第一章 ひとり分の夕食
金曜日の午後七時四十三分、佐伯結衣は最後の数字を確認し、表計算ソフトの保存ボタンを押した。
画面の隅に小さく表示された「保存しました」という文字を見届けてから、椅子の背にもたれる。蛍光灯の白い光が、半分ほど空いたオフィスを均等に照らしていた。
月末まで、あと三営業日。
冷凍食品部門の売上データはすべて揃った。量販店ごとの発注数と出荷数のずれも修正し、営業担当者から届いた追加注文も反映した。来週月曜日の会議に必要な資料は共有フォルダへ入れ、部長と課長への報告メールも送ってある。
今日やるべきことは、すべて終わった。
やり残したものがないことを、結衣はもう一度確認した。
それは慎重さというより、長年かけて身についた習慣だった。仕事を家へ持ち帰らないために、退勤前には必ず未処理の項目を確認する。何か残っていれば箇条書きにして、翌日の予定表に入れる。そうすれば、玄関を出たところで仕事のことを考えなくて済む。
「佐伯さん、まだ帰らないんですか?」
斜め向かいの席から声をかけてきたのは、入社四年目の河合美月だった。紺色のコートを腕にかけ、肩から小さなバッグを提げている。いつもより丁寧に巻かれた髪から、ほのかな香水の匂いがした。
「今、終わったところ。河合さんはこれから?」
「大学時代の友達とごはんです。二人とも結婚しちゃったので、金曜日じゃないとなかなか会えなくて」
「そうなんだ。楽しんできて」
「ありがとうございます。佐伯さんは?」
「私は帰ってごはん」
「いいですね。今週、長かったですもんね」
河合は笑い、近くにいた同僚たちへも「お先に失礼します」と声をかけてから出ていった。
彼女が立ち去ると、オフィスは少しだけ静かになった。
結衣はパソコンの電源を落とし、机の上を整えた。赤と青のペンを引き出しに戻し、読みかけの資料を左端に重ねる。使ったカップを給湯室で洗い、濡れた手をハンカチで拭いた。
「佐伯さんも、もう上がっていいぞ」
部長席から声が飛んできた。
「はい。お先に失礼します」
「来週のシステム更新の打ち合わせ、十時からだからな」
「資料は共有フォルダに入れてあります。紙でも人数分用意しておきます」
「さすが。助かるよ」
特別な言葉ではない。それでも、頼られていることが結衣は嬉しかった。
新卒で東央食品に入社して十三年になる。最初の頃は、営業事務の仕事を単調だと思ったこともあった。電話を受け、注文を入力し、在庫を確認する。営業担当者が間違えた数字を直し、取引先からの問い合わせに答える。どれだけ忙しく働いても、自分の名前が商品のパッケージに載ることはない。
けれど、長く続けるうちに分かってきた。
売り場に商品が並ぶまでには、想像以上に多くの人が関わっている。
材料を仕入れる人。商品を作る人。品質を守る人。運ぶ人。店に売り込む人。そして、その間をつなぎ、必要な数を必要な場所へ届けるために調整する人。
結衣の仕事は、その「間」にあった。
電話一本、数字一つの修正で、出荷が間に合うことがある。季節限定の商品が売り場に並び、誰かがそれを手に取る。目立たなくても、自分の仕事が誰かの日常へつながっている。
それを知ってから、結衣はこの仕事を好きになった。
エレベーターで一階へ下り、社員証を首から外す。自動ドアを抜けると、十月の夜風が頬を撫でた。
昼間はまだ暖かかったが、日が落ちると空気が急に冷える。薄手のコートを選んだことを少し後悔しながら、結衣は駅へ向かった。
金曜日の夜らしく、通りには人が多かった。
居酒屋の前で同僚を待っている会社員たち。腕を組んで歩く男女。ベビーカーを押しながら、紙袋を提げた夫と話している女性。歩道の端では、若い男性が誰かに電話をかけながら手を振っている。
結衣はその間を縫うように歩いた。
まっすぐ帰れることに、寂しさは感じていなかった。
誰かの予定を気にしなくていい。夕食の時間も、眠る時間も、自分で決められる。休日に一日中部屋で過ごしても、急に思い立って映画を観に行っても、誰にも理由を説明する必要はない。
それは、思っていた以上に快適だった。
駅前のスーパーマーケットへ入り、入口近くのかごを取る。
週末前の店内は混み合っていた。惣菜売り場では値引きのシールを貼る店員の周りに人が集まり、精肉売り場では家族連れが大きなパックを選んでいる。
結衣は人の少ない野菜売り場から回ることにした。
ミニトマト、ブロッコリー、しめじ。明日の朝食用にヨーグルトと食パン。来週の弁当に使えるよう、冷凍のほうれん草も入れる。
