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言葉にならなかった約束の先で  作者: 久遠 睦


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17/20

第十七章 信じてみたい人

月曜日の朝、結衣はいつもより早く目を覚ました。

 昨日、健太と別れた公園の風景が、まだ頭に残っている。

 握手をした手の温度。

 最後に互いを名字で呼んだ声。

 振り返り、小さく手を上げた姿。

 あれで過去が消えたわけではない。

 健太のことを思い出せば、これからも胸が痛む日があるだろう。

 それでも結衣は、自分が選んだ答えを後悔していなかった。

 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。

 冬の朝の空は薄く白んでいた。

 今日は藤堂に会う。

 結衣が自分で選び、自分の足で向かう人に。

     *

 午前八時半、結衣が出社すると、受信箱には週末に届いた注文の変更が並んでいた。

 パソコンを立ち上げ、いつものように一件ずつ処理する。

 午前九時を過ぎた頃、営業企画部から健太がやってきた。

 手には、新規取引先の商品登録に関する資料を持っている。

 一瞬、二人の視線が重なった。

「佐伯さん、おはようございます」

 健太が先に言った。

「おはようございます」

「新規取引先の商品一覧です。先方の確認が終わりました」

「ありがとうございます。今日中に登録内容を確認します」

「納品条件の欄が一部空いています。午後までに確認して、追記します」

「分かりました」

 仕事の会話だけだった。

 健太の目元には少し疲れが残っている。

 それでも、結衣を責めるような表情はなかった。

「では、よろしくお願いします」

「はい」

 健太は軽く頭を下げ、執務室を出ていった。

 小野寺が、結衣と扉を交互に見る。

「城島さんと、何かあった?」

「どうして?」

「少し雰囲気が違ったから」

「仕事の資料を持ってきただけです」

「そうだけど」

「今は、まだ話せません」

 結衣が答えると、小野寺はそれ以上聞かなかった。

 午前中、健太から追加の資料が届いた。

 文章は簡潔で、必要なことだけが書かれていた。結衣も同じように返信した。

 今は、それでよかった。

 いつか健太の痛みが少し薄れたとき、仕事以外の話もできるようになるかもしれない。

 けれど、それを期待することも、今は違う気がした。

 健太には、結衣から離れた場所で気持ちを整える時間が必要だった。

 午後、藤堂からメールが届いた。

〈本日、十八時半に昨日お送りいただいた場所へ伺います〉

 結衣が指定したのは、会社から二駅離れた場所にある小さな公園だった。

 健太と話した公園でも、藤堂と告白の答えを伝えた海沿いの遊歩道でもない。

 駅前にありながら人通りが少なく、近くには落ち着いたレストランもある。

〈分かりました。私も十八時半に伺います〉

 すぐに既読がついた。

 返信は来なかった。

 藤堂も、何を聞くことになるのか考えているのだろう。

     *

 午後六時十五分、結衣は会社を出た。

 電車に乗り、待ち合わせの駅へ向かう。

 いつもより時間が長く感じられた。

 藤堂へ何を伝えるかは決めている。

 健太と話したこと。

 言葉にならなかった約束の続きを聞いたこと。

 それでも、復縁しないと伝えたこと。

 そして、藤堂と一緒にいたいという気持ちが変わっていないこと。

 駅へ着き、公園へ向かう。

 藤堂は入口近くの街灯の下に立っていた。

 黒いコートに、仕事用の鞄。会社から直接来たのだろう。

 結衣に気づくと、すぐに歩み寄ってきた。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 二人とも足を止める。

