第六章 五年ぶりの名前
人事異動のメールを開いたのは、その日の午後四時を過ぎてからだった。
年末出荷の変更処理を終え、営業担当者へ確認事項を送り、ようやく一息ついたところで、結衣は未読のまま残していた通知を思い出した。
件名は「一月一日付 人事異動について」。
添付された一覧を開く。
部長職の異動から始まり、支社長、課長、係長、一般社員と続いている。結衣は自分の部署に関係する名前がないか、上から順に目を通した。
東京本社営業企画部。
福岡支社営業一課より異動。
その下に記された名前を見た瞬間、指が止まった。
城島健太。
見間違いかと思った。
けれど、何度読み直しても文字は変わらない。
城島という名字はそれほど珍しくない。健太という名前も多い。だが、所属していた福岡支社も、年齢に見合う役職も、結衣の知る彼と一致している。
胸の内側で、何かが強く鳴った。
周囲の音が、一瞬だけ遠くなる。
電話の呼び出し音。キーボードを打つ音。複合機から紙が送り出される音。
すべてが聞こえているのに、意味を持たずに通り過ぎていく。
「佐伯さん?」
小野寺に呼ばれ、結衣は画面から顔を上げた。
「どうしました?」
「さっきから同じところを見てるけど」
「人事異動を確認していました」
「ああ、今日出たんだ」
小野寺が椅子を寄せ、結衣の画面を覗き込んだ。
反射的に閉じるほどの理由はない。人事異動は全社員に公開されている。
「営業企画、ずいぶん増えるね。福岡から戻ってくる人もいるんだ」
小野寺の視線が、名前の上を流れていく。
「城島健太さん。知ってる?」
結衣は一拍遅れて答えた。
「以前、東京本社にいた人です」
「そうなんだ。私は会ったことないかも」
「五年前に福岡へ異動したので、小野寺さんが今の部署へ来る前ですね」
「佐伯さんとは一緒に仕事してた?」
「営業担当と営業事務として、何度か」
嘘ではなかった。
健太は営業部にいて、結衣は営業事務だった。仕事で関わる機会は多かった。
ただ、それだけではなかったことを言わなかっただけだ。
「仕事できる人?」
「できると思います」
「じゃあ、年明けは少し楽になるかな。営業企画なら、新しいシステムにも関わるかもしれないね」
小野寺はそう言って、自分の席へ戻った。
結衣は一覧を閉じた。
画面には、先ほどまで作業していた受注データが表示されている。
商品名。取引先名。数量。納品日。
見慣れた数字へ戻れば、呼吸も元に戻ると思った。
けれど、何度入力欄を見ても、頭の奥には名前が残っていた。
城島健太。
五年ぶりに目にした四文字は、思っていた以上に鮮明だった。
*
健太が福岡への転勤を告げたのは、五年前の六月だった。
当時、結衣は三十歳。健太は三十一歳だった。
二人が付き合い始めて、四年目を迎えたばかりだった。
結衣は営業事務の仕事を任されるようになり、社内の業務改善チームにも選ばれていた。毎日忙しかったが、仕事が面白くなり始めた時期でもあった。
健太も営業部で大きな取引先を担当し、社内で将来を期待されていた。
福岡支社への異動は、左遷ではなかった。
地方の市場を経験し、将来的に本社の営業企画へ戻るためのものだと、上司から説明されたという。
期間は明確に決まっていなかった。
短ければ三年。
長ければ五年か、それ以上。
健太は転勤を断ろうとはしなかった。
結衣も、断ってほしいとは言わなかった。
二人とも、それが彼にとって大切な機会だと分かっていた。
問題は、その先だった。
健太は、結衣に一緒に来てほしいと言った。
結婚して、福岡で暮らさないかと。
強引な言い方ではなかった。結衣が仕事を好きなことも、ようやく責任ある立場を任され始めたことも理解していた。
だからこそ、話し合いは苦しかった。
「すぐに辞めてくれとは言わない」
健太は言った。
「向こうで仕事を探すまで、少し休んでもいい。結衣が働きたいなら、俺も応援する」
「今の仕事を辞めたくないの」
「東央食品じゃなきゃ駄目なのか?」
「今やっている仕事を、途中で投げ出したくない」
「投げ出すことにはならないだろう。転勤だって、結婚だって、人生の事情なんだから」
