第三章 返された傘
藤堂に貸した傘は、翌週の火曜日に戻ってきた。
午前九時を少し過ぎた頃、受付から内線が入った。
「ネクサスリンクの藤堂様がお見えです」
受話器を持ったまま、結衣は壁の時計を見た。
藤堂が来社する予定は、午後二時だった。新しいシステムの移行計画について、部長を交えた打ち合わせが入っている。
「午後からではなかったですか?」
「傘をお返しするだけなので、すぐに失礼しますとおっしゃっています」
「分かりました。今、伺います」
結衣は入力途中の画面を保存し、席を立った。
「藤堂さん?」
隣の小野寺が反応する。
「傘を返しに来られたそうです」
「午後も来るのに?」
「近くに用事があったんじゃないですか」
「それでも、普通は午後に持ってくるでしょう」
小野寺の声には、必要以上の関心が混じっていた。
「受付でお待たせしているので、行ってきます」
結衣はそれ以上話さず、執務室を出た。
エレベーターで一階へ下りる。
扉が開くと、藤堂は受付近くのソファの前に立っていた。今日はスーツではなく、濃紺のジャケットにグレーのパンツを合わせている。ネクタイをしていないだけで、いつもより少し若く見えた。
右手には、透明なビニール傘を持っている。
「おはようございます」
「おはようございます。朝からすみません」
「午後にいらっしゃるんですよね?」
「はい。ただ、午前中に近くの会社へ行く予定があったので」
藤堂は傘を差し出した。
借りたときとは違い、持ち手には細長い紙が巻かれていた。会社名と「来客用」という文字が印刷されている。おそらく濡れたままにならないよう、乾かしてから巻き直したのだろう。
「わざわざありがとうございます」
「お借りしたものなので」
「午後でもよかったのに」
「午前中に雨が降る可能性もあります」
結衣はエントランスの外を見た。
雲一つない青空が広がっている。
「降水確率は十パーセントですけど」
「前回の反省から、天気予報を見るようになりました」
「十パーセントでも?」
「用心するに越したことはありません」
「それなら、私が午後まで傘を持っていた方が安心だったのでは?」
藤堂は一瞬黙った。
結衣は、思わず笑ってしまった。
「すみません。意地悪な聞き方をしました」
「いえ。そこまでは考えていませんでした」
「藤堂さんにも、考えが及ばないことがあるんですね」
「多いです。表に出さないようにしているだけで」
真面目に答える藤堂を見て、結衣は傘を受け取った。
「午後、お待ちしています」
「よろしくお願いします」
藤堂は軽く頭を下げ、自動ドアへ向かった。
けれど、扉が開く直前で足を止め、振り返った。
「先日の注文の件ですが」
「豆乳ポタージュですか?」
「はい。警告画面の試作品を作りました。今日、お見せします」
「もう作ったんですか?」
「簡単なものです。実際に使えるか、確認してください」
「遠慮なく?」
「少しだけ加減してください」
前と同じ言葉だった。
藤堂の表情は変わらなかったが、結衣には、それが彼なりの笑い方のように思えた。
「分かりました。少しだけ」
藤堂は今度こそ外へ出ていった。
結衣は傘を傘立てへ戻した。
持ち手に巻かれた紙は、端まできれいに揃っている。借りたものを返しただけ。それ以上の意味はない。
それでも、わざわざ午前中に届けに来たことが、心のどこかに小さく残った。
*
午後の打ち合わせには、藤堂のほかに営業担当の中島も同席した。
中島は四十五歳で、話し方が柔らかく、相手の懐へ入るのがうまい。藤堂とは対照的な人物だった。
「いやあ、藤堂が現場へ何度も伺っているそうで。ご迷惑をおかけしていませんか」
「迷惑だなんて。丁寧に確認していただいて助かっています」
部長が答えると、中島は安心したように笑った。
「こいつ、放っておくと細かいことばかり気にするんですよ。システム屋というのは、みんなこんな感じなんですかね」
「その細かさが必要な仕事ですから」
結衣が言うと、中島は少し驚いた顔をした。
「佐伯さんは藤堂と気が合いそうですね」
「仕事の進め方が分かりやすいという意味です」
「藤堂は会話が足りないでしょう?」