 周囲には、帰宅を急ぐ人たちの足音が聞こえる。

「寒くないですか」

 藤堂が尋ねた。

「大丈夫です」

「中へ入りますか?」

「少しだけ歩きたいです」

「分かりました」

 二人は公園の中へ入った。

 遊歩道の両側には低い木々が並び、地面を照らす小さな照明が続いている。

 藤堂は結衣の隣を歩いている。

 以前のように、わずかに距離を空けていた。

「昨日」

 結衣は言った。

「健太と話しました」

「はい」

「復縁しないと伝えました」

 藤堂の足が止まった。

 結衣も立ち止まる。

「城島さんは」

「傷ついていました。怒ってもいました」

「そうですか」

「私が期待させたからです」

 藤堂はすぐには何も言わなかった。

「でも、最後まで話しました」

「何を?」

「五年前の別れのこと。健太が言いかけた言葉のこと。私が亮介さんを選んだ理由」

「私のことも?」

「はい」

 結衣は藤堂を見た。

「最初に声を聞きたいと思ったのが、亮介さんだったと伝えました」

 藤堂の目が揺れた。

「城島さんは、何と?」

「それが答えなら、仕方がないと」

「受け入れてくれたんですか」

「すぐに笑って受け入れたわけではありません」

「そうですよね」

「つらいと言われました。残酷だとも」

 結衣は胸の痛みを押さえるように、ゆっくり続けた。

「でも最後には、四年間は間違いではなかったと確認できました。別れてからの五年間も、私たちそれぞれの時間だったと」

「それで、終わった?」

「終わったという言い方が正しいかは分かりません」

 藤堂の表情に、不安が浮かんだ。

「健太は、これからも同じ会社で働く人です。過去が消えるわけでもありません。思い出すこともあると思います」

「はい」

「それでも、恋人として戻る可能性はありません」

 結衣は、はっきり言った。

「私は、そのことを健太に伝えました」

 藤堂は結衣から目をそらさなかった。

「後悔していますか」

「健太を傷つけたことは、苦しいです。でも、答えは後悔していません」

「本当に?」

「はい」

「私を安心させるために言っていませんか」

「少し疑っていますね」

「すみません」

「謝らないでください。疑ったときには話す約束です」

 藤堂は一度息を吐いた。

「昨日から、何度も考えました」

「何を?」

「結衣さんが城島さんと話して、やはり戻りたいと思ったら」

「はい」

「そのとき、私は何と言えばいいのか」

「何と言うつもりでしたか?」

「分かりません」

 藤堂は正直に答えた。

「引き止めたい。でも、結衣さんが選んだなら受け入れるべきだとも思いました」

「また、自分から離れようとはしなかったんですね」

「かなり考えました」

「考えたんですか?」

「はい」

「約束を忘れそうになった?」

「忘れてはいません。ただ、怖かった」

「それでも待っていてくれた」

「待つしかありませんでした」

「ありがとうございます」

 結衣は一歩、藤堂へ近づいた。

 二人の間にあった距離が小さくなる。

「亮介さん」

「はい」

「土曜日に伝えた気持ちは、変わっていません」

 藤堂の表情が、静かに揺れた。

「私は、亮介さんが好きです」

 今度は迷わず言えた。

「亮介さんと一緒にいたいです」

「それは」

 藤堂が言葉を止める。

「私の告白への答えだと思っていいんですか」

「はい」

「城島さんを選ばなかったからではなく?」

「健太より亮介さんが優れているからでも、健太との関係が終わったからでもありません」

 結衣は彼の目を見た。

「今の私が、これから一緒に関係を作りたいと思ったのが亮介さんです」

 藤堂の目元がゆっくりやわらいだ。

「信じてもいいですか」

「はい」

「また、確認するかもしれません」

「そのたびに答えます」

「何度も?」

「少しだけ加減してください」

 藤堂が笑った。

 これまで見た中で、いちばんはっきりした笑顔だった。

「努力します」

「亮介さん」

「はい」

「私と付き合ってください」

 藤堂は驚いたように結衣を見た。

「私から言うつもりでした」

「先に言いました」

「準備していた言葉があるんですが」

「では、聞かせてください」

 藤堂は少し姿勢を正した。

 仕事の説明を始めるときのような真剣な顔だった。

「結衣さん」

「はい」

「私も、あなたと一緒にいたいです」

 静かな声で続ける。

「先のことを、すべて約束できるとは言いません。怖くなったり、疑ったりすることもあると思います」

「はい」

「それでも、勝手に離れずに話します。結衣さんの言葉を聞きます」

「私も話します」

「私と付き合ってください」

