第十九章 それぞれの季節
六月の全面移行は、予定どおり行われた。
東央食品のすべての取引先が、新しい受発注システムへ切り替わる。
初日の午前中には、取引先コードの変換に失敗した注文が十二件見つかった。午後には、倉庫で検品中の商品が出荷可能在庫に含まれる問題も起きた。
それでも、以前のように商品の場所を探し回ったり、誰が情報を持っているのか分からなくなったりすることはなかった。
画面には変更履歴が残っている。
未確認の処理は一覧で表示される。
問題が起きれば、どこで何が止まっているのかを全員が確認できる。
「出荷指示、すべて送信できました」
午後六時、結衣が報告すると、執務室に安堵の声が広がった。
小野寺が大きく息を吐き、部長が椅子の背にもたれる。
「本当に終わったんだな」
「今日の分は、です」
結衣が言うと、小野寺が笑った。
「佐伯さん、藤堂さんと同じことを言うようになったね」
「そうですか?」
「成功したと思った瞬間に見落としが始まるんでしょう?」
何度も聞いた言葉だった。
「明日も確認は必要です」
「でも、今日くらい喜んでいいでしょう」
「はい」
結衣も、ようやく笑った。
会議室から藤堂と健太が戻ってきた。
「倉庫側も、最終便が出たそうです」
健太が言う。
「今日の誤出荷はゼロ」
部長が立ち上がった。
「みんな、お疲れさま。今日はこれで上がろう」
「私は、今日見つかった問題を整理します」
藤堂が言うと、結衣と小野寺が同時に彼を見た。
「明日で大丈夫です」
結衣が言う。
「でも」
「今日の分は終わりました」
小野寺も続ける。
「二人とも同じことを言ってる」
部長が笑った。
藤堂は少し迷った後、ノートパソコンを閉じた。
「分かりました。続きは明日にします」
「お疲れさまでした、藤堂さん」
健太が声をかけた。
「この半年、ありがとうございました」
「城島さんにも、かなり助けていただきました」
「福岡の資料を持ってきただけです」
「その資料がなければ、特売データの整理は間に合いませんでした」
「藤堂さんの警告表示も、現場では好評でした」
二人は仕事の相手として、互いを認め合っていた。
健太が藤堂をどう思っているのか、結衣には分からない。
少なくとも、個人的な痛みを仕事へ持ち込むことはなかった。
藤堂も、健太へ不必要な警戒を見せなくなった。
「今度、システムの打ち上げをしましょう」
部長が言った。
「物流センターの人たちも呼んで」
「日程を調整します」
結衣が答える。
「佐伯さんは、そういうところでも仕事が早いな」
「まだ何もしていません」
「今、もう予定表を開いたでしょう?」
図星だった。
結衣はパソコンの画面から手を離した。
「今日は終わりにします」
「そうして」
執務室に笑いが広がった。
*
仕事の後、結衣と藤堂は最初に二人で食事をした洋食店へ行った。
以前と同じ奥の席へ座る。
藤堂は白身魚のクリーム煮を、結衣は鶏肉の赤ワイン煮を頼んだ。
「最初に来たときと、同じ料理ですね」
藤堂が言う。
「亮介さんが水を入れないか、心配していました」
「店の料理には入れません」
「家でも、もう間違えないでしょう?」
「大丈夫です。説明を読みます」
「それなら安心です」
二人はグラスを合わせた。
「全面移行、お疲れさまでした」
「結衣さんも、お疲れさまでした」
半年以上続いた仕事が、一つの区切りを迎えた。
藤堂と出会ったのは、このシステムのためだった。
最初の会議で移行時期について反対しなければ、こうして二人で食事をすることもなかったかもしれない。
仕事上の出会いが、今では結衣の日常の一部になっている。
「大阪へ行くまで、あと三週間ですね」
結衣が言う。
「はい」
「準備は?」
「会社の部屋へ送る荷物は、ほとんどまとまりました」
「料理道具は?」
「鍋と包丁。小さなフライパン」
「食器は?」
「茶碗と汁椀。皿が二枚」
「一人で使うのに、二枚?」
「結衣さんが来たときに必要なので」
胸の奥が温かくなる。
「私が行かなかったら?」
「一枚は来客用にします」
「使われないかもしれませんよ」
「来てもらいます」
「強い言い方ですね」
「来てほしいので」
藤堂はまっすぐ答えた。
「八月に行きます」
「約束してもいいですか」
「はい。ただし、仕事で難しくなったら話します」
「分かっています」
藤堂は少し笑った。
「九か月、長いですね」
結衣が言うと、彼の表情がわずかに曇った。
「やはり、断った方が」
「また言うんですか?」
「冗談です」
「顔が真剣でした」
「半分は冗談です」
「残りの半分は?」
