第二章 笑わない人の冗談
木曜日の午後二時五十分、藤堂亮介は予定より十分早く現れた。
受付から連絡を受けた結衣がエントランスへ向かうと、藤堂は壁際に立ち、展示棚の商品を眺めていた。
東央食品が創業当時から販売してきた調味料、現在の主力商品である冷凍惣菜、季節限定のスープ。棚には歴代の商品が年代順に並べられている。
藤堂が見ていたのは、二十年ほど前に販売されたレトルトカレーだった。色あせた箱には、今では使われていない会社のロゴが印刷されている。
「お待たせしました」
結衣が声をかけると、藤堂は振り返った。
「いえ。早く着きすぎました」
「場所、分かりにくくありませんでしたか」
「一度来ていますから」
それだけ言ってから、藤堂は展示棚へ目を戻した。
「この商品は、今も販売しているんですか」
「そのカレーですか?」
「はい」
「十二年前に終売しています。私が入社した頃には、まだありましたけど」
「評判が悪かったんですか」
「逆です。固定のお客様は多かったそうです。ただ、原材料の確保が難しくなって、同じ味を維持できなくなったと聞いています」
「売れていても、終わる商品があるんですね」
「食品は多いですよ。材料だけじゃなく、製造ラインや容器の都合もありますから」
藤堂は箱をしばらく眺めていた。
思っていた答えと違ったのかもしれない。けれど、その表情からは何も読み取れなかった。
「こちらへどうぞ」
結衣は来客用の入館証を渡し、藤堂を執務室へ案内した。
今日は会議室ではなく、実際の業務を見てもらうことになっている。事前に部内へ説明していたものの、取引先の担当者が一人で入ってくると、近くの社員たちが一斉に顔を上げた。
藤堂は軽く会釈し、結衣の隣に用意された椅子へ座った。
「何から確認しますか?」
「普段どおりに作業してください。途中で質問させていただきます」
「見られていると、普段どおりというのが難しいんですが」
「私のことは、いないものとして扱ってください」
無表情で言われ、結衣は一瞬返事に困った。
「それはもっと難しいです」
「では、観葉植物くらいで」
「ずいぶん大きな観葉植物ですね」
藤堂の視線が、結衣の机の端に置かれた小さな鉢植えへ向いた。
「もう少し場所を取らない人間になるよう努力します」
結衣は笑いそうになり、口元を押さえた。
藤堂は冗談を言った後も、やはり笑わなかった。
ただ、目元だけがわずかにやわらいでいる。前回の打ち合わせでは気づかなかったほど小さな変化だった。
「では、始めます」
結衣はパソコンの画面を藤堂からも見える角度に動かした。
最初に、取引先からメールで届いた注文書を開く。注文書には、商品名と数量、希望納品日が記載されている。そこから社内の商品コードを検索し、受注システムへ入力する。
「この会社の場合、注文書に記載されている商品コードは使わないんですか」
「先方独自のコードなので、そのままでは登録できません。こちらの対応表で社内コードに置き換えます」
「対応表は共通ですか」
「取引先ごとに別です」
「どこに保存されていますか」
「基本的には共有フォルダです。ただ、更新が間に合わない場合は、担当者が自分のファイルを先に直していることもあります」
藤堂は手元のノートに何かを書いた。
今日はノートパソコンを開いていない。画面ばかり見ていると現場の動きを見落とすからだろうか。黒い表紙のノートには、細かな文字が整然と並んでいた。
「先日の“一応”ですね」
「はい。問題になる“一応”です」
「個人で更新した情報が共有されないまま、別の担当者が古いコードを使う可能性がある」
「あります。登録時にエラーが出れば気づけますが、別の商品に使われているコードだった場合は、そのまま通ることもあります」
「実際に起きたことは?」
「昨年、一度ありました。コーンスープを注文されたのに、同じ番号が以前のかぼちゃスープに使われていて」
