第十七章 信じてみたい人
月曜日の朝、結衣はいつもより早く目を覚ました。
昨日、健太と別れた公園の風景が、まだ頭に残っている。
握手をした手の温度。
最後に互いを名字で呼んだ声。
振り返り、小さく手を上げた姿。
あれで過去が消えたわけではない。
健太のことを思い出せば、これからも胸が痛む日があるだろう。
それでも結衣は、自分が選んだ答えを後悔していなかった。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
冬の朝の空は薄く白んでいた。
今日は藤堂に会う。
結衣が自分で選び、自分の足で向かう人に。
*
午前八時半、結衣が出社すると、受信箱には週末に届いた注文の変更が並んでいた。
パソコンを立ち上げ、いつものように一件ずつ処理する。
午前九時を過ぎた頃、営業企画部から健太がやってきた。
手には、新規取引先の商品登録に関する資料を持っている。
一瞬、二人の視線が重なった。
「佐伯さん、おはようございます」
健太が先に言った。
「おはようございます」
「新規取引先の商品一覧です。先方の確認が終わりました」
「ありがとうございます。今日中に登録内容を確認します」
「納品条件の欄が一部空いています。午後までに確認して、追記します」
「分かりました」
仕事の会話だけだった。
健太の目元には少し疲れが残っている。
それでも、結衣を責めるような表情はなかった。
「では、よろしくお願いします」
「はい」
健太は軽く頭を下げ、執務室を出ていった。
小野寺が、結衣と扉を交互に見る。
「城島さんと、何かあった?」
「どうして?」
「少し雰囲気が違ったから」
「仕事の資料を持ってきただけです」
「そうだけど」
「今は、まだ話せません」
結衣が答えると、小野寺はそれ以上聞かなかった。
午前中、健太から追加の資料が届いた。
文章は簡潔で、必要なことだけが書かれていた。結衣も同じように返信した。
今は、それでよかった。
いつか健太の痛みが少し薄れたとき、仕事以外の話もできるようになるかもしれない。
けれど、それを期待することも、今は違う気がした。
健太には、結衣から離れた場所で気持ちを整える時間が必要だった。
午後、藤堂からメールが届いた。
〈本日、十八時半に昨日お送りいただいた場所へ伺います〉
結衣が指定したのは、会社から二駅離れた場所にある小さな公園だった。
健太と話した公園でも、藤堂と告白の答えを伝えた海沿いの遊歩道でもない。
駅前にありながら人通りが少なく、近くには落ち着いたレストランもある。
〈分かりました。私も十八時半に伺います〉
すぐに既読がついた。
返信は来なかった。
藤堂も、何を聞くことになるのか考えているのだろう。
*
午後六時十五分、結衣は会社を出た。
電車に乗り、待ち合わせの駅へ向かう。
いつもより時間が長く感じられた。
藤堂へ何を伝えるかは決めている。
健太と話したこと。
言葉にならなかった約束の続きを聞いたこと。
それでも、復縁しないと伝えたこと。
そして、藤堂と一緒にいたいという気持ちが変わっていないこと。
駅へ着き、公園へ向かう。
藤堂は入口近くの街灯の下に立っていた。
黒いコートに、仕事用の鞄。会社から直接来たのだろう。
結衣に気づくと、すぐに歩み寄ってきた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
二人とも足を止める。
周囲には、帰宅を急ぐ人たちの足音が聞こえる。
「寒くないですか」
藤堂が尋ねた。
「大丈夫です」
「中へ入りますか?」
「少しだけ歩きたいです」
「分かりました」
二人は公園の中へ入った。
遊歩道の両側には低い木々が並び、地面を照らす小さな照明が続いている。
藤堂は結衣の隣を歩いている。
以前のように、わずかに距離を空けていた。
「昨日」
結衣は言った。
「健太と話しました」
「はい」
「復縁しないと伝えました」
藤堂の足が止まった。
結衣も立ち止まる。
「城島さんは」
「傷ついていました。怒ってもいました」
「そうですか」
「私が期待させたからです」
藤堂はすぐには何も言わなかった。
