第十八章 変わったときに話す
四月一日、新しい量販店との取引が始まった。
午前七時、結衣は普段より一時間半早く出社した。
執務室にはすでに小野寺と部長がいた。物流センターでは、高木たちが出荷準備を始めている。営業企画部には健太が待機し、ネクサスリンクからは藤堂が結衣たちの執務室へ来ていた。
新しい受発注システムを利用するのは、今回契約した取引先だけだった。
それでも初日に届く注文は三百件を超えると予想されている。
注文データが正しく読み込まれるか。
商品コードが変換されるか。
在庫数と出荷可能数が一致するか。
納品日の条件に問題がないか。
一つでも設定を間違えれば、倉庫へ誤った出荷指示が届く。
「緊張していますか?」
結衣が尋ねると、藤堂は画面を見たまま答えた。
「かなり」
「顔には出ていませんね」
「出さないようにしています」
交際を始めてから二か月以上がたった。
それでも会社では、以前と変わらない距離を保っている。
藤堂は結衣を佐伯さんと呼び、結衣も藤堂さんと呼ぶ。二人で食事をした翌日も、週末を一緒に過ごした後も、会社へ来れば仕事の相手に戻った。
最初は少し寂しかった。
けれど今では、それが二人にとって必要な境界だと分かっている。
「七時半になったら、接続を開始します」
藤堂が言った。
「先方から最初のデータが届くのは八時頃ですね」
「はい。届く前に、商品と取引先の設定をもう一度確認します」
「昨日も確認しました」
「念のためです」
「藤堂さんらしいですね」
「佐伯さんも確認したでしょう?」
「朝、家を出る前に資料を見ました」
「似ていますね」
二人は顔を見合わせ、わずかに笑った。
午前八時七分、最初の注文データが届いた。
画面に百四十二件と表示される。
結衣は一件ずつ、商品コードと数量を確認した。
「変換できなかったものが二件あります」
小野寺が言った。
「商品名は?」
「春野菜のスープと、冷凍のチーズハンバーグ」
結衣は元の注文データを開いた。
春野菜のスープは、先方の商品名に不要な空白が入っている。チーズハンバーグは、容量の表記が全角と半角で異なっていた。
「コードそのものは合っています」
結衣が言う。
「文字の違いだけなら、自動で修正できませんか?」
藤堂はすぐに画面を確認した。
「空白は除外できます。全角と半角も統一できます。ただ、想定していない文字まで変える可能性があるので、確認画面は残します」
「今日の分は、手動で直します」
「修正した内容を記録してください。午後までに変換条件を追加します」
「分かりました」
午前十時までに、二回目、三回目の注文データが届いた。
大きな問題はなく、倉庫への出荷指示も正常に送られている。
午前十一時、警告が一件表示された。
〈過去の販売計画を超えています。数量をご確認ください〉
対象は、冷凍グラタンだった。
通常なら一店舗あたり二ケースのところ、二十ケースと入力されている。
「入力ミスでしょうか」
小野寺が尋ねる。
「店舗数が多いので、特別な企画かもしれません」
結衣は営業企画部の健太へ連絡した。
「冷凍グラタンの注文で、一店舗だけ二十ケースが入ってる。何か聞いてる?」
「店舗名は?」
健太へ伝える。
「そこは、今日から大型催事を始める店舗だ。販売計画では二十ケースになってる」
「でも、システムの計画には二ケースと登録されてる」
「営業から届いた一覧を確認する」
健太は一度電話を切り、数分後にかけ直してきた。
「販売計画の更新が、昨夜の締め切りに間に合わなかった。注文は二十ケースで合ってる」
「分かった。営業側で承認をお願い」
「すぐにやる」
健太が承認すると、警告が解除された。
結衣は出荷指示を確認し、倉庫へ送る。
「警告が出てよかったですね」
藤堂が言った。
「はい。今回は正しい注文でしたけど、確認する必要があることには変わりません」
「人が気づける仕組みになりました」
藤堂が最初の聞き取りの日に残した言葉だった。
結衣は彼を見た。
「覚えていたんですか?」
「私が書いたので」
「私も覚えています」
「言われたことは、だいたい覚えているんですよね」
「はい」
藤堂の目元がわずかにやわらいだ。
午後一時を過ぎる頃には、初日に予定されていた注文の大半が届いた。