「何ケース出荷しましたか」
「出荷前に気づきました。倉庫から、季節的におかしいんじゃないかと問い合わせがあったので」
「人の違和感で防いだわけですね」
「そうなります」
藤堂は頷いた。
「新しいシステムでは、コードの変更履歴を全員が見られるようにします。更新日と更新者も残した方がよさそうです」
「できるんですか?」
「難しくありません。ただ、更新する人を決める必要があります」
結衣は少し考えた。
「営業担当者が変更を知ることもあれば、私たちが先に気づくこともあります。誰か一人に決めると、その人が休んだ日に止まってしまいます」
「では、変更を申請する人と、承認する人を分けます。申請は全員ができる。承認は何人かの担当者に権限を付ける」
「それなら大丈夫だと思います」
「承認されるまでの間、急ぎの注文が来た場合は?」
問われて、結衣は言葉を止めた。
「仮登録が必要ですね」
「そうですね。ただ、仮登録が残り続けると、それはそれで別の問題になります」
「一日ごとに未処理の一覧を出せませんか?」
「出せます。一定時間を過ぎたら、承認担当者へ通知することもできます」
「それなら助かります」
藤堂は結衣の答えを聞いてから、再びノートへ書き込んだ。
自分の考えを押しつけるのではなく、一つ提案するたびに現場で使えるかを確かめる。その姿勢は、結衣がこれまで会ってきたシステム会社の担当者とは少し違っていた。
以前、倉庫管理の一部を変更したときは、説明会の段階ですでにほとんどの仕様が決まっていた。現場から意見を出しても、「運用で対応してください」と返されることが多かった。
運用で対応する、という言葉は便利だ。
仕組みに収まらない作業を、現場の誰かが引き受ける。それが毎日繰り返されれば、いつの間にか正式な業務になる。
けれど、その負担がシステムを作った人に見えることはない。
「藤堂さんは、前にも食品会社のシステムを担当されたことがあるんですか?」
「食品卸はあります。メーカーは初めてです」
「それで、こんなに細かいところまで聞くんですね」
「知らないので、聞くしかありません」
藤堂は当然のように言った。
「知っているふりをして作る方が、後で困ります」
「困るのは、こちらですけどね」
「だから聞いています」
返ってきた言葉があまりにもまっすぐで、結衣は藤堂の横顔を見た。
彼は画面に視線を向けたままだった。
誠実という言葉は、笑顔や優しい口調に使われることが多い。けれど、本当の誠実さは、分からないことを分からないと認めるところにあるのかもしれない。
作業を続けていると、電話が鳴った。
「はい、営業業務課、佐伯です」
物流倉庫からだった。
翌日出荷予定の注文に、確認したいものがあるという。結衣は電話を肩と耳で挟み、該当する伝票番号を入力した。
「北央ストア様の百二十ですね。はい。豆乳ポタージュが百二十……」
画面に表示された数字を見て、結衣の手が止まった。
「少々お待ちください」
保留ボタンを押し、注文書を開く。
藤堂は何も言わず、少し椅子を引いた。結衣の仕事を邪魔しないためだろう。
注文書には、確かに百二十と記載されている。
しかし、単位が違った。
受注システムには百二十ケースと入力されているが、注文書に書かれているのは百二十個だった。一ケースには二十四個入っている。百二十個なら五ケースだが、百二十ケースでは二千八百八十個になる。
結衣は入力履歴を確認した。
処理したのは、別の担当者だった。発注データを取り込んだ際、数量だけが自動で入力され、単位は初期設定の「ケース」が選択されている。
「北央ストア様へ確認します。出荷は止めておいてください」
倉庫へ伝えて電話を切り、すぐに担当営業へ連絡した。
確認の結果、注文は百二十個で間違いなかった。
結衣は数量を五ケースへ修正し、倉庫へ再度連絡する。すべてを終えると、思わず息を吐いた。
「すみません。中断してしまって」
