第十六章 五年間の答え
日曜日の午後一時四十分、結衣は会社近くの公園へ着いた。
平日は周辺の会社で働く人たちが休憩に使っているが、休日は静かだった。
冬の木々に葉は少なく、細い枝の間から白い空が見える。広場の端では、小さな子どもが父親とボールを蹴っていた。
約束の時間まで、あと二十分ある。
結衣は公園の中央にあるベンチへ座った。
健太に伝える言葉は、何度も考えた。
ありがとう。
ごめんなさい。
健太のことは、今も大切です。
でも、私は亮介さんと一緒にいたい。
どの順番で伝えても、健太を傷つけることは変わらない。
できるだけ優しい言葉を選ぼうとすれば、期待を残してしまうかもしれない。
はっきり言えば、九年間にわたって心の中にあったものを、乱暴に切り離すように聞こえるかもしれない。
正しい言い方など、ないのだろう。
それでも、最後まで自分の言葉で伝えなければならない。
「早いね」
声がして、結衣は顔を上げた。
健太が立っていた。
紺色のコートに、黒いパンツ。片手には自動販売機で買ったらしい缶が二本ある。
「健太も早い」
「家にいても落ち着かなかったから」
健太は結衣の隣へ座った。
二人の間には、一人分ほどの距離がある。
「カフェオレでよかった?」
「ありがとう」
受け取ると、温かかった。
健太は無糖のコーヒーの蓋を開けた。
「この公園、休日は静かなんだな」
「平日は、昼休みに人が多いよ」
「俺は、会社の近くで昼を食べることが少ないから」
「営業企画の人たちと外へ行くの?」
「会議がなければ。最近は忙しくて、机で食べることも多いけど」
「そうなんだ」
仕事の話なら、いくらでもできた。
新しい取引先の準備。
試験運用で見つかった問題。
福岡支社から引き継いだ案件。
けれど今日は、そのために会ったのではない。
「結衣」
健太が前を向いたまま言った。
「答え、出たんだよな」
「うん」
「先に聞かせて」
「その前に」
「優しい言葉を先に聞くと、期待するから」
健太は結衣を見た。
「はっきり言って」
結衣は缶を両手で包んだ。
一度息を吸う。
「私は、亮介さんと一緒にいたい」
声は震えなかった。
「健太とは、やり直しません」
健太の表情から、ゆっくり色が消えた。
予想していたはずだった。
それでも実際に言葉を聞くことは、別なのだろう。
「そうか」
健太は小さく答えた。
手に持った缶コーヒーへ視線を落とす。
蓋は開いているが、飲もうとはしなかった。
「ごめん」
「謝るなよ」
「でも」
「俺が聞いたんだから」
健太の声は落ち着いていた。
けれど、指に力が入っている。
「藤堂さんが好きだから?」
「うん」
「俺より?」
その問いに、結衣はすぐには答えられなかった。
「比べられない」
「選んだのに?」
「どちらの気持ちが大きいか、同じ秤に載せられないの」
「それは、選ばれなかった方には都合のいい言葉に聞こえる」
健太の声に、初めて苛立ちが混じった。
「ごめん」
「だから、謝らないでくれ」
健太は立ち上がり、ベンチから数歩離れた。
背中を向け、缶コーヒーを持ったまま立っている。
結衣は追わなかった。
「俺は」
健太が低い声で言った。
「五年、何のために戻りたいと思ってたんだろうな」
「健太」
「結衣のためだけじゃない。仕事もあったし、家族もいた。分かってる」
彼は振り返らなかった。
「でも、東京へ戻れるかもしれないと思うたび、結衣に会えると思った。まだ一人だったら、もう一度始められるかもしれないって」
「うん」
「それで、本当に戻ってきたら、結衣は一人だった」
健太の肩が、小さく上下した。
「なのに、少し遅かった」
「遅かったわけじゃない」
「じゃあ、何だよ」
健太が振り返った。
目に怒りと痛みが浮かんでいる。
「俺がもっと早く戻ってきたら、違った?」
「分からない」
「藤堂さんと出会う前なら?」
「分からないよ」
「また、それか」
「だって、存在しなかったことの答えは出せない」
「一度くらい、俺が聞きたい答えを言ってくれてもいいだろ」
健太の声が強くなる。
広場にいた親子が、一瞬こちらを見た。
健太はそれに気づき、声を落とした。
「ごめん」
「怒っていいよ」
「結衣に怒っても、変わらない」
「それでも、怒っていい」
「じゃあ言う」
健太はベンチの前へ戻ってきた。
「残酷だよ」
結衣は黙って受け止めた。
「俺とやり直す未来を考えてると言った。俺の気持ちを考えるとも言った。待ってくれと言ったのに、結局、藤堂さんを選んだ」
