第三十ニ話 ソノEnd『藤色のお守り〜特別な絆、二人だけの創世記〜』
窓の外では、茜色から静かな群青へと移り変わる夕空が広がっていた。
放課後――誰もいなくなったはずの生徒会室から、規則的なタイピング音が静かに響いている。
忘れ物を取りに戻ったソノがそっと扉を開けると、そこには一人、真剣な眼差しでパソコン画面に向き合う玲の姿があった。
「神、まだ残っていたんですか?」
「あ、ソノちゃん。お疲れさま。」
「ついこの前まで昏睡状態だったんですよ? あまり無理はしないでください……。」
「うん、ありがとう。でも、休んでいた分の仕事もあるし、引き継ぎの準備もしなくちゃいけなくて……。」
そう言いながら、玲はふっと目元を擦った。
その動作には隠しきれない疲労が滲んでいる。
「続きは私がしておきますから、神はソファーでちょっと休んでいてください。」
「いや、でも――」
「そんな眠そうな目で作業しても効率が落ちるだけです! 何かあれば起こしますから。」
少し強めの口調でそう告げると、ソノは半ば強引に玲をソファーへ誘導した。
「しっかり仮眠をとってくださいね。」
「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ。よろしくね。」
玲は苦笑いを浮かべながらソファーに体を預けた。
横たわって間もなく、静かな寝息が聞こえ始める。
やはり、限界近くまで疲れを溜め込んでいたらしい。
「やれやれ……神はたまに無茶をしすぎるから、こうやって誰かが強引に休ませてあげないとダメですね。」
ソノは小さく息を吐きながら、ふと既視感を覚えた。
(そういえば……『恋エグ2』の玲とも、同じような会話をしたっけ。)
それは、前世の記憶。
今、目の前にいる玲とは違う、ゲームの中に存在した『もう一人の如月玲』――ソノが人生を懸けて愛した人。
誰にでも公平で、厳しく、周囲からは『冷徹』と呼ばれていた。
けれど本当は誰よりも純粋で、誰よりも孤独を抱えていた人。
完璧な生徒会長という仮面の裏側で、誰かに本当の自分を見つけてもらうことを望んでいた。
「もっとも……今の玲は、ほとんど別人だけど。」
そっと寝顔を見つめ、ソノは口元を緩めた。
春、この生徒会室で出会った時の衝撃は忘れられない。
冷たい視線ではなく、満面の笑顔で新入生たちの世話を焼いていたのだから。
(あの時は……『私の玲を返して!』って思ったけど。)
でも、一緒に過ごす時間が増えるほど、ソノは気付いていった。
この玲もまた、かけがえのない存在なのだと。
ゲームの玲への恋とは違う。
けれど、この温かな笑顔を見ると胸の奥が優しく満たされる。
ソノは静かに眠る玲へ視線を向けた。
閉じられた瞳、整った横顔、黒髪がソファーに広がる姿は――一瞬だけ、昔の玲と重なった。
(そうだ……こうしてソファーで眠っている玲に遭遇するイベントとスチルがあったはず……!)