「中島さんは会話が多すぎます」
藤堂が横から言った。
中島は声を上げて笑った。
「こういうやつなんです。愛想がなくて申し訳ありません」
「中島さん」
「はいはい。始めましょう」
中島は明るく言い、資料を開いた。
藤堂が修正した移行計画では、商品の登録作業が集中する一月と二月を避け、準備期間を延ばすことになっていた。
十二月までに取引先ごとのコード表を整理し、三月から一部の取引先で試験運用を始める。問題がなければ対象を広げ、六月に全面移行する。
「前回より期間は長くなりますが、現行の業務と並行して確認する時間を確保しています」
藤堂が説明する。
「追加費用は発生しますか?」
部長が尋ねた。
「試験運用の期間が延びるため、保守費用の一部が増えます。ただ、当初の範囲内で調整できる見込みです」
「それなら問題ないでしょう」
部長は結衣を見た。
「佐伯さん、現場としてはどう?」
「三月開始なら、春の新商品登録が一段落しています。六月も夏の繁忙期前なので、当初より負担は少ないと思います」
「他の担当者にも確認してください」
「承知しました」
続いて、藤堂が試作した画面が映し出された。
受注数が過去三か月の平均を大きく超えた場合、画面の中央に黄色い確認欄が表示される。注文単位が普段と異なる場合は、数量の隣に赤い印がつく。
結衣は実際に試作品を操作した。
北央ストアから豆乳ポタージュを百二十ケース注文された想定で入力する。登録ボタンを押すと、警告が表示された。
〈過去の平均注文数を超えています。数量と単位をご確認ください〉
その下に、普段の平均注文数が示されている。
「分かりやすいと思います」
「警告の色はどうですか」
「黄色でいいと思います。赤だと、入力できないエラーのように見えるので」
「では、このままにします」
「ただ、毎週行われる特売の注文では、通常より数が増えます。そのたびに警告が出ると、担当者が読まなくなるかもしれません」
藤堂は画面を見た。
「特売の予定は、事前に分かりますか」
「営業担当者から一覧が届きます。ただ、直前に決まることもあります」
「特売用の区分を作りましょう。事前に登録されている期間は、通常ではなく過去の特売時の数量と比較する」
「できますか?」
「特売の情報を誰が登録するか決めれば」
「また、運用が増えますね」
「そうなります」
藤堂はすぐに認めた。
「警告を正確にするために入力作業が増える。それが負担になるなら、別の方法を考える必要があります」
結衣は少し考えた。
「営業担当者が提出している特売予定表を、そのまま読み込めませんか?」
「形式が統一されていれば可能です」
「統一されていません」
「では、先にそちらを直す必要がありますね」
部長が苦笑した。
「システムを変える前に、営業のやり方を変えないといけないわけか」
「仕組みに合わせるためだけに業務を変える必要はありません」
藤堂が言った。
「ただ、同じ内容の資料を複数の形式で作っているなら、統一した方が全体の負担は減ります」
「営業部にも話してみよう」
「お願いします」
話が一段落すると、中島が感心したように結衣を見た。
「佐伯さん、こちらが見落としていることにすぐ気づきますね」
「毎日使う側なので」
「藤堂が何度もお話を聞きたがる理由が分かりました」
藤堂が画面を閉じる。
「必要な確認です」
「そういう言い方しかできないんだよな、お前は」
「他にどんな言い方がありますか」
「佐伯さんと話すのが楽しいから、とか」
会議室の空気が一瞬止まった。
冗談だと分かっている。
中島も深い意味はなく言ったのだろう。部長は資料に視線を落とし、聞かなかったことにしている。
結衣は、どう返せばいいのか分からなかった。
藤堂の表情は変わらない。
「仕事中です」
低い声で、それだけ言った。
「分かってるよ。冗談だ」
「相手が返答に困るものは、冗談とは言いません」
中島の笑顔がわずかに固まった。
「悪かった。佐伯さんも、すみません」
「いえ、大丈夫です」
結衣は答えた。
中島を責めるほどのことではない。職場ではよくある軽口だった。怒るほどではなく、笑って受け流すのがいちばん早い。