「離れたくありません」
「私もです」
結衣は正直に答えた。
「でも、行ってほしい気持ちも変わっていません」
「両方ある?」
「はい。寂しいし、応援したい」
「私も、行きたいし、東京にいたいです」
「一つに決めなくていいと思います」
藤堂は静かに頷いた。
料理が運ばれてくる。
白い湯気の向こうに、藤堂の顔が見えた。
九か月後も同じ関係でいられる保証はない。
それでも今の二人は、未来を恐れて現在を諦めないことを選んだ。
*
七月最初の日曜日、結衣は東京駅まで藤堂を見送りに行った。
藤堂は大きなキャリーケースと、仕事用の鞄を持っていた。
会社の部屋には前日に荷物を送ってあるため、持っていくものは少ないという。
「忘れ物はありませんか?」
結衣が尋ねる。
「確認しました」
「折り畳み傘は?」
「鞄に入っています」
「大阪の天気は?」
「午後から雨です」
「今回は完璧ですね」
「新幹線の時間も確認しました」
「何番線ですか?」
「まだ表示されていません」
「では、間違いようがありませんね」
冗談を言っても、胸の寂しさは消えなかった。
改札の向こうには、出発を待つ人たちがいる。
大きな荷物を持った家族。仕事へ向かう会社員。別れを惜しむ二人。
藤堂がキャリーケースの持ち手を握り直した。
「九か月後、戻ってきます」
「はい」
「毎日、連絡します」
「義務にはしないと決めたでしょう?」
「でも、したいです」
「なら、してください」
「結衣さんも?」
「送りたいときに送ります」
「分かりました」
「仕事が始まったら、無理をしないで」
「はい」
「食事も」
「作ります」
「味噌汁だけでは駄目です」
「分かっています」
放送が流れ、藤堂の乗る列車のホームが表示された。
「そろそろ行きます」
「はい」
二人は人の流れから少し離れた。
藤堂が結衣の手を握る。
「怖いですか」
結衣が尋ねる。
「かなり」
「私もです」
「それでも、行ってきます」
「いってらっしゃい」
藤堂は結衣を抱きしめた。
周囲には多くの人がいたが、今は気にならなかった。
「結衣さん」
「はい」
「変わったときには、必ず話してください」
「亮介さんも」
「約束します」
「私も」
二人は身体を離した。
短い口づけを交わす。
藤堂は改札へ入り、一度振り返った。
結衣は手を上げた。
藤堂も返し、ホームへ向かっていった。
見えなくなった後も、結衣はしばらくその場に立っていた。
九か月。
待つのではない。
自分の生活を続けながら、離れた場所にいる人と関係を作る時間が始まった。
*
最初の一か月、二人はほとんど毎晩電話をした。
藤堂は大阪で起きたことを細かく話した。
初日に会社の建物を間違え、隣のビルへ入ったこと。
社員食堂の定食が安く、味噌汁の味が東京より少し濃かったこと。
近所のスーパーで、東央食品の商品を見つけたこと。
「豆乳ポタージュですか?」
結衣が尋ねる。
「はい」
「水は入れませんでしたか?」
「もう間違えません」
「安心しました」
藤堂の部屋は、一人で暮らすには十分な広さだった。
画面越しに見せてもらうと、白い壁と小さなキッチン、窓際の机が見えた。
食器棚には、藤堂が言ったとおり皿が二枚置かれている。
八月、結衣は初めて大阪を訪れた。
金曜日の仕事を終え、最終に近い新幹線へ乗る。到着したのは午後十時を過ぎていた。
改札の前で、藤堂が待っていた。
一か月ぶりに直接見る顔は、画面の中より少し疲れている。
「お待たせしました」
「お疲れさまでした」
「何分待ちましたか?」
「十二分です」
「新幹線は時間どおりです」
「私が早く来ました」
「いつものことですね」
笑いながら、二人は手をつないだ。
藤堂の部屋で、二枚の皿を使った。
翌日は市内を歩き、藤堂が見つけた店で昼食を取った。日曜日の夕方、結衣は東京へ戻った。
新幹線の中で寂しさを感じた。
それでも、自分の部屋へ帰ると安堵もあった。
一人の生活を続けながら、誰かと生きる。
その形が少しずつ分かり始めていた。
*
すれ違いが起きたのは、十月だった。
藤堂の仕事は予定より遅れていた。
倉庫ごとに在庫管理の方法が異なり、現場から出る要望をまとめきれない。会議が夜まで続き、電話の時間が取れない日が増えた。
十月の第二週、藤堂は東京へ戻る予定だった。
結衣は金曜日の夜から会うため、仕事を早めに終わらせる準備をしていた。
冷蔵庫には、藤堂が好きになったクリームスープの材料を揃えてある。
水曜日の夜、藤堂から連絡が届いた。
〈今週末ですが、こちらに残ることになりました〉