「事情があれば、手放してもいいものなの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
二人とも、相手を傷つけようとしていたわけではなかった。
健太は一緒に生きる方法を考えていた。
結衣は、自分が積み重ねてきたものを守ろうとしていた。
どちらも間違っていない。
だから、どちらも相手へ譲れなかった。
遠距離で付き合い続ける案も出た。
月に一度は会う。長い休みには一緒に過ごす。数年後、健太が東京へ戻れることになったとき、もう一度結婚を考える。
けれど、戻れる保証はなかった。
結衣が福岡へ移る気持ちになる保証もない。
期限のないまま待ち続けることを、二人とも約束できなかった。
最後に会った夜、健太は何かを言いかけた。
もし、向こうへ行っても、俺たちが――。
結衣は、その先を聞かなかった。
「言わないで」
そう遮った。
約束すれば、待たなければならない。
約束したのに別の人を好きになれば、自分か健太のどちらかが裏切ることになる。
何年先か分からない未来に、今の二人を縛りつけたくなかった。
健太は長い間黙り、最後には頷いた。
「分かった」
別れ際、二人は抱きしめ合った。
嫌いになったわけではなかった。
気持ちが冷めたわけでもない。
好きなまま、別れた。
だから結衣は、別れた後に健太へ連絡しなかった。
一度でも声を聞けば、あの決断が揺らぐと思った。
健太からも連絡は来なかった。
誕生日も、年末も、異動から一年がたった日も。
二人は約束をしなかった代わりに、何も言わないことを守った。
五年間、一度も。
結衣はそれを、終わった恋だと思っていた。
思い出しても苦しくなくなった。
友人から名前を出されても、静かに話せるようになった。
仕事を選んだことを後悔していないと言えるようにもなった。
それなのに、一覧に名前を見つけただけで、過去は昨日のことのように戻ってきた。
声も、笑い方も、歩く速さも。
すべてを身体のどこかが覚えていた。
*
その日の退勤後、結衣はまっすぐ駅へ向かった。
いつものスーパーには寄らなかった。
冷蔵庫には、前日に作ったミネストローネが残っている。パンもある。夕食を買う必要はなかった。
けれど本当は、食材の並ぶ明るい店内を歩く気になれなかった。
帰宅して、照明をつける。
「ただいま」
いつもと同じように声を出す。
部屋は何も変わっていなかった。
テーブルも、ソファも、青い皿も、すべて結衣が一人で選んだものだった。
健太と別れた後、この部屋へ引っ越した。
それ以前に暮らしていた部屋は、健太の住むマンションから二駅離れた場所にあった。週末にはどちらかの部屋で過ごし、平日の夜にも一緒に夕食を食べることがあった。
健太が福岡へ行った後、同じ沿線に住み続けることが苦しくなった。
駅のホームにも、商店街にも、二人で立ち寄った店にも記憶が残っていた。
結衣は更新の時期に合わせて引っ越した。
家具の多くも買い替えた。
思い出を捨てるためではない。
一人の生活を、自分の手で始めるためだった。
コートを脱ぎ、ミネストローネを鍋で温める。
食器棚から青い皿を一枚取り出した。
少し前まで、この皿に料理を盛るたび、一人分であることを意識していた。
最近は違った。
藤堂から届く短いメール。
仕事を終えた後の夕食。
遠回りした冬の道。
日常の端に、彼の姿が入り始めていた。
それなのに、健太の名前を見た瞬間、その温かさを忘れた。
結衣は温めたミネストローネを皿へ注ぎ、テーブルに座った。
スマートフォンを手に取り、連絡先を開く。
城島健太の名前はなかった。
別れた後、番号もメールアドレスも削除した。連絡を取らないためには、残さない方がいいと思ったからだ。
ただ、番号そのものは今でも覚えている。
最後の四桁。
誕生日とは関係のない、彼が気に入っていた数字。
五年使わなかった記憶が、指先へ戻ってくる。
結衣は電話の入力画面を開き、最初の三桁を押した。
そこで止めた。
何を話すつもりなのだろう。
東京へ戻ってくるんだね。
おかえり。
元気だった?