読み込みに失敗したものは最初の二件だけだった。在庫数のずれもなく、納品条件の警告も正しく表示されている。
午後三時、物流センターから連絡が入った。
すべての出荷指示を受信し、商品の取り出し作業が始まったという。
午後五時半、最初の便が無事に出発した。
「終わった……」
小野寺が椅子の背にもたれる。
「まだ明日もありますよ」
結衣が言うと、小野寺は顔をしかめた。
「今日くらい、終わったと思わせて」
「では、今日の分は終わりました」
「佐伯さんも、少しは安心して」
結衣は画面に表示された処理済み件数を見た。
三百四十一件。
すべて、倉庫へ正しく送られている。
「安心しました」
ようやく言うと、部長が手を叩いた。
「今日はここまでにしよう。藤堂さんも、朝からありがとうございました」
「明日のデータを確認してから、会社へ戻ります」
「もう六時ですよ」
「最初に出た二件の変換条件を追加します」
「藤堂さん」
結衣が名前を呼ぶ。
「今日は、終わりました」
「でも」
「問題は記録してあります。明日の朝までに直せば間に合います。今から会社へ戻る必要はありません」
藤堂は少し迷った。
「佐伯さんの言うとおりです」
小野寺も加わる。
「今日は帰りましょう」
「分かりました」
藤堂はようやくノートパソコンを閉じた。
「では、残りは明日の朝にします」
「そうしてください」
結衣は自分のパソコンを終了した。
健太から社内メッセージが届いた。
〈初日、無事に終わったね。お疲れさま〉
〈健太もお疲れさま。営業側の確認、助かりました〉
〈明日もよろしく〉
〈こちらこそ〉
やり取りはそれだけだった。
健太とは、仕事の相手として少しずつ新しい距離を作り始めていた。
以前のように冗談を言うことは、まだ少ない。
それでも会議で意見が合えば頷き、必要なときには互いに助けを求められる。
無理に友人へ戻ろうとはしていない。
今は、同じ仕事を成功させる相手でいられればよかった。
*
会社を出ると、外はすでに暗くなっていた。
四月とはいえ、夜風はまだ冷たい。
「夕食、どうしますか」
藤堂が尋ねた。
「今日は私の部屋で食べませんか」
「疲れているのでは?」
「作り置きがあります。温めるだけです」
「手伝います」
「温めるだけなので、味噌汁をお願いします」
「分かりました」
二人でスーパーへ寄り、豆腐とねぎ、翌朝のパンを買った。
交際を始めてから、こうして一緒に買い物をすることが増えた。
毎週必ず会うと決めたわけではない。
仕事が忙しい週には、短い夕食だけで別れることもある。一人で過ごしたい日は、正直に伝える。
一度、藤堂が約束の日に急な仕事で来られなくなったことがあった。
彼は結衣が怒っていると思い込み、何度も謝った。
結衣は仕事なら仕方がないと答えたが、本当は寂しかった。
その夜、電話で話した。
「仕事が理由なら、寂しいと言ってはいけないと思いました」
結衣が伝えると、藤堂はしばらく黙った後に答えた。
「寂しいと言ってもらった方が、次にどうするか考えられます」
それから二人は、我慢できることと、何も感じないことを同じにしないと決めた。
仕事で会えなくても、寂しいものは寂しい。
その感情を、相手を責めるためではなく、分かってもらうために言葉にする。
少しずつ、二人の関係には二人のやり方ができていた。
結衣の部屋へ着く。
冷蔵庫から作り置きの鶏肉と大根の煮物を出し、鍋で温める。
藤堂はエプロンをつけ、味噌汁を作った。
「味見をお願いします」
差し出された小皿を受け取る。
以前より、少し濃くなっていた。
「どうですか?」
「ちょうどいいです」
「本当に?」
「はい」
「加減できましたか」
「できています」
藤堂は安心したように頷いた。
食卓には、青い皿と白い皿が並んだ。
二人で向かい合い、仕事の初日が無事に終わったことを祝った。
豪華な料理も、酒もない。
それでも結衣は、この夕食を藤堂と囲めることが嬉しかった。
「六月の全面移行まで、まだ忙しいですね」
藤堂が言う。
「はい。でも、今日の仕組みが使えれば、既存取引先も大丈夫だと思います」
「油断はできません」
「成功したと思った瞬間に、見落としが始まるんですよね」
「覚えていますね」
「何度も聞きましたから」
「六月までは、気を抜かずに進めます」
