第十五章 最初に声を聞きたい人
一人で過ごした週末が明けても、会社の風景は変わらなかった。
月曜日の朝、結衣はいつもの時間に出社した。
パソコンを立ち上げ、受信箱を確認する。試験運用中の取引先から届いた報告をまとめ、倉庫側の在庫表示と照合する。
午前十時、藤堂が打ち合わせのために来社した。
「おはようございます」
会議室へ入ってきた彼に、結衣はいつもどおり挨拶をした。
「おはようございます」
藤堂も名字を呼ばなかった。
目が合ったのは、ほんの数秒だった。
それでも、電話で交わした言葉が二人の間に残っている。
話したいことがあります。
良い話ですか。
会ったときに話します。
藤堂は、その答えを聞こうとしなかった。
会議が始まると、仕事へ集中している。
新規取引先の先行運用に必要な設定、商品の登録日、試験用データの作成。結衣の説明に不足があれば確認し、健太の提案にも静かに意見を返す。
健太も、結衣へ何も尋ねなかった。
営業側の作業予定を説明し、藤堂と必要な期限を調整する。
三人の間に個人的な感情があることを、周囲の誰も知らない。
会議の最後、次回の日程を決めることになった。
「来週の火曜日はいかがですか」
藤堂が尋ねる。
結衣は予定表を確認した。
「午後三時なら大丈夫です」
「城島さんは?」
「私も大丈夫です」
「では、火曜日の十五時にお願いします」
会議が終わる。
健太は営業企画部の課長と先に部屋を出た。
結衣が資料を集めていると、藤堂が小声で言った。
「土曜日、十時でよろしいですか」
「はい」
「待ち合わせ場所は?」
「私から送ります。二人とも行ったことのない場所にしたいので」
藤堂の表情がわずかに変わった。
「分かりました」
「不安ですか?」
「かなり」
「それでも、待っていてください」
「はい」
藤堂はそれ以上聞かず、会議室を出ていった。
結衣は一人で残り、手元の資料を揃えた。
自分の気持ちは、すでに分かっている。
それでも、言葉にすれば誰かの未来を変える。
藤堂に選ぶと伝えること。
健太に選ばないと伝えること。
同じ決断のはずなのに、向ける言葉はまったく違う。
どちらも、自分の口から伝えなければならなかった。
*
昼休み、結衣は健太へメッセージを送った。
〈今度の日曜日、時間をもらえますか〉
送信してから、画面を閉じる。
返事が来るまで、少し時間がかかった。
〈午後なら空いてる〉
〈二時でお願いします〉
〈分かった。前に会った喫茶店でいい?〉
結衣は迷った。
昔の記憶が残る場所ではなく、今の二人として話せる場所がいいと思った。
〈会社の近くの公園で会えませんか〉
〈分かった〉
それだけで、健太は結衣が何を話そうとしているのか察したかもしれない。
それでも、詳しく聞いてこなかった。
〈時間を作ってくれて、ありがとう〉
〈日曜日に〉
短いやり取りが終わる。
胸の奥に、重いものが残った。
健太を選ばないと伝えることは、五年前の恋まで否定することではない。
そう分かっていても、言葉は簡単には軽くならなかった。
*
土曜日、結衣は午前八時に起きた。
待ち合わせ場所に選んだのは、東京湾に近い遊歩道だった。
再開発された区域に、海沿いの公園と小さな商業施設がある。結衣も藤堂も訪れたことがない。
健太との思い出がない場所。
藤堂の過去とも結びつかない場所。
二人が、今から歩くための場所だった。
結衣は白いブラウスに淡いベージュのカーディガンを重ね、紺色のパンツを選んだ。髪を整え、鏡の前で何度か深呼吸をする。
藤堂へ何を伝えるのかは決めていた。
それでも緊張している。
健太への答えを伝える前に、藤堂へ自分の気持ちを言うことが正しいのか、何度も考えた。
先に健太へ断るべきなのかもしれない。
けれど、それでは健太を断ったから藤堂を選ぶように見える。
結衣が最初に確かめたいのは、自分が誰と関係を作りたいのかだった。
その答えを藤堂へ伝えた後、自分の選択として健太と向き合いたかった。
午前九時五十分、結衣は待ち合わせ場所へ着いた。
藤堂は、海へ続く歩道の入口に立っていた。
濃紺のコートの下に、灰色のニットを着ている。片手には小さな鞄を持ち、結衣に気づくと姿勢を正した。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日は何分待ちましたか?」
「二分です」
「待ち合わせは十時です」
「分かっています」
「直りませんね」
「今日は、時間より別のことが気になっているので」
