第五章 少しだけ長い帰り道
十二月も半ばを過ぎると、東央食品の社内は一年で最も慌ただしい時期に入った。
年末年始の出荷予定が取引先ごとに異なり、通常の注文に加えて、正月向け商品の追加や変更が次々と届く。倉庫の最終出荷日に間に合わせるため、営業担当者からは「今日中に」「できれば午前中に」という依頼が増えていた。
結衣は朝から電話と画面の間を往復していた。
「佐伯さん、北央ストアの追加、今日中にいける?」
営業担当者の一人が、紙を持って近づいてくる。
「納品日はいつですか?」
「二十六日」
「それなら、倉庫への締め切りは今日の三時です。今、十一時四十分なので、商品と数量が確定しているなら間に合います」
「たぶん、これで確定」
「たぶんでは処理できません。先方へ確認してください」
「でも、担当者が外出してるんだよ」
「戻る時間は?」
「二時頃」
「では、二時にもう一度確認して、確定したものを持ってきてください。仮の数字で倉庫を動かす方が時間がかかります」
「分かった。二時ね」
営業担当者が自席へ戻る。
その会話を聞いていた小野寺が、隣で笑った。
「最近、前よりはっきり言うようになったね」
「そうですか?」
「前なら、たぶんでも受け取って、後から変更が出たら自分で直してたでしょう」
「それでは倉庫にも迷惑がかかりますから」
「それは前から分かってたじゃない」
結衣は返事をせず、画面へ視線を戻した。
思い当たることはあった。
藤堂に、自分の負担を後回しにしていると言われてから、仕事の受け方を少し変えた。
できないことは、できないと伝える。
確認が必要なものは、相手に確認してもらう。
以前なら、自分で営業担当者の代わりに取引先へ電話をかけていた。けれど、営業が確認すべきことまで結衣が引き受ければ、その状態が当たり前になる。
誰かが困らないようにしたいという気持ちは、今も変わらない。
ただ、その「誰か」の中へ、自分と倉庫の担当者も入れるようになった。
「藤堂さんに何か言われた?」
小野寺が尋ねた。
「どうして藤堂さんが出てくるんですか?」
「だって、最近よく話してるでしょう。あの人、はっきり言いそうだから」
「システムの打ち合わせをしているだけです」
「物流センターにも二人で行ったんでしょう?」
「小野寺さんが休んだからです」
「申し訳ありませんでした」
小野寺は笑いながら両手を合わせた。
あの日のことを、結衣は誰にも詳しく話していなかった。
倉庫で確認した業務は報告書にまとめた。しかし、帰りの電車が止まったことも、喫茶店で藤堂と話したことも伝えていない。
仕事とは関係のない時間だったからだ。
藤堂が結婚する予定だった人のことも、誰にも言っていない。
言葉にして約束したわけではない。それでも二人だけの間に置かれた話を、結衣は大切にしたかった。
あの日から、藤堂とのやり取りが大きく変わったわけではない。
メールはほとんどが仕事の連絡だった。新しい画面の確認、商品コードの整理、倉庫側で必要となる入力項目。
ただ、以前なら用件だけで終わっていた文章に、ときどき短い言葉が加わるようになった。
〈物流センターで使用したカイロと同じものを買いました〉
〈今度は倉庫へ入る前に使ってください〉
〈説明を読んで使います〉
別の日には、藤堂から東央食品の新商品について質問が届いた。
〈きのこのクリームスープと、きのこポタージュの違いは何ですか〉
結衣は商品資料を添付しようとしたが、何を知りたいのか気になって尋ねた。
〈購入を検討されていますか〉
〈売り場で二つ並んでいたので、どちらにするか迷いました〉
〈クリームスープは具材の食感があり、ポタージュはなめらかです。パンと合わせるならクリームスープがおすすめです〉
〈では、そちらにします〉
数日後、感想が届いた。
〈パンと合いました〉
それだけのやり取りだった。
それでも商品を手に取った藤堂の姿を想像すると、結衣の胸は静かに温かくなった。
自分が関わっている商品が誰かの日常に入ることは、いつでも嬉しい。
けれど、相手が藤堂だから嬉しいのだということも、もう否定できなかった。
*
その日の午後、藤堂は年内最後の打ち合わせのため、東央食品を訪れた。
午後三時から始まった会議では、取引先コードを管理する新しい画面について確認した。
申請者が変更内容を入力し、承認者が確認する。未処理の申請は一覧に表示され、一定時間が過ぎると通知が届く。
結衣たちが求めた内容は、ほとんど反映されていた。