「終わったら、少し休んでください」
「結衣さんも」
「私は有給休暇を取ります」
「どこかへ行きますか」
「まだ決めていません」
「一緒に旅行するのは?」
結衣は箸を止めた。
「行きたいです」
「どこへ?」
「亮介さんが探していた街道を、少し歩いてみたいです」
「本当に?」
「全部は無理ですけど」
「では、歩きやすい場所を調べます」
「六月の後ですよ」
「今から調べます」
「気が早いですね」
「楽しみなので」
藤堂の目元がやわらいだ。
未来の予定を、以前より自然に口にするようになっていた。
絶対に行くと誓うのではない。
行けなくなったときには、また話せばいい。
二人は、その程度の約束を少しずつ増やしていた。
*
新しい取引先の運用は、その後も大きな問題なく続いた。
四月末には、担当者たちも新しい画面に慣れ始めた。
警告の数は減り、倉庫への問い合わせも少なくなった。
五月の連休には、結衣と藤堂は二泊三日で旧街道の宿場町を訪れた。
朝から歩き、古い建物を見て、小さな旅館に泊まった。
藤堂は事前に地図と時刻表を細かく調べていたが、二日目に一度だけ道を間違えた。
「地図があれば迷わないんですよね?」
結衣が尋ねると、藤堂はスマートフォンの画面を見ながら答えた。
「古い道と新しい道が、途中で分かれていました」
「言い訳ですか?」
「説明です」
「戻りましょう」
「十分ほど遠回りになります」
「少しだけ長い帰り道は、嫌いではありません」
結衣が言うと、藤堂は意味に気づいたように笑った。
二人は手をつなぎ、来た道を戻った。
旅行から帰った翌週、藤堂から会いたいと連絡があった。
いつもの週末ではなく、水曜日の夜だった。
〈今日、少しだけ時間をもらえますか〉
文章から、普段とは違うものを感じた。
〈大丈夫です。仕事が終わったら連絡します〉
待ち合わせたのは、二人が初めて仕事の後に食事をした洋食店だった。
藤堂は先に着き、奥の席に座っていた。
「お待たせしました」
「急にすみません」
「何かありましたか?」
結衣が向かいに座ると、藤堂は水の入ったグラスへ視線を落とした。
「仕事の話をいただきました」
「新しい案件ですか?」
「はい。大阪の会社で、販売管理システムを入れ替えることになりました」
「食品会社?」
「生活用品の卸会社です。全国の倉庫を一つの仕組みで管理します」
「大きな仕事ですね」
「規模は、東央食品の三倍ほどです」
「亮介さんが担当するんですか?」
「責任者として行かないかと言われました」
藤堂の声は静かだった。
結衣は、その言葉の先を待った。
「期間は?」
「七月から、九か月の予定です」
「九か月」
「平日は大阪で働きます。会社が用意する部屋へ住み、月に二回程度、東京へ戻れると聞いています」
胸の奥が冷たくなった。
五月。
あと一か月半ほどで、藤堂は大阪へ行く。
「返事は?」
「まだです。今週中にと言われています」
「亮介さんは、どうしたいんですか」
藤堂はすぐには答えなかった。
「断ろうと思っています」
「どうして?」
「九か月、離れることになるので」
「仕事そのものは?」
「やりたいです」
「なら、どうして断るんですか?」
藤堂が結衣を見た。
「結衣さんと離れたくないからです」
嬉しいと思った。
同時に、強い違和感を覚えた。
「私に話す前に、断ると決めたんですか」
「まだ返事はしていません」
「でも、決めていた」
「ほとんど」
「それは、五年前の私たちと同じです」
藤堂の表情が固くなる。
「結衣さん」
「健太は、私に福岡へ来てほしいと決めてから話しました。私は、仕事を続けると決めてから話した。二人とも、自分の答えを相手へ渡しただけでした」
「私は、結衣さんに何かを諦めてほしいとは言っていません」
「自分が諦めようとしているでしょう?」
「それなら、結衣さんは困らない」
「本当にそう思いますか?」
結衣の声が強くなった。
「亮介さんが私のためにやりたい仕事を断ったら、私は何も感じないと思いますか?」
「でも、離れれば」
「関係が壊れるかもしれない?」
藤堂は黙った。
「怖いんですね」
「はい」
否定しなかった。
「九か月の間に、気持ちが変わるかもしれない。会う回数が減り、連絡が少なくなって、結衣さんの生活から私がいなくなるかもしれない」