藤堂の声は落ち着いていたが、緊張していることは分かった。
「歩きながら話しませんか」
結衣が言う。
「はい」
二人は海沿いの遊歩道へ向かった。
冬の海は青みが薄く、空と同じ灰色に近かった。水面を渡る風は冷たいが、日差しには少しだけ春の気配がある。
遊歩道には、走っている人や犬を連れた家族がいた。
藤堂と結衣は、少し距離を空けて並んだ。
これまでなら自然に手をつないだかもしれない。
今日はどちらも手を伸ばさなかった。
「先週は、どう過ごしましたか」
藤堂が尋ねる。
「土曜日は実家へ帰りました。日曜日は、五年前に健太と別れた場所へ行きました」
藤堂の歩みがわずかに遅くなる。
「一人で?」
「はい」
「どうして、その場所へ?」
「過去の自分を確認したかったんだと思います」
「何か、分かりましたか」
「五年前の選択を、間違いにしなくていいということが分かりました」
藤堂は何も言わずに聞いている。
「健太についていく道もあったと思います。遠距離を続ける道もあった。別の話し合い方もあったかもしれない」
「はい」
「でも、あのときの私は、仕事を辞められなかった。守れない約束もできなかった。それが、あの頃の私に出せる答えでした」
「後悔は?」
「あります」
結衣は正直に答えた。
「もっと話せばよかった。好きだという気持ちを、別れる理由の中に隠さなければよかった。健太の言葉を、最後まで聞けばよかった」
「それでも、別れたことは間違いではない?」
「はい」
海から吹いた風が、結衣の髪を揺らした。
「母にも、選ばなかった人生がありました」
「お母様に?」
結衣は、実家で聞いた話をした。
結婚前、母が大阪で働く機会を断ったこと。
父との結婚を選んだことは後悔していなくても、仕事を続けた人生を考えることがあること。
四十年近くたって、父が初めてその事実を知ったこと。
「お父様は、何と?」
「二年なら待ったかもしれないと言いました」
「それを聞いて、お母様は?」
「二人とも、もっと話せばよかったねと笑っていました」
「笑えたんですね」
「今は」
結衣は前を向いた。
「母は、選んだことを後悔する日があっても、選んだ人生が間違いになるわけではないと言いました」
「私にも、その話を聞かせたかったんですか」
藤堂が尋ねた。
「はい」
「どうして?」
「亮介さんは、婚約していた方を信じたことを、間違いだったと思っているから」
仕事以外で名前を呼ぶことにも、少しずつ慣れてきた。
「信じた相手に裏切られた。だから、信じたことそのものを後悔している」
「はい」
「でも、そのときの亮介さんは、四年間一緒にいた人と結婚したいと思った。相手を信じた。私は、それが間違いだったとは思いません」
「結果として、結婚しませんでした」
「結果が違ったからといって、そのとき大切にした気持ちまで嘘にはならないでしょう?」
藤堂は歩きながら、海を見た。
「お母様は、仕事を断ったことを惜しいと思っている」
「はい」
「それでも、ご結婚されたことは後悔していない」
「二つの気持ちは、同時にあっていいんだと思います」
「私も、信じたことを後悔しながら、信じた自分を否定しなくていい?」
「はい」
「簡単には、そう思えません」
「すぐに変わらなくて大丈夫です」
結衣は言った。
「私も、五年前の自分を認めるまで時間がかかりました」
藤堂は静かに頷いた。
二人はしばらく無言で歩いた。
遊歩道の先に、海へ張り出した展望デッキが見える。
人は少なく、端に置かれたベンチが一つ空いていた。
「座りませんか」
結衣が言う。
二人でベンチへ座った。
正面には冬の海が広がっている。遠くを走る船が、小さく見えた。
藤堂は両手を組み、膝の上へ置いた。
「それで」
少し迷った後、口を開く。
「私に話したいことは、それだけですか」
「いいえ」
藤堂の身体が、わずかに固くなった。
「一人で考えている間、二人のことを何度も比べました」
「はい」
「健太となら、昔のことをたくさん知っています。家族のことも、仕事に慣れなかった頃のことも。安心できるし、言葉にしなくても分かることがあります」
藤堂は前を向いたまま聞いている。
「亮介さんとは、出会ってからまだ数か月です。知らないことが多い。言わなければ伝わらないことも多いです」
「不利ですね」
以前と同じ言葉だった。
結衣は少しだけ笑った。
「比べるなら、そうかもしれません」
「では」
「でも、比べるのをやめました」
藤堂が結衣を見る。