「これなら使いやすいと思います」
結衣が言うと、藤堂は画面を切り替えた。
「では、来月から試験用のデータで操作していただきます。実際に使うと問題が出ると思うので、気づいたことはすべて記録してください」
「問題が出る前提なんですね」
「出ないと思っている方が危険です」
「相変わらず慎重だなあ」
部長が笑う。
「藤堂さんは、成功したと思った瞬間に見落としが始まるそうです」
結衣が言うと、藤堂が顔を上げた。
「覚えていたんですか」
「言われたことは、だいたい覚えています」
以前、藤堂が口にした言葉を返した。
部長は二人を見比べたが、何も言わなかった。
会議が終わったのは午後四時半だった。
部長と小野寺が先に会議室を出て、結衣は藤堂と資料を片づけた。
「年内の打ち合わせは、今日が最後ですね」
結衣が言った。
「何もなければ」
「年末にそういう言い方をすると、何か起きそうです」
「では、何も起きません」
「言い直しても同じです」
藤堂は接続用のケーブルを鞄へ入れた。
「新年は、六日から伺います」
「こちらも仕事始めは六日です」
「知っています」
「そうでしたね。予定表を共有していますから」
年が明ければ、試験用データを使った確認が始まる。藤堂とはこれまで以上に頻繁に会うことになるだろう。
その事実を思うと、年末の慌ただしさも少しだけ違って感じられた。
会議室を出たところで、執務室から小野寺の声がした。
「佐伯さん、ちょっと来て」
普段より切迫した声だった。
結衣が急いで戻ると、小野寺の画面には、翌週の出荷予定一覧が表示されていた。
「冷凍グラタンの注文が、全部消えてる」
「全部?」
「北央ストアだけじゃない。今朝までは入ってたのに、一覧に出てこないの」
結衣は自分の端末で同じ画面を開いた。
確かに、複数の取引先から受けていた冷凍グラタンの注文が表示されていない。個別の受注データは残っているが、倉庫へ送る出荷一覧から抜けている。
「抽出条件は確認しましたか?」
「何も変えてない」
結衣は商品情報を開いた。
冷凍グラタンは年末の特別商品で、通常の商品とは異なる区分が設定されている。
午前中までは正しく表示されていた。それが午後になって消えたのなら、誰かが商品情報を変更した可能性がある。
「変更履歴を見ます」
画面を確認すると、午後二時十五分に商品区分が書き換えられていた。
変更したのは商品企画部の担当者だった。
結衣が内線をかけると、担当者は商品名の表示を修正しただけだと答えた。区分を変えた認識はないという。
「保存するときに、初期値へ戻ったのかもしれません」
結衣は受話器を置いた。
「区分を元に戻せば、一覧へ出ると思います」
「でも、もう五時だよ。倉庫へ送るデータは?」
「六時までなら間に合います。念のため、他の商品にも同じ変更がないか確認します」
「手伝う」
小野寺が言った。
そのとき、後ろから藤堂の声がした。
「変更履歴を見せてもらえますか」
帰ったと思っていた藤堂が、鞄を持ったまま立っていた。
「まだいらしたんですか?」
「何か問題が起きたようだったので」
「今のシステムのことです。新しいシステムとは関係ありません」
「同じ問題が、新しい方でも起きる可能性があります」
藤堂は結衣の隣へ来た。
画面を見せると、すぐに状況を理解した。
「商品名を修正すると、他の項目まで初期値に戻るんですね」
「すべてではありません。特別商品だけに設定されている項目だと思います」
「新しいシステムでは、変更した項目以外を上書きしないようにします。それと、出荷対象から外れる変更をしたときには警告が必要ですね」
「藤堂さん」
結衣は彼を見た。
「今日はもう、打ち合わせが終わっています。ここからは私たちの仕事です」
「分かっています」
「でしたら」
「今後のために確認させてください。作業を邪魔しないようにします」
藤堂の声は静かだったが、帰るつもりがないことは伝わった。
結衣はそれ以上言わなかった。
三人で分担し、午後に変更された商品情報を確認した。
商品名や表示順を修正されたものが、全部で二十七件。そのうち五件で、商品区分が初期値へ戻っていた。
結衣と小野寺が正しい区分を確認し、藤堂が変更前後のデータを整理する。
午後五時四十分、すべての修正が終わった。
結衣は出荷予定一覧を作り直し、倉庫へ送信した。電話でデータが届いていることを確認すると、ようやく肩の力が抜けた。
「間に合った……」
