第二十章 言葉にした約束の先で
藤堂が東京へ戻ってから、最初の一週間は慌ただしく過ぎた。
大阪の部屋から送った荷物を片づけ、留守にしていた自宅の掃除をする。会社では九か月分の報告書をまとめ、東京で担当する次の仕事を引き継ぐ必要があった。
それでも藤堂は、帰京した翌日の夜に結衣の部屋へ来た。
手には大阪から持ち帰った紙袋と、小さな保冷バッグを提げている。
「片づけは終わったんですか?」
結衣が尋ねると、藤堂は玄関で靴を揃えながら首を振った。
「半分ほどです」
「先に片づけた方がよかったのでは?」
「結衣さんに会いたかったので」
「昨日、東京駅で会いました」
「九か月分には足りません」
藤堂は真顔で言った。
「そんなことを言うようになったんですね」
「大阪で少し変わりました」
「何が?」
「思ったことは、早めに言った方がいいと学びました」
「いい変化ですね」
「結衣さんの影響です」
紙袋の中には、大阪の菓子と調味料が入っていた。
保冷バッグには、藤堂が大阪で覚えたという料理の材料が揃っている。
「今日は私が作ります」
「何を?」
「牛肉とねぎを使った料理です。会社の方に教えてもらいました」
「作れるんですか?」
「三回練習しました」
「誰かに食べてもらった?」
「一人で」
「では、初めて人に出すんですね」
「はい」
藤堂は自分のエプロンを鞄から取り出した。
「失敗しても、少しだけ加減してください」
「味を見てから決めます」
二人でキッチンへ入る。
九か月前より、藤堂の動きは手早くなっていた。
包丁の使い方も安定し、結衣に調味料の場所を聞きながら、自分で料理を進める。
「本当に上達しましたね」
「大阪で外食ばかりしていたら、身体が重くなったので」
「それで料理を?」
「会社の方が、簡単なものから教えてくれました」
「味噌汁以外も作れるようになったんですね」
「焼き物と煮物を、少し」
「九か月の成果ですね」
「仕事の成果より、そちらを評価されている気がします」
「仕事の成果は、私が評価することではありません」
「料理は?」
「食べる人なので、評価します」
藤堂が笑った。
狭いキッチンで互いに場所を譲る。
以前は、どちらへ動けばいいのか何度も声をかけていた。今は、結衣が冷蔵庫を開けようとすると、藤堂は自然に横へ移る。
身体が、相手の動きを覚えていた。
料理が完成すると、結衣は青い皿と白い皿を出した。
藤堂が青い皿を見て、懐かしそうに目元をやわらげる。
「変わっていませんね」
「皿は、九か月では変わりません」
「割れなくてよかったです」
「私一人なら、そんなに割りません」
「私がいない間、白い皿は使いましたか」
「何度か」
「一人で?」
「はい」
「どうして?」
「青い皿だけを使い続ける必要はないと思ったからです」
二人で暮らしていなくても、二枚の皿を一人で使っていい。
藤堂が大阪の部屋で、二枚の皿を交互に使っていたように。
「今日は、どちらを使いますか」
結衣が尋ねる。
「白い方を」
「青い皿ではなく?」
「結衣さんが使っているところを見たいので」
「分かりました」
二枚の皿をテーブルに並べる。
牛肉とねぎを使った料理、温かい汁物、結衣が作った簡単なサラダ。
二人で手を合わせた。
「いただきます」
藤堂の料理を一口食べる。
少し甘めだが、味はよかった。
「どうですか」
「おいしいです」
「本当に?」
「はい。少し甘いですけど」
「大阪では、このくらいだと言われました」
「地域の違いですね」
「次は、結衣さんの好みに合わせます」
「今日の味も好きです」
「なら、このままにします」
「自分で決めるんですね」
「作った人の意見も必要なので」
結衣は笑った。
向かいに藤堂がいる。
九か月前にも、同じ場所で二人分の夕食を食べた。
けれど今の藤堂は、あの頃と同じではない。
大阪で責任ある仕事を引き受け、人と関わり、失敗し、料理まで覚えて帰ってきた。
結衣も、東京で同じ生活を繰り返していたわけではない。
仕事を続け、健太と新しい距離を作り、寂しさを言葉にすることを覚えた。
離れていた時間は、二人の間にある空白ではなかった。
それぞれが持ち寄れる、新しい時間になっていた。
*
五月、東央食品では新しい受発注システムの効果を確認する会議が開かれた。
全面移行から一年近くがたっている。