「どちらが優れているかでは、選べないからです」
「どうやって選んだんですか」
「母に聞かれました。嬉しいとき、困ったとき、自分でも答えが分からないとき、最初に声を聞きたい人は誰かと」
藤堂の表情が変わった。
「日曜日の夜、私は亮介さんに電話しました」
「はい」
「一週間、声を聞いていなかったからだけではありません」
結衣は自分の手元を見た。
「母の話を、最初に聞いてほしいと思いました。健太なら、私の家族を知っています。説明しなくても分かることが多い。でも私は、何も知らない亮介さんに、一つずつ話したいと思った」
「どうしてですか」
「知ってほしいからです」
結衣は顔を上げ、藤堂を見た。
「今の私が何を考え、どんなことで迷ったのか。これから起きることも、一つずつ話したいと思いました」
藤堂の目が、わずかに揺れている。
「それが、答えですか」
「はい」
結衣ははっきり頷いた。
「私は、亮介さんと一緒にいたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥にあった重いものが、少しだけほどけた。
藤堂は何も言わなかった。
嬉しくないのだろうか。
そう思うほど、長い沈黙だった。
「亮介さん?」
「すみません」
藤堂が小さく息を吐いた。
「今、安心していいのか分かりません」
「どうして?」
「明日、城島さんと会うんですよね」
「はい」
「そこで話して、気持ちが変わるかもしれない」
「そう思いますか?」
「怖いだけです」
藤堂は正直に答えた。
「結衣さんの言葉を信じたい。でも、信じた直後に、違う答えを聞くことになるかもしれないと考えてしまう」
「私は、健太と明日会う前に、亮介さんへの答えを決めました」
「なぜ先に私へ?」
「健太を断ったから、亮介さんを選ぶのではないと伝えたかったからです」
「では、明日は」
「健太に、私が選んだことを話します」
藤堂は結衣を見つめた。
「私を選んだと?」
「はい」
「そのために会うんですか」
「それだけではありません。五年前のことにも、きちんとお別れをしたいです」
藤堂の表情に、不安が戻る。
「五年前の別れでは足りなかった?」
「私たちは、好きなまま別れました。約束をしないことだけを決めて、互いの気持ちを残したまま離れた」
「はい」
「健太が戻ってきたことで、その続きがあるのかを考えました。でも私は、続きを始めないと決めました」
結衣は静かに続けた。
「だから今度は、聞かなかった言葉も、言えなかった気持ちも、全部受け取った上で終わらせたいんです」
「それが、私と始めるために必要?」
「亮介さんのためだけではありません。私自身のために必要です」
藤堂はしばらく黙っていた。
やがて、組んでいた手をゆっくりほどいた。
「分かりました」
「待ってくれますか」
「はい」
「明日、話し終わったら連絡します」
「城島さんと話した直後に、私へ連絡しなくても大丈夫です」
「どうして?」
「つらいと思うので」
「また、私のために決めていますか?」
藤堂は少し困ったような顔をした。
「そうかもしれません」
「連絡するかどうかは、私が決めます」
「分かりました」
「それから」
結衣はベンチの上で手を差し出した。
「今日は、手を握ってください」
藤堂がその手を見る。
「いいんですか」
「はい」
「明日までは、まだ」
「私の気持ちは、もう決まっています」
藤堂はゆっくり手を重ねた。
指が絡む。
以前、結衣の部屋で握ったときよりも強かった。
それでも痛くはない。
「結衣さん」
「はい」
「もう一度、聞いてもいいですか」
「何を?」
「私と一緒にいたいと思っているんですか」
「はい」
「城島さんではなく?」
結衣は少しだけ考えた。
「健太より亮介さんが優れているからではありません」
「はい」
「今の私が、これから関係を作りたいと思ったのが、亮介さんでした」
藤堂の目元が、ゆっくりやわらいだ。
「ありがとうございます」
「まだ、恋人として始めるのは明日の後にしてください」
「分かっています」
「今日の答えを、なかったことにはしません」
「信じます」
海から風が吹いた。
二人は手をつないだまま、しばらく水面を眺めた。
*
昼食は、海の見える小さなレストランで取った。
重い話をした後だったが、二人の間に沈黙はなかった。
結衣は魚料理、藤堂は煮込み料理を頼んだ。
「熱いので気をつけてください」
料理が届く前から結衣が言うと、藤堂は小さく笑った。