それでも藤堂が遮ってくれたことに、胸の奥で安堵している自分がいた。
打ち合わせが終わり、中島と部長が先に会議室を出た。
結衣は資料を重ね、藤堂は接続していたケーブルを外している。
「先ほどは、すみませんでした」
藤堂が言った。
「藤堂さんが謝ることではありません」
「中島さんは悪気のある人ではないんですが、時々、距離の取り方を間違えます」
「分かっています。あれくらい、よくありますから」
「よくあるから、平気とは限らないでしょう」
結衣の手が止まった。
藤堂はケーブルを丁寧に巻きながら続けた。
「佐伯さんは、困ったときにも笑うので」
「そう見えましたか?」
「はい」
「険しい顔をして、空気を悪くするよりいいと思っているだけです」
「そうしていると、周りは困らせたことに気づきません」
「気づかせる必要のないこともあります」
「それを決めるのは、佐伯さんです。でも、我慢する方が早いという理由だけなら、あまり賛成できません」
結衣は藤堂を見た。
「ずいぶんはっきり言うんですね」
「すみません」
「また謝るんですか?」
「余計なことを言ったので」
「藤堂さんは、余計なことを言わない人だと思っていました」
「私もそう思っていました」
結衣は思わず笑った。
藤堂がわずかに視線をそらす。
気まずくなったのかもしれない。けれど、耳のあたりがほんの少し赤くなっているように見えた。
「でも、ありがとうございます」
結衣は言った。
「先ほどのことは、本当に気にしていません。ただ、藤堂さんが止めてくださったことは嬉しかったです」
「そうですか」
「はい」
藤堂は短く頷き、ノートパソコンを鞄へ入れた。
「では、失礼します」
「もう帰られるんですか?」
「まだ何かありますか」
「いえ。前回は長かったので、今日も聞き取りがあるのかと思っていました」
「本日は打ち合わせだけです」
「そうでしたね」
結衣は自分でも分からないまま、少し残念に思った。
藤堂が帰れば、午後はいつもの業務に戻る。それは当然のことなのに、何かが途中で終わったように感じた。
会議室を出ようとしたとき、藤堂の足が止まった。
「一つだけ、確認してもいいですか」
「仕事のことですか?」
「はい」
「どうぞ」
「先日の豆乳ポタージュを買ってみました」
予想していなかった言葉に、結衣は瞬きをした。
「商品を?」
「どういうものか知らないまま、画面に商品名を表示していたので」
「それで、いかがでしたか?」
「おいしかったです。ただ、作り方を間違えました」
「レトルトなので、お湯で温めるだけですよね?」
「袋から鍋へ出して、直接温めました」
「それでも間違いではありません」
「水を加えました」
「どうしてですか?」
「濃縮タイプだと思いました」
結衣は黙って藤堂を見た。
「パッケージの裏に、大きく『そのまま温めてください』と書いてあります」
「後で気づきました」
「味が薄くなったでしょう?」
「かなり」
「それで、おいしかったんですか?」
「商品に責任はありませんから」
結衣はこらえきれずに笑った。
笑い声が廊下へ漏れないよう、口元を押さえる。
「すみません。でも藤堂さん、説明をきちんと読む人だと思っていたので」
「自分でもそう思っていました」
「思い込みは危険ですね」
「はい。システムにも、スープにも」
藤堂の口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑ったのだと気づくまでに、数秒かかった。
「次は正しく作ってください」
「次も買うことが決まっているんですか」
「おいしかったんですよね?」
「薄くても、味は分かりました」
「それなら、正しい濃さならもっとおいしいと思います」
「分かりました」
藤堂は真面目に頷いた。
「もう一度、試します」
今度は結衣が藤堂をエントランスまで見送った。
返された傘は、すでに傘立てへ戻っている。外には朝と変わらない青空が広がり、藤堂がそれを使う必要はなさそうだった。
「それでは、来週また伺います」
「お待ちしています」
自動ドアが開く。
藤堂は外へ出る前に軽く頭を下げ、歩いていった。