小野寺が椅子の背にもたれた。
「藤堂さん、ありがとうございました。すみません、こんな時間まで」
「今の業務を見られたので、助かりました」
「本当に仕事が好きですね」
「好きかどうかは分かりません」
「好きじゃないのに、残ってくれたんですか?」
小野寺が尋ねると、藤堂は一瞬、結衣の方を見た。
「同じ問題を、新しいシステムで起こしたくなかったので」
仕事として正しい答えだった。
それなのに、一度こちらを見たことが心に残った。
「私は先に帰るね」
小野寺が立ち上がった。
「この後、約束があるんですか?」
「夫が駅まで迎えに来てるの。今日は結婚記念日だから、食事に行く予定だったんだけど」
「そんな日に残ってくださったんですか?」
「出荷が止まったら帰れないもの。まだ予約には間に合うから大丈夫」
小野寺はコートを着ながら、結衣と藤堂を交互に見た。
「二人も早く帰った方がいいよ」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
小野寺はどこか楽しそうに手を振り、執務室を出ていった。
部長も他の社員も、すでに退勤していた。
広い室内に残っているのは、結衣と藤堂だけだった。
空調の音と、遠くの複合機が待機状態へ切り替わる音が聞こえる。
「藤堂さんも、ありがとうございました」
結衣は改めて言った。
「おかげで早く確認できました」
「私はデータを並べただけです」
「それでも、一人増えるだけで違います」
「では、役に立ったということにしておきます」
「素直に認めてください」
「分かりました。役に立ちました」
藤堂は真顔だった。
結衣は笑い、パソコンの電源を落とした。
時計を見ると、午後六時十五分になっている。
思っていたより早く終わった。それでも昼食を簡単に済ませたせいか、急に空腹を感じた。
「佐伯さん」
コートを着た藤堂が、少し言いにくそうに呼んだ。
「はい」
「この後、予定はありますか」
「ありません」
すぐに答えてから、少し間を置けばよかったと思った。
予定がないことを気にしているわけではない。それでも、あまりにも迷いなく返事をしてしまった。
藤堂は何も気にしていない様子で続けた。
「夕食を食べて帰りませんか」
結衣は藤堂を見た。
「夕食ですか?」
「はい」
「二人で?」
「他に誰かを呼んだ方がいいですか」
「いえ、そういう意味ではなくて」
藤堂の表情には、冗談を言っている気配がない。
「今日、手伝っていただいたお礼です」
結衣が言うと、藤堂は首を振った。
「私がお礼を言われる側では?」
「どちらでも構いません。お互いに今日の仕事が終わったので」
「それは、お疲れさまの食事ということですか?」
「そう考えていただければ」
藤堂はそこで言葉を切った。
「ただ、佐伯さんが仕事の相手とは食事をしないと決めているなら、忘れてください」
忘れてください。
藤堂は迷ったとき、よくその言葉を使う。
本当に忘れてほしいのではなく、断る余地を残しているのだと、結衣には分かり始めていた。
「決めていません」
結衣は答えた。
「食事をして帰りましょう」
藤堂の目元が、わずかにやわらいだ。
「何が食べたいですか?」
「藤堂さんは?」
「好き嫌いはありません。甘いもの以外なら」
「夕食に甘いものだけを食べる予定はありません」
「それなら、何でも大丈夫です」
二人は並んで会社を出た。
*
会社から駅へ向かう途中に、小さな洋食店があった。
何度か前を通ったことはあるが、結衣は一人で入ったことがなかった。窓から見える店内には、木製のテーブルが六つほど並び、壁には古い外国映画の写真が飾られている。
「ここはどうですか?」
結衣が尋ねると、藤堂は入口のメニューを確認した。
「クリーム煮があります」
「スープではありませんから、水を加えないでくださいね」
「店員さんに確認します」
二人は店へ入った。
奥の二人席へ案内され、向かい合って座る。
結衣は鶏肉の赤ワイン煮を、藤堂は白身魚のクリーム煮を選んだ。藤堂はビールを一杯、結衣は白ワインを頼んだ。
「藤堂さんがお酒を飲むところ、初めて見ます」
「仕事中は飲みませんから」
「私もです」
「佐伯さんは、よく飲むんですか?」
「家で、ときどきワインを一杯くらいです。一人だと、それ以上は飲みません」
「どうしてですか」
「酔っても介抱してくれる人がいませんから」
「一人で酔うのは危険ですね」
「そこまで酔いません」
「では、何のための一杯ですか」