注文入力にかかる時間は、以前より三割以上減った。商品コードの間違いも少なくなり、倉庫への確認電話は半分ほどになっていた。
すべてが自動になったわけではない。
新商品や特売商品の登録には、今も人の判断が必要だった。
それでも、同じ情報を何度も入力し、誰かの個人ファイルを探す時間は大きく減った。
「今回の結果を受けて、業務改善の専任チームを作ることになった」
会議の後、部長が結衣を呼んだ。
「佐伯さんには、営業事務を続けながら、チームの責任者をしてもらいたい」
「私がですか?」
「現場の業務を知っていて、システム側とも話ができる人が必要なんだ」
「でも、責任者の経験はありません」
「最初から経験がある人はいないよ」
「ほかの部署との調整もありますよね」
「ある。簡単ではないと思う」
部長は結衣の前へ一枚の資料を置いた。
「考えてみてほしい。すぐに返事をしなくていい」
結衣は資料を受け取った。
以前なら、自分にできるだろうかという不安を先に考えた。
今も怖さはある。
それでも、その仕事をしてみたいという気持ちもあった。
「いつまでにお返事すればいいですか」
「今週中でいい」
「分かりました」
その日の夜、結衣は藤堂へ電話をかけた。
「業務改善チームの責任者をしないかと言われました」
「おめでとうございます」
「まだ受けていません」
「受けたいですか」
「やりたいと思っています。でも、今の仕事と両方できるか不安です」
「条件は確認しましたか」
「まだ詳しくは」
「では、必要な時間と人数を確認してから決めた方がいいと思います」
「やめた方がいいとは言わないんですね」
「結衣さんがやりたいと言ったので」
「忙しくなったら、会う時間が減ります」
「そのときは話しましょう」
「寂しくなりますか?」
「かなり」
藤堂は迷わず答えた。
「でも、寂しいから断ってほしいとは言いません」
大阪へ行くことを相談した夜、結衣が伝えた言葉だった。
「ありがとうございます」
「私に許可を取る必要はありません」
「許可ではなく、最初に聞いてほしいと思ったので」
電話の向こうで、藤堂が少し黙った。
「嬉しいです」
「何が?」
「最初に話したい相手でいられることが」
結衣の胸が温かくなる。
「今も、そうです」
翌日、結衣は部長へ必要な人員と業務時間を確認した。
責任者になるからといって、現在の仕事をすべて抱えたままにするわけではない。通常業務の一部を小野寺と後輩へ引き継ぎ、週に二日は改善チームの仕事へ集中できることになった。
結衣は引き受けると答えた。
仕事が増えるのではなく、役割が変わる。
十三年以上続けてきた仕事の先に、新しい道ができた。
*
健太は、全国の支社で販売計画を統一する仕事を続けていた。
以前より出張が増え、東京本社にいない日も多い。
六月のある日、結衣が会議室で資料を整理していると、健太が入ってきた。
「お疲れさま」
「お疲れさま。出張から戻ったの?」
「昨日。仙台と札幌を回ってきた」
「大変だったね」
「でも、面白かった。福岡でやったことが、ほかの支社でも使えるとは思ってなかったから」
健太は結衣の前に、小さな箱を置いた。
「札幌の土産。部署のみんなで食べて」
「ありがとう」
「責任者になったんだって?」
「まだ、始まったばかりだけど」
「結衣なら大丈夫だよ」
「簡単に言うね」
「無理をするなとは言う。でも、できないとは思わない」
「ありがとう」
健太は窓際の椅子へ座った。
二人でこうして仕事以外のことを話すのは、久しぶりだった。
「ソファ、使ってる?」
結衣が尋ねると、健太は笑った。
「使ってるよ。福岡の友達だけじゃなくて、会社の人も何度か来た」
「料理を作ったの?」
「煮物と鍋。卵焼きは失敗した」
「まだ苦手なんだ」
「形は悪いけど、味は悪くない」
「それならいいね」
「結衣は?」
「何が?」
「藤堂さん、戻ってきたんだろ」
「うん」
「うまくいってる?」
「全部順調とは言わないけど、うまくいってる」
「そうか」
健太は穏やかに頷いた。
以前なら、その表情の奥にある痛みを探していたかもしれない。
今も、完全に何も感じないわけではないだろう。
それでも健太は、自分の生活を前へ進めている。
「俺も、来月から少し変わる」
健太が言った。
「異動?」
「異動ではないけど、全国の支社を回ることになった。月の半分くらいは東京にいない」