「今の処理を確認してもいいですか」
藤堂はノートを開き直した。
「注文書には百二十個と書かれていた。しかし、システムには百二十ケースで取り込まれた」
「はい」
「自動で取り込まれるのは数量だけですか」
「商品コードと数量、納品日です。単位は取引先ごとに設定されています」
「今回の取引先は、通常はケース単位で注文する」
「そうです。ただ、新商品の初回導入だけは、店舗へ少しずつ配るために個数で注文することがあります」
「システムは、いつもと違う注文を想定していない」
「人間も、見落としましたけどね」
「見落とすようにできているとも言えます」
藤堂は画面を指した。
「数量の横に単位が表示されていますが、文字が小さい。しかも、初期設定で入るなら、入力した人はそこを確認しないでしょう」
「今までは、倉庫で出荷数が多すぎると気づいてくれていました」
「今回は気づいた。でも、いつも気づくとは限らない」
「はい」
「新しいシステムでは、過去の平均注文数を大きく超えたときに警告を出しましょう。通常と異なる単位が使われた場合も、確認画面を表示します」
「そんなこともできるんですか?」
「過去のデータが残っていれば可能です。完全には防げませんが、確認するきっかけにはなります」
結衣は先ほどの注文書を見た。
「今の電話がなかったら、この処理もお伝えしないままでした」
「業務手順を聞くだけでは、例外は出てきませんから」
「一日中ここに座っていた方が早いかもしれませんね」
「私がですか」
「困りますか?」
「観葉植物として置いていただけるなら」
結衣は吹き出した。
近くの席にいた小野寺が、不思議そうにこちらを見る。結衣は軽く首を振り、何でもないと伝えた。
藤堂は笑っていなかった。
それでも、先ほどより目元がやわらかくなっていた。
*
午後四時を過ぎた頃、結衣は休憩を提案した。
「藤堂さん、コーヒーでもいかがですか」
「お気遣いなく」
「私が飲みたいんです。二時間以上、一度も席を立っていないので」
藤堂は腕時計を見た。
「すみません。長くなりました」
「謝るところではありません。こちらも仕事ですから」
結衣は立ち上がり、藤堂を休憩スペースへ案内した。
給湯室の隣に、自動販売機と小さなテーブルが置かれている。窓からは、隣のビルの壁と、その向こうに細く伸びる空が見えた。
「コーヒーでいいですか?」
「はい。自分で買います」
藤堂は自動販売機の前に立ち、しばらく商品を見ていた。
「種類が多いですね」
「藤堂さんの会社にはないんですか?」
「コーヒーマシンがあります。ただ、操作を間違えると、頼んでいないものが出ます」
「操作を間違えなければいいのでは」
「それが難しいんです」
「システム設計をしている人なのに?」
「作ることと使うことは別です」
真顔で答える藤堂に、結衣はまた笑った。
「前に一度、ブラックコーヒーを押したつもりで、抹茶ラテが出ました」
「ボタンの位置が全然違いませんか」
「新しい機械に変わった日でした」
「飲んだんですか?」
「捨てるのはもったいないので」
「抹茶ラテはお嫌いなんですか」
「甘いものは、あまり」
そう言いながら、藤堂は自動販売機で無糖の缶コーヒーを選んだ。
結衣は温かいカフェオレのボタンを押す。取り出し口から缶を取り、窓際のテーブルへ向かう。
二人で向かい合って座ると、急に仕事以外の会話がなくなった。
先ほどまでは確認したいことが次々と出てきたのに、休憩となった途端、何を話せばいいのか分からない。
結衣は缶の蓋を開けた。
「藤堂さんは、いつもあんなふうに現場を見て回るんですか?」
「できる範囲では」
「大変じゃありませんか」
「会議室で説明を聞くだけの方が楽です。でも、それで作っても使えないものになります」
「前に苦労したことがあるんですか?」
藤堂は缶コーヒーへ視線を落とした。