「うん」
「だったら、最初から期待させないでほしかった」
「本当に、考えていたの」
「今となっては、分からない」
「私にも分からなかった」
「でも俺は、分からないって言われるたび、まだ可能性があると思った」
「うん」
「俺が勝手に期待しただけだとしても、つらいよ」
「ごめん」
今度は健太も、謝るなとは言わなかった。
結衣は目をそらさなかった。
健太を傷つけない答えはなかった。
それでも彼が怒りを言葉にしたことに、少しだけ安堵していた。
笑って受け入れられるより、健太らしかった。
「どうして藤堂さんなんだ」
健太が尋ねた。
「俺とは、今の関係を作れないと思った?」
「作れないとは思ってない」
「じゃあ、どうして」
「健太と話して、私たちは今なら違う関係を作れるかもしれないと思った」
「だったら」
「でも私は、ずっと五年前の答えを探してた」
結衣は缶を膝の上へ置いた。
「健太が戻ってきてから、あのときついていけばよかったのか、遠距離を続ければよかったのか、何度も考えた」
「うん」
「今の健太を見ているつもりでも、心のどこかで、過去をやり直そうとしてた」
「俺は、昔に戻りたいわけじゃないと言った」
「分かってる。健太は今の私を見ようとしてくれた」
「じゃあ」
「私の方が、過去から離れられていなかったの」
健太は何も言わなかった。
「健太を選べば、五年前の選択を間違いではなかったと証明できる気がした。別れた時間にも意味があったと、自分を納得させられる気がした」
「それの何が悪いんだ?」
「悪くない。でも、それだけでは今の健太を選んだことにならない」
「俺を選んでも、これから新しく始めればいい」
「そうだね」
「それでも駄目なのか」
「駄目だからではない」
「じゃあ、何なんだよ」
健太の声が、再び揺れた。
結衣は一度目を閉じた。
「嬉しいことがあったとき、困ったとき、自分でも分からないとき、最初に声を聞きたいと思ったのが亮介さんだった」
健太の表情が、ゆっくり変わった。
怒りではなく、理解したくないものを理解したときのような痛みだった。
「それが、答え?」
「うん」
「俺じゃなかった」
「うん」
健太は再びベンチへ座った。
二人の間には、先ほどと同じ距離がある。
けれど、その距離の意味は変わっていた。
「もし、藤堂さんがいなかったら」
健太が言う。
「俺とやり直してた?」
結衣はしばらく考えた。
「向き合っていたと思う」
「それは、付き合ったということ?」
「分からない。でも、健太と今の関係を作れるか、考えたと思う」
「今は藤堂さんがいるから、考えない」
「違う。亮介さんと出会ったことで、私が何を望んでいるか分かったの」
「同じに聞こえる」
「そうかもしれない」
結衣は無理に否定しなかった。
「亮介さんがいなければ、別の答えだった可能性はある。でも、亮介さんと出会わなかった私も、今の私ではない」
健太は目を閉じ、長く息を吐いた。
「やっぱり、遅かったんだな」
「健太」
「分かってる。責めても仕方ない」
「東京へ戻ってきたときに、私が一人だったのは事実だよ」
「でも、心にはもう誰かがいた」
「まだ、名前をつけていなかったけど」
「俺が戻ってきたから、気づいた?」
「うん」
健太の帰還がなければ、結衣は藤堂への気持ちを曖昧なままにしていたかもしれない。
過去と今を並べたからこそ、自分が未来へ向けて手を伸ばしていることに気づいた。
「俺が、二人を近づけたみたいだな」
「そんな言い方をしないで」
「本当だろ」
「健太が戻ってきたから、私は五年前の自分を認められた。あの別れも、仕事を続けたことも、間違いではなかったと思えた」
「それで役目が終わった?」
「健太に役目なんてない」
結衣は強く言った。
「健太は、私のために戻ってきたわけじゃない。私の過去を整理するために生きてきたわけでもないでしょう?」
「分かってるよ」
「健太の五年間は、健太のものだよ。福岡で仕事をして、失敗して、友達を作って、料理を覚えた。その時間を、私に選ばれなかったための時間にしないで」
健太は結衣を見た。
「結衣は、俺のことを選ばないのに、俺の五年間まで守ろうとするんだな」
「守ろうとしてるわけじゃない」
「優しくされると、まだ期待したくなる」
結衣は言葉を失った。
健太は少しだけ笑った。
「冗談だよ。半分は」
「健太」
「分かってる。もう答えは聞いた」
