第四章 過去を話さない人
十二月最初の月曜日、結衣は藤堂とともに東央食品の物流センターを訪れることになった。
新しい受発注システムを倉庫管理の仕組みと連携させるためには、注文を受けてから商品が出荷されるまでの流れを確認する必要がある。
本来は小野寺も同行する予定だったが、前日の夜から熱を出し、急きょ休むことになった。
「佐伯さん一人でも大丈夫?」
出発前、部長から聞かれた。
「大丈夫です。現場のことは倉庫の担当者が説明してくださいますから」
「そうじゃなくて、藤堂さんと二人になるけど」
「仕事ですよね?」
「ああ、もちろん仕事だけど」
「それなら問題ありません」
結衣が答えると、部長は自分から聞いておきながら、なぜか困ったように笑った。
物流センターは埼玉県南部にあり、都内の本社から電車と路線バスを乗り継いで一時間半ほどかかる。
午前八時四十分、結衣は待ち合わせ場所である東京駅の改札前に着いた。
藤堂はすでに来ていた。
黒いコートの下に濃いグレーのスーツを着て、柱のそばに立っている。片手には仕事用の鞄、もう片方の手にはコンビニエンスストアの小さな紙袋を持っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「お待たせしましたか?」
「七分ほどです」
あまりにも正確に答えられ、結衣は時計を見た。
「待ち合わせは八時五十分ですよね」
「はい」
「では、私が遅れたわけではありませんよね?」
「もちろんです。私が早く来ただけです」
「七分ほど待ったと言われると、遅刻したような気持ちになります」
「すみません。言い方がよくありませんでした」
「冗談です」
藤堂がわずかに眉を動かす。
「佐伯さんも、真顔で冗談を言うんですね」
「藤堂さんの影響かもしれません」
「それは、あまりいい影響ではありません」
結衣は小さく笑い、二人でホームへ向かった。
平日の朝らしく、構内は通勤客で混雑していた。結衣が人の流れを避けようとすると、藤堂が一歩前へ出た。無理に道を開けるのではなく、歩く速さを少し落とし、結衣が後ろからついてこられる位置を保っている。
ホームへ上がると、冷たい風が吹き抜けた。
「電車が来るまで、あと四分です」
藤堂は電光掲示板を確認した。
「今日は迷いませんでしたね」
「何の話ですか?」
「以前、コーヒーマシンの操作を間違えたとおっしゃっていたので、駅も苦手なのかと」
「機械の操作と方向感覚は別です」
「方向感覚には自信があるんですか?」
「地図があれば」
「ない場合は?」
「迷います」
藤堂は紙袋からペットボトルの水を取り出した。
その下に、見覚えのある橙色の箱が入っている。
「それ、うちの商品ですよね」
結衣が言うと、藤堂は紙袋の中を見た。
「朝食です」
「スープだけですか?」
「パンもあります」
奥から小さなパンの袋が見えた。
「ずいぶん気に入ってくださったんですね」
「手軽なので」
「味ではなく?」
「味も気に入っています」
藤堂は答えた後、少し間を置いた。
「正しく作れば」
「今日は水を入れていませんよね?」
「給湯室で確認しました」
「会社で食べてきたんですか?」
「はい。朝は時間がなかったので」
そこまで聞いて、結衣は疑問を覚えた。
藤堂は待ち合わせより早く来る人だ。朝食を取る時間も計算していそうなのに、今日は会社で慌ただしく済ませている。
「昨日も遅かったんですか?」
「昨日は休みです」
「では、今朝寝坊したんですか?」
「そういうことになります」
「藤堂さんが?」
「私も寝坊します」
「何時に起きたんですか?」
「七時十分です」
「それで会社へ行って、朝食を食べて、八時四十三分には東京駅にいたんですか?」
「会社は近いので」
「十分、早いと思います」
藤堂は少し考えた。
「普段が早すぎるのかもしれません」
到着した電車に乗り、並んで座る。
車内は混んでいたが、都心から離れるにつれて少しずつ人が減っていった。窓の外では、高いビルが低い建物へ変わり、その向こうに冬の淡い空が広がっている。
藤堂は鞄から黒いノートを取り出した。
仕事の確認を始めるのだろうと思ったが、開かれたページには今日の訪問先までの経路と、バスの時刻が細かく書かれていた。
