第三十話 絢End『真紅のお守り〜薔薇の檻と、永遠の誓い〜』
あの奇跡の生還から数日後――。
放課後の生徒会室。
窓から差し込む夕陽が部屋を茜色に染め、静かな空気がゆっくりと流れていた。
「それでは玲会長、お疲れさまでしたっ!」
「失礼します。」
生徒会メンバーたちが次々と帰っていく。
最後に扉が閉まる音が響くと、生徒会室には玲と絢の二人だけが残された。
静寂――。
時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいる。
玲は胸の奥で高鳴る鼓動を押さえるように、小さく息を吸った。
「絢。」
穏やかに書類を整理していた絢が顔を上げる。
「はい、玲。どうかしましたか?」
玲は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「話したいことがあるんだけど……。」
その一言だけで、絢はすべてを悟ったようだった。
静かに微笑み、玲の正面へ歩み寄る。
「修学旅行のお返事……ですね。」
「……うん。」
玲はゆっくりと、制服の内ポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、小さな真紅のお守り。
京都で、絢が想いと共に託してくれた身代わりお守りだった。
夕陽を受けた真紅の布が、静かに輝く。
絢の瞳が大きく揺れた。
「……っ。」
息を呑む音だけが、静かな部屋へ溶けていく。
玲はそのお守りを胸へ抱くように握り締め、小さく微笑んだ。
「あの暗闇から帰ってくる時……最後まで握り締めていたのは、このお守りだったんだ。」
「玲……。」
「絢は、私に『何度も救われた』って言ってくれたでしょう?」
玲はゆっくり首を横へ振る。
「でも……救われたのは、私の方。」
絢は何も言わず、その言葉を受け止める。
「消えてしまいそうなくらい苦しかった時……何度も思い出した。」
玲はお守りを見つめながら、小さく呟いた。
「『愛してます』って言ってくれた、絢の声を。」
その一言だけで、心が折れそうになるたび立ち上がれた。
誰にも届かない暗闇の中で、その言葉だけが私を照らす光だった。
「だから、私は帰ってこられたんだよ。」
玲は真っ直ぐ絢を見つめた。
「ありがとう。」
けれど玲は、少しだけ表情を曇らせる。
「でも、一つだけ……心配なことがある。」
その瞳が揺れた。
「私は、元は冴えないゲーム開発者オタクで……いつ元の姿へ戻るか分からない……。」
少しずつ俯いていく。
「この姿のままだとしても……周りから『男同士でおかしい』って言われるかもしれない……。」
震える声。
「そんなことで、絢に嫌な思いをさせたくない……。」
玲の瞳には、今にも涙が零れそうだった。
その姿を見た絢は、優しく息をつく。
「玲、それは愚問です。」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には決して揺るがない強さが宿っていた。
「僕は、女性だからあなたを愛したわけではありません。」
玲が顔を上げる。
「如月玲だから愛したわけでもありません。」
絢は、そっと玲の頬へ手を添えた。
「あなたが、あなただから愛したんです。」
夕陽を映した瞳が、優しく細められる。
「僕にとってあなたは、たった一つの光なんです。」
玲の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
絢はその涙を、親指で優しく拭う。
「だから、そんな悲しい顔をしないでください。」
優しく、慈しむように――。
「悲しい涙は必要ありません。」
絢は少しだけ口元を緩めた。
「僕を思って流す嬉し涙なら、大歓迎ですけど。」
その言葉に、玲は思わず笑ってしまう。
涙で濡れたままの笑顔。
「絢……。」
次の瞬間、玲は強く抱き寄せられていた。
「……っ。」
思っていた以上に力強い腕。
けれど、少しも苦しくない。
守られている――そう思える温もりだった。
「玲。」
耳元で優しい声が響く。
「僕は、あなたが僕を選んでくれると信じていました。」
少しだけ腕に力がこもる。
「けれど……正直、怖かった。」
絢は自嘲するように小さく笑った。
玲は、そっと絢の背中へ腕を回した。
「ごめんね……待たせちゃって。」
絢は首を横へ振る。
少しだけ身体を離し、玲の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「以前お伝えした通り……僕は最期まで、あなたの隣にいます。」
玲の鼓動が大きく跳ねる。
絢は玲の右手を取り、指先をそっと絡めた。
二人の手の間に、真紅のお守りが静かに挟まれる。
「玲、愛しています。」
「絢……。」
涙で潤んだアメジスト色の瞳が真っ直ぐ彼を映す。
「私も……愛してる。」
夕焼けに照らされた二人の影が、一つに重なった。