鶏肉の前で足を止め、二枚入りのパックを手に取った。
一枚は今夜焼いて、残りは明日の昼に使えばいい。そう考えてから、隣に並んでいる一枚入りの小さなパックへ目を移した。
値段を比べれば、二枚入りの方が少し安い。
けれど冷蔵庫に残った食材を見ると、「食べなければならないもの」があるようで落ち着かない。結衣は二枚入りを棚へ戻し、一枚入りをかごに入れた。
今夜は鶏肉ときのこのクリーム煮にしよう。簡単なサラダも作る。余裕があれば、冷蔵庫に残っている白ワインを少しだけ飲んでもいい。
献立が決まると、帰宅後の時間が形を持ち始めた。
レジへ向かう途中、食器売り場の前を通った。
秋の新生活応援と書かれた棚に、深い青色のスープ皿が並んでいる。縁に細い金色の線が入った、落ち着いたデザインだった。
結衣は思わず足を止めた。
一枚八百九十円。
二枚並べたらきれいだろうと思った。
向かい合って座り、同じ皿から湯気の立つ料理を食べる光景が、一瞬だけ頭に浮かんだ。
誰と、というところまでは考えなかった。
ただ二枚の皿が、木目のテーブルに並んでいた。
結衣は値札から目を離し、かごの中を見下ろした。一枚入りの鶏肉、小さなブロッコリー、三個入りのヨーグルト。
必要なものはすべて入っている。
食器棚には、まだ使える皿が何枚もある。
青い皿を買う理由はなかった。
結衣はそのままレジへ向かった。
「レジ袋はご利用になりますか?」
「一枚お願いします」
「お箸は?」
「大丈夫です」
精算を済ませ、自分で食材を袋へ詰める。重いものを下へ入れ、鶏肉とパンが潰れないよう上に載せる。その作業も、十三年近く続けていれば考えずにできた。
スーパーから自宅までは徒歩十二分ほどだった。
駅の西口から商店街を抜け、細い道を二つ曲がる。築九年の七階建てマンション。その五階にある一LDKが、結衣の部屋だった。
オートロックを開け、エレベーターに乗る。
鏡に映った自分と目が合った。
肩につく長さの黒髪。紺色の薄手のコート。ベージュのブラウスに、黒いパンツ。朝に塗った口紅はほとんど落ち、目元にはわずかな疲れが残っていた。
三十五歳。
若いとも、若くないとも言い切れない年齢だった。
鏡の中の自分は、二十代の頃より少しだけ頬が細くなっている。その代わり、自分に似合う服や髪型は分かるようになった。無理をすると翌日に残ることも、眠れない夜にコーヒーを飲んではいけないことも知っている。
失ったものもあるのだろう。
けれど、得たものだって少なくない。
五階で降り、廊下の奥にある部屋の鍵を開ける。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって言う。
返事がないことには、とうに慣れていた。
玄関の照明をつけ、靴を脱ぐ。買い物袋をキッチンへ置き、寝室で部屋着に着替えた。髪を一つにまとめてから手を洗い、冷蔵庫を開ける。
奥に、開封済みの白ワインがあった。
グラス一杯くらいなら飲んでもいいかもしれない。
鶏肉に塩と胡椒を振り、小麦粉を薄くまぶす。フライパンにオリーブオイルを引き、表面に焼き色をつける。しめじを加えると、ぱちぱちと小さな音が弾けた。
料理をしている時間が、結衣は好きだった。
包丁を動かし、火加減を調整し、味を確かめる。順番を間違えなければ、材料はきちんと料理になる。仕事と似ているところがあった。
牛乳と少量の生クリームを加え、弱火で煮込む。
その間にブロッコリーを茹で、ミニトマトと一緒に皿へ盛った。
食器棚から白い深皿を一枚取り出す。
隣には、同じ形の皿がもう一枚重ねてあった。
五年前、この部屋へ引っ越したときに二枚一組で買ったものだ。一枚だけ買える商品もあったのに、なぜか二枚を選んだ。
来客用に必要だから。
そのときは、そう考えていた。
実際には、誰かと食卓を囲むことを完全には諦めたくなかったのかもしれない。
けれど二枚目の皿は、ほとんど使われていない。友人が遊びに来たときに数回出した程度で、表面には傷一つなかった。
結衣は一枚だけを取り出し、クリーム煮を盛った。
テーブルに料理を並べ、白ワインを注ぐ。テレビをつけると、旅番組が始まったところだった。海沿いの小さな町を、俳優が歩いている。
結衣は最初の一口をゆっくり噛んだ。
鶏肉はやわらかく、思ったよりも上手にできていた。
「おいしい」
誰に聞かせるでもなく、口にした。