「地図があれば迷わないんですよね?」
結衣が尋ねる。
「そのつもりです」
「ずいぶん細かく調べたんですね」
「路線バスは本数が少ないので。一本逃すと二十五分待ちます」
「私も調べてあります」
結衣は鞄から物流センターへの案内図を取り出した。
二人の資料には、同じバスの時刻が記されている。
「似たようなことをしていますね」
結衣が言うと、藤堂は二枚を見比べた。
「佐伯さんの方が、乗り場まで書いてあります」
「駅の東口を出て、三番乗り場です」
「私の資料には、東口としか書いていません」
「では、私の勝ちですね」
「何の勝負ですか?」
「準備の細かさです」
「その勝負なら、負けを認めます」
藤堂は自分のノートを閉じた。
「佐伯さんが一緒でよかったです」
何気なく言われた言葉に、結衣は窓の外へ視線を移した。
仕事上の意味だと分かっている。案内に慣れている社員が同行するのだから、助かるのは当然だ。
それでも、胸の内側に温かいものが広がった。
「小野寺さんでも、乗り場は分かったと思います」
「そういう意味ではありません」
藤堂が言った。
結衣は彼を見た。
「では、どういう意味ですか?」
「現場の説明を聞いて、必要なことを判断できる人がいると助かるという意味です」
「やっぱり仕事の話ですね」
「仕事で向かっていますから」
「分かっています」
結衣が笑うと、藤堂は何かを考えるように黙った。
「仕事以外の意味に聞こえましたか?」
「聞こえていません」
「なら、いいんですが」
それきり藤堂は窓の外を見た。
結衣もそれ以上は尋ねなかった。
電車は規則正しい音を立てながら、冬の町を走っていった。
*
物流センターでは、倉庫管理課の高木が二人を出迎えた。
五十代半ばの高木は、入社してから三十年以上物流に関わっている。結衣も電話では何度も話していたが、直接会うのは久しぶりだった。
「佐伯さん、いつも無理な出荷を持ってくる営業を止めてくれて助かってるよ」
「全部は止められていませんけど」
「半分止めてくれるだけでも違う。こっちは営業の言うことを聞いてたら、毎日が緊急出荷だ」
「今日はその緊急出荷も含めて、業務を見せていただきたいんです」
「都合の悪いところも全部?」
高木が藤堂を見る。
「隠されると、使えないものになります」
藤堂は答えた。
「はっきり言う人だね」
「すみません」
「謝らなくていいよ。きれいなところだけ見て、後からできませんと言われるよりましだ」
高木は二人へ防寒着と帽子を渡した。
倉庫内は商品に合わせて温度が管理されている。常温区域でも外気より冷え、冷蔵区域は長くいると指先の感覚が鈍くなるほどだった。
藤堂は通路の幅、棚の配置、作業員が持つ端末を一つずつ確認した。
商品の入庫時には何を読み取るのか。保管場所は誰が決めるのか。同じ商品でも賞味期限が異なる場合、どのように区別するのか。
高木が説明し、藤堂が質問する。結衣は本社側の処理との違いを補足した。
「本社の画面では、同じ商品なら在庫数がまとめて表示されます」
結衣が言うと、高木が顔をしかめた。
「それが困るんだよ。倉庫では賞味期限ごとに分けてある。合計で千ケースあっても、来月出荷できるものが千あるとは限らない」
「出荷可能な在庫だけ、本社へ表示できないでしょうか」
藤堂は作業端末を見た。
「できます。ただ、どの時点で出荷不可と判断するか、基準を決める必要があります」
「取引先によって違うよ。賞味期限が残り三か月でも受け取るところもあれば、六か月以上必要なところもある」
「本社側には、その条件は登録されていますか」
藤堂に聞かれ、結衣は首を振った。
「営業担当者が把握しています。注文を受けるたび、必要に応じて倉庫へ確認しています」
「それも個人が持っている情報ですね」
「はい」
「新しいシステムへ、取引先ごとの納品条件を登録できるようにします。注文が入った段階で、条件に合う在庫だけを表示する」
高木が感心したように頷く。
「それができたら、電話がずいぶん減るな」
「ただし、条件が変わったときに更新されなければ、間違った在庫数が表示されます」