どれも、今の自分が先に伝える言葉ではない気がした。
人事異動の発表を見て、すぐに連絡したと思われるのも嫌だった。未練があると誤解されたくないというより、自分でも分からない気持ちを、健太に渡したくなかった。
結衣は入力した数字をすべて消した。
スマートフォンを伏せ、ミネストローネを口へ運ぶ。
温めたはずなのに、味がよく分からなかった。
そのとき、短い通知音が鳴った。
画面には藤堂の名前が表示されていた。
〈先日の食事のお返しですが、一月の第二週はいかがですか〉
結衣はしばらく、その文章を見つめた。
自分から誘うと約束していた。
藤堂は覚えていて、待っている。
健太の名前を見つけるまでは、どの店にしようか考えることが楽しかった。藤堂が行ったことのない店を探し、今度は結衣が支払おうと思っていた。
その気持ちまで、嘘になったわけではない。
過去が戻ってきたからといって、それまでの時間が消えるわけではない。
結衣は予定表を開いた。
第二週の金曜日は空いている。
〈十日の金曜日はいかがですか。会社の近くに、気になっている和食のお店があります〉
送信して間もなく、返信が届いた。
〈大丈夫です。楽しみにしています〉
楽しみにしています。
結衣はその言葉を読み、ゆっくり息を吐いた。
〈私も楽しみにしています〉
そう返した。
嘘ではなかった。
藤堂に会いたい。
もう一度、仕事ではない話をしながら食事がしたい。
その気持ちと、健太の名前に動揺したことは、同時に存在していた。
どちらかが偽物なのではない。
人の心は、一つの感情だけできれいに満たされるものではないのだろう。
結衣は冷めかけたミネストローネを食べた。
いつもの味が、少しずつ戻ってきた。
*
年末の最終出勤日まで、健太から連絡はなかった。
社内の人事異動が発表された以上、彼も結衣が知ったことは分かっているはずだった。
それでも、何も言ってこない。
結衣も連絡しなかった。
仕事納めの日、藤堂から短いメールが届いた。
〈今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします〉
取引先へ送る定型的な文面だった。
けれど、その下に一行だけ加えられていた。
〈十日の食事も楽しみにしています〉
結衣は周囲に見られないよう、少しだけ画面を小さくした。
〈こちらこそ、来年もよろしくお願いいたします。お店は予約しておきます〉
送った後、もう一文を加えるべきか迷った。
〈よいお年を〉
それだけを送り直す。
藤堂からも、同じ言葉が返ってきた。
年末年始、結衣は実家で二泊した。
母は例年どおり、近所の同年代の女性に子どもが生まれた話をした。父は年金と健康診断の話をし、兄は家族を連れて昼過ぎにやってきた。
結衣は姪と遊び、食事の片づけを手伝い、紅白歌合戦を途中まで見た。
健太が戻ってくることは、誰にも話さなかった。
両親は健太と会ったことがある。
正式な結婚の挨拶ではなかったが、四年付き合っていた間に、実家へ何度か連れてきた。母は健太を気に入っていた。
別れたと伝えたとき、母は理由を聞いた。
結衣が仕事を辞めなかったからだと知ると、残念そうな顔をした。
それでも「ついていけばよかったのに」とは言わなかった。
結衣が仕事を大切にしていることも、母なりに理解していたのだろう。
もし健太が東京へ戻ると知れば、母はどんな顔をするのだろう。
また会うのか。
やり直す可能性はあるのか。
そう聞かれても、結衣には答えられない。
一月二日の午後、自宅へ戻った。
駅前のスーパーで正月明けの食材を買い、静かな部屋へ帰る。
青い皿で簡単な雑煮を食べながら、結衣は一人の時間に安堵していた。
実家が嫌なわけではない。
けれど、自分の時間、自分の順番、自分で選んだ静けさへ戻ると、身体から余計な力が抜けていく。
誰かと暮らすことになれば、この静けさを手放すのだろうか。
それとも、分け合える相手がいるのだろうか。
健太と結婚していたら。
考えないようにしていた想像が浮かんだ。