「入社して三年目の頃、物流会社の勤怠システムを担当しました。打刻と勤務時間を自動で集計する、単純な仕組みだと思っていました」
「違ったんですか?」
「夜中に日付をまたいで働く人や、途中で別の営業所へ移る人がいました。休憩時間も全員同じではない。こちらが考えた“普通の勤務”に当てはまらない人が、思っていたより多かった」
「食品会社の商品と同じですね。普通の注文だけなら簡単なんです」
「そうですね」
「そのシステムは、どうなったんですか?」
「稼働直後に不具合が続きました。現場の方に、前の方がよかったと言われました」
藤堂は淡々と話した。
けれど、その言葉が今も残っていることは分かった。
「直したんですか?」
「三か月かかりました。その間、現場の方が手作業で確認することになりました」
「大変だったでしょうね」
「現場の方が、です。私は直すことが仕事でしたから」
藤堂は缶を持ったまま、窓の外を見た。
「便利にするために作ったものが、かえって人の仕事を増やした。それから、最初に見せてもらうようにしています」
結衣はカフェオレを一口飲んだ。
藤堂が細かく質問する理由が、少し分かった気がした。
彼は自信がないから確かめているのではない。一度、自分の思い込みで誰かに負担をかけたことを忘れていないのだ。
「失敗したことを、ずっと覚えているんですね」
「忘れると、同じことをしますから」
「成功したことは?」
「成功したと思った瞬間に、見落としが始まります」
「厳しいですね。自分にも、周りにも」
「周りにも厳しく見えますか」
藤堂が結衣を見た。
少し意外そうだった。
「見えます」
「気をつけます」
「でも、話は聞いてくれます」
「それは当然です」
「その当然が、できない人もいますから」
結衣が言うと、藤堂は返事をしなかった。
褒めたつもりだったが、困らせてしまったのかもしれない。
藤堂は缶コーヒーを一口飲み、テーブルへ置いた。
「佐伯さんは、いつから今の仕事を?」
「新卒で入ったので、十三年目です」
「ずっと営業事務ですか」
「最初の二年は総務でした。その後は、ずっと今の部署です」
「仕事が好きなんですね」
「どうしてそう思うんですか?」
「先ほどの注文を修正したとき、安心した顔をしていたので」
結衣は返す言葉を探した。
出荷を間違えずに済んだのだから、安心するのは当然だ。けれど藤堂は、それとは違う何かを見ていたような言い方をした。
「仕事が好きというより、きちんと終わるのが好きなんです」
「同じでは?」
「少し違います。仕事そのものが好きというより、誰かが困らない状態にしておきたいんです」
「その“誰か”に、佐伯さん自身は入っていますか」
思いがけないことを聞かれ、結衣は瞬きをした。
「どういう意味ですか?」
「他の人が困らないように仕事をする人は、自分の負担を後回しにすることが多いので」
「今日、私の働き方を確認する予定でしたか?」
「いえ。余計なことを言いました」
藤堂は視線をそらした。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫です。ただ、少し驚いただけです」
結衣は缶を両手で包んだ。
誰かが困らない状態にしておきたい。
自分で口にした言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
確かに結衣は、何かを頼まれたとき、できないと答えることが苦手だった。自分が引き受ければ済むのなら、その方が早いと思ってしまう。
それを仕事への責任感と呼んできた。
けれど、自分のために働いているかと尋ねられたことはなかった。
「藤堂さんは入っていますか?」
結衣は聞き返した。
「何がですか」
「困らないようにする“誰か”の中に、ご自分も」
藤堂は黙った。
表情の変化はわずかだったが、質問の意味は伝わったらしい。
「入れるようにはしています」
「ずいぶん曖昧ですね」
「佐伯さんも同じでしょう」
