07 誘い
森にようやく戻った時、見知らぬものがグレイスの帰りを待っていた。
「よーやく帰ってきた!」
一見すれば人間の女にも見えるが、一目で人間ではないことはグレイスともなれば当然のように分かった。
美しい背中までの金の髪に、赤い瞳。右目の下のほくろがちょっとだけ可愛らしい。そして小さなグレイスと違い、それは成熟した人間とほとんど変わらず、とても大きくて柔らかそうなうえに、身にまとっている衣服が小さくて溢れてしまいそうだった。
「えぇっと、どなた?」
「私? 私は魔王様の下僕。ただの淫魔よ」
「わぁ、淫魔だなんて初めて出会ったわ」
「そうでしょうね。私達、人間の精気を食べているわけだし」
「……おいしいの?」
「魔女である貴方からしたらおいしくはないかもしれないわ」
基本、グレイスは食べなくても何も困らない。ただ今回、初めて森の外に出たわけだがいつになく疲れてしまったことだけは確かだった。
グレイスは小さく首を傾げながらも、両手に無骨な大きい杖をしっかりと握りしめつつ、淫魔へと問いかけた。
「それで、どうしてここにいるの?」
荒らしてはないから追い出す理由はない。それにどうもグレイスを待っていたような言い方を先ほどしていたのをグレイスは思い出す。
淫魔は勿体ぶるようにすぐに答えずに微笑んだ。
「ねぇ、欲しいものってある?」
「欲しいもの?」
「そうよ。宝石でも、何でも。人間とかも」
ぐらり、とグレイスの中の何かが大きく揺れた。思わず、杖を強く地面に突き立て、揺れていない自分の小さな体を支える。
淫魔は何を勘違いしたのか、大きく後ろに下がり、刺々とした魔力をグレイスに向けてきた。
もしかしてお腹が空いているのかもしれない。
グレイスは一つ頷いて杖を揺らす。木々の枝が揺れ、葉が擦れる。そしてゆっくりと歪な枝がグレイスがいる場所まで伸び、つやつやの赤い果実を差し出した。
「ありがと」
グレイスは枝を撫でてから、片手で果実を取る。枝は満足したように葉を擦らせ、上へと戻っていった。
「はい、どうぞ」
「え……?」
「お腹、空いていないの?」
人間の精気を食べると淫魔は言うが、別にそれだけしか食べないとは言っていない。
だからグレイスは赤い果実を迷いなく差し出した。
「……良いの?」
「もちろん!」
だって、ほら。そんなにお腹が空いてそうな顔をしているのだから。
淫夢は美しい両手を伸ばし、壊れ物を持つように優しく持ち上げ、そのまま眺めていた。
もしかして傷がないか確認をしているのだろうかとグレイスは少し心配になったが、淫夢はようやく赤い果実を口元へと運び、小さな口で齧りついた。
赤い果汁が口の端から溢れていたが、そんなことを気にせずに淫夢はさらに一口、一口と食べ進めた。手についた果汁一滴残さないようにと、赤い舌が丁寧に白い手を這う。
「おいしい?」
グレイスが一心不乱に食べきった淫魔に問うと、淫魔は食べるのを止め、白い肌を真っ赤に染めた。
「あ、えっと、ええ、とてもおいしいわ」
「良かった。手、綺麗にしないと」
いつもゼインにやっていたように小さな水の球を浮かべ、そのまま淫魔の手へと落とす。淫魔はその水すらも飲んでしまいそうな物欲しげな目をして、全て零れ落ちたのを見て小さく肩を落とした。
「さっきの問いだけど。本当に何でも、なの?」
「ええ、そうよ。何でも、欲しいものが手に入るって言ったら、どうする?」
また、ぐらり、と体が揺れた気がした。
グレイスは顔を近づけてくる淫魔を見上げる。淫魔はグレイスの帽子の大きなツバを少しだけ上に押し上げ、何故か少しだけ困ったように微笑んだ。
「けど、その為に魔王様のお手伝いをしてほしいの」
「どんなお手伝い?」
「邪魔をする人間達を排除するの。貴方だって分かるでしょう? この森にしつこく入っては荒らそうとする人間の凶悪さ。そいつらが減れば、きっとこの森はもっと穏やかなものになるし、もっと美しくなると思うの。どう?」
「森の中に入ってくる人間だけじゃ、駄目なの?」
「そうね。森の外の人間も排除してほしいの」
グレイスには少し分からなかった。
何せ人間はとても弱いのだ。今日、初めて森の外にいる大量の人間達を見たわけだが、排除なんてする必要がないくらいに弱い存在だと改めて思ってしまうほどだった。
「魔王っていうのは、人間よりも弱いの?」
「いいえ、強いわ」
「それなら私が手伝う必要はないんじゃない?」
「けど、人間っていうのは時に私達よりも強くなるの」
「そうなの?」
森の中に入ってくる人間しか知らなかったグレイスには衝撃的な事実だった。
そうか、もしかしたら虫のように集まって攻撃してくるから強いのだろうかと考えたが、それなら何故、集団で森に入ってこないのだろうかとグレイスは純粋な疑問を抱いた。
弱いのに。
あんなに、小さかったのに。
思い浮かぶのは出会ったころのゼインの姿。
あんなにころころと丸くて、柔らかくて、弱くて、かわいらしかった。もうあの頃のゼインはいなくなって、成熟しつつあるゼインは細くなって、固くて、それでもまだグレイスからみれば弱くて、かわいくて。
出会った頃よりもずっと、きらきらとしていた。
「私、人間が欲しいの。けど、排除しないといけないんでしょう?」
「その人間がどういう人間かによるけど、きっと魔王様は与えてくれるわ。だって私にもそう言ってくださったの」
「あなたも人間が欲しいの?」
「そうよ。もちろん、食料としての人間も欲しいけど、唯一の人間が欲しいの」
淫魔はほう、と熱のある吐息を零す。その表情を意味や仕草は初めて見るはずなのに、その瞳はどこか見覚えのあるように見えた。
「……っと、私のことは良いのよ。それよりも、貴方のこと」
気を取り直した淫魔は、ゆったりと微笑みを向けた。
「森の魔女様。魔王様は全てを叶えてくださるわ。だから私達と共に来てくれない?」
グレイスは強く両手で杖を握る。揺れていないはずなのに、大きく揺れている感覚が先ほどから支配している。
浮かぶのは、この森にやってきたゼインの姿。そして、今日初めてみた森の外でのゼインの姿。
その両方を前にしたグレイスの意思は大きく傾いた。傾いてしまった。外に、出たばかりに。
「ええ、良いわ」
頷いたグレイスに、淫魔はより深く微笑みを浮かべ、深く頭を下げた。




