わってた?」

 小野寺が小声で聞く。

「少し」

「仕事できそうだね」

「できる人です」

「佐伯さんがそう言うなら安心だ」

 小野寺はそれ以上尋ねなかった。

 午後の業務を続けた。

 数字を確認し、電話に出て、メールへ返信する。

 健太が同じ建物にいる。

 廊下ですれ違うかもしれない。会議に同席するかもしれない。仕事の連絡が届くかもしれない。

 その事実が、意識の端から消えなかった。

 午後五時を過ぎた頃、社内のメッセージが届いた。

 差出人は城島健太だった。

〈お疲れさまです。突然すみません。今日、この後、十分だけ時間をもらえませんか〉

 結衣は画面を見つめた。

 断る理由を探した。

 仕事が残っている。

 年始で忙しい。

 また後日にしてほしい。

 どれも嘘ではない。

 けれど、今日を避けても、いつかは話さなければならない。

〈六時頃なら大丈夫です〉

 少し迷った末に送信する。

〈ありがとう。一階の休憩スペースで待っています〉

 返事はすぐに届いた。

 結衣は六時までに急ぎの仕事を終え、小野寺へ声をかけて席を立った。

 一階の休憩スペースには、健太が一人で座っていた。

 テーブルには、二本のペットボトルが置かれている。一本は無糖の紅茶、もう一本は水だった。

 無糖の紅茶は、結衣が以前よく飲んでいたものだ。

 今でも覚えていたのだろうか。

 健太は結衣に気づくと、立ち上がった。

「急にごめん」

「ううん」

 二人とも、次の言葉が出なかった。

 周囲には誰もいない。

 それでも、会社の中にいることが、二人の間へ薄い壁を作っている。

「座ろうか」

 健太が言い、結衣は向かい側の椅子へ腰を下ろした。

「紅茶、飲む?」

「ありがとう」

 受け取ると、冷たい感触が手のひらへ伝わった。

「まだ、これでよかった?」

「今も飲むよ」

「よかった」

 健太は水の蓋を開けたが、口には運ばなかった。

「人事異動、見た?」

「見た」

「連絡しようか迷ったんだけど、会社から発表される前に俺から言うのも違うと思って」

「そうだね」

「発表された後も、すぐに連絡したら困らせるかと思った」

「健太らしいね」

 名前が自然に口から出た。

 城島さんではなかった。

 言ってから気づいたが、訂正する方が不自然だった。

 健太の目元が、少しやわらいだ。

「結衣に名前を呼ばれるの、久しぶりだな」

 胸の奥が痛んだ。

 懐かしいという言葉だけでは足りなかった。

「五年ぶりだから」

「そうだな」

 健太はペットボトルを両手で持った。

「元気だった?」

「元気だったよ。仕事も続けてる」

「知ってる。今日、みんなの前に立ってる結衣を見て、すぐに分かった」

「何が?」

「ちゃんと、ここで頑張ってきたんだなって」

 結衣は答えられなかった。

 五年前、仕事を続けるために健太と別れた。

 彼についていかなかったことを責められる可能性も、覚悟していた。

 けれど、健太の言葉には責める響きがなかった。

「健太も、福岡で頑張ってたんでしょう?」

「まあ、それなりに」

「営業企画へ戻るための異動だって聞いた」

「向こうでやったことを、本社でも使えってことらしい」

「戻れてよかったね」

「うん」

 健太は短く答えた。

 表情には、単純な喜びだけではないものがあった。

「福岡を離れるのは、寂しくなかった?」

「寂しかったよ。最初は誰も知らなかったけど、五年もいれば、仲間もできた。行きつけの店も、よく話す近所の人もいた。最後の日は送別会を三回もやってもらった」

「三回?」

「部署と、取引先と、いつも行ってた店」

「飲みすぎたでしょう」

「最後の一週間は、ほとんど毎日」

 健太が笑った。

 その笑い方も変わっていなかった。

 口を大きく開けるのではなく、少しうつむき、肩を揺らす。

 結衣は何度も、その笑顔を隣で見ていた。

「福岡、好きになったんだね」

「うん。最初は東京に戻ることばかり考えてたけど、途中からは向こうで働くのも悪くないと思ってた」

「それでも戻ってきた」

「戻ることにした」

 言い方に、何かが含まれているように聞こえた。

 会社の命令だけではなく、自分で選んだということなのだろうか。

 結衣は尋ねなかった。

 健太も、すぐに理由を話そうとはしなかった。

「結衣」

「何?」

「俺が戻ってくるの、嫌だった?」

 まっすぐな問いだった。

 健太は昔から、聞かなければ分からないことを、曖昧なままにできない人だった。

「嫌ではないよ」

「本当に?」

「驚いた。名前を見たときは、仕事が止まるくらい」

「ごめん」

「謝らなくていい。健太が戻ってくることは、健太の仕事だから」

「そうだけど」

「嫌ではない。ただ、どうしたらいいか分からなかった」

「俺も分からなかった」

 健太は正直に認めた。

「五年たって、普通に久しぶりって言えばいいのか、何もなかったように仕事の話だけすればいいのか」

「何もなかったわけではないからね」

「うん」

 二人の間に沈黙が落ちた。

 五年間の出来事を、十分で埋められるはずがない。

 結衣は仕事を続け、健太は福岡で新しい生活を作った。