ぐっと顔を近づけ、まじまじとその顔を見つめる。
確か、原作のシナリオではこのあと――
そう思い出そうとした、まさにその瞬間。
パチリと、目の前の瞼が開いた。
「――っ!?」
至近距離で重なる視線。
ドクンと心臓が跳ね上がり、ソノは弾かれたように数歩後ずさった。
「す、すみません! 眠っているところを起こしてしまいました!」
慌てるソノを、玲はぼんやりとした瞳で見つめている。
まだ意識が覚醒しきっていないようだ。
ソノは小さく息を整えるとそっと手を伸ばし、枕元に広がる艶やかな黒髪を優しく撫でた。
「まだ眠っていて大丈夫ですよ……。」
「そうか……。」
すると玲は、安心したように目を閉じた。
「ソノ……すまない……。」
その横顔から、ソノは目を離すことができなかった。
(今の台詞……昔の玲みたいだった……。)
低く擦れたその声音が、ソノの脳内で何度も反復する。
(ああ、やっぱり……。私はまだ、『あの頃の玲』を忘れられないんだ――。)
それから一時間ほどが経過した頃。
黙々とパソコン作業を続けていたソノの後ろで、衣擦れの音が聞こえた。
「ソノちゃん。」
窓の外はすでに完全な闇に包まれている。
タイピングの手を止め、ソノは勢いよく振り返った。
「目が覚めたんですね。……お体、もう大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。だいぶ頭がすっきりしたよ。」
いつもの柔らかく親しみやすい口調。
ほっと安堵する反面、ソノの胸の奥で小さな寂しさが掠めていった。
玲はゆっくりとソファーから立ち上がると、ソノの隣へと歩み寄ってきた。
そして制服のポケットから小さな包みを取り出すと、ソノの手の上にそっと乗せる。
「これ、ずっと渡したかったんだ。」
「えっ……?」
驚きに目を見開き、ソノは手のひらに残る温もりと、そこに置かれた藤色のお守りを見つめた。
「京都で見つけたんだ。藤色の……縁結びのお守り。」
「私に、ですか……?」
「うん。修学旅行の帰りのバスでも……あの消えそうだった隔離空間の中でも、私が手の中でずっと離さなかったのは、このお守りだったんだよ。」
「っ……!?」
息が止まる。
まさか、魅力的な攻略対象たちを差し置いて、自分が選ばれるなど夢にも思っていなかった。
「ソノちゃん。……私ね、ずっと考えてたんだ。私たちがこの世界で出会った意味を。」
玲はソノの隣に腰掛け、真っ直ぐに視線を合わせた。
「ソノちゃんは、この世界でたった一人……私を理解して、支えてくれた。ソノちゃんといると楽しいし、落ち着くし……一番信頼してる。」
「……。」
「ソノちゃんがいなかったら、きっと今ここに『私たち』はいないよ。」
「……私たち?」
「そう。私と――『もう一人の玲』」
その名を聞いた瞬間、ソノの胸が激しく脈打った。
「私の中には、ソノちゃんを愛している『もう一人の玲』がいる。二重人格とかじゃなくて、融合したような感じで……彼の感情が直接伝わってくるんだよ。『ソノちゃんの側にいると心地良い。もっと一緒にいたい』って。……もちろん、私自身もそう思ってる。」
言葉を失い、ソノの瞳がみるみるうちに涙で潤んでいく。
(そんなことって……。)
自分の中で、ずっと諦めていたはずだった。
もう『私が愛した玲』には二度と会えないのだと。
今の『神』のことも心から尊敬しているし、大好きだ。
だからこそ自分はサポーターに徹し、玲が望むハッピーエンドを手助けできればそれで満足なのだと――そう自分に言い聞かせていたのに。
「バグっていく世界の中で、『もう一人の玲』が自分を一番愛してくれるソノちゃんを呼び寄せたんじゃないかな、って思うんだ。」
玲は優しく微笑み、ソノの手の上にある藤色のお守りを包み込むように、自身の両手を重ね合わせた。
「もちろん、生徒会のみんなのことも大切だよ。でも……その気持ちは、ソノちゃんに抱いているものとは違うんだ。」
アメジスト色の瞳が、慈しみを込めてソノを射抜く。
「私は、ソノちゃんの理想通りの『如月玲』じゃないかもしれない。でも、『もう一人の玲』が私の中に確かに存在していて、私は彼にも幸せになってほしい。だから――」