画面を見た瞬間、胸が沈んだ。
すぐに電話がかかってきた。
「すみません」
藤堂の声には疲れが滲んでいる。
「倉庫側の責任者と、土曜日に確認することになりました」
「分かりました」
「来週なら戻れると思います」
「大丈夫です。仕事なら仕方ありません」
「本当に?」
「はい。無理をしないでください」
「ありがとうございます」
通話を終えた。
大丈夫ではなかった。
二か月近く、東京で会えていない。
九月に結衣が大阪へ行く予定も、仕事の都合で取りやめていた。
藤堂が忙しいことは分かっている。
責任者として、途中で放り出せないことも。
だから、寂しいと言ってはいけないと思った。
金曜日、藤堂のために買った食材を使い、一人でクリームスープを作った。
青い皿へ盛る。
向かい側の席は空いている。
以前なら、一人の食卓を寂しいと思うことに抵抗があった。
今夜は、はっきり寂しかった。
藤堂からメッセージが届く。
〈明日の会議資料が、ようやくまとまりました〉
〈お疲れさまです〉
〈結衣さんは、何を食べましたか〉
〈クリームスープです〉
〈私も食べたいです〉
胸の中で、何かが強く動いた。
〈材料は用意していました〉
送信すると、少し間があった。
〈すみません〉
その言葉を見た途端、我慢していた気持ちがあふれた。
〈謝ってほしいわけではありません〉
〈では、どうすれば〉
文章だけでは伝わらない。
結衣は電話をかけた。
「もしもし」
「結衣さん」
「私、大丈夫ではありません」
電話の向こうで、藤堂が黙った。
「仕事だから仕方ないと思っています。亮介さんを責めたいわけでもありません」
「はい」
「でも、会えなくて寂しいです。楽しみにしていました」
「すみません」
「だから、謝るだけではなくて」
「どうすればいいのか分かりません」
藤堂の声にも、苛立ちが混じった。
「私も会いたかった。でも、仕事を放り出して帰ることはできません」
「分かっています」
「結衣さんが大丈夫だと言ったから、分かってくれたと思いました」
「大丈夫と言った私も悪かったです」
「なら、どう答えればよかったんですか」
「寂しいと思っているか、聞いてほしかった」
「聞きました。本当に大丈夫かと」
「そこで私は、大丈夫だと答えました」
「では、私には分かりません」
藤堂の言葉は正しかった。
結衣は黙った。
寂しいと言わずに察してほしいと求めていた。
五年前と同じように、自分の気持ちを飲み込みながら、相手なら分かるはずだと思っていた。
「ごめんなさい」
結衣は言った。
「今度は、私が謝ります」
「結衣さん」
「大丈夫ではないのに、大丈夫と言いました。分かってほしいのに、言いませんでした」
「私も、帰れないと伝えることだけで頭がいっぱいでした」
藤堂の声から、少し力が抜けた。
「結衣さんが何を用意して、どのくらい楽しみにしていたのか、考えませんでした」
「仕事で余裕がなかったんでしょう?」
「それでも、聞くことはできたと思います」
二人とも黙った。
電話の向こうから、藤堂の部屋の空調の音が聞こえる。
「寂しいです」
藤堂が言った。
「私も、かなり寂しいです」
「はい」
「東京へ戻りたい。でも、今は戻れません」
「分かっています」
「結衣さんに、大阪へ来てほしい。でも、仕事がありますよね」
「来週なら、土曜日のの午後から行けます」
「本当に?」
「はい。日曜日の夜に帰ります」
「疲れませんか」
「疲れます。でも、会いたいです」
「私も会いたいです」
「では、来週」
「約束してもいいですか」
「仕事が変わったら、早めに話してください」
「はい」
「私も、寂しいときには大丈夫と言いません」
「お願いします」
二人は、その夜一時間近く話した。
喧嘩が消えたわけではない。
寂しさも解決していない。
それでも、言葉にしたことで、離れている理由と離れたい気持ちを混同せずに済んだ。
*
十一月、結衣は大阪へ行った。
藤堂の仕事はまだ忙しかったが、日曜日だけは休みを取った。
二人でスーパーへ行き、鍋料理の材料を買う。
藤堂の部屋の小さなキッチンで、互いに場所を譲りながら料理をした。
「前より動きやすいですね」
結衣が言う。
「観葉植物くらいにはなりましたか」
「大きな観葉植物です」
「まだ大きい?」
「でも、もう慣れました」
二人は笑った。
食卓には、藤堂が用意した二枚の皿が並んだ。
「この皿、結衣さんが来ない間も使っていました」
「来客用ではなかったんですか?」
「一枚だけ洗うより、交互に使う方が乾かせるので」
「合理的ですね」