「東京にいれば、絶対に変わらないんですか?」
「絶対ではありません」
「近くにいても、気持ちは変わることがあります」
「分かっています」
「亮介さんの婚約者も、同じ町にいたんでしょう?」
藤堂の目が揺れた。
言いすぎたと思った。
けれど、言葉を引っ込めなかった。
「近くにいることが、信頼を守るわけではありません」
「分かっています」
「だったら、私のために仕事を断らないでください」
「仕事より結衣さんが大切です」
「比べないでください」
結衣ははっきり言った。
「私も仕事も、どちらも大切でいいでしょう?」
五年前、結衣が言えなかった言葉だった。
仕事も、愛する人も、どちらも欲しい。
どちらか一方を選ばなければならないと思い込んでいた。
「両方を選べると思いますか」
藤堂が尋ねる。
「簡単ではないと思います」
「月に二回しか会えない」
「私が大阪へ行くこともできます」
「結衣さんにも仕事があります」
「毎週は無理でも、休みを使って一度くらい行けます」
「忙しくて電話できない日もある」
「その日は、できないと伝えてください」
「会えないことに慣れたら?」
「慣れるかもしれません」
「それが怖いんです」
「会えないことに慣れるのと、亮介さんが必要なくなることは違います」
結衣は藤堂を見た。
「一人で生活できることと、一人でいたいことが違うように」
藤堂はしばらく黙っていた。
「私は、離れている間も自分の生活を続けます。仕事をして、友人と会って、一人で夕食を食べる日もある」
「はい」
「亮介さんも、大阪で仕事をして、新しい人たちと関わって、自分の生活を作ってください」
「それで、二人の生活は?」
「会える日に作ればいい。電話でも、メッセージでも、分け合えることはあります」
「九か月後に、同じ気持ちでいられる保証はない」
「ありません」
結衣は迷わず答えた。
「でも、それは大阪へ行かなくても同じです」
「もし変わったら?」
「話します」
「私は、また信じて待つことになる」
「待たなくていいです」
「どういう意味ですか」
「大阪にいる九か月を、東京へ戻るまでの仮の時間にしないでください」
結衣はゆっくり言った。
「健太も、最初は福岡での生活を、東京へ戻るまでの仮の生活だと思っていました。でも途中から、自分の人生として暮らせるようになったと言っていました」
藤堂の表情がわずかに変わった。
「城島さんの話を、今するんですね」
「嫌ですか?」
「少し」
「でも、健太の五年間から私が学んだことです」
「分かっています。続けてください」
「私は、亮介さんに立ち止まって待ってほしくありません。大阪での九か月も、亮介さんの人生です」
「結衣さんも、東京で生活する」
「はい」
「それぞれ進みながら、関係も続ける?」
「そうしたいです」
藤堂は水のグラスを両手で包んだ。
「結衣さんは、寂しくないんですか」
「寂しいです」
はっきり答えた。
「聞いた瞬間、行ってほしくないと思いました」
「なら」
「でも、寂しいから仕事を断ってほしいとは思いません」
「我慢していませんか」
「我慢はします。会いたくても会えない日はあるから」
「やはり」
「我慢することが、すべて悪いわけではないでしょう?」
結衣は続けた。
「我慢していることを隠し、何も感じていないふりをするのがよくないんです」
「寂しいときは、寂しいと言う?」
「はい」
「私も言っていいんですか」
「もちろんです」
「仕事で連絡できないときに言われたら、困るかもしれません」
「そのときは、今は話せないと言ってください」
「結衣さんは怒りませんか」
「怒るかもしれません」
藤堂が少し驚く。
「怒っても、話します。怒らないことを約束すると、何も言えなくなるから」
「そうですね」
「亮介さんは、どうしたいですか」
結衣はもう一度尋ねた。
「私のことを考える前に、仕事として」
藤堂は長い間黙った。
やがて、静かに答えた。
「行きたいです」
「はい」
「責任者として、大きな案件を任されるのは初めてです。難しいと思います。でも、やってみたい」
「なら、行ってください」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません」
結衣は藤堂の手へ、自分の手を重ねた。