福岡のどこかで暮らし、別の会社で働いていたかもしれない。子どもがいた可能性もある。正月には二人でどちらかの実家へ帰り、家族として並んでいたかもしれない。
だが、それは存在しなかった人生だった。
どれほど細かく想像しても、現実にはならない。
今の結衣には、十三年続けた仕事がある。
一人で選んだ部屋がある。
そして、次の金曜日に藤堂と食事をする約束がある。
結衣は空想を振り払い、食べ終えた皿を洗った。
*
一月六日。
仕事始めの日、結衣は普段より十五分早く出社した。
年末に止めた業務を確認し、取引先から届いているメールへ目を通す。朝礼では部長が年始の挨拶をし、今月から始まる試験運用について説明した。
「それから、営業企画部へ新しく異動してきた方が、午後に挨拶へ来るそうです」
部長の言葉に、結衣の指先がわずかに止まった。
「福岡支社から戻ってきた城島さんです。向こうで量販店向けの販売計画を担当していたので、新システムの取引先コード整理にも加わってもらうことになりました」
小野寺が結衣の方を見た。
「前に一緒に仕事してた人だよね」
「はい」
「じゃあ、やりやすいね」
「どうでしょう。五年もたっていますから」
結衣は画面を見たまま答えた。
午後二時頃、営業企画部の課長とともに、健太は執務室へ入ってきた。
最初に目に入ったのは、濃紺のスーツだった。
次に、以前より短く整えられた髪。日に焼けた肌。目元には五年前にはなかった細い線が刻まれている。
大きく変わったようにも、何も変わっていないようにも見えた。
健太は部長と挨拶を交わし、順番に社員たちへ頭を下げた。
「福岡支社から異動してきました、城島健太です。本社勤務は五年ぶりになります。営業企画部で、量販店向けの販売計画と受発注システムの連携を担当します。よろしくお願いいたします」
声を聞いた瞬間、胸の奥が強く反応した。
五年たっても、声は変わっていなかった。
人前で話すとき、最初の言葉だけ少しゆっくりになる癖も同じだった。
健太の視線が、結衣のところで止まる。
ほんの一秒ほどだった。
それから彼は、他の社員へ向けるのと同じ穏やかな表情で会釈した。
「よろしくお願いします」
結衣も同じように頭を下げた。
佐伯さん。
城島さん。
まだどちらも名前を呼んでいない。
それでも、名字で呼び合う場面を想像しただけで、二人の間に過ぎた五年の長さを感じた。
挨拶が終わると、健太は営業企画部の課長とともに部屋を出ていった。
結衣は息を吐き、入力途中だった画面へ戻った。
「以前と変わってた?」
小野寺が小声で聞く。
「少し」
「仕事できそうだね」
「できる人です」
「佐伯さんがそう言うなら安心だ」
小野寺はそれ以上尋ねなかった。
午後の業務を続けた。
数字を確認し、電話に出て、メールへ返信する。
健太が同じ建物にいる。
廊下ですれ違うかもしれない。会議に同席するかもしれない。仕事の連絡が届くかもしれない。
その事実が、意識の端から消えなかった。
午後五時を過ぎた頃、社内のメッセージが届いた。
差出人は城島健太だった。
〈お疲れさまです。突然すみません。今日、この後、十分だけ時間をもらえませんか〉
結衣は画面を見つめた。
断る理由を探した。
仕事が残っている。
年始で忙しい。
また後日にしてほしい。
どれも嘘ではない。
けれど、今日を避けても、いつかは話さなければならない。
〈六時頃なら大丈夫です〉
少し迷った末に送信する。
〈ありがとう。一階の休憩スペースで待っています〉
返事はすぐに届いた。
結衣は六時までに急ぎの仕事を終え、小野寺へ声をかけて席を立った。
一階の休憩スペースには、健太が一人で座っていた。
テーブルには、二本のペットボトルが置かれている。一本は無糖の紅茶、もう一本は水だった。
無糖の紅茶は、結衣が以前よく飲んでいたものだ。
今でも覚えていたのだろうか。
健太は結衣に気づくと、立ち上がった。
「急にごめん」
「ううん」
二人とも、次の言葉が出なかった。
周囲には誰もいない。
それでも、会社の中にいることが、二人の間へ薄い壁を作っている。
「座ろうか」
健太が言い、結衣は向かい側の椅子へ腰を下ろした。