「でも、最後まで話しました」
「何を?」
「五年前の別れのこと。健太が言いかけた言葉のこと。私が亮介さんを選んだ理由」
「私のことも?」
「はい」
結衣は藤堂を見た。
「最初に声を聞きたいと思ったのが、亮介さんだったと伝えました」
藤堂の目が揺れた。
「城島さんは、何と?」
「それが答えなら、仕方がないと」
「受け入れてくれたんですか」
「すぐに笑って受け入れたわけではありません」
「そうですよね」
「つらいと言われました。残酷だとも」
結衣は胸の痛みを押さえるように、ゆっくり続けた。
「でも最後には、四年間は間違いではなかったと確認できました。別れてからの五年間も、私たちそれぞれの時間だったと」
「それで、終わった?」
「終わったという言い方が正しいかは分かりません」
藤堂の表情に、不安が浮かんだ。
「健太は、これからも同じ会社で働く人です。過去が消えるわけでもありません。思い出すこともあると思います」
「はい」
「それでも、恋人として戻る可能性はありません」
結衣は、はっきり言った。
「私は、そのことを健太に伝えました」
藤堂は結衣から目をそらさなかった。
「後悔していますか」
「健太を傷つけたことは、苦しいです。でも、答えは後悔していません」
「本当に?」
「はい」
「私を安心させるために言っていませんか」
「少し疑っていますね」
「すみません」
「謝らないでください。疑ったときには話す約束です」
藤堂は一度息を吐いた。
「昨日から、何度も考えました」
「何を?」
「結衣さんが城島さんと話して、やはり戻りたいと思ったら」
「はい」
「そのとき、私は何と言えばいいのか」
「何と言うつもりでしたか?」
「分かりません」
藤堂は正直に答えた。
「引き止めたい。でも、結衣さんが選んだなら受け入れるべきだとも思いました」
「また、自分から離れようとはしなかったんですね」
「かなり考えました」
「考えたんですか?」
「はい」
「約束を忘れそうになった?」
「忘れてはいません。ただ、怖かった」
「それでも待っていてくれた」
「待つしかありませんでした」
「ありがとうございます」
結衣は一歩、藤堂へ近づいた。
二人の間にあった距離が小さくなる。
「亮介さん」
「はい」
「土曜日に伝えた気持ちは、変わっていません」
藤堂の表情が、静かに揺れた。
「私は、亮介さんが好きです」
今度は迷わず言えた。
「亮介さんと一緒にいたいです」
「それは」
藤堂が言葉を止める。
「私の告白への答えだと思っていいんですか」
「はい」
「城島さんを選ばなかったからではなく?」
「健太より亮介さんが優れているからでも、健太との関係が終わったからでもありません」
結衣は彼の目を見た。
「今の私が、これから一緒に関係を作りたいと思ったのが亮介さんです」
藤堂の目元がゆっくりやわらいだ。
「信じてもいいですか」
「はい」
「また、確認するかもしれません」
「そのたびに答えます」
「何度も?」
「少しだけ加減してください」
藤堂が笑った。
これまで見た中で、いちばんはっきりした笑顔だった。
「努力します」
「亮介さん」
「はい」
「私と付き合ってください」
藤堂は驚いたように結衣を見た。
「私から言うつもりでした」
「先に言いました」
「準備していた言葉があるんですが」
「では、聞かせてください」
藤堂は少し姿勢を正した。
仕事の説明を始めるときのような真剣な顔だった。
「結衣さん」
「はい」
「私も、あなたと一緒にいたいです」
静かな声で続ける。
「先のことを、すべて約束できるとは言いません。怖くなったり、疑ったりすることもあると思います」
「はい」
「それでも、勝手に離れずに話します。結衣さんの言葉を聞きます」
「私も話します」
「私と付き合ってください」
「はい」
藤堂が、ゆっくり手を差し出した。
結衣はその手へ、自分の手を重ねた。
指が絡む。
今まで何度か握った手なのに、今日は温度が違った。
「抱きしめてもいいですか」
藤堂が尋ねる。
「はい」
つないでいた手が離れ、藤堂の腕が結衣の背中へ回った。
結衣も、彼のコートへ腕を回す。
胸元から、速い心臓の音が聞こえた。