「一日を終えるためです」
結衣はグラスに注がれた白ワインを見た。
「仕事を終えて、夕食を作って、ワインを少し飲む。そうすると、今日も終わったと思えるんです」
「毎日、料理をするんですか?」
「毎日ではありません。疲れた日は、惣菜を買います」
「それでも、私よりは作っていると思います」
「藤堂さんは何を食べているんですか?」
「外で食べるか、買って帰ります。ごはんは炊けます」
「自慢するほどのことではありません」
「味噌汁も作れます」
「具は?」
「豆腐」
「ほかには?」
「わかめ」
「それなら、十分です」
「今、少し判断を下げませんでしたか?」
藤堂が真剣に聞く。
「下げていません。最低限、生きていけます」
「褒められている気がしません」
結衣は声を立てて笑った。
会社の会議室で向かい合うときとは違う。
パソコンも資料もない。確認するべき項目も、決めなければならない期限もない。
用件がないまま藤堂と話すことに、最初は少し緊張していた。
けれど、言葉が途切れても焦らずにいられた。藤堂は沈黙を埋めるためだけの話をしない。結衣も、無理に次の話題を探さなくてよかった。
料理が運ばれてくる。
藤堂は白身魚へナイフを入れ、クリームソースを少しだけ口にした。
「濃いですか?」
結衣が尋ねる。
「適切な濃さだと思います」
「水を加えたくなりませんか?」
「なりません」
「安心しました」
藤堂は小さく息を吐いた。
「その話は、いつまで続くんですか」
「藤堂さんが新しい失敗をするまでです」
「失敗を期待されていますか?」
「少しだけ」
「失敗しないようにします」
「それでは、面白くありません」
結衣が言うと、藤堂の手が止まった。
「佐伯さんは、私といると面白いですか」
不意に尋ねられ、結衣は言葉に詰まった。
藤堂は自分の質問に気づいたように視線を落とした。
「すみません。今のは」
「楽しいです」
結衣は答えた。
藤堂が顔を上げる。
「藤堂さんは、あまり笑いませんけど、話していると楽しいです」
「そうですか」
「意外そうですね」
「言われたことがないので」
「一度も?」
「話しやすいとは、特に」
「私は話しやすいと思います」
「質問が多いのに?」
「分からないことを分からないままにしない人だからです。適当に分かったふりをされるより話しやすいです」
「佐伯さんも、同じです」
「私は質問が多いですか?」
「いえ。話したくないことは、聞かないので」
藤堂は手元の料理を見た。
「だから、話しやすいんだと思います」
喫茶店で、藤堂が婚約していたことを話したときのことだろう。
結衣は理由を聞かなかった。
特別なことをしたつもりはない。ただ、相手が閉じている扉を勝手に開けるべきではないと思っただけだった。
「話したいことは、話してくださって大丈夫です」
結衣は言った。
「聞くだけなら、できますから」
「聞くだけですか?」
「意見が必要なら、言います」
「遠慮なく?」
「少しだけ加減します」
藤堂の口元が緩んだ。
今度は、笑ったとすぐに分かった。
ほんの短い笑顔だったが、結衣の心にやわらかな光が差した。
食事を続けながら、休日の過ごし方を話した。
藤堂は本を読むことが多いという。仕事に関係する本だけでなく、歴史小説や紀行文も読む。人の多い場所が苦手で、休日は近所の書店か図書館へ行くことが多かった。
「旅行はしないんですか?」
「以前は行きました。最近は、あまり」
「一人で?」
「一人のこともありました」
以前という言葉の中に、誰かと出かけた記憶が含まれている気がした。
結衣はそれ以上聞かなかった。
「佐伯さんは?」
「映画を観たり、買い物をしたり。たまに友人と会います」
「一人で出かけるのは平気ですか」
「平気です。一人で映画を観る方が、観たい作品を選べますから」
「食事も?」
「店によります。入りやすい店と、入りにくい店があります」
「ここは?」
藤堂が尋ねた。
結衣は店内を見回した。
「一人でも入れたと思います。でも、今までは通り過ぎていました」
「今日は入った」
「藤堂さんが一緒でしたから」
口にした後、今度は結衣が視線を落とした。
深い意味があるように聞こえただろうか。
藤堂は何も言わなかった。
けれど、グラスを持ち上げる指が一度止まったことに、結衣は気づいていた。
「一人でできることと」
藤堂が静かに言った。
「一人でしたいことは、違いますね」
喫茶店で結衣が話した言葉を覚えていたのだ。
「はい。違うと思います」