「はい」

 藤堂が、ゆっくり手を差し出した。

 結衣はその手へ、自分の手を重ねた。

 指が絡む。

 今まで何度か握った手なのに、今日は温度が違った。

「抱きしめてもいいですか」

 藤堂が尋ねる。

「はい」

 つないでいた手が離れ、藤堂の腕が結衣の背中へ回った。

 結衣も、彼のコートへ腕を回す。

 胸元から、速い心臓の音が聞こえた。

「緊張していますか?」

 結衣が小さく尋ねる。

「かなり」

「私もです」

「顔には出ていますか」

「今は見えません」

 藤堂の肩がわずかに揺れた。

 笑ったのだろう。

 抱きしめる腕に、少しだけ力が入る。

 結衣は目を閉じた。

 健太との別れを埋めるためではない。

 一人でいることから逃げるためでもない。

 今、この人のそばにいたい。

 それだけを確かめるように、藤堂の温かさを受け取った。

 しばらくして、二人はゆっくり身体を離した。

 藤堂は結衣の手をもう一度握った。

「食事に行きませんか」

「はい」

「予約はしていませんが」

「答えによっては、一人で帰るつもりだったんですか?」

「その可能性も考えていました」

「悪い答えだったら?」

「駅前の蕎麦屋で一人で食べる予定でした」

「ずいぶん具体的ですね」

「メニューも確認しました」

「地図も?」

「もちろん」

 結衣は声を出して笑った。

「その蕎麦屋へ二人で行きませんか」

「いいんですか?」

「亮介さんが調べた店を見てみたいです」

「分かりました」

 二人は手をつないだまま、公園を出た。

     *

 蕎麦屋は、駅の反対側にある小さな店だった。

 二人で向かい合って座り、結衣は温かい鴨南蛮、藤堂は天ぷら蕎麦を頼んだ。

「熱いですよ」

 結衣が言う。

「まだ来ていません」

「来る前に伝えておきます」

「冷まして食べます」

 料理が届く。

 藤堂は本当に、湯気が少し落ち着くまで箸をつけなかった。

「そこまで待たなくても」

「熱いと言われたので」

「極端ですね」

「少しずつ調整します」

 二人は笑った。

 恋人になったからといって、何かが急に変わったわけではない。

 藤堂は相変わらず真面目で、少し不器用だった。

 結衣も、健太への思いを完全に整理できたわけではない。

 それでも、二人の間には一つの答えがある。

「これから、どうしましょうか」

 藤堂が尋ねた。

「何がですか?」

「会社でのことです」

「今までどおりでいいと思います」

「名前では呼ばない?」

「会社では佐伯さんでお願いします」

「分かりました」

「仕事のメールに、食事の予定を書かない」

「これまで、何度か書いていました」

「今後は私用の連絡先へ送ってください」

「はい」

「仕事で意見が違ったときは、恋人だからといって遠慮しない」

「それは問題ありません」

「自信がありますね」

「仕事では、結衣さんに何度も反対されていますから」

「少しは加減しています」

「知っています」

 藤堂は蕎麦を少し冷ましてから口へ運んだ。

「会う頻度は?」

「決める必要がありますか?」

「事前に分かっていた方が予定を立てやすいので」

「毎週必ず、というのは疲れませんか?」

「私は会いたいです」

「私も会いたいです。でも、一人の時間も必要です」

「では、週に一度を基本にして、無理な週は話す」

「仕事の打ち合わせみたいですね」

「駄目ですか?」

「分かりやすくていいと思います」

「連絡は?」

「毎日でなくても大丈夫です」

 結衣は少し考えた。

「でも、おはようと、おやすみは嬉しかったです」

「では、送ります」

「義務にはしないでくださいね」

「送りたいときに送ります」

「はい」

「結婚については?」

 不意に出てきた言葉に、結衣の箸が止まった。

 藤堂も、自分が急ぎすぎたことに気づいたようだった。

「すみません」

「付き合った最初の日に聞くんですね」

「三十五歳と三十七歳なので、何も考えていないふりをする方が不自然かと思いました」

「確かに」

「今すぐという意味ではありません」

「分かっています」

 結衣は湯気の向こうにいる藤堂を見た。

「私は、結婚だけを目的に付き合いたくありません」

「はい」

「一緒に過ごして、生活を作れると思ったときに考えたいです」

「分かりました」

「亮介さんは?」

「以前は、二度と結婚しないと思っていました」

「今は?」

「結衣さんとの未来なら、考えたいです」

 胸の奥が温かくなる。

「でも、急ぎません」

 藤堂は続けた。

「急いで形を決めるより、変わったときに話せる関係を先に作りたいです」

「はい」