結衣はその背中を見送りながら、先ほどの笑顔を思い返した。
本当に笑ったのだろうか。
そう思うほど、短い変化だった。
けれど、藤堂にもあんなふうに笑う瞬間があるのだと知った。
それだけで、今まで見えていなかった扉が、少しだけ開いたような気がした。
*
十一月の二週目の土曜日、結衣は高校時代からの友人である麻衣と智子に会った。
三人が揃うのは、半年ぶりだった。
新宿駅近くのレストランは、昼を少し過ぎても混み合っていた。白い壁に木製のテーブルが並び、窓際には柔らかな日差しが入っている。
麻衣は三十八歳の夫と、小学生になった娘の三人で暮らしている。智子は二年前に離婚し、現在は横浜のマンションで一人暮らしをしていた。
三人の生活は、それぞれ違っていた。
だからこそ、結衣は二人と会う時間が好きだった。どれか一つの生き方だけが正しいという話にならないからだ。
「ごめん、娘が朝から体操服がないって騒いで」
遅れてきた麻衣が、席に着くなり言った。
「見つかったの?」
「洗濯機の中。昨日、自分で入れたのを忘れてたらしい」
「洗ってあったならいいじゃない」
智子が笑う。
「洗濯機に入れただけ。朝から大急ぎで乾かしたの。夫は隣で、今日って体操服がいる日だっけ、だって」
「三人家族なのに、麻衣だけが予定を把握してるんだ」
「そうなの。結婚したら負担が半分になると思ってたけど、管理するものが三倍になった」
麻衣はため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
「智子はどう? 新しい部屋」
「快適。洗面所に他人の髪の毛が落ちてないって最高」
「そんな理由で離婚したみたいに言わないでよ」
「原因はそれだけじゃないけど、毎日の小さなことって意外と大きいのよ」
智子はメニューを開きながら、結衣を見た。
「結衣は? 何か変わったことないの?」
「仕事は忙しいけど、特には」
「またそれ」
「本当にないんだから仕方ないでしょう」
「新しいシステムの担当になったって言ってなかった?」
麻衣が尋ねた。
「担当というほどじゃないよ。現場の意見をまとめてるだけ」
「大変そう」
「でも、取引先の担当者がちゃんと話を聞いてくれる人だから、今のところは進めやすい」
言ってから、藤堂の顔が浮かんだ。
傘を返すためだけに朝から来たこと。
豆乳ポタージュへ水を加えたこと。
中島の冗談を遮ったこと。
結衣は水の入ったグラスに手を伸ばした。
「その担当者、男性?」
智子がすぐに反応した。
「どうしてそうなるの?」
「今、ちょっと顔が変わったから」
「変わってない」
「変わったよね?」
智子が麻衣へ同意を求める。
「少しだけ」
麻衣まで頷いた。
「普通に仕事の話をしているだけ。取引先の人だし」
「結婚してるの?」
「知らない」
「左手を見れば分かるでしょう」
「見てない」
そう答えた瞬間、藤堂の左手が頭に浮かんだ。
打ち合わせで資料をめくる指。缶コーヒーを持つ手。傘を差し出した手。
指輪はしていなかった。
見ていないつもりで、見ていたのだ。
「今、思い出したでしょう」
智子が笑う。
「指輪はしていなかったと思う。でも、していないから独身とは限らないし」
「ずいぶん慎重ね」
「仕事の相手だから」
「仕事の相手でも、気になる人は気になるでしょう」
結衣はすぐに否定しようとした。
けれど、言葉が出なかった。
気になる人。
そう呼ばれると、心の中に収まりの悪いものが残る。
好きというほどではない。会えない日に寂しくなるわけでも、休みの日に連絡を取りたいわけでもない。
ただ、次に会ったとき、正しく作った豆乳ポタージュの感想を聞きたいと思う。
彼がどんなときに笑うのか、もう少し知りたいと思う。
「まだ、よく分からない」
結衣は正直に答えた。
「いいじゃない。分からないままで」
麻衣が言った。
「無理に恋愛にしなくても、会うのが楽しみなら、それで」
「会うのが楽しみとも言ってないけど」
「言ってるようなものよ」
智子が料理を注文するため、店員を呼んだ。
三人はそれぞれ違うランチを選んだ。麻衣は魚料理、智子はパスタ、結衣は鶏肉のクリーム煮にした。