「結局、人がきちんと入れないと駄目か」
「システムは、知らないことを判断できません」
藤堂が答えた。
「入力の手間を減らすことはできますが、最初の情報まで作ることはできません」
「何でも自動になるわけじゃないんだな」
「自動にしすぎると、間違ったときに誰も気づかなくなります」
結衣は、藤堂が残した紙の言葉を思い出した。
人が気づける仕組みにする。
彼は効率だけを求めているのではない。人が判断する余地を残したうえで、その判断を邪魔している作業を減らそうとしている。
高木の説明を聞きながら、藤堂は実際に商品の箱を手に取り、側面の表示を確かめた。
同じ商品の箱が、賞味期限ごとに棚を分けて置かれている。作業員は端末の指示を見ながら、古いものから順に取り出していく。
しばらく見学していると、一人の作業員が端末を持ったまま立ち止まった。
指定された棚に、商品が見当たらないらしい。
高木が近づき、状況を確認する。
「昨日、場所を移した商品だな。端末の更新が間に合ってない」
作業員は近くの棚を探したが、対象の商品はなかった。
「商品名は何ですか」
結衣が尋ねる。
「国産野菜のミネストローネです。三十ケース」
「昨日、包装不良で一部を確認するという連絡がありませんでしたか?」
高木が記憶をたどるように眉を寄せた。
「あったな。外箱の印刷がずれていたとか」
「それなら、検品区域に移されているかもしれません」
三人で検品区域へ向かうと、奥の棚に商品が積まれていた。
中身に問題はなく、外箱だけを交換する予定だという。
「本社の在庫画面では、今も出荷可能になっています」
結衣が言った。
「そうだな。倉庫の端末でも、保管場所が変わっただけになってる」
高木が答える。
藤堂は商品の箱と作業端末を交互に見た。
「検品中という状態がないんですか」
「今の仕組みにはない。出荷停止にすると、在庫から全部消えてしまうからな」
「一部だけを保留にできない?」
「できない」
藤堂はノートへ書き込んだ。
「新しいシステムでは、在庫の状態を分けましょう。出荷可能、検品中、出荷不可。検品中の商品は総在庫には含めるが、受注可能数からは除外する」
「細かく分けすぎると、現場の入力が増えませんか?」
結衣が尋ねた。
「増えます。ただ、今も商品を探す時間と、本社へ連絡する時間がかかっています。どちらの負担が大きいか、確認する必要があります」
藤堂は高木へ向き直った。
「一か月で、同じようなことは何件くらいありますか」
「多い月なら、二十件くらいかな」
「一件を処理するのにかかる時間は?」
「十分で終わることもあれば、一時間探すこともある」
「では、状態を変更する入力を一件一分以内でできるなら、今より負担は減る可能性があります」
「一分ならな」
「できるだけ、読み取りだけで変更できるようにします」
藤堂はすぐに答えた。
その後も倉庫内を回り、返品商品の処理や、破損した箱の交換、緊急出荷の流れを確認した。
昼を過ぎる頃には、結衣の足は重くなっていた。普段はほとんど座って仕事をしているため、広い倉庫を歩き続けるだけでも疲れる。
藤堂は変わらない速度で歩いていたが、何度か咳をしていた。
「寒いですか?」
結衣が尋ねる。
「少し」
「大丈夫ですか?」
「問題ありません」
「問題がある人ほど、そう言います」
「佐伯さんも言いそうですが」
「私は寒ければ寒いと言います」
「では、寒いです」
藤堂は素直に認めた。
「休憩をお願いしましょう」
「まだ確認したい区域があります」
「午後も時間はあります。体調を崩したら、確認できなくなります」
藤堂は何か言おうとしたが、結衣が高木へ声をかける方が早かった。
休憩室へ移り、温かいお茶をもらった。
藤堂は防寒着を脱ぎ、両手で紙コップを包んでいる。顔色は悪くないが、指先が赤くなっていた。
「手袋をすればよかったですね」
結衣が言う。
「持ってきていません」
「天気予報は確認したのに?」
「倉庫の温度までは表示されません」
「物流センターへ行くと分かっていたでしょう」
「そこまで考えが及びませんでした」
結衣は鞄から使い捨てカイロを一つ取り出した。
「どうぞ」
「佐伯さんの分では?」