「大変そう」
「自分で希望した」
「どうして?」
「東京へ戻ってきたときは、もう動きたくないと思ってた。でも、今はそれぞれの地域で違うやり方を見るのが面白い」
「福岡へも行く?」
「もちろん。前の仲間にも会える」
「よかったね」
「うん」
健太は立ち上がった。
「お互い、忙しくなるな」
「そうだね」
「また仕事で」
「うん。また」
健太は会議室を出ていった。
その背中を見送りながら、結衣は静かな安堵を感じた。
健太に新しい恋人ができたわけではない。
結衣との恋を完全に忘れたわけでもないだろう。
それでも、誰かを失った後に前へ進む方法は、新しい恋だけではない。
仕事、友人、暮らす部屋、自分で選んだ家具。
そうしたものを一つずつ積み重ね、健太は自分の生活を作っている。
それで十分だった。
*
夏の終わり、藤堂が結衣へ、一緒に暮らすことを考えたいと言った。
二人は結衣の部屋で夕食を食べていた。
藤堂が作った味噌汁は、もう薄くも濃くもない。
焼いた魚にも、ちょうどいい焦げ目がついている。
「一緒に暮らしませんか」
藤堂は箸を置き、仕事の提案をするように言った。
結衣は味噌汁の椀を持ったまま、彼を見た。
「今、何と?」
「一緒に暮らしたいです」
「結婚の話ですか?」
「まだ、そこまでは決めていません」
「まだ?」
「将来、考えたいとは思っています。ただ、結婚する前に生活を作れるか、二人で確かめたいです」
「ずいぶん慎重ですね」
「以前は、結婚を決めてから新居を契約しました」
藤堂は静かに言った。
「その反省だけで、同居を提案しているわけではありません。でも今度は、形を先に決めたくない」
「亮介さんの部屋で?」
「どちらでも。新しく探してもいいです」
「私の仕事が忙しくなったから、家事を手伝うためではありませんよね?」
「それもあります」
「それも?」
「一緒に夕食を食べたい。朝、同じ部屋から出かけたい。帰る場所を、二つではなく一つにしたいです」
藤堂は結衣を見た。
「結衣さんは、嫌ですか」
「嫌ではありません」
「では」
「でも、すぐには決めたくありません」
以前の藤堂なら、不安を表情の奥に隠したかもしれない。
今は、はっきり聞いた。
「どうしてですか?」
「今の部屋が好きだからです」
「はい」
「一人で暮らすために、自分で選んだ部屋です。ここを出ることは、少し寂しい」
「分かります」
「それに、業務改善の仕事が始まったばかりです。引っ越しまで重なると、余裕がなくなると思います」
「いつ頃なら?」
「来年の春」
「半年後ですね」
「それまでに、一緒に暮らす場所や家事の分担を考えたいです」
「打ち合わせが必要ですね」
「かなり」
藤堂の目元がやわらいだ。
「分かりました。来年の春を目安にしましょう」
「変わったら、また話します」
「はい」
「亮介さんも、東京で次の仕事が決まるかもしれません」
「そのときも相談します」
「勝手に断らないでください」
「覚えています」
二人はテーブルの上で手を重ねた。
同居を決めたわけではない。
結婚を約束したわけでもない。
それでも、来年の春を二人で考えることにした。
*
それから二人は、休日に少しずつ部屋を見て回った。
結衣の会社へ通いやすい場所。
藤堂の会社にも遠すぎない場所。
二人で料理ができる広さのキッチン。
一人になりたいときに、別々に過ごせる部屋。
「二人で暮らすのに、一人になる部屋が必要ですか?」
不動産会社からの帰り、藤堂が尋ねた。
「必要です」
「どうして?」
「一人でいる時間が好きだからです」
「私と暮らしても?」
「亮介さんと暮らすことと、一人の時間が欲しいことは両立します」
「そうですね」
「亮介さんは、一人になりたくないんですか?」
「本を読むときは、一人の方が集中できます」
「では、必要でしょう?」
「分かりました。二部屋あるところを探します」
「寝室を分けるという意味ではありませんよ」
「分かっています」
藤堂の耳が少し赤くなる。
結衣は笑い、彼の手を握った。
条件を一つずつ話す。
どちらかが用意した答えに、もう一人が合わせるのではない。
違うと思えば言い、必要なら探し直す。
まだ住む部屋は決まっていない。
それでも、探している時間そのものが、二人の生活の始まりのように感じられた。