絢は玲の頬へそっと触れ、ゆっくりと顔を近づける。
玲も静かに目を閉じた。
初めてのキスは切ないほど熱く、互いの想いを交換するような、長い口づけだった。
唇が離れても、二人は額を寄せ合ったまま微笑んでいた。
◇
――そして、季節は巡る。
街は無数のイルミネーションに彩られ、クリスマスソングが優しく流れていた。
恋人になって初めて迎えるクリスマス・イブ。
予約していたレストランで食事を終えた二人は、窓際の席で温かな紅茶を飲みながら穏やかな時間を過ごしていた。
「このお店、とても素敵ですね。」
「うん。絢と来られて良かった!」
穏やかに微笑み合う二人。
その時だった。
少し離れた席から、酒の入った若い男たちの笑い声が聞こえてくる。
「なぁ見ろよ。」
「美男美女のカップルかと思ったら……あれ、男同士じゃね?」
「えっ、マジ?」
「恋人っぽくね?」
「へぇー。どっちがどっちの役なんだろうな?」
下卑た笑い声。
玲の指先が小さく震えた。
分かっていた。
いつか、こんな日が来ることは――。
けれど実際に向けられる悪意は、想像以上に胸へ突き刺さる。
その時、絢は静かに立ち上がった。
「絢……?」
玲が止める間もなく、彼は男たちの席へ歩いていく。
その優雅な所作だけで、場の空気が静まり返った。
絢は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに口を開く。
「男だとか女だとか……時代錯誤も甚だしいですね。」
笑みは崩れない。
しかし、その瞳だけは氷のように冷たかった。
「あなた方がどう思おうと勝手です。」
一拍置く。
「ですが、僕の大切な人を傷付けるのは不愉快です。」
怒鳴りもしない、声を荒げもしない。
それでも、その圧倒的な気迫に男たちは言葉を失う。
男たちは気まずそうに視線を逸らし、
「……悪かった。」
と、小さく呟いて体を縮めた。
絢は周囲を見渡すと、静かに一礼した。
「皆さま、お騒がせいたしました。」
その洗練された立ち居振る舞いは、さながら余興のようだった。
店内は静かな感嘆に包まれる。
「素敵……。」
誰かが思わず漏らしたその一言に、多くの客が小さく頷いていた。
席へ戻った絢へ、玲は嬉しそうに笑いかける。
「絢、ありがとう!」
玲は照れたように笑った。
「……すごく、かっこよかった!」
その一言に、絢は今日一番の柔らかな笑顔を見せた。
◇
――そして、季節は春。
柔らかな春風に乗って、満開の桜がひらひらと舞い散っていた。
卒業式を終えた学園は、別れを惜しむ生徒たちの笑顔と涙に包まれている。
玲と絢は、人影の少ない桜並木をゆっくりと歩いていた。
舞い落ちる花びらが、二人の肩へ静かに降り積もる。
「卒業……しちゃったね。」
玲が少し寂しそうに笑うと、絢も穏やかに頷いた。
「ええ。でも、終わりではありません。」
「うん。」
二人の未来は、ここから始まる。
しばらく静かに歩いたあと、玲がふと口を開いた。
「ねぇ、絢。」
「はい。」
「進路……私に合わせてくれたんだよね?」
絢は少しだけ微笑んだ。
玲は如月グループの次期総帥となるため、東京の最高峰大学の経済学部へ。
そして絢もまた、同じ大学への進学を決めていた。
「私のために法学部へ行くって聞いた時、すごく嬉しかった。でも……それで本当に良かったの?」
玲の問いに、絢は迷いなく頷く。
「もちろんです。」
春風が二人の髪を優しく揺らす。
「玲は、これから如月グループという巨大な組織を背負います。」
「うん……。」
「経営だけでは守れません。」
絢は真っ直ぐ玲を見つめた。
「法律も、契約も、交渉も、政治も――。そのすべてから、あなたを守れる存在になりたい。」
玲は息を呑む。
絢は少し照れたように微笑んだ。
「僕は何としてでも、あなたの隣であなたを守る、最強の盾であり、矛でありたいんです。」
「絢……。」
胸が熱くなる。
誰よりも自分の未来を考え、そのために人生を決めてくれた人。
そんな人が隣にいてくれる。
それだけで、どんな未来も怖くないと思えた。
絢はさらりと言葉を続ける。
「同じ大学ですから、学部は違っても毎日会えます。」
「それは嬉しいな。」
「それと、大学の寮ですが……同室になるよう手配しておきますので。」
絢は少しだけ口元を緩めた。
「そんなこと、できるの?」
「はい。」
絢は当たり前のように頷いた。
「多少の手続きは必要ですが、問題ありません。」
絢はにっこりと笑った。
(公式に同棲できる機会を、逃す理由はありませんから。)
その本音だけは、心の中へそっとしまっておく。
頼れる相棒に、玲は満面の笑みを浮かべた。
「さすが、絢! 頼りになる!」
「光栄です。」
二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
◇
卒業式から数日後――。