「一人分の生活に、二枚あってもいいと分かりました」
「はい」
誰かが来る予定がなくても、二枚の皿を持っていていい。
一人でいることと、誰かを待つことを、無理に分けなくてもいい。
結衣はその夜、藤堂の隣で眠った。
翌朝、彼が仕事へ向かうのを見送り、一人で東京へ戻った。
寂しかった。
けれど、もう大丈夫とは言わなかった。
〈今、新幹線に乗りました。もう寂しいです〉
送ると、藤堂から返事が届いた。
〈私もです。次に会う日を決めましょう〉
*
十二月、健太が営業企画部の新しい企画責任者に選ばれた。
全国の支社で異なっていた販売計画を、共通の形式へ変える仕事だった。
「また忙しくなるね」
結衣が言うと、健太は資料を持ったまま笑った。
「でも、やりたかった仕事だから」
「福岡で作った仕組みが、全国で使われるんでしょう?」
「そのままでは無理だけど、元にはなる」
「おめでとう」
「ありがとう」
二人は以前より自然に話せるようになっていた。
私的な連絡を取ることはない。
けれど仕事では、互いに必要な意見を言える。
「そういえば」
健太が少し迷った後に続けた。
「ソファ、買ったよ」
以前、公園で話したことを思い出した。
「一人で選んだの?」
「うん。思ってたより時間がかかった」
「何色?」
「濃い緑」
「健太らしくないね」
「店で見たら、気に入ったんだ」
「誰か呼んだ?」
「福岡から友達が来て、泊まっていった」
「よかったね」
「一人で使うものを一人で選んでも、誰かと使えるんだな」
「そうだよ」
健太は少し笑った。
「大阪は、どう?」
「忙しそう。でも、続いてる」
「そっか」
「この前、喧嘩した」
「何で?」
「会えないのに、大丈夫と言ったから」
「結衣が?」
「うん」
「昔と同じだな」
「そう言われると思った」
「でも、話したんだろ?」
「話した」
「なら、昔とは違う」
健太はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、会議に行ってくる」
「頑張って」
「結衣も」
健太は営業企画部へ戻っていった。
その背中に、以前のような寂しさだけは感じなかった。
健太は東京で、自分の生活を始めている。
結衣とは別の方向へ進みながら。
*
年が明け、二月になる頃には、藤堂の案件も終わりが見え始めた。
大阪の会社では、三月から試験運用を始める予定だった。
藤堂が東京へ戻る日は、三月二十八日に決まった。
「迎えに行きます」
電話で結衣が言うと、藤堂は少し驚いた。
「平日ですよ」
「有給休暇を取ります」
「そこまでしなくても」
「取りたいから取ります」
「仕事は大丈夫ですか」
「事前に調整します」
「無理をしていませんか」
「会いたいからです」
結衣が言うと、藤堂は黙った。
「嫌ですか?」
「いいえ。かなり嬉しいです」
「では、東京駅で待っています」
「約束ですね」
「はい」
*
三月二十八日、東京は朝から弱い雨が降っていた。
結衣は午後二時に仕事を終え、東京駅へ向かった。
新幹線の到着時刻より二十分早く着く。
改札前には、多くの人が待っていた。
結衣は何度も電光掲示板を確認した。
列車は予定どおりに到着する。
やがて改札の向こうから、キャリーケースを引く人々が現れた。
その中に、藤堂の姿を見つける。
九か月前と同じ黒いキャリーケース。濃紺のコート。片手には仕事用の鞄。
けれど、表情は少し変わって見えた。
結衣に気づくと、藤堂は立ち止まった。
目元が、はっきりとやわらぐ。
改札を抜け、結衣の前まで来た。
「お待たせしました」
「十八分ほどです」
「待ち合わせの時間は決めていません」
「私が早く来ただけです」
二人は顔を見合わせた。
藤堂がキャリーケースから手を離す。
結衣も一歩近づいた。
人の流れから少し離れ、抱きしめ合う。
九か月分の距離が、一度に縮まる。
「結衣さん」
「はい」
「ただいま」
その言葉を聞き、胸が熱くなった。
以前、健太に同じ言葉を告げられた。
あのときの「ただいま」は、過去から戻ってきた人の言葉だった。
今、藤堂が口にした「ただいま」は、離れた場所でも関係を続け、二人の時間へ戻ってきた人の言葉だった。
どちらも嘘ではない。
どちらも、結衣の人生に残る。
「おかえりなさい」
結衣は藤堂の背中へ腕を回した。
「亮介さん」
藤堂の腕に、少しだけ力が入った。
九か月、二人は立ち止まって待っていたのではない。
それぞれの場所で働き、暮らし、寂しさや不安を言葉にしながら進んできた。
そして今、変わった二人として、もう一度同じ場所に立っていた。