*
十月のある金曜日、結衣と藤堂は仕事帰りに駅前のスーパーマーケットへ寄った。
藤堂と初めて会ってから、ほぼ一年がたっていた。
入口近くのかごを、藤堂が持つ。
「今日は何を作りますか」
「鶏肉ときのこのクリーム煮はどうですか」
「最初の夕食ですね」
「私が一人で作っていた頃の」
「青い皿を買う前ですか?」
「そうです」
鶏肉売り場で、結衣は二枚入りのパックを手に取った。
以前は、一枚入りと二枚入りを比べ、残ることを考えて一枚入りを選んだ。
今日は二枚入りを、迷わずかごへ入れる。
「ほかには?」
藤堂が尋ねる。
「しめじと、サラダ用の野菜」
「パンも必要です」
「覚えているんですね」
「結衣さんに勧められましたから」
二人で売り場を回る。
食器売り場の前を通ったところで、結衣は足を止めた。
以前並んでいた青いスープ皿は、もうなかった。
代わりに、同じ形で色の違う皿が何種類か置かれている。
深い緑。
淡い灰色。
白。
薄い茶色。
「見ますか?」
藤堂が尋ねる。
「はい」
二人で棚の前へ立った。
結衣は深い緑の皿を一枚、藤堂は淡い灰色の皿を一枚手に取った。
「同じ色にしませんか?」
藤堂が言う。
「どうして?」
「二人分なら、揃っていた方がいいかと」
「違う色でも、形は同じです」
「結衣さんは、どちらが好きですか」
「緑です。亮介さんは?」
「灰色」
「なら、一枚ずつにしましょう」
「二人暮らしの食器としては、揃っていないように見えませんか」
「同じでなければ、一緒に使えないわけではないでしょう?」
藤堂は二枚の皿を見比べた。
「確かに」
「青い皿も、白い皿もあります。全部違っていいと思います」
「では、一枚ずつ」
二人はそれぞれ選んだ皿を、同じかごへ入れた。
会計を済ませ、藤堂が買い物袋を持つ。
外へ出ると、秋の夜風が頬を撫でた。
「結衣さん」
「はい」
「来年も、こうして一緒に買い物をしたいです」
藤堂の言葉に、結衣は足を止めた。
「来年だけですか?」
「その先も」
「先のことを考えるようになりましたね」
「結衣さんとなら、考えたいです」
「私もです」
結衣は答えた。
「でも、来年何が変わっているかは分かりません」
「はい」
「仕事が変わるかもしれない。住む場所も、気持ちも」
「それでも、一緒にいたいです」
「私も」
二人は見つめ合った。
「変わったときには」
藤堂が言う。
「ちゃんと言葉にしましょう」
「はい」
「何も言わずに、相手が分かると思わない」
「はい」
「勝手に離れない」
「はい」
「大丈夫ではないときに、大丈夫と言わない」
「それは、努力します」
「私も」
結衣は笑った。
「約束ですね」
「はい」
永遠に変わらないという約束ではなかった。
何が起きても別れないという誓いでもない。
変わったときに、変わったと伝える。
迷ったときに、相手の言葉を最後まで聞く。
二人は、その約束を持って歩くことにした。
藤堂が買い物袋を持っていない方の手を差し出す。
結衣はその手を握った。
二人で自宅へ向かう。
部屋に着くと、藤堂が鍵を開ける結衣の後ろで言った。
「ただいま」
まだ一緒に暮らしてはいない。
それでも最近、藤堂は結衣の部屋へ来ると、その言葉を口にするようになっていた。
結衣は扉を開け、振り返る。
「おかえりなさい」
二人でキッチンに立ち、夕食を作る。
藤堂が鶏肉を焼き、結衣がきのこを切る。鍋へ牛乳を加え、弱火で煮込む。
買ったばかりの二枚の皿を洗い、テーブルに並べた。
深い緑と、淡い灰色。
同じ形で、違う色。
料理を盛ると、白いクリームがそれぞれの色に映えた。
青い皿と白い皿は、食器棚に残っている。
一人で生活を作ってきた時間を、捨てる必要はなかった。
その時間の隣に、二人で選んだものを加えていけばいい。
「いただきます」
二人の声が重なる。
一人分で満ちていた食卓に、二人分の湯気が立ち上る。
結衣は向かいに座る藤堂を見た。
「おいしいですか?」
藤堂が尋ねる。
「おいしいです」
「濃さは?」
「ちょうどいいです」
「水は?」
「必要ありません」
二人は笑った。
変わらないと誓わなくても、未来を選ぶことはできる。
過去の自分を否定しなくても、新しい道を歩き始めることはできる。
言葉にならなかった約束の先で、結衣は今度こそ、自分の望む未来を言葉にしていた。