「私はもう一つ持っています」
藤堂はすぐには受け取らなかった。
「準備の細かさでは、今日も負けですね」
「競争していたんですか?」
「前回、佐伯さんが勝ったと言ったので」
「覚えていたんですね」
「言われたことは、だいたい覚えています」
藤堂はカイロを受け取った。
「ありがとうございます」
「低温やけどには気をつけてください」
「説明を読んで使います」
「それなら安心です」
二人は顔を見合わせた。
藤堂の口元が、少しだけ上がった。
結衣も笑った。
*
物流センターを出たのは、午後四時半を過ぎた頃だった。
外はすでに薄暗く、雲が低く垂れ込めている。風は朝より冷たくなっていた。
高木に礼を伝え、二人は最寄り駅へ向かうバスに乗った。
駅へ着いたとき、改札前に人が集まっていた。
人身事故の影響で、電車が運転を見合わせているという。再開の見込みは一時間後と表示されていた。
「別の路線はありますか?」
藤堂がスマートフォンで地図を開く。
「ここからだと、かなり遠回りになります。再開を待った方が早いと思います」
「そうですね」
駅構内のベンチは、すでに多くの人で埋まっている。
二人は駅前へ出た。
ロータリーの向こうに、小さな喫茶店の看板が見えた。新しい店ではないらしく、茶色い看板の文字は少し薄くなっている。
「あそこで待ちませんか?」
結衣が提案すると、藤堂は頷いた。
店内は空いていた。
窓際の席に案内され、結衣はカフェオレ、藤堂はブレンドコーヒーを注文した。昼食が遅く、二人とも簡単なパンしか食べていなかったため、サンドイッチも一つずつ頼んだ。
「今日はお疲れさまでした」
結衣が言うと、藤堂はコートを脱ぎながら答えた。
「佐伯さんの方が疲れたのでは?」
「確かに、明日は筋肉痛になりそうです」
「普段は、どのくらい歩きますか」
「通勤を含めて一日七千歩くらいです」
「今日は?」
結衣はスマートフォンの歩数計を確認した。
「一万四千歩を超えています」
「倍ですね」
「藤堂さんは平気そうですね」
「足は平気ですが、寒さは予想外でした」
「顔に出ないから分かりませんでした」
「よく言われます」
店員が飲み物を運んできた。
結衣は冷えた指をカップで温める。藤堂はコーヒーを一口飲み、すぐにカップを置いた。
「熱かったですか?」
「少し」
「顔には出ませんね」
「出さないようにしました」
「どうしてですか?」
「見られていると思ったので」
結衣は笑った。
「熱いなら、冷めるまで待てばいいのに」
「そうします」
藤堂はカップに触れず、窓の外へ目を向けた。
駅前には、運転再開を待つ人が増えている。タクシー乗り場には長い列ができていた。
「一時間で動くでしょうか」
「こういうときの一時間は、あまり当てになりません」
「帰りが遅くなりますね」
「藤堂さんは、どちらまで?」
「中野です」
「一人暮らしですか?」
尋ねてから、仕事とは関係のないことに踏み込んだと気づいた。
「すみません。答えにくければ」
「一人です」
藤堂は短く答えた。
「佐伯さんも?」
「はい。五年前から一人暮らしです」
「ご実家は東京ですか」
「埼玉です。今日の物流センターとは反対側ですが」
「近いんですね」
「電車で一時間くらいです。でも、帰るのは年に数回です」
「ご両親は心配しませんか」
「します。はっきりとは言いませんけど、電話をすると、近所の誰かが結婚した話をされます」
「遠回しですね」
「藤堂さんのご家族は?」
「似たようなものです」
「結婚の話をされるんですか?」
「最近は減りました」
藤堂は窓の外を見たまま答えた。
「以前は、されていたんですね」
「はい」
そこで会話が途切れた。
聞いてはいけないところへ近づいたような気がした。
結衣はカフェオレを飲んだ。温かさが喉から胸へゆっくり落ちていく。
「佐伯さんは」
藤堂が口を開いた。
「はい」
「結婚したいと思いますか」
思いがけない質問だった。
藤堂自身も、口にしてから迷ったようだった。
「すみません。今のは」
「難しいですね」
結衣は窓の外を眺めた。
「結婚そのものをしたいかと聞かれると、よく分かりません」
「そうですか」