「そうかもしれません」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
居心地が悪いわけではなかった。
外から微かな風の音が聞こえ、窓に小さな水滴が当たった。いつの間にか空が暗くなっている。
「雨ですね」
結衣が言うと、藤堂も窓を見た。
「降る予報でしたか」
「夕方から降水確率が高かったと思います」
藤堂は足元の鞄を見た。
「傘、持っていないんですか?」
「朝は晴れていたので」
「藤堂さんでも、天気予報を見落とすことがあるんですね」
「天気は専門外です」
「便利な言葉ですね、専門外」
「使いすぎないようにします」
雨粒は次第に増え、灰色の筋になって窓を流れ始めた。
*
聞き取りを終えたのは、午後五時半だった。
藤堂はノートを閉じ、結衣から受け取った資料を鞄へ入れた。
「予定より長くなってしまい、申し訳ありません」
「こちらこそ、途中で通常業務を挟んでしまって」
「そのために来たので、問題ありません。今日見せていただいた内容を整理して、来週中にお送りします」
「お願いします」
結衣は藤堂をエントランスまで見送った。
外では雨が激しく降っていた。道路に落ちた雨粒が白く跳ね、傘を持つ人たちは肩をすぼめて歩いている。
藤堂は自動ドアの前で立ち止まった。
「駅まで、どのくらいですか」
「十分くらいです」
「走れば短くなりますね」
「その革靴で走るんですか?」
藤堂が自分の靴を見下ろす。
「危険でしょうか」
「危険です。少し待っていてください」
結衣は受付の横にある傘立てを確認した。
来客用のビニール傘が二本入っている。総務に声をかけ、そのうちの一本を借りた。
「これをどうぞ」
「でも、会社の傘ですよね」
「次にいらしたときに返していただければ大丈夫です」
「次に来るのは、来週以降になると思います」
「急ぎません」
藤堂は傘を受け取った。
「ありがとうございます。必ず返します」
「一本くらいで、そんなに真剣に言わなくても」
「借りたものを返さないと、次に来る理由がなくなるので」
結衣は藤堂を見た。
彼も自分の言葉を振り返るように、わずかに動きを止めた。
「仕事では来ますが」
遅れて付け加えられた言葉に、結衣の胸の奥が小さく揺れた。
「分かっています」
「今の言い方は、忘れてください」
「藤堂さんでも、言い間違えることがあるんですね」
「今日は専門外のことを話しすぎました」
「会話も専門外ですか?」
「得意ではありません」
その答えは冗談ではないようだった。
藤堂は器用に人との距離を縮める人ではない。思ったことをうまく包めず、必要以上に説明してしまう。
それなのに、結衣にはその不器用さが嫌ではなかった。
「傘を返しに来るのを、待っています」
結衣は言った。
藤堂が顔を上げる。
「仕事の打ち合わせもありますから」
今度は結衣が付け加える番だった。
藤堂の目元が、ほんの少しだけやわらいだ。
「分かっています」
彼は傘を開き、雨の中へ出ていった。
透明なビニール越しに、濃いグレーのスーツが遠ざかっていく。横断歩道の手前で一度立ち止まり、信号が変わるのを待つ。特別に振り返ることもなく、そのまま駅の方向へ歩いていった。
結衣は姿が見えなくなる前に、エレベーターへ戻った。
執務室に入ると、小野寺が鞄を持って立っていた。
「佐伯さん、あの人に傘を貸したの?」
「来客用です」
「ずいぶん長い聞き取りだったね」
「確認することが多かったので」
「二人で休憩にも行ってたでしょう」
「ずっと作業を見てもらっていたんです。休憩くらいします」
結衣は机の上を片づけながら答えた。
小野寺は何か言いたそうにしていたが、結衣が取り合わないと分かると、「お先に」と手を振って出ていった。
一人になった結衣は、藤堂が座っていた椅子を元の場所へ戻した。
机の上に、小さな紙が残っている。