自分のために作った料理を、自分でおいしいと思う。それで十分なはずだった。
スマートフォンが震えたのは、半分ほど食べたところだった。
高校時代からの友人、麻衣からメッセージが届いている。
〈来月の土曜日、空いてる? 久しぶりに三人で会わない?〉
続けて、候補の日が二つ送られてきた。
結衣は予定表を確認した。どちらの日にも用事はない。
〈どちらでも大丈夫。みんなに合わせるよ〉
そう返すと、すぐに既読がついた。
〈結衣は相変わらず予定合わせやすくて助かる〉
悪意のない言葉だった。
むしろ麻衣は、結衣の都合を先に聞いてくれただけなのだろう。
それでも「予定合わせやすくて」という部分が、妙に目に残った。
家族がいる友人たちは、週末にも予定がある。夫の仕事、子どもの学校、習い事、義理の両親との約束。誰かと暮らすということは、自分以外の予定も背負うことなのだろう。
結衣には、それがない。
だから日程を合わせやすい。
自由で、便利で、少しだけ寂しい。
そんなふうに感じた自分が嫌で、結衣はスマートフォンを伏せた。
寂しいと認めてしまったら、これまでの生活まで否定することになるような気がした。
一人でいることを選んできたわけではない。
けれど、仕方なく一人でいたわけでもなかった。
仕事を続け、この部屋を選び、家具を揃え、休日の過ごし方を見つけた。苦手だった料理も覚えた。高熱を出した夜には自分で病院を探し、給湯器が壊れたときには修理業者を手配した。
誰かに守られなくても、生活は作れる。
それは結衣が、この五年間で手に入れた確かなものだった。
だからこそ、ときどき胸をよぎる寂しさを、人生全体の失敗のようには扱いたくなかった。
寂しい夜があることと、一人の生活が不幸であることは、同じではない。
結衣は残りのワインを飲み、少し冷めたクリーム煮を口へ運んだ。
旅番組では、夕暮れの海が映っていた。
隣に誰かがいたら、この景色を見て何と言うのだろう。
そんなことを考えてから、結衣は自分の想像に小さく笑った。
食事を終え、食器を洗う。
一枚の皿と、一つのグラス。
水切りかごには、少し広すぎる余白が残った。
*
週明けの月曜日、結衣はいつもより三十分早く出社した。
受発注システムの更新に関する最初の打ち合わせが、午前十時から予定されていた。
東央食品では、十年以上使い続けてきた受発注システムを刷新することになっている。現在のシステムは古く、商品の登録や在庫の確認に手間がかかる。取引先ごとに異なる注文形式へ対応するため、営業事務の担当者が何度も手作業で数字を入力し直していた。
入力ミスを防ぐための確認作業が増え、さらにその確認にも人手が必要になる。
現場から改善を求める声は何年も前から出ていた。
しかし、システムを変えればすべてが解決するわけではない。移行期間には、新旧二つの仕組みを同時に動かさなければならない。季節商品の入れ替えが重なる時期にトラブルが起きれば、出荷そのものが止まる可能性もある。
結衣は先週までに、営業事務の立場から問題点をまとめていた。
営業担当者から口頭で届く追加注文。
取引先ごとに異なる商品コード。
賞味期限によって分けられた在庫。
急な欠品時に必要となる代替商品の提案。
資料の余白には、書ききれなかった注意点を赤い文字で書き足してある。
「佐伯さん、ずいぶん気合い入ってるね」
隣の席に座る先輩社員の小野寺が、資料を覗き込んだ。
「最初に伝えておかないと、後から変える方が大変ですから」
「でも、相手は専門家でしょう? その辺は分かってるんじゃない?」
「仕組みのことは分かっていても、うちの現場のことまでは分かりません」
「まあ、それもそうか」
小野寺は笑いながら自分の席へ戻った。
十時五分前、結衣は会議室に入った。
すでにシステム開発会社の担当者が二人、部長と話していた。
一人は四十代半ばほどの男性で、営業担当らしい柔らかな笑顔を浮かべている。もう一人は、少し離れた席でノートパソコンを開いていた。
濃いグレーのスーツに、白いシャツ。ネクタイは紺色で、柄はない。短く整えられた髪には、わずかに癖があった。
結衣が入ってきたことに気づくと、男性は画面から顔を上げた。
「営業業務課の佐伯です。本日はよろしくお願いいたします」
結衣が名刺を差し出すと、男性も立ち上がった。
「ネクサスリンクの藤堂です。システム設計を担当します」
差し出された名刺には、藤堂亮介と書かれていた。
落ち着いた低い声だった。