「結婚している自分を想像したことはあります。でも、相手がいないのに制度だけを望んでも仕方がないでしょう?」
「確かに」
「一人の生活は嫌いではありません。仕事も続けたいし、今の部屋も気に入っています」
「なら、結婚しなくても」
「そう思う日もあります。でも、十年後や二十年後も、今と同じように思えるかは分かりません」
結衣はカップの表面に浮かぶ泡を見た。
「一人でも生きていけると思います。でも、一人で生きていけることと、ずっと一人でいたいことは、少し違う気がするんです」
藤堂は黙って聞いていた。
否定も、安易な同意もしない。
「欲張りでしょうか」
「なぜですか」
「仕事も、自分の時間も大切にしたい。でも、誰かと生きる未来も諦めたくない。全部は無理なのかもしれないと思うことがあります」
「無理だと決まっているわけではありません」
「藤堂さんは、そう思いますか?」
藤堂はすぐには答えなかった。
店員がサンドイッチを運び、二人の前へ置いた。
湯気の立つ卵と、薄く切られたハムがパンに挟まれている。藤堂は礼を言い、店員が離れるのを待った。
「以前は、そう思っていました」
「以前?」
藤堂の指が、コーヒーカップの持ち手に触れた。
「結婚する予定の人がいました」
静かな声だった。
結衣は何も言えなかった。
「もう、かなり前のことです」
「そうだったんですね」
「式場も決めていました」
藤堂は淡々と続けた。
「新居も契約して、家具もいくつか選んでいました。自分が結婚しない可能性を考えたことはありませんでした」
「でも、結婚しなかった」
「はい」
それ以上の説明はなかった。
藤堂の表情はいつもと変わらない。けれど、コーヒーカップの持ち手にかけた指だけが、わずかに強く曲がっていた。
結衣は理由を聞かなかった。
聞けば、答えてくれるかもしれない。
それでも、今ここで知る必要はないと思った。
「すみません」
藤堂が言った。
「どうして謝るんですか?」
「話すつもりはなかったので」
「私が結婚について聞いたからですよね」
「私が先に聞きました」
「では、お互いさまです」
藤堂は結衣を見た。
「理由を聞かないんですね」
「聞いてほしいですか?」
「いえ」
「なら、聞きません」
結衣はサンドイッチへ手を伸ばした。
「話したくなったときに、話せばいいと思います」
「話したくならないかもしれません」
「それなら、そのままでいいです」
藤堂の目が、わずかに揺れた。
拒絶されたような顔ではなかった。
むしろ、何かを許されたときのように見えた。
「佐伯さんにも、いたんですか」
「何がですか?」
「結婚を考えた人です」
今度は結衣が黙る番だった。
健太と具体的に式場を探したことはない。両親への挨拶も、新居の相談もしていない。
それでも、いつか結婚するのだと思っていた。
言葉にしなくても、その未来は二人の間にあると信じていた。
「いました」
結衣は答えた。
「五年前まで付き合っていた人です」
「だから、五年前から一人暮らしを?」
「はい。正確には、その人が転勤して、別れた後からです」
「遠距離という選択はなかったんですか」
「できなかったわけではありません。でも、彼は長く向こうで働く予定でした。私は東京で仕事を続けたかった」
「どちらかが譲らなければならなかった」
「そう思っていました。あの頃は」
「今は違うんですか?」
結衣は考えた。
五年前の自分たちは、別れるか、どちらかが生活を変えるか、その二つしかないと思っていた。
もう少し話し合えば、別の道があったのかもしれない。
遠距離を続ける。数年後に改めて考える。互いの仕事を調整し、暮らせる場所を探す。
けれど、当時の二人には、その曖昧な時間に耐える余裕がなかった。
「今なら、もっと話せたかもしれません」
結衣は言った。
「でも、今の私がそう思うからといって、あのときの私に同じことができたとは限りません」
「後悔していますか?」
「分かりません」
正直な答えだった。
「ついていけばよかったと思ったことはあります。でも、仕事を続けたことが間違いだったとは思っていません。この五年間に得たものもありますから」
「両方を選べなかったことが、心に残っている」
藤堂の言葉に、結衣は小さく頷いた。