藤堂が書いたものらしく、四角い枠の中に「個数/ケース」「通常値との差」「要確認」と並んでいた。新しいシステムの警告画面を考えた跡だろう。
その下に、小さく一文が添えられている。
〈人が気づける仕組みにする〉
人の代わりに判断する仕組みではなく、人が気づける仕組み。
結衣はその言葉をしばらく見つめた。
藤堂は、冷たく見える。
笑顔も少なく、話し方も簡潔で、必要のないことはほとんど口にしない。けれど彼が見ているのは、画面の数字だけではなかった。
その数字を入力する人。間違いに気づく人。間違いを直すため、見えないところで手を動かす人。
誰かの負担を減らすために、細かなことを一つずつ確かめている。
結衣は紙を捨てず、自分の資料の間に挟んだ。
退勤する頃には、雨は少し弱くなっていた。
結衣は置き傘を開き、駅へ向かった。
歩道には、街灯の光が細長く映っている。水たまりを避けながら歩いていると、鞄の中でスマートフォンが震えた。
藤堂からのメールだった。
〈傘をありがとうございました。無事、駅に着きました〉
それだけの短い文面だった。
結衣は信号待ちの間に返信した。
〈ご連絡ありがとうございます。お役に立ててよかったです〉
送ってから、少しだけ迷う。
仕事の相手へ、これ以上書く必要はない。
そう思ったが、指はもう一度画面へ触れていた。
〈次回は天気予報も確認してください〉
送信して間もなく、返事が届いた。
〈努力します。システムで警告を出せると助かるのですが〉
結衣は声を出して笑った。
隣に立っていた女性が一瞬こちらを見たため、慌てて口元を手で覆う。
〈それはご自分で開発してください〉
そう返すと、藤堂から、承知しました、とだけ届いた。
信号が青に変わる。
結衣はスマートフォンを鞄へ戻し、横断歩道を渡った。
駅までの道は、いつもと同じだった。
同じ店の明かり。同じ交差点。同じ時間に駅へ急ぐ人たち。
けれど結衣の足取りは、ほんの少し軽かった。
翌日の夜、結衣は麻衣たちと会う日程を決めるため、三人のグループメッセージを開いた。
来月の二週目の土曜日。午後一時。場所は新宿。
予定表へ入力しようとすると、木曜日の欄に藤堂の名前が残っているのが見えた。
聞き取りは終わっている。予定としては、もう削除しても構わない。
それでも結衣は、その表示を消さなかった。
青いスープ皿で夕食を取りながら、藤堂が置いていった紙を思い出した。
人が気づける仕組みにする。
結衣はこれまで、誰かの小さな変化に気づくことを仕事にしてきた。
営業担当者の声がいつもより急いでいれば、注文の締め切りが迫っているのだと考える。倉庫からの確認が曖昧なら、数字をもう一度調べる。同僚の手が止まっていれば、処理に迷っていないか声をかける。
けれど、自分自身の変化には、あまり目を向けてこなかった。
木曜日の予定を少し楽しみにしていたこと。
藤堂が来る十分前から、時計を何度も確認していたこと。
彼が帰った後、隣の椅子が空いたことを、わずかに寂しく感じたこと。
どれも恋と呼ぶには小さすぎた。
取引先の担当者に興味を持っただけかもしれない。話しにくそうに見えた人の意外な一面を知り、親しみを感じただけとも言える。
結衣は無理に答えをつけなかった。
何にでも名前をつける必要はない。
ただ、変化に気づいている自分まで、見なかったことにはしたくなかった。
食事を終え、青い皿を洗う。
水切りかごへ置いた皿の縁を、水滴がゆっくり流れた。
隣には何もない。
それでも以前のように、その余白を寂しいとは思わなかった。
空いている場所には、失ったものだけが残るのではない。
これから置かれるものを、待つこともできる。
結衣は照明を落とし、静かな部屋を振り返った。
藤堂に貸した傘が戻ってくるのは、来週になる。
また会う理由は、すでに仕事として決まっていた。
それなのに、その約束を思うだけで、明日からの日常がほんの少し違って見えた。