「緊張していますか?」
結衣が小さく尋ねる。
「かなり」
「私もです」
「顔には出ていますか」
「今は見えません」
藤堂の肩がわずかに揺れた。
笑ったのだろう。
抱きしめる腕に、少しだけ力が入る。
結衣は目を閉じた。
健太との別れを埋めるためではない。
一人でいることから逃げるためでもない。
今、この人のそばにいたい。
それだけを確かめるように、藤堂の温かさを受け取った。
しばらくして、二人はゆっくり身体を離した。
藤堂は結衣の手をもう一度握った。
「食事に行きませんか」
「はい」
「予約はしていませんが」
「答えによっては、一人で帰るつもりだったんですか?」
「その可能性も考えていました」
「悪い答えだったら?」
「駅前の蕎麦屋で一人で食べる予定でした」
「ずいぶん具体的ですね」
「メニューも確認しました」
「地図も?」
「もちろん」
結衣は声を出して笑った。
「その蕎麦屋へ二人で行きませんか」
「いいんですか?」
「亮介さんが調べた店を見てみたいです」
「分かりました」
二人は手をつないだまま、公園を出た。
*
蕎麦屋は、駅の反対側にある小さな店だった。
二人で向かい合って座り、結衣は温かい鴨南蛮、藤堂は天ぷら蕎麦を頼んだ。
「熱いですよ」
結衣が言う。
「まだ来ていません」
「来る前に伝えておきます」
「冷まして食べます」
料理が届く。
藤堂は本当に、湯気が少し落ち着くまで箸をつけなかった。
「そこまで待たなくても」
「熱いと言われたので」
「極端ですね」
「少しずつ調整します」
二人は笑った。
恋人になったからといって、何かが急に変わったわけではない。
藤堂は相変わらず真面目で、少し不器用だった。
結衣も、健太への思いを完全に整理できたわけではない。
それでも、二人の間には一つの答えがある。
「これから、どうしましょうか」
藤堂が尋ねた。
「何がですか?」
「会社でのことです」
「今までどおりでいいと思います」
「名前では呼ばない?」
「会社では佐伯さんでお願いします」
「分かりました」
「仕事のメールに、食事の予定を書かない」
「これまで、何度か書いていました」
「今後は私用の連絡先へ送ってください」
「はい」
「仕事で意見が違ったときは、恋人だからといって遠慮しない」
「それは問題ありません」
「自信がありますね」
「仕事では、結衣さんに何度も反対されていますから」
「少しは加減しています」
「知っています」
藤堂は蕎麦を少し冷ましてから口へ運んだ。
「会う頻度は?」
「決める必要がありますか?」
「事前に分かっていた方が予定を立てやすいので」
「毎週必ず、というのは疲れませんか?」
「私は会いたいです」
「私も会いたいです。でも、一人の時間も必要です」
「では、週に一度を基本にして、無理な週は話す」
「仕事の打ち合わせみたいですね」
「駄目ですか?」
「分かりやすくていいと思います」
「連絡は?」
「毎日でなくても大丈夫です」
結衣は少し考えた。
「でも、おはようと、おやすみは嬉しかったです」
「では、送ります」
「義務にはしないでくださいね」
「送りたいときに送ります」
「はい」
「結婚については?」
不意に出てきた言葉に、結衣の箸が止まった。
藤堂も、自分が急ぎすぎたことに気づいたようだった。
「すみません」
「付き合った最初の日に聞くんですね」
「三十五歳と三十七歳なので、何も考えていないふりをする方が不自然かと思いました」
「確かに」
「今すぐという意味ではありません」
「分かっています」
結衣は湯気の向こうにいる藤堂を見た。
「私は、結婚だけを目的に付き合いたくありません」
「はい」
「一緒に過ごして、生活を作れると思ったときに考えたいです」
「分かりました」
「亮介さんは?」
「以前は、二度と結婚しないと思っていました」
「今は?」
「結衣さんとの未来なら、考えたいです」
胸の奥が温かくなる。
「でも、急ぎません」
藤堂は続けた。
「急いで形を決めるより、変わったときに話せる関係を先に作りたいです」
「はい」
「その上で、いつか結婚したいと思えたら、私から言います」
「私から言うかもしれません」
「先ほども先に言われました」