年齢は結衣より少し上だろう。目元は涼しく、表情にはほとんど変化がない。こちらを拒んでいるわけではないのに、余計なものを入れないよう、薄い壁を一枚置いているように見えた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
名刺を受け取り、結衣は向かい側の席に座った。
十時ちょうどに打ち合わせが始まった。
営業担当者の挨拶に続き、藤堂が新しいシステムの概要を説明する。画面に映された資料は簡潔で、説明にも無駄がなかった。
商品情報、取引先情報、受注データ、在庫数。それぞれを一つのシステムで管理し、重複入力を減らす。取引先から届いた注文データを自動で読み込み、担当者は確認と承認だけを行う。
理想どおりに動けば、業務時間は大幅に減るだろう。
「移行作業は、来年一月から開始する予定です」
藤堂の言葉に、結衣は手元の資料へ目を落とした。
「一月ですか?」
思わず声が出た。
会議室にいた人たちの視線が集まる。
「何か問題がありますか」
藤堂が尋ねた。
責める口調ではない。ただ、答えを待っている。
「一月から三月は、春の新商品への切り替え時期です。終売商品と新商品が同時に登録されます。それに、二月は量販店向けの企画商品も多いので、年間で最も商品コードが増える時期の一つです」
「資料では、繁忙期は十一月から十二月と伺っています」
「出荷量だけならそうです。ただ、登録作業が最も多いのは一月から二月です」
結衣は資料を開き、前年の処理件数を示した。
「出荷数と入力件数は一致しません。冬の主力商品は一商品あたりの出荷数が多いですが、春は少量の商品が一気に増えます。新旧のシステムへ同じ商品を登録するとなると、通常の倍近い作業が発生します」
営業担当の男性が、困ったように藤堂を見た。
「時期をずらした方がよさそうですかね」
藤堂はすぐには答えなかった。
結衣が用意した資料を手に取り、ページをめくる。余白に書いた赤い文字にも目を通している。
「この数字は、佐伯さんが集計したものですか」
「はい。営業事務六名分の作業記録をまとめました」
「一件あたりの処理時間は」
「新規登録なら平均で七分程度です。ただし、取引先ごとのコード変換が必要な場合は、十五分以上かかることもあります」
「登録後の確認は別ですか」
「別です。登録者とは別の担当者が確認しています」
藤堂はしばらく黙り込んだ。
自分の計画に反対され、機嫌を損ねたのだろうか。結衣はそう思ったが、彼はノートパソコンを操作し、画面に表示されていた日程表を閉じた。
「移行時期は再検討します」
部長が驚いたように顔を上げた。
「そんなにすぐ変えられるんですか」
「現場の処理量を反映せずに作った日程に、意味はありません」
藤堂は淡々と答えた。
「今日の打ち合わせでは、先に実際の業務を確認させてください。予定していた説明は資料をお渡しします」
それから藤堂は、結衣たちへ細かな質問を始めた。
注文はどのような経路で届くのか。メールとファクスの割合はどれくらいか。営業担当者が外出先から追加注文を連絡する場合、誰がどのように記録するのか。欠品が発生した際、代替商品の決定権は誰にあるのか。
表面的な流れだけではなく、例外的な処理についても確かめていく。
結衣が説明すると、藤堂は一度で理解した。分からない部分は曖昧にせず、言葉を変えて尋ね直す。
「つまり、同じ商品でも取引先によって登録名が異なるということですか」
「はい。商品名だけでなく、容量の表記が違う場合もあります」
「自動変換のための対応表はありますか」
「一応あります。ただ、営業担当者の個人ファイルになっているものも多いです」
「一応という言葉が出るところは、だいたい問題になりますね」
藤堂が真顔で言った。
一瞬の間を置いて、部長が笑った。
結衣も口元を緩めた。
無愛想に見えたが、冗談を言わない人ではないらしい。ただ、その冗談にも笑顔が伴わないため、気づくまでに時間がかかるのだ。
予定の一時間を二十分ほど超えて、打ち合わせは終了した。
結衣が資料を片づけていると、小野寺が小声で話しかけてきた。
「藤堂さん、ちょっと怖くない?」
「そうですか?」
「表情が変わらないし。佐伯さんが日程の話をしたとき、怒ったのかと思った」
「でも、ちゃんと変えてくれましたよ」
「それはそうだけど」
小野寺は藤堂の方を見た。
彼は営業担当者と次回の日程を確認している。相変わらず笑顔はない。