「離れたくありません。でも、亮介さんがやりたいことを、私との関係を守るためだけに諦める方が嫌です」
「もし、うまくいかなかったら」
「仕事が?」
「私たちが」
「そのときは、何がうまくいかなかったのか話しましょう」
「別れることになるかもしれない」
「可能性はあります」
藤堂の手に力が入る。
「でも、別れる可能性があるから始めないという選択は、もうしないと決めたでしょう?」
「はい」
「大阪へ行くことで終わると、今から決めないでください」
藤堂は目を閉じ、短く息を吐いた。
「分かりました」
「仕事を受けますか」
「結衣さんと、もう少し具体的に決めてから」
「何を?」
「会う回数と、連絡の仕方です」
「打ち合わせですね」
「大切なことなので」
二人は店員を呼び、夕食を注文した。
料理が届くまでの間、九か月の過ごし方を話した。
藤堂が東京へ戻るのは、月に二回を目安にする。
結衣も二か月に一度くらいは大阪へ行く。
毎日の連絡を義務にはしない。
忙しい日は、連絡できないと一言だけ伝える。
週に一度は、できれば顔を見ながら話す。
予定が変わったときは、決める前に相談する。
「気持ちが変わったときは」
藤堂が言う。
「必ず話す」
「はい」
「ほかの人を好きになったときも?」
「はい」
結衣は答えた。
「それを言うのは怖いですね」
「かなり」
「でも、隠さない」
「約束します」
「私も」
二人は手を握ったまま、互いを見た。
「行ってもいいんですね」
藤堂が確認する。
「私の許可で決めないでください」
「では、私は行きたいです」
「私は、行ってほしいです」
「寂しくても?」
「寂しいまま、応援します」
藤堂の目元がやわらいだ。
「ありがとうございます」
「ただし、仕事ばかりで身体を壊さないでください」
「気をつけます」
「食事も」
「大阪には食べるものがたくさんあると思います」
「外食だけでは駄目です」
「味噌汁は作れます」
「少しはおかずも練習してください」
「九か月後には、もう少し作れるようにします」
「楽しみにしています」
料理が運ばれてくる。
二人はいつものように、熱いものが冷めるのを待ってから食べ始めた。
*
金曜日の夜、藤堂から電話があった。
「仕事、受けることにしました」
「そうですか」
「今日、上司へ返事をしました」
「どんな条件になりましたか」
「七月から翌年三月まで。月に二回、金曜日の午後から東京へ戻ります。東京側の会議がある月は、もう一回増えるかもしれません」
「分かりました」
「会社の部屋は、大阪駅から電車で二十分ほどです」
「地図は確認しましたか?」
「もちろん」
「周辺のスーパーも?」
「まだです」
「そこも大事ですよ」
「今週末、一緒に見てもらえますか」
「地図で?」
「はい。結衣さんが来るときの駅も確認したいです」
胸の奥が温かくなった。
「分かりました」
「結衣さん」
「はい」
「怖いですか」
「少し」
「私は、かなり」
「話してくれて、ありがとうございます」
「変わったときには話すと約束したので」
「はい」
「断ってから伝えなくてよかったです」
「本当に」
結衣は笑った。
「断っていたら、かなり怒っていました」
「少しだけ加減してくれますか」
「内容によります」
電話の向こうで、藤堂が小さく笑った。
「大阪へ行っても、同じですね」
「何が?」
「結衣さんは、遠慮なく言う」
「少しは加減します」
「安心しました」
「私は、亮介さんが怖くなったときに、勝手に離れないか確認します」
「離れません」
「寂しくなったときは?」
「寂しいと言います」
「はい」
「会いたくなったときも」
「私も言います」
二人は、変わらないことを約束しなかった。
離れても絶対に大丈夫だとは言わなかった。
九か月後の気持ちを、今の二人が決めることもしなかった。
ただ、変わったときに話すこと。
怖くなったときに黙って離れないこと。
それだけを、もう一度確かめた。
五年前の結衣には選べなかった道だった。
仕事も、愛する人も、どちらも大切だと言う。
離れることになっても、それを別れと同じ意味にしない。
状況が変わるたびに、二人で新しい答えを作る。
簡単ではない。
それでも今の結衣と藤堂なら、その道を歩いてみたいと思えた。