「紅茶、飲む?」
「ありがとう」
受け取ると、冷たい感触が手のひらへ伝わった。
「まだ、これでよかった?」
「今も飲むよ」
「よかった」
健太は水の蓋を開けたが、口には運ばなかった。
「人事異動、見た?」
「見た」
「連絡しようか迷ったんだけど、会社から発表される前に俺から言うのも違うと思って」
「そうだね」
「発表された後も、すぐに連絡したら困らせるかと思った」
「健太らしいね」
名前が自然に口から出た。
城島さんではなかった。
言ってから気づいたが、訂正する方が不自然だった。
健太の目元が、少しやわらいだ。
「結衣に名前を呼ばれるの、久しぶりだな」
胸の奥が痛んだ。
懐かしいという言葉だけでは足りなかった。
「五年ぶりだから」
「そうだな」
健太はペットボトルを両手で持った。
「元気だった?」
「元気だったよ。仕事も続けてる」
「知ってる。今日、みんなの前に立ってる結衣を見て、すぐに分かった」
「何が?」
「ちゃんと、ここで頑張ってきたんだなって」
結衣は答えられなかった。
五年前、仕事を続けるために健太と別れた。
彼についていかなかったことを責められる可能性も、覚悟していた。
けれど、健太の言葉には責める響きがなかった。
「健太も、福岡で頑張ってたんでしょう?」
「まあ、それなりに」
「営業企画へ戻るための異動だって聞いた」
「向こうでやったことを、本社でも使えってことらしい」
「戻れてよかったね」
「うん」
健太は短く答えた。
表情には、単純な喜びだけではないものがあった。
「福岡を離れるのは、寂しくなかった?」
「寂しかったよ。最初は誰も知らなかったけど、五年もいれば、仲間もできた。行きつけの店も、よく話す近所の人もいた。最後の日は送別会を三回もやってもらった」
「三回?」
「部署と、取引先と、いつも行ってた店」
「飲みすぎたでしょう」
「最後の一週間は、ほとんど毎日」
健太が笑った。
その笑い方も変わっていなかった。
口を大きく開けるのではなく、少しうつむき、肩を揺らす。
結衣は何度も、その笑顔を隣で見ていた。
「福岡、好きになったんだね」
「うん。最初は東京に戻ることばかり考えてたけど、途中からは向こうで働くのも悪くないと思ってた」
「それでも戻ってきた」
「戻ることにした」
言い方に、何かが含まれているように聞こえた。
会社の命令だけではなく、自分で選んだということなのだろうか。
結衣は尋ねなかった。
健太も、すぐに理由を話そうとはしなかった。
「結衣」
「何?」
「俺が戻ってくるの、嫌だった?」
まっすぐな問いだった。
健太は昔から、聞かなければ分からないことを、曖昧なままにできない人だった。
「嫌ではないよ」
「本当に?」
「驚いた。名前を見たときは、仕事が止まるくらい」
「ごめん」
「謝らなくていい。健太が戻ってくることは、健太の仕事だから」
「そうだけど」
「嫌ではない。ただ、どうしたらいいか分からなかった」
「俺も分からなかった」
健太は正直に認めた。
「五年たって、普通に久しぶりって言えばいいのか、何もなかったように仕事の話だけすればいいのか」
「何もなかったわけではないからね」
「うん」
二人の間に沈黙が落ちた。
五年間の出来事を、十分で埋められるはずがない。
結衣は仕事を続け、健太は福岡で新しい生活を作った。
二人が知らない時間は、付き合っていた四年間よりも長くなっている。
それでも向かいに座る健太は、初めて会う人ではなかった。
表情の変化で、次にどんなことを言おうとしているのか、少し分かってしまう。
「今日は、顔を見ておきたかった」
健太が言った。
「それだけ?」
「今日は、それだけ」
今日はという言葉が残った。
「今度、もう少し話せないかな」
「仕事の話?」
「仕事以外の話」
健太は結衣から視線をそらさなかった。
「無理にとは言わない。結衣に今、誰かいるなら、二人で会うのはよくないと思うし」
藤堂の顔が浮かんだ。
誰かいるのかと聞かれたら、何と答えればいいのだろう。
付き合っている人はいない。
それは事実だった。