「私も最近、少し分かるようになりました」
「最近?」
「誰かと話しながら食事をするのも、悪くないと思ったので」
藤堂は結衣を見た。
それ以上の言葉はなかった。
けれど、誰かという言葉が自分を指していることは分かった。
結衣は白ワインを一口飲んだ。
胸の奥へ落ちていく温度が、いつもより少し高く感じられた。
*
会計のとき、藤堂が二人分を払おうとした。
「待ってください。自分の分は払います」
「私から誘ったので」
「仕事のお礼なら、私がお支払いする立場です」
「お礼ではありません」
藤堂が言った。
「では、何ですか?」
「一緒に食事をしたかっただけです」
結衣は財布を持ったまま、動けなくなった。
藤堂も、自分が何を言ったのか理解したようだった。
「今の言い方は」
「忘れません」
結衣が答えた。
「都合のいいときだけ、忘れてくださいと言わないでください」
藤堂は困ったように黙った。
「でも、全額払っていただく理由にはなりません。半分出します」
「では、今日は私が払います」
「聞いていましたか?」
「次に、佐伯さんがコーヒーをごちそうしてください」
「それでは金額が合いません」
「細かいですね」
「藤堂さんに言われたくありません」
「では、そのときに調整します」
「そのとき?」
「次に食事をすることがあれば」
藤堂は会計を済ませ、先に店の外へ出た。
結衣は財布を鞄へ戻しながら、その背中を追った。
次に食事をすることがあれば。
はっきりと約束したわけではない。
それでも、今夜だけで終わらせるつもりではないことが、言葉の端に残っていた。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
大通りの街路樹には、白と金色の電飾が巻かれている。冬の夜の中に、無数の小さな光が浮かんでいた。
「駅は、あちらですね」
藤堂が大通りの先を指した。
「まっすぐ行けば、七分くらいです」
結衣は答えた。
「別の道もありますか」
「一本裏の遊歩道を通る道があります。でも、少し遠回りです」
「どのくらい?」
「五分くらい長くなります」
藤堂は大通りと、横へ伸びる細い道を見比べた。
「寒くなければ、そちらを歩きませんか」
「どうしてですか?」
「大通りは人が多いので」
理由は、それだけではない気がした。
藤堂は人混みが得意ではない。だから静かな道を選びたいだけかもしれない。
けれど、その道が少し長いと知っていて選んだことを、結衣は嬉しく思った。
「いいですよ」
二人は遊歩道へ入った。
車道から離れると、街の音が少し遠くなった。道沿いの低い植え込みにも小さな電飾が飾られ、足元を淡く照らしている。
歩く人は少なかった。
ときどき自転車が通り過ぎるたび、藤堂は自然に車道側へ寄った。結衣の前へ出るのでも、腕を引くのでもない。ただ、自転車と結衣の間に自分が入るように位置を変える。
その動きはあまりにもさりげなく、本人は意識していないようだった。
「藤堂さんは、クリスマスはどうするんですか?」
結衣が尋ねた。
数日後にはクリスマスだった。遊歩道の電飾も、そのために飾られているのだろう。
「仕事です」
「夜は?」
「帰ります」
「予定はないんですか?」
「ありません」
藤堂は迷わず答えた。
「佐伯さんは?」
「同じです。仕事をして、帰ります」
「友人と会ったりは?」
「友人は家族と過ごします。私も、わざわざクリスマスに予定を入れようとは思いません」
「寂しくありませんか」
「聞き方が直接的ですね」
「すみません」
「少しは寂しいかもしれません。でも、一人で過ごす人はたくさんいます」
「多いから平気とは限らないでしょう」
以前、藤堂に言われた言葉と似ていた。
「それも覚えていたんですか?」
「言われたことは、だいたい覚えています」
「私の言葉ではありません。藤堂さんが言ったんです」
「そうでしたか」
「ご自分の言葉も覚えていてください」
藤堂は小さく息を漏らした。
笑ったのだと分かった。
「藤堂さんは、寂しいんですか?」
結衣は聞いた。
彼はしばらく答えなかった。
街路樹の電飾が、横顔を淡く照らしている。
「寂しいと思わないようにしていました」
やがて、藤堂が言った。
「思わないように?」
「一人でいるのは、自分で選んだことなので」
「自分で選んだなら、寂しいと思ってはいけないんですか?」
「そう考えていました」
「私も、似たようなことを考えていました」