重ねた手にギュッと力が込められる。
「世界でたった一人の大切なパートナーとして……これからも一緒に、この世界を生きていきたい――。」
「――っっ!」
耐えきれず、ソノの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
その言葉は――前世で何度も画面越しに見てきた『如月玲エンド』の告白そのものだったから。
「神……いいえ、玲……! 本当に、私でいいんですか……!?」
「もちろん。こちらこそ、理想通りの玲じゃなくて申し訳ないくらいなのに。」
顔を歪ませて泣くソノを、玲は愛おしそうに抱き寄せた。
「そんなの……当たり前です! だって、今の玲は……悩んだり、笑ったり、私と同じようにこの世界で生きているんですから……!」
「ソノちゃん……。」
「私の役割は、この世界のサポーターで……引き立て役に過ぎないんだって、ずっと思っていました……。なのに――私なんかが、こんなに幸せになっていいんですか……!?」
自虐的に泣きじゃくるソノへ、玲はくすりと微笑んだ。
「もちろん。だってここは『恋エグ2』――ソノちゃんが主人公の世界なんだから。」
腕の力を強め、ソノの体を一層強く引き寄せる。
そして――
ゲーム内の如月玲を彷彿とさせる低く艶やかな声で、耳元に囁いた。
「これからは、二人で幸せになろう……ソノ。」
予想外すぎる甘い囁きに、ソノは心臓を跳ね上げさせたまま、ただただ呆然と思考を停止させるのだった。
◇
季節は巡り――。
街が色とりどりのイルミネーションとクリスマスの響きに包まれる十二月。
恋人同士になって初めて迎える、クリスマス・イブ。
約束の時計台の前で、ソノは一人佇んでいた。
未だに夢を見ているような心地だった。
あの『如月玲』が、自分の恋人になっているなんて。
ソノは赤いベレー帽の位置を微調整し、フレアスカートのシワを丁寧に伸ばす。
(いや、ゲーム内では何度も恋人ルートを見てきたけれど……これは現実! 一体どう振る舞えばいいの……!?)
緊張に押し潰されそうになっていると、人混みの向こうから聞き慣れた声が響いた。
「ソノ! お待たせ!」
振り返ると、仕立ての良いロングコートにダークグレーのマフラーを巻いた玲が、颯爽と駆け寄ってくるところだった。
すれ違う人々がその姿に思わず振り返る。
ソノは小さく手を振った。
「いいえ、私も今来たところですから。」
「嘘ばっかり。鼻の頭を真っ赤にして、こんなに手を冷たくして……。」
一時間以上前から待機していたのを見透かされ、玲は困ったように笑った。
そして、ソノの冷え切った手をキュッと握ると、そのまま自分のコートのポケットへと滑り込ませる。
「これなら温かいでしょ? 温かいものでも飲んで暖まろうか。」
そう言って、自然な手つきでカフェの方へと歩き出す。
(玲……スマートすぎる……! 原作ゲームでも完璧なエスコートをしてくれたけど、神のきめ細やかな配慮が加わって、完全なハイブリッド玲になってる……!)
恋人になってから、二人は互いを「玲」「ソノ」と呼び合うようになっていた。
普段の空気感は相棒の延長線のようだが、ふとした瞬間に玲が見せる男性としての表情に、ソノは毎回胸を躍らせてしまう。
「ソノ、今日はどこか行きたいところはある?」
甘いカフェラテで暖をとりながら、玲が尋ねた。
「そうですね……映画などはどうですか?」
「いいね! 何を見るかは映画館に着いてから決めようよ。」
映画館のチケット売り場に到着すると、ちょうど良い時間帯の作品は二つに絞られた。
一世風靡している感動系のラブロマンスと、オタク主人公のラブコメアニメ。
「ええと……どちらにしますか?」
「「こっち!!」」
互いに間髪入れず指差したのは、後者のアニメ作品だった。
顔を見合わせ、二人は同時に吹き出してしまう。
「もう……私たち、全然クリスマスの雰囲気に乗れてませんね!」
「いいじゃない。二人で笑いながら楽しく過ごせるのが一番だよ。」
顔を見合わせて笑い合い、二人は仲良く館内へと足を踏み入れた。
映画を見終わったあとは、近くのファミレスで感想会が始まった。
「あのキャラ……凌くんに似てるよね!?」