注文を終えると、智子が頬杖をついた。
「でも結衣、五年前より話しやすくなったよね」
「何が?」
「男の人の話。前は、健太の名前を出すだけで黙ったじゃない」
突然出てきた名前に、胸の奥が静かに反応した。
城島健太。
五年前まで、結衣の隣にいた人。
「そうだった?」
「そうだったよ。私たちも触れちゃいけないと思ってた」
麻衣が心配そうに結衣を見る。
「ごめん。思い出させた?」
「大丈夫。もう五年も前だから」
その言葉は、思っていたより自然に出た。
健太との時間を忘れたわけではない。
けれど、思い出すたびに胸を締めつけられていた頃は、もう遠い。今では、古い引き出しにしまった手紙を眺めるように、静かに振り返ることができる。
「連絡は取ってないの?」
「別れてから、一度も」
「東京に戻ってきたらどうする、みたいな話はなかったの?」
智子の問いに、結衣はグラスの中の氷を見つめた。
なかったと言えば嘘になる。
はっきりとした約束はしなかった。
けれど、何もなかったわけでもない。
五年前の夜、健太は言いかけた。
もし、向こうへ行っても――。
その先を、結衣は聞かなかった。
聞けば、別れられなくなると思ったからだ。
「何も約束はしてないよ」
結衣は答えた。
「そう」
麻衣は、それ以上尋ねなかった。
料理が運ばれてくる。
白い皿に盛られた鶏肉のクリーム煮は、自分で作ったものよりずっときれいだった。
結衣はナイフを入れ、一口食べた。
おいしい。
けれど先週、自宅で青い皿に盛ったスープの方が、なぜか強く記憶に残っている。
誰かと食べる食事と、一人で食べる食事。
どちらが幸せかという答えはない。
その日の気分や、隣にいる相手によっても変わる。
麻衣には麻衣の生活があり、智子には智子の生活がある。結衣にも、自分で作ってきた日常がある。
誰かと出会うことは、それを捨てることではないはずだった。
「結衣」
智子に呼ばれ、顔を上げる。
「何?」
「また考え込んでた」
「少しだけ」
「取引先の人のこと?」
「違う」
「じゃあ、健太?」
結衣は首を振った。
「自分のこと」
そう答えると、智子は少し驚いた後、穏やかに笑った。
「それなら、ゆっくり考えたらいいんじゃない」
「そうする」
店を出る頃には、午後四時を過ぎていた。
麻衣は娘との約束があるため、先に帰った。智子とも駅で別れ、結衣は一人でデパートへ向かった。
地下の食品売り場を見て回り、チーズとパンを買う。帰りに食器売り場へ寄ると、青いスープ皿とよく似た色の小皿が並んでいた。
結衣は一枚を手に取った。
同じ色の食器を揃えていくのも悪くない。
一人分だから一枚。
けれど今回は、すぐに決めなかった。
棚には十分な数が並んでいる。今日買わなくても、必要になったときに選べばいい。
結衣は小皿を元へ戻した。
*
月曜日の朝、出社すると藤堂からメールが届いていた。
試作画面の修正版と、更新された移行計画が添付されている。
結衣は内容を確認し、問題がないことを返信した。
業務連絡はそこで終わるはずだった。
しかし、メールの最後に一行だけ、仕事とは関係のない文章が書かれていた。
〈豆乳ポタージュは、今度は正しく作れました〉
結衣は画面を見ながら、口元を緩めた。
〈お味はいかがでしたか〉
数分後、返事が届く。
〈前回より、かなり濃かったです〉
当たり前です、と入力してから消した。
〈それが本来の味です〉
そう送り直す。
返ってきたのは、短い文章だった。
〈おいしかったです。もう一度買います〉
自社の商品を褒められたのだから、嬉しいのは当然だ。
そう思いながら、結衣はそのメールを削除せず、受信箱に残した。
窓の外では、風に押された雲がゆっくり流れていた。
机の横の傘立てには、藤堂が返した傘がある。
借りたものは戻り、仕事の予定も決められたとおりに進んでいる。
何一つ曖昧なものはないはずだった。
それでも結衣は、藤堂との間に、仕事という言葉だけでは収まりきらない何かが生まれ始めていることに気づいていた。
まだ手を伸ばすほどではない。
名前をつけるには、あまりにも淡い。
けれど、見なかったことにするには、少しだけ温かかった。