「準備している間に、言ってしまいますから」
「次は、早めに言います」
二人は顔を見合わせ、笑った。
*
駅の改札前へ着いたのは、午後九時近くだった。
手を離さなければ、それぞれの路線へ進めない。
藤堂は名残惜しそうに結衣の手を見た。
「また、週末に会えますか」
「はい」
「結衣さんの部屋へ行っても?」
「玉ねぎの練習を見せてください」
「味噌汁も作ります」
「おかずも」
「魚を焼きます」
「買ってきたものではなく?」
「焼く前のものを買います」
「それなら夕食になりますね」
「次は、私が作ります」
「楽しみにしています」
結衣が言うと、藤堂の目元がやわらいだ。
「結衣さん」
「はい」
「一つだけ、いいですか」
「何ですか?」
藤堂は周囲を確認した。
改札前には人が多く、誰かが立ち止まれば邪魔になる。
「ここではない方がいいですね」
「何をしようとしたんですか?」
「いえ」
「言ってください」
「キスをしてもいいか、聞こうとしました」
あまりにも正直に言われ、結衣の頬が熱くなった。
「ここでは、人が多いですね」
「はい。今度にします」
「今度?」
「嫌ですか」
「嫌ではありません」
「では、今度」
「分かりました」
二人は少し照れたまま別れた。
結衣が改札を通り、振り返る。
藤堂も、まだ同じ場所に立っていた。
小さく手を上げる。
結衣も返した。
*
次の日曜日、藤堂は午後三時に結衣の部屋へ来た。
手には買い物袋と、自分で買ったという紺色のエプロンを持っていた。
「本当に買ったんですか?」
「結衣さんのものは、小さかったので」
「今日だけのために?」
「次も使います」
「次がある前提ですね」
「ないんですか?」
「あります」
結衣は笑い、藤堂を部屋へ招いた。
二人でキッチンに立つ。
藤堂は玉ねぎを以前より丁寧に切った。大きさはまだ不揃いだが、包丁の持ち方は少し安定している。
「練習しましたね」
「三回」
「味噌汁を三回作ったんですか?」
「一度はカレーにしました」
「一人で全部食べたんですか?」
「二日かかりました」
「今度は、もう少し小さな鍋で作ってください」
「覚えておきます」
藤堂は味噌汁を作り、フライパンで魚を焼いた。
結衣はほうれん草のおひたしを用意する。
食卓には、青い皿と白い皿が並んだ。
今日は青い皿を結衣が使い、白い皿を藤堂の前へ置いた。
「青い皿ではないんですね」
「前回使ったでしょう?」
「はい」
「今日は私が使います」
「分かりました」
二人で向かい合い、手を合わせる。
「いただきます」
味噌汁を一口飲む。
少し薄かった。
「どうですか?」
藤堂が緊張した顔で尋ねる。
「少し薄いです」
「やはり」
「でも、おいしいです」
「それは、どちらですか」
「薄いけれど、おいしい」
「次は、もう少し濃くします」
「少しだけ」
「加減します」
二人で笑った。
食事を終え、並んで皿を洗う。
前回と同じように、結衣が洗い、藤堂が拭いた。
最後の皿を渡したとき、指先が触れる。
二人の動きが止まった。
「結衣さん」
「はい」
「今度になりました」
何のことか、すぐに分かった。
結衣はタオルで手を拭いた。
「はい」
「キスをしてもいいですか」
「はい」
藤堂がゆっくり顔を近づける。
結衣は目を閉じた。
唇が短く触れた。
急ぐことも、強く求めることもない、確かめるような口づけだった。
離れた後、藤堂の頬が少し赤くなっていた。
「緊張しましたか?」
「かなり」
「顔に出ています」
「結衣さんも」
「私も緊張したので」
藤堂は少し笑い、結衣の手を握った。
「信じてもいいんですね」
「はい」
結衣も握り返した。
「私も、亮介さんを信じます」
信じることは、何も変わらないと決めることではない。
傷つかないと保証することでもない。
変わったときに話す。
怖くなったときに離れず、相手の言葉を聞く。
二人は、その約束から始めることにした。
水切りかごには、青い皿と白い皿が並んでいた。
今夜の二人分の食卓は、特別に豪華ではなかった。
少し薄い味噌汁と、焼き色のつきすぎた魚。
それでも結衣には、これから何度も思い出したい夕食になった。