「まだ来ていません」
「来てからでは遅いかもしれません」
「少し冷まして食べます」
「そうしてください」
料理が運ばれてくると、藤堂は湯気が落ち着くまで待った。
「学習しましたね」
「何度も言われたので」
「言われたことは、だいたい覚えているんですよね」
「はい」
「今日私が言ったことも?」
「忘れません」
藤堂は静かに答えた。
「忘れることはないと思います」
結衣は胸の奥が温かくなるのを感じた。
それでも明日のことを思うと、痛みも残っている。
「健太に、何と伝えればいいでしょう」
結衣が尋ねると、藤堂はすぐには答えなかった。
「私に聞かない方がいいと思います」
「どうして?」
「私に都合のいい言葉を選んでしまうかもしれません」
「藤堂さんでも?」
「特に今は」
「では、自分で考えます」
「はい」
「ただ、健太を嫌いになったわけではないと伝えたいです」
藤堂の表情がわずかに固くなる。
「言わない方がいいですか?」
「私の気持ちだけなら、言わないでほしいです」
「正直ですね」
「でも、城島さんに伝えるべきだと思うなら、伝えてください」
「ありがとうございます」
「結衣さんが城島さんを今も大切に思っていることは、分かっています」
「それでも、私を信じる?」
「努力しています」
「そこは、まだ約束ではないんですね」
「信じることを義務にすると、疑ったときに言えなくなるので」
藤堂らしい答えだった。
「では、疑ったときにも話してください」
「はい」
「私も、健太を思い出したときには、隠さず話します」
「頻繁でなければ助かります」
結衣は思わず笑った。
藤堂も口元を緩める。
「少しだけ加減します」
「お願いします」
*
夕方、二人は駅の改札前で立ち止まった。
「明日は、何時ですか」
藤堂が尋ねる。
「午後二時です」
「そうですか」
「怖いですか?」
「かなり」
「私も怖いです」
「結衣さんも?」
「健太を傷つけます。五年前にも別れを選び、今度も同じ答えを伝えることになる」
「同じ答えではないと思います」
「どう違いますか」
「五年前は、状況によって別れた。今回は、結衣さんが一緒にいたい相手を選んだ」
藤堂の言葉に、胸が痛んだ。
そのとおりだった。
だからこそ、今度の方が残酷なのかもしれない。
「逃げたくなったら、電話してください」
藤堂が言った。
「亮介さんに?」
「はい。話す前でも、話した後でも」
「健太に失礼では?」
「逃げるためではなく、向き合うためなら」
結衣は頷いた。
「分かりました」
「明日まで、このまま待っています」
「はい」
二人は手をつながなかった。
ただ向かい合い、互いの顔を見た。
「おやすみなさい」
藤堂が言う。
「まだ夕方です」
「夜にメッセージを送ると、約束を破るかと思って」
「もう一人で考える一週間は終わりました」
「では、送ってもいいんですか」
「はい」
「分かりました」
「今は、また明日と言ってください」
藤堂の目元がやわらいだ。
「また明日」
「はい。また明日」
結衣は改札を通った。
振り返ると、藤堂はまだ同じ場所に立っていた。
小さく手を上げる。
結衣も返した。
*
帰宅後、結衣は食器棚を開けた。
青い皿と白い皿が並んでいる。
明日の今頃、自分はどんな気持ちでこの皿を見ているのだろう。
健太へ答えを伝えた後、過去はきれいに終わるのだろうか。
そんなはずはない。
四年間と、別れてからの五年間。
言葉にできなかった思いが、一度の会話ですべて消えるわけではない。
それでも、終わらせるのではなく、置き場所を変えることはできるかもしれない。
過去を捨てるのではない。
未来を選ぶために、過去を過去として抱き直す。
結衣は青い皿を取り出し、一人分の夕食を盛った。
食事を半分ほど終えた頃、藤堂からメッセージが届いた。
〈今日はありがとうございました〉
〈こちらこそ、ありがとうございました〉
〈明日は、無理をしないでください〉
結衣は少し考えてから返信した。
〈無理をせず、逃げずに話します〉
〈はい〉
短い返事の後に、もう一通届く。
〈待っています〉
結衣は画面を見つめた。
その言葉に、過去の影はなかった。
誰かを縛るための「待つ」ではない。
結衣が自分の言葉で戻ってくることを信じようとする、現在の約束だった。
〈明日、連絡します〉
送信する。
結衣は残りの食事をゆっくり口へ運んだ。
明日は、健太に会う。
五年前には言えなかった言葉を、今度は最後まで伝えるために。