「佐伯さん、ああいう人、平気なんだ」
「話を聞いてくれるなら、表情はあまり気になりません」
「仕事だけなら、そうかもしれないけどね」
「仕事の相手ですから」
結衣が答えると、小野寺は意味ありげに笑った。
「分かってます」
何を分かっているのかと尋ねる前に、部長から呼ばれた。
午後の業務へ戻ると、藤堂のことを考える余裕はなくなった。
週末に届いていた注文の処理が重なり、電話が続いた。物流倉庫からは在庫数が合わないという連絡が入り、営業担当者からは限定商品の追加出荷を求められた。
昼食を取れたのは、午後二時を過ぎてからだった。
結衣は自席で小さなパンを食べながら、午前中の議事録を確認した。
藤堂から、すでに仮の資料が届いている。
移行時期の再検討。現場担当者への聞き取り。商品コード対応表の統一。例外処理の洗い出し。
打ち合わせで出た内容が、簡潔にまとめられていた。
最後に一行だけ、結衣への確認事項が記されている。
〈佐伯様の資料に記載されていた「担当者の判断で処理している業務」について、次回、詳しくお聞かせください〉
結衣は自分の資料を開いた。
赤い文字で、小さく書き込んだ箇所だった。
会議中に説明した覚えはない。ページの端に書いた走り書きを、藤堂は見逃さなかったらしい。
仕事ができる人なのだろう。
そう思った。
ただ、それだけだった。
午後六時を過ぎる頃には、午前中の印象も薄れていた。
結衣は目の前の仕事を片づけ、翌日の予定を確認した。帰り支度を始めたところで、新しいメールが届いた。
差出人は藤堂だった。
〈本日はありがとうございました。佐伯様からご指摘いただいた内容を踏まえ、移行計画を修正いたします〉
定型的な挨拶に続き、次回の聞き取りを一時間ほどお願いしたいと書かれている。
候補日は、水曜日と木曜日の午後。
結衣は予定表を確認し、木曜日の午後三時からなら空いていると返信した。
すぐに返事が届いた。
〈承知しました。木曜日十五時に伺います。現場を知らないまま作った仕組みは、現場の負担を増やすだけです。遠慮なくご指摘ください〉
結衣は、その一文を二度読んだ。
システムを導入する側の人間が、現場へ「遠慮なく」と言うことは珍しかった。意見を求められても、実際には決定事項を説明されるだけということも多い。
〈分かりました。遠慮なくお伝えします〉
そう返すと、数分後に短い返信が来た。
〈少しだけ加減していただけると助かります〉
結衣は画面を見つめた。
やはり、冗談を言う人らしい。
思わず笑いがこぼれた。
「どうしたの?」
小野寺に聞かれ、結衣は表情を戻した。
「何でもありません」
「一人でメール見て笑ってたじゃない」
「仕事の連絡です」
「仕事の連絡で笑うことある?」
「たまにはあります」
結衣はメール画面を閉じた。
その夜も、駅前のスーパーへ寄った。
店内の配置は金曜日と変わっていない。野菜売り場を抜け、必要なものをかごへ入れる。
食器売り場の前を通ると、青いスープ皿はまだ並んでいた。
結衣は少しだけ迷い、一枚を手に取った。
二枚ではなく、一枚だけ。
裏側の色むらや傷を確かめてから、かごへ入れる。
一人分の食卓だからといって、新しい皿を買ってはいけない理由はない。誰かと使う予定がなくても、自分が気に入ったものを選べばいい。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
帰宅して、買ったばかりの皿を洗う。
今夜は簡単な野菜スープを作り、その青い皿へ盛った。縁の金色に照明が反射し、いつもの料理が少しだけ違って見える。
テーブルに一枚の皿を置く。
向かい側の席は空いていた。
けれど、その空白を埋めるために、慌てて誰かを探す必要はない。
一人で生きられることと、誰かと生きたいと思うことは、きっと両立する。
今の結衣は、まだその答えを知らなかった。
スープを一口飲むと、スマートフォンに予定の通知が表示された。
木曜日、午後三時。
藤堂亮介との聞き取り。
ただの仕事の予定だった。
それなのに結衣は、通知を消したあとも、昼間の短いメールを思い出していた。
少しだけ加減していただけると助かります。
表情を変えずに、あの言葉を口にする藤堂の姿を想像する。
静かな部屋の中で、結衣はもう一度笑った。
昨日までと変わらない、一人分の夕食だった。
けれど、きれいに整えてきた日常のどこかに、まだ名前のない小さな変化が入り込んでいた。