 二人が知らない時間は、付き合っていた四年間よりも長くなっている。

 それでも向かいに座る健太は、初めて会う人ではなかった。

 表情の変化で、次にどんなことを言おうとしているのか、少し分かってしまう。

「今日は、顔を見ておきたかった」

 健太が言った。

「それだけ?」

「今日は、それだけ」

 今日はという言葉が残った。

「今度、もう少し話せないかな」

「仕事の話?」

「仕事以外の話」

 健太は結衣から視線をそらさなかった。

「無理にとは言わない。結衣に今、誰かいるなら、二人で会うのはよくないと思うし」

 藤堂の顔が浮かんだ。

 誰かいるのかと聞かれたら、何と答えればいいのだろう。

 付き合っている人はいない。

 それは事実だった。

 けれど、いないと言い切ると、藤堂の存在まで消してしまうような気がした。

「付き合っている人はいない」

 結衣は答えた。

「でも、少し気になっている人はいる」

 健太の表情が、ほんのわずかに変わった。

 それでも笑顔を作ることも、詳しく尋ねることもしなかった。

「そうか」

「うん」

「教えてくれて、ありがとう」

 静かな声だった。

 健太を傷つけたかもしれない。

 そう思ったが、隠す方が不誠実だった。

「それでも、話したいことがある」

 健太は続けた。

「今すぐ答えを求めるようなことじゃない。五年前のことも、この五年間のことも、一度きちんと話したい」

「どうして今?」

「戻ってきたから」

「戻ってきたら、話そうと思ってたの?」

「最初の頃は、ずっと思ってた」

 健太はペットボトルのラベルを指でなぞった。

「でも、三年目くらいから、東京へ戻れるか分からなくなった。向こうで別の役割を任されて、このまま福岡に残る可能性もあった」

「そうだったんだ」

「その状態で連絡するのは、自分勝手だと思った。結衣の生活をまた揺らすだけになるから」

「だから、何も言わなかった」

「うん」

 健太は顔を上げた。

「今も自分勝手かもしれない。でも、東京に戻ってきたのに、何も話さないままでいる方が後悔すると思った」

 まっすぐな目だった。

 五年前より落ち着いて見えるが、根本は変わっていない。

 健太は、自分の気持ちをごまかせない人だった。

「分かった」

 結衣は答えた。

「一度、話そう」

「いいのか?」

「話を聞くことと、何かを約束することは違うでしょう?」

「そうだな」

「日にちは、また連絡して」

「分かった」

 健太は少しだけ笑った。

 約束した十分は、すでに過ぎていた。

 二人は立ち上がった。

 空になっていないペットボトルを持ち、エレベーターの前まで並んで歩く。

「結衣」

 健太が呼んだ。

「何?」

「東京へ戻ってきて、いろんな人に同じことを言ったんだけど」

「うん」

「結衣には、ちゃんと言いたかった」

 健太は一度息を吸った。

「ただいま」

 その言葉を、結衣は五年前にも想像したことがあった。

 健太が東京へ戻ってきたとき、自分はどこで何をしているのか。

 二人はまだ待っているのか。

 それとも、それぞれ別の人と生きているのか。

 何も分からないまま、口にしなかった未来。

 その未来が、今、目の前に立っている。

 結衣はすぐには答えられなかった。

 健太も急かさずに待った。

「おかえり」

 ようやく言葉にすると、健太の目元がやわらいだ。

「うん」

 エレベーターが到着した。

 健太は営業企画部のある階へ戻り、結衣は自分の部署へ向かった。

 扉が閉まる直前まで、二人は互いを見ていた。

     *

 自席へ戻ると、小野寺はすでに帰っていた。

 時計は午後六時半を過ぎている。

 結衣はパソコンを終了し、コートを着た。

 健太からもらった無糖の紅茶は、半分ほど残っていた。鞄へ入れようとして、そのラベルを見つめる。

 五年前と同じ飲み物。

 今も結衣が好きかどうか、確信がないまま買ったのだろう。それでも健太は覚えていた。

 会社を出ると、冬の夜気が頬へ触れた。

 駅へ向かいながら、スマートフォンを開く。

 藤堂からメッセージが届いていた。

〈十日のお店ですが、十八時半でよろしいでしょうか〉

 健太と話していた時間に届いたものだった。

 結衣は立ち止まり、画面を見つめた。

 五年間、何も言わなかった人が戻ってきた。

 これからを少しずつ考え始めた人が、次の約束を待っている。

 どちらの存在も、なかったことにはできない。

〈はい。十八時半で予約しています〉

 結衣は返信した。

 すぐに既読がつく。

〈承知しました。楽しみにしています〉

 結衣も同じ言葉を返した。

〈私も楽しみにしています〉

 送信した言葉に、嘘はなかった。

 けれど今、その下には健太の「ただいま」が重なっている。

 結衣はスマートフォンを鞄へ戻し、再び歩き出した。

 駅までの道は、何度も歩いたはずなのに、いつもより長く感じられた。

 過去から戻ってきた足音と、未来へ向かい始めた足音。

 二つの音が胸の中で重なり、結衣はまだ、そのどちらにも歩調を合わせることができなかった。


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