「その上で、いつか結婚したいと思えたら、私から言います」

「私から言うかもしれません」

「先ほども先に言われました」

「準備している間に、言ってしまいますから」

「次は、早めに言います」

 二人は顔を見合わせ、笑った。

     *

 駅の改札前へ着いたのは、午後九時近くだった。

 手を離さなければ、それぞれの路線へ進めない。

 藤堂は名残惜しそうに結衣の手を見た。

「また、週末に会えますか」

「はい」

「結衣さんの部屋へ行っても?」

「玉ねぎの練習を見せてください」

「味噌汁も作ります」

「おかずも」

「魚を焼きます」

「買ってきたものではなく?」

「焼く前のものを買います」

「それなら夕食になりますね」

「次は、私が作ります」

「楽しみにしています」

 結衣が言うと、藤堂の目元がやわらいだ。

「結衣さん」

「はい」

「一つだけ、いいですか」

「何ですか?」

 藤堂は周囲を確認した。

 改札前には人が多く、誰かが立ち止まれば邪魔になる。

「ここではない方がいいですね」

「何をしようとしたんですか?」

「いえ」

「言ってください」

「キスをしてもいいか、聞こうとしました」

 あまりにも正直に言われ、結衣の頬が熱くなった。

「ここでは、人が多いですね」

「はい。今度にします」

「今度?」

「嫌ですか」

「嫌ではありません」

「では、今度」

「分かりました」

 二人は少し照れたまま別れた。

 結衣が改札を通り、振り返る。

 藤堂も、まだ同じ場所に立っていた。

 小さく手を上げる。

 結衣も返した。

     *

 次の日曜日、藤堂は午後三時に結衣の部屋へ来た。

 手には買い物袋と、自分で買ったという紺色のエプロンを持っていた。

「本当に買ったんですか?」

「結衣さんのものは、小さかったので」

「今日だけのために?」

「次も使います」

「次がある前提ですね」

「ないんですか?」

「あります」

 結衣は笑い、藤堂を部屋へ招いた。

 二人でキッチンに立つ。

 藤堂は玉ねぎを以前より丁寧に切った。大きさはまだ不揃いだが、包丁の持ち方は少し安定している。

「練習しましたね」

「三回」

「味噌汁を三回作ったんですか?」

「一度はカレーにしました」

「一人で全部食べたんですか?」

「二日かかりました」

「今度は、もう少し小さな鍋で作ってください」

「覚えておきます」

 藤堂は味噌汁を作り、フライパンで魚を焼いた。

 結衣はほうれん草のおひたしを用意する。

 食卓には、青い皿と白い皿が並んだ。

 今日は青い皿を結衣が使い、白い皿を藤堂の前へ置いた。

「青い皿ではないんですね」

「前回使ったでしょう?」

「はい」

「今日は私が使います」

「分かりました」

 二人で向かい合い、手を合わせる。

「いただきます」

 味噌汁を一口飲む。

 少し薄かった。

「どうですか?」

 藤堂が緊張した顔で尋ねる。

「少し薄いです」

「やはり」

「でも、おいしいです」

「それは、どちらですか」

「薄いけれど、おいしい」

「次は、もう少し濃くします」

「少しだけ」

「加減します」

 二人で笑った。

 食事を終え、並んで皿を洗う。

 前回と同じように、結衣が洗い、藤堂が拭いた。

 最後の皿を渡したとき、指先が触れる。

 二人の動きが止まった。

「結衣さん」

「はい」

「今度になりました」

 何のことか、すぐに分かった。

 結衣はタオルで手を拭いた。

「はい」

「キスをしてもいいですか」

「はい」

 藤堂がゆっくり顔を近づける。

 結衣は目を閉じた。

 唇が短く触れた。

 急ぐことも、強く求めることもない、確かめるような口づけだった。

 離れた後、藤堂の頬が少し赤くなっていた。

「緊張しましたか?」

「かなり」

「顔に出ています」

「結衣さんも」

「私も緊張したので」

 藤堂は少し笑い、結衣の手を握った。

「信じてもいいんですね」

「はい」

 結衣も握り返した。

「私も、亮介さんを信じます」

 信じることは、何も変わらないと決めることではない。

 傷つかないと保証することでもない。

 変わったときに話す。

 怖くなったときに離れず、相手の言葉を聞く。

 二人は、その約束から始めることにした。

 水切りかごには、青い皿と白い皿が並んでいた。

 今夜の二人分の食卓は、特別に豪華ではなかった。

 少し薄い味噌汁と、焼き色のつきすぎた魚。

 それでも結衣には、これから何度も思い出したい夕食になった。


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