「そうかもしれません」
「約束は?」
「していません」
結衣はすぐに答えた。
「何も?」
胸の奥に、あの夜の声が蘇る。
もし、向こうへ行っても。
そこで途切れた健太の言葉。
聞かなかった結衣。
最後まで言わなかった健太。
「言いかけたことはありました。でも、最後まで聞きませんでした」
「なぜですか」
「約束したら、待たなければいけない気がしたからです」
「待ちたくなかった?」
「待てると言い切れませんでした。彼にも、私を待ってほしいとは言えなかった」
藤堂は静かに頷いた。
「正直だったんですね」
「臆病だっただけです」
「正直と臆病は、両方あることもあります」
その言葉が、結衣の胸に残った。
五年前の自分を、ずっと中途半端だと思っていた。
仕事を選びきったわけでもなく、健太を愛していなかったわけでもない。彼を引き止めることも、笑顔で送り出すこともできなかった。
けれど、藤堂の言うように、あれは正直さでもあったのかもしれない。
できない約束をしなかった。
永遠を信じられないまま、信じるふりをしなかった。
それで誰かを傷つけたとしても、あのときの結衣に出せる答えは、それしかなかった。
「藤堂さんは、約束をしたんですか?」
結衣が尋ねると、彼の表情がわずかに固くなった。
「しました」
「そうですよね。結婚する予定だったなら」
「約束は、しました。でも、守られませんでした」
その声には、怒りよりも疲れが滲んでいた。
時間がたっても消えないものがある。
藤堂の中にも、過去の途中で止まった言葉が残っているのだろう。
「だから、もう約束はしないんですか?」
結衣が聞くと、藤堂は冷めかけたコーヒーを見た。
「先のことを考えないようにしています」
「仕事では、何か月も先の計画を立てるのに?」
「仕事には期限と条件がありますから」
「人にはない?」
「変わります」
「仕事の条件も変わるでしょう?」
「その場合は、契約を見直します」
「人との約束も、見直せばいいんじゃないですか?」
口にしてから、少し強い言い方だったと気づいた。
藤堂が顔を上げる。
「すみません。余計なことを言いました」
「私の言葉を返しましたか?」
「そのつもりはありません」
「でも、似ています」
藤堂の口元が、かすかに緩んだ。
「確かに、変わったときに話し合えばいいのかもしれません」
「簡単ではないでしょうけど」
「簡単なら、もっと多くの人ができています」
「そうですね」
二人は、少し冷めた飲み物を口へ運んだ。
藤堂の過去について分かったのは、結婚するはずだった人がいたことだけだった。
なぜ約束が守られなかったのか。
誰が何をしたのか。
どれほど傷ついたのか。
何も知らない。
それでも結衣は、その続きを急いで知りたいとは思わなかった。
過去を話すことは、相手を信頼している証しだと言われる。
けれど、話さないままでいることを許すのも、信頼の一つではないだろうか。
運転再開を知らせる通知が届いた。
「動いたようです」
結衣が画面を見せると、藤堂は腕時計を確認した。
「もう少し待ってから行きましょう。今は混んでいると思います」
「そうですね」
二人は急いで立ち上がらなかった。
仕事の話も、過去の話も途切れている。
それでも、その沈黙は重くなかった。
*
東京駅へ戻ったのは、午後七時を過ぎていた。
電車はまだ遅れていたが、都心へ近づくにつれて車内の混雑は落ち着いた。二人は途中から座ることができたものの、帰りの電車ではほとんど話さなかった。
藤堂は目を閉じ、結衣は窓に映る夜の町を眺めた。
別れた人のことを誰かに話したのは、久しぶりだった。
友人たちは健太を知っている。だから、説明しなくても多くのことが伝わってしまう。
藤堂は何も知らなかった。
名前も、顔も、どんなふうに笑う人だったかも知らない。
知らない人だからこそ、結衣は五年前の自分を、今の言葉で話せたのかもしれない。
東京駅で電車を降り、改札へ向かう。
「今日はありがとうございました」
藤堂が言った。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
「カイロも助かりました」