彼はようやく缶コーヒーを口へ運んだ。
すでに冷めているのか、少し顔をしかめた。
「冷たくなった?」
「かなり」
「新しいのを買う?」
「いい。これで」
健太はもう一口飲んだ。
「五年前、俺が言おうとしたことを、最後まで言ってもいい?」
「うん」
結衣は頷いた。
「向こうへ行っても、俺たちがまだ互いを好きだったら、東京へ戻ったときにもう一度会おう」
あの夜、途中で消えた言葉だった。
「そのとき、二人とも一人だったら、もう一度始めよう」
健太はゆっくり続けた。
「そう言いたかった」
「うん」
「約束してくれたら、離れても大丈夫だと思った」
「私は、その約束に縛られるのが怖かった」
「知ってる」
「今なら、最後まで聞ける」
「遅いよ」
「ごめん」
「今のは、謝っていい」
二人は少しだけ笑った。
笑うと、胸の痛みがかえってはっきりした。
「約束しなかったのに、俺はどこかで守ってた」
健太が言う。
「私も、完全には忘れてなかった」
「二人とも一人で、俺は東京へ戻って、もう一度会った」
「うん」
「そこまでは、言わなかった約束のとおりになったんだな」
結衣は胸が締めつけられるのを感じた。
「でも、始めるところまではいかなかった」
「うん」
「約束の先が、俺の思った未来とは違った」
「ごめん」
「仕方ない」
健太は空を見上げた。
「言葉にしなかった約束に、相手を縛る力なんてないから」
「約束していたとしても、気持ちは変わったと思う」
「そうだな」
「約束を守るためだけに一緒にいるのは、違うから」
「分かってる」
健太は静かに頷いた。
公園の広場で遊んでいた親子は、いつの間にかいなくなっていた。
風が枯れ葉を転がしていく。
「俺のこと、嫌いになった?」
健太が尋ねた。
「なってない」
「今も好き?」
答えに迷った。
簡単に「好き」と言えば、残酷になる。
「好きではない」と言えば、嘘になる。
「大切だと思ってる」
結衣は答えた。
「四年間のことも、この五年間も。今の健太も」
「でも、一緒にはいない」
「うん」
「大切に思うことと、選ぶことは違うんだな」
「違うと思う」
「きついな」
「うん」
健太は手の中で空き缶を回した。
「藤堂さんは、今日のことを知ってる?」
「知ってる」
「待ってる?」
「うん」
「俺と話した後、会うの?」
「今日は会わない」
「どうして?」
「健太と話した気持ちを、すぐに別の人で埋めたくないから」
「そうか」
「一人で帰る」
健太は少しだけ安心したように見えた。
そのことに気づき、結衣の胸がまた痛んだ。
「藤堂さんは、いい人なんだろうな」
「うん」
「でも、俺も悪くなかっただろ?」
「悪くなかったよ」
結衣はすぐに答えた。
「健太は、いい人だった。今も」
「だったら、もう少し迷ってくれてもよかったのに」
「たくさん迷ったよ」
「そうだったな」
健太は笑った。
目元が少し赤くなっていた。
「泣いてる?」
「寒いだけ」
「昔も、同じことを言った」
「覚えてるのか」
「言われたことは、だいたい覚えてるから」
「それ、藤堂さんの言葉?」
結衣は答えられず、健太が苦笑した。
「今のは聞かなかったことにする」
「ごめん」
「今日は何回謝るんだよ」
「数えてない」
「もう謝らなくていい」
健太は立ち上がった。
「少し歩こう」
「うん」
二人は公園の中をゆっくり歩いた。
以前のように、健太は結衣の歩調へ合わせている。
「今の部屋、まだ段ボールが残ってるんだ」
健太が言った。
「引っ越して一か月でしょう?」
「忙しくて。必要なものだけ出した」
「食器は?」
「一人分だけ。福岡から持ってきた」
「家具は?」
「ベッドと机だけ買った。ソファは、誰かと選びたいと思ってた」
結衣は胸が痛んだ。
「ごめん」
「謝らない約束、もう忘れた?」
「約束はしてない」
「そうだった」
健太は前を向いた。
「今度、自分で選ぶよ」
「うん」
「一人で使うものを、一人で選んでもいいんだよな」
「もちろん」
「結衣も、一人で部屋を作ったんだろ?」
「うん」
「俺もやってみる」
健太の声には、まだ無理があった。
それでも、東京での生活を結衣だけに結びつけないよう、自分へ言い聞かせているのだと分かった。
「仕事もあるし」
健太が続けた。
「四月の新規取引、成功させないとな」
「うん」
「藤堂さんとも、仕事では普通にやる」
「無理しないで」
「仕事だから。そこは分ける」
「ありがとう」