一人の生活に満足しているのに、寂しいと感じる夜がある。
その気持ちを認めれば、これまで選んできたものまで間違いになるような気がしていた。
「でも、違うのかもしれません」
結衣は続けた。
「寂しい日は寂しい。それだけで、一人の生活を否定することにはならないと思います」
「誰かといたい日もある?」
「あります」
「今日も?」
藤堂の問いに、足が止まりそうになった。
結衣は隣を歩く彼を見た。
藤堂は前を向いている。けれど、答えを待っていることは分かった。
「今日は、一人で帰るより、藤堂さんと食事ができてよかったです」
結衣は言った。
藤堂がゆっくりこちらを向く。
「私もです」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
遊歩道の先に、駅の明かりが見えてきた。
遠回りしたはずなのに、思っていたより早く着いてしまった気がした。
駅前には多くの人が行き交っている。改札へ向かう階段の手前で、二人は立ち止まった。
「今日はありがとうございました」
結衣が言った。
「こちらこそ」
「次は私が払いますから」
「コーヒーでは?」
「食事代との差額が大きすぎます」
「では、食事でも構いません」
藤堂は静かに答えた。
次の食事。
今度は、仮定ではなかった。
「分かりました」
結衣は頷いた。
「今度は私がお誘いします」
藤堂の表情が、少しだけやわらいだ。
「待っています」
その一言が、胸の奥へ落ちた。
待つという言葉を、藤堂はどんな気持ちで口にしたのだろう。
先の約束を避けている人が、次の時間を待つと言った。
ほんの小さな約束だった。
日も場所も決まっていない。
変わろうと思えば、簡単に変えられる。
それでも結衣には、その曖昧さが心地よかった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
二人はそれぞれの改札へ向かった。
地下鉄のホームへ下りる途中、結衣は一度だけ振り返った。
藤堂の姿は、もう人の流れに紛れて見えなかった。
帰りの電車で、結衣は窓に映る自分を見た。
口元が少し緩んでいる。
一人で食事をすることに慣れた自分が、誰かと食卓を囲んだ夜を嬉しいと思っている。
それは一人の生活を捨てたいということではなかった。
今まで守ってきた日常の中へ、誰かの存在が加わる余地を見つけたのだ。
自宅へ着き、照明をつける。
「ただいま」
静かな部屋に声が落ちる。
コートを脱ぎ、冷蔵庫から水を出す。夕食は済ませているため、青い皿を使う必要はなかった。
水切りかごには、朝に洗った一枚の皿が残っている。
結衣はそれを食器棚へ戻した。
隣には、ほとんど使っていない白い皿が重ねてある。
いつか、二枚を同時に使う日が来るのだろうか。
藤堂と食事をしたからといって、未来が決まったわけではない。
彼が結衣をどう思っているのかも、自分の気持ちがどこへ向かっているのかも、まだ分からない。
それでも、今夜交わした言葉は残っている。
今度は私がお誘いします。
待っています。
結衣はスマートフォンを手に取った。
藤堂へ無事に帰宅したと送るべきか迷っていると、先にメッセージが届いた。
〈今日はありがとうございました。ごちそうさまでした、ではありませんが、おいしかったです〉
結衣は笑った。
〈こちらこそ、ありがとうございました。次は私がごちそうします〉
〈覚えておきます〉
〈言われたことは、だいたい覚えているんですよね〉
〈はい。忘れません〉
表示された文字を見つめる。
忘れません。
簡単な言葉だった。
けれど、約束を信じなくなった人が書いた言葉だと思うと、少しだけ重く感じられた。
〈おやすみなさい〉
結衣が送ると、藤堂からも同じ言葉が返ってきた。
スマートフォンをテーブルへ置き、窓のカーテンを閉める。
遠回りした道は、ほんの五分長くなっただけだった。
それでも結衣には、その五分が、きれいに整えていた日常から未来へ伸びる、細い道のように思えた。
週が明けた月曜日の朝、結衣が出社すると、社内メールの受信箱に一通の通知が届いていた。
件名は、「一月一日付 人事異動について」。
年始の異動者と、地方支社から東京本社へ戻る社員の一覧が添付されている。
結衣はすぐには開かなかった。
年末の出荷処理を終えてから確認しようと、未読のまま受信箱に残した。
その添付資料に、五年間、一度も目にしなかった名前が記されていることを、結衣はまだ知らなかった。