「分かります! ツンデレチョロインな所が、すごく可愛いんですよ!」
「あれね、昔うちで飼ってた猫がモデルなんだよね〜。」
「えっ!? 今、開発者しか知らない裏話を聞きました!?」
そんな会話をしながら、二人は笑い合う。
「温泉旅館のシーンも良かったなぁ。」
「……でも、恋エグにはなかったですよね?」
「うん。実はあれ、初期案には似たようなイベントがあったんだよ!」
「えっ!?」
「でも……年齢制限に引っかかりそうだったから没になった。」
「そ、そんな大人の事情が……!」
「ゲーム制作って意外と夢だけじゃないんだよ?」
玲が苦笑すると、ソノは楽しそうに笑った。
オタクのオフ会のように、二人は時間を忘れて語り合う。
恋人同士でありながら、同じ作品を愛した同志でもある。
それは、他の誰にも共有できない――二人だけの特別なクリスマスだった。
◇
春――卒業から一ヶ月が過ぎた。
玲は東京での大学生活と新生活をスタートさせ、ソノは新生徒会の副会長として慌ただしい日々を送っていた。
休日になると、ソノは新幹線に乗って東京の玲の元を訪れる。
ゲームの攻略本にも、設定資料集にも載っていない。
誰も知らない、「物語のその後の日常」。
夕暮れ時。
東京のマンションのベランダから、二人は茜色から紫へと移ろう街並みを静かに眺めていた。
「綺麗ですね。」
「うん。」
心地良い春風が二人の髪を揺らす。
静かな沈黙ののち、ソノはぽつりと呟いた。
「……不思議です。」
「ん?」
「昔の私は、この景色を玲と眺める日が来るなんて、一度も想像していませんでした。」
玲は穏やかな笑みを返す。
「私も。」
二人で顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。
沈みゆく夕日と、紫色に染まり始める空。
その美しいグラデーションを見つめながら、ソノはかみ締めるように言った。
「玲。……私、今すごく幸せです。」
間違いなく、幸せだ。
これ以上を望んだら罰が当たってしまうかもしれない。
――けれど。
「……それでも時々、思ってしまうんです。あの頃の玲に会えたらな、って。」
胸の奥深くに仕舞い込んでいた、小さな願望。
叶うはずがないと分かっている。
こんなことを言えば、目の前の玲を困らせてしまうだけだ。
「ごめんなさい、変なことを言いました。」
笑って誤魔化そうとした、その時だった。
「――ソノ。」
呼ばれた声に、ソノは息を呑んだ。
それは、いつもの柔らかく親しみやすい玲の声ではない。
低く、静かで、どこまでも凛とした響きを持つ声音――ソノが何百時間も画面越しに聴き続けた、あの声だった。
ゆっくりと振り返る。
夕陽の残光を背に受けた玲が、静かにこちらを見つめている。
その立ち姿も、眼差しも、唇に浮かべた微かな笑みも――間違えるはずがなかった。
「……玲?」
震える声で名を呼ぶと、玲は静かに歩み寄り、ソノの頭へ優しく手を乗せた。
「待たせたな……。」
「……っ」
「――ずっと想い続けてくれて、ありがとう。」
涙が溢れて止まらなかった。
言葉にならない感情を抱え、ソノは何度も、何度も頷く。
玲はその肩をそっと引き寄せ、優しく抱きしめた。
「これからも――ずっと側にいるから。」
耳元で静かに囁かれた言葉。
その直後、柔らかな風が二人の間を吹き抜けた。
玲の身体が、ふっと小さく揺れる。
「……あれ?」
聞こえてきたのは、いつもの玲の声だった。
「えっと……私、今なにか言った……?」
首をかしげる玲に、ソノは溢れる涙を拭いながら、愛おしそうに微笑んだ。
「ふふっ……。」
「ソノ?」
「何でもありません。」
ぎゅっと、玲の胸元へ寄り添う。
「十分です。」
「え?」
「ちゃんと……届きましたから。」
玲は少し不思議そうに目を丸くしながらも、優しく抱き返してくれた。
夕闇が静かに街を包み込んでいく。
ゲームの世界へ転生した者同士の出会いは、この結末へと辿り着くための必然だったのかもしれない。
シナリオも攻略本も存在しない未来へ向かって、二人は歩み出していく。
これは――神とその相棒が紡ぐ、世界でたった一つの物語。
ソノEnd『藤色のお守り〜特別な絆、二人だけの創世記〜』
Fin.