「お返しは必要ありませんからね」
「返せません」
「そういう意味ではなくて」
「分かっています」
藤堂は少しだけ笑った。
「佐伯さん」
「はい」
「先ほど話したことは、会社の人には」
「言いません」
結衣はすぐに答えた。
「誰にも話しません。藤堂さんも、私の話は内緒にしてください」
「もちろんです」
「これでお互いさまですね」
「そうですね」
改札前で、二人の進む方向が分かれる。
藤堂は中央線、結衣は地下鉄へ向かう。
「それでは、また」
藤堂が会釈をする。
「また来週」
結衣も頭を下げ、歩き出した。
数歩進んだところで、後ろから名前を呼ばれた。
「佐伯さん」
振り返ると、藤堂がまだ同じ場所に立っていた。
「今日は、佐伯さんが一緒でよかったです」
朝と同じ言葉だった。
今度は、その後に仕事の説明をつけなかった。
結衣はしばらく藤堂を見つめた。
「私も、藤堂さんと一緒でよかったです」
そう答えると、藤堂は小さく頷いた。
人の流れが、二人の間を横切っていく。
藤堂はもう一度会釈をし、中央線の案内表示がある方へ歩いていった。
結衣も地下鉄のホームへ向かった。
胸の中には、名前をつけられない温かさが残っていた。
藤堂の過去を知ったからではない。
彼が結衣に話そうと思ったこと。
そして、すべてを話さなくてもいい相手として、結衣を選んだこと。
そのことが嬉しかった。
帰宅すると、午後九時近くになっていた。
夕食を作る気力はなく、冷蔵庫にあったチーズとパンを青い皿へ載せた。電気ケトルで湯を沸かし、粉末の豆乳ポタージュをカップに入れる。
袋の裏には、湯の量が大きく書かれていた。
藤堂なら、今度は間違えないだろう。
結衣は表示どおりに湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜた。
湯気が静かに立ち上る。
一人分の遅い夕食。
いつもならテレビをつけるところだったが、今夜は静かなままでいたかった。
藤堂の言葉を思い返す。
約束は、しました。でも、守られませんでした。
平坦な声の奥に、どれほどの痛みがあったのかは分からない。
結衣は、健太と約束をしなかった。
藤堂は、約束をした。
結局、二人とも一人になった。
約束をしなかったから傷つかなかったわけでも、約束をしたから未来が守られたわけでもない。
人の気持ちは、予定表のようには進まない。
それでも誰かと生きるなら、変わる可能性を知りながら、言葉を交わすしかないのだろう。
結衣はポタージュを一口飲んだ。
温かさが、冷えていた身体へゆっくり広がる。
スマートフォンが震えた。
藤堂からのメールだった。
〈無事に帰宅されましたか〉
仕事の連絡先へ届いた、仕事ではない短い言葉。
結衣は画面を見つめた。
〈はい。今、遅い夕食を取っています。藤堂さんも帰られましたか〉
〈先ほど着きました〉
それだけで終わると思ったが、続けてもう一通届いた。
〈今日は、余計なことまで話しました〉
結衣は少し考えてから、指を動かした。
〈余計なことではありません。ただ、話したことを後悔しているなら、私は聞かなかったことにはできませんが、こちらから触れないことはできます〉
藤堂からの返信には、少し時間がかかった。
〈後悔はしていません〉
短い文章だった。
その後に、もう一通届く。
〈聞いていただいて、ありがとうございました〉
結衣はすぐには返さなかった。
言葉を選び、ゆっくり入力する。
〈私の話も聞いていただきました。ありがとうございました〉
送信すると、藤堂から〈おやすみなさい〉と届いた。
取引先の相手に返すには、少しだけ私的な言葉だった。
結衣は迷った末、同じ言葉を返した。
〈おやすみなさい〉
画面を閉じる。
静かな部屋は、朝と何も変わっていない。
テーブルには一人分の皿があり、向かい側の椅子には誰もいない。
けれど今夜は、遠く離れた部屋にも、同じように一日の終わりを迎えた人がいることを知っていた。
すべてを話さなくても、誰かと気持ちを分け合える夜がある。
結衣は残りのポタージュを飲み、空になったカップを両手で包んだ。
冷めていく温度の中に、まだ消えない温かさが残っていた。