「でも、少しの間、二人が一緒にいるところは見たくない」
「会社では、今までどおりにする」
「助かる」
「仕事以外のことは、持ち込まない」
「うん」
二人は公園を一周し、入口へ戻った。
駅へ向かう道の分かれ目で、健太が足を止めた。
「結衣」
「何?」
「五年前、仕事を頑張れと言ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「本当は、頑張ってほしくなかった」
健太は苦く笑った。
「仕事がうまくいかなければ、俺について来なかったことを後悔すると思ってた」
「そうだったの?」
「最低だろ」
「正直だと思う」
「でも途中から、本当に頑張ってほしいと思うようになった。俺も向こうで仕事を好きになったから」
「うん」
「今日の会議で話してる結衣を見て、続けてきたんだなと思った」
「健太も、福岡で続けた」
「お互い、選んだものを途中で捨てなかった」
「うん」
「それでよかったんだよな」
「よかったと思う」
健太は静かに息を吐いた。
「俺は、あの頃の結衣に救われてた」
「私が?」
「仕事で失敗しても、結衣に話せば、次に何をすればいいか整理できた。自分では気づいてなかったけど、向こうへ行ってから分かった」
「私も、健太に救われてたよ」
「なら、四年間は間違いじゃなかった」
「うん。間違いじゃなかった」
結衣は目の奥が熱くなるのを感じた。
健太も、もう隠そうとしなかった。
目元を赤くしながら、少しだけ笑っている。
「最後に、握手していい?」
「うん」
健太が右手を差し出した。
結衣はその手を握った。
昔は何度もつないだ手だった。
大きさも、温度も覚えている。
けれど今は、恋人の手ではなかった。
「ありがとう」
結衣は言った。
「四年間も、別れてからの五年間も」
「俺も。ありがとう」
健太の手が離れる。
温度だけが掌に残った。
「明日、普通にできるかな」
健太が言う。
「無理なら、少し避けてもいいよ」
「それは格好悪い」
「格好をつけなくてもいいでしょう」
「結衣には、最後まで格好をつけたい」
「もう遅いよ。泣いてるし」
「寒いだけだって」
二人は笑った。
「じゃあ、また会社で」
健太が言う。
「うん。また会社で」
「お疲れさまでした、佐伯さん」
「お疲れさまでした、城島さん」
互いに軽く頭を下げる。
健太は駅の方向へ歩き出した。
結衣は反対側へ向かう。
数歩進んだところで、振り返った。
健太も振り返っていた。
目が合う。
健太は小さく手を上げた。
結衣も同じように返した。
五年前、健太は一度も振り返らなかった。
今日は、二人とも振り返った。
それでも、もう互いの方へは戻らなかった。
*
電車に乗ると、緊張が解けた。
座席へ座った途端、涙が頬を流れた。
声は出なかった。
悲しいだけではない。
健太を選ばなかったことへの痛み。
五年前の恋に、ようやく最後まで言葉を与えられた安堵。
過去が本当に過去になる寂しさ。
さまざまなものが混じっていた。
結衣はハンカチで涙を拭き、窓の外を見た。
健太との恋は、失敗ではなかった。
別れたから価値がなくなったわけでもない。
結ばれなかったから、愛していなかったことにもならない。
その時間があったから、今の結衣がいる。
自宅の最寄り駅へ着くまで、藤堂へ連絡しなかった。
駅を出て、いつもの道を一人で歩く。
スーパーにも寄らなかった。
今夜は冷蔵庫にあるもので、簡単に済ませればいい。
マンションの前へ着いたところで、スマートフォンを取り出した。
〈健太と話しました〉
送信すると、すぐに既読がついた。
〈お疲れさまでした〉
藤堂からの返事は、それだけだった。
答えを尋ねない。
電話をかけてもこない。
結衣は続けて入力した。
〈今日は、一人で帰ります〉
〈分かりました〉
〈明日、会ってください〉
数秒後、返信が届く。
〈はい〉
続けて、もう一通。
〈待っています〉
結衣は画面を胸元へ引き寄せた。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
静かな部屋へ声をかける。
コートを脱ぎ、手を洗う。
食器棚には、青い皿と白い皿が並んでいた。
今夜は青い皿を一枚だけ取り出した。
一人分の夕食を整え、一人で食べる。
健太と過ごした時間を、誰にも急いで消してもらわないために。
そして明日、自分が選んだ人のもとへ、自分の足で向かうために。