けれど、いないと言い切ると、藤堂の存在まで消してしまうような気がした。
「付き合っている人はいない」
結衣は答えた。
「でも、少し気になっている人はいる」
健太の表情が、ほんのわずかに変わった。
それでも笑顔を作ることも、詳しく尋ねることもしなかった。
「そうか」
「うん」
「教えてくれて、ありがとう」
静かな声だった。
健太を傷つけたかもしれない。
そう思ったが、隠す方が不誠実だった。
「それでも、話したいことがある」
健太は続けた。
「今すぐ答えを求めるようなことじゃない。五年前のことも、この五年間のことも、一度きちんと話したい」
「どうして今?」
「戻ってきたから」
「戻ってきたら、話そうと思ってたの?」
「最初の頃は、ずっと思ってた」
健太はペットボトルのラベルを指でなぞった。
「でも、三年目くらいから、東京へ戻れるか分からなくなった。向こうで別の役割を任されて、このまま福岡に残る可能性もあった」
「そうだったんだ」
「その状態で連絡するのは、自分勝手だと思った。結衣の生活をまた揺らすだけになるから」
「だから、何も言わなかった」
「うん」
健太は顔を上げた。
「今も自分勝手かもしれない。でも、東京に戻ってきたのに、何も話さないままでいる方が後悔すると思った」
まっすぐな目だった。
五年前より落ち着いて見えるが、根本は変わっていない。
健太は、自分の気持ちをごまかせない人だった。
「分かった」
結衣は答えた。
「一度、話そう」
「いいのか?」
「話を聞くことと、何かを約束することは違うでしょう?」
「そうだな」
「日にちは、また連絡して」
「分かった」
健太は少しだけ笑った。
約束した十分は、すでに過ぎていた。
二人は立ち上がった。
空になっていないペットボトルを持ち、エレベーターの前まで並んで歩く。
「結衣」
健太が呼んだ。
「何?」
「東京へ戻ってきて、いろんな人に同じことを言ったんだけど」
「うん」
「結衣には、ちゃんと言いたかった」
健太は一度息を吸った。
「ただいま」
その言葉を、結衣は五年前にも想像したことがあった。
健太が東京へ戻ってきたとき、自分はどこで何をしているのか。
二人はまだ待っているのか。
それとも、それぞれ別の人と生きているのか。
何も分からないまま、口にしなかった未来。
その未来が、今、目の前に立っている。
結衣はすぐには答えられなかった。
健太も急かさずに待った。
「おかえり」
ようやく言葉にすると、健太の目元がやわらいだ。
「うん」
エレベーターが到着した。
健太は営業企画部のある階へ戻り、結衣は自分の部署へ向かった。
扉が閉まる直前まで、二人は互いを見ていた。
*
自席へ戻ると、小野寺はすでに帰っていた。
時計は午後六時半を過ぎている。
結衣はパソコンを終了し、コートを着た。
健太からもらった無糖の紅茶は、半分ほど残っていた。鞄へ入れようとして、そのラベルを見つめる。
五年前と同じ飲み物。
今も結衣が好きかどうか、確信がないまま買ったのだろう。それでも健太は覚えていた。
会社を出ると、冬の夜気が頬へ触れた。
駅へ向かいながら、スマートフォンを開く。
藤堂からメッセージが届いていた。
〈十日のお店ですが、十八時半でよろしいでしょうか〉
健太と話していた時間に届いたものだった。
結衣は立ち止まり、画面を見つめた。
五年間、何も言わなかった人が戻ってきた。
これからを少しずつ考え始めた人が、次の約束を待っている。
どちらの存在も、なかったことにはできない。
〈はい。十八時半で予約しています〉
結衣は返信した。
すぐに既読がつく。
〈承知しました。楽しみにしています〉
結衣も同じ言葉を返した。
〈私も楽しみにしています〉
送信した言葉に、嘘はなかった。
けれど今、その下には健太の「ただいま」が重なっている。
結衣はスマートフォンを鞄へ戻し、再び歩き出した。
駅までの道は、何度も歩いたはずなのに、いつもより長く感じられた。
過去から戻ってきた足音と、未来へ向かい始めた足音。
二つの音が胸の中で重なり、結衣はまだ、そのどちらにも歩調を合わせることができなかった。