都内の高級ホテル。
如月グループ主催の『卒業祝賀会 兼 如月玲十八歳バースデーパーティー』が盛大に開かれていた。
豪華なシャンデリアが煌めく大宴会場。
政財界の来賓が集う中、その一角には玲にとって何より大切な仲間たちの姿があった。
「如月、おめでとう!」
豪が笑いながら肩を叩く。
「絢と……結ばれたんだな。」
「うん。ありがとう。」
「もしあいつに酷いことされたら言えよ? 俺が許さねぇから。」
その言葉に、絢が優雅に微笑む。
「心配御無用です。僕が玲にそんなことをするとでも?」
「いや、お前は違う意味で怖ぇんだよ。」
豪の返しに、その場が笑いに包まれる。
律も肩をすくめた。
「玲、おめでとう。」
「ありがとう、律。」
「もし絢に愛想尽かしたら、いつでも俺のところに来ていいからね?」
「律まで……。」
絢は苦笑する。
「僕を一体、何だと思っているんですか?」
「重い恋人。」
律が即答すると、豪まで吹き出した。
「否定できねぇな!」
「皆さん……失礼ですね。」
絢はため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
そのやり取りを見ていたサクラが、嬉しそうに微笑む。
「玲会長、おめでとうございます! いつまでも幸せでいてくださいねっ!」
「ありがとう、サクラちゃん。」
凌も力強く頷く。
「会長、生徒会のことは俺たちに任せてください。」
「うん。凌くんなら、立派な生徒会長になれるよ。」
玲が笑う。
その隣ではソノも微笑んだ。
「神。凌くんのことは、私が副会長として支えます。」
「ありがとう、ソノちゃん。」
「ここからはシナリオはありません。安心して、未来へ進んでください。」
玲は心から頷いた。
仲間たちに囲まれたこの景色。
それだけで胸がいっぱいになる。
パーティーがお開きになる頃。
玲と絢は、ホテル最上階のスイートルームへ向かった。
大きな窓の向こうには、夜景が宝石のように広がっている。
二人はベッドへ並んで腰掛けた。
静かな時間。
やがて、絢が優しく微笑む。
「玲。」
「うん?」
「十八歳のお誕生日、おめでとうございます。」
「ありがとう!」
「僕は……この日をずっと待ち望んでいました。」
そう言って取り出したのは、一枚の書類。
玲は首を傾げる。
「これって……。」
『パートナーシップ宣誓届』
玲は思わず目を見開く。
「今日から法律上、大人です。大切な意思決定も、自分自身でできます。」
絢はその書類を玲へ差し出した。
「あなたへの誕生日プレゼントは、僕自身。そして――この誓約です。」
玲の胸が熱くなる。
「日本では、まだ正式に同性同士の結婚はできません。」
「ですが、いつか海外で婚姻届を提出する日までは、この誓いを僕たちの証にしたい。」
玲は書類を見つめたまま動けなかった。
「それに……提出しておけば、大学の寮の相部屋申請にも説得力が増しますし、何かと便利です。」
絢が少しだけ笑う。
「……やっぱり、それも計算だったんだ。」
玲が思わず笑う。
「もちろん。」
絢は悪びれもせず頷いた。
「玲と一緒にいられるなら、利用できるものは何でも利用します。」
その真っ直ぐすぎる言葉に、玲は頬を赤く染めて笑った。
「ふふっ。本当に……絢らしい。」
絢は優しく玲を抱き寄せる。
「玲。実は、この書類には法律上の力はほとんどありません。」
絢は玲の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「でも、僕が一生あなたを愛し続けるという覚悟だけは、本物ですから。」
絢はペンを差し出した。
「僕と、未来を誓ってくれますか?」
玲は、潤んだ瞳で小さく笑う。
「はい。」
二人は、並んで署名欄へ名前を書いた。
世界中の誰にも強制されない。
二人だけが交わす、小さな永遠の約束。
書類を閉じると、玲はふっと笑う。
「なんだか、どんどん外堀を埋められてる気がするなぁ。」
「ふふふっ。」
絢は優雅に微笑む。
玲は困ったように笑った。
「もう……。絢には敵わないや。」
その笑顔を見つめる絢の瞳は、どこまでも優しかった。
若くして、玲の腹心としての才能を開花させていく絢。
その知性が織りなす薔薇の檻は、気高く、美しい。
その檻は玲を縛るためのものではなく、誰にも傷付けられないよう、大切に守るための檻。
だから玲は、その腕の中が何よりも心地よかった。
あの日、生徒会室で始まった出会い。
修学旅行で交わした告白。
そして、真紅のお守りへ託された願い。
そのすべてが今日、この瞬間へと繋がっていた。
真紅のお守りが結んだ恋は、やがて互いの人生を誓い合う永遠の約束へと変わっていく。
たった一つの光を見つけた二人は、どんな未来が待ち受けていようとも、その手を決して離すことはない――。
絢End『真紅のお守り〜薔薇の檻と、永遠の誓い〜』
Fin.




