02 森の小さな魔女
深い、深い森の中。いつの頃からなのか、そこには小さな魔女がいた。
黒い三角の帽子が目立つが、その下には所々跳ねている小麦色の大きな二つのおさげに、若草色のまん丸い瞳の愛らしい顔が隠されている。帽子と同じ真っ黒のワンピース。どこからどう見ても可愛らしい少女の姿であるが、その手には無骨な樹木の杖を持っていた。
いつの頃からか、魔女は森にいた。何をするわけではない。森の獣達と日々を過ごし、眠り、時々荒らそうとするそれらを追い払っていた。
そんな、穏やかな日々の、とある日のことだった。
「こんにちは! どうしたの?」
大樹の根本を覗き込み、魔女はそこでうずくまっていた小さな人間へ話しかけた。燃えた後に残った灰を被ってしまったかのような銀がよく目立つ頭を大きく動かし、人間はまん丸い青い瞳を魔女を見上げた。
「だ、誰……?」
「だれ? えっとね、人間は魔女って呼んでくるわ」
何故か。いつの頃からか、魔女は魔女だった。だって森に入ってくる人間達が口を揃えて魔女と呼ぶのだ。だから魔女は魔女と名乗った。
すると小さな人間は大きく肩を震わせ、青い瞳にはたっぷりと水を蓄えた。
「ごめんなさっ……! ぼく、その……!」
「どうしたの? あ、お腹空いてるの? ちょっと待っててね!」
小さく怯えている。こういう時は食べ物を与えると落ち着くのだと魔女は森の獣達から教わった。
魔女は大きな杖を両手で握りしめ、小さく振るう。近くの樹木がわさわさ、と葉をこすらせ枝を更に伸ばし、その先端に真っ赤な果実を一つ実らせた。
「ありがと!」
忘れずに実りをくれた樹木に感謝を伝えた魔女は、小さく飛び跳ねながら果実をもぎ取る。そしてすぐに人間に差し出した。
「はい、食べて!」
「え、えっと……?」
「どうしたの?」
しかしどうしてか。小さな人間は更に震えて真っ青になってしまった。
どうしてそんな反応をするのだろう。大きな人間達は魔女を見るたびに襲いかかってくるから嫌いだが、小さな人間は襲ってこない。だからこうして他の動物達と同じようにしているのに、小さな人間はぶるぶると震えるばかりだった。
魔女は大きく首を傾げる。すると小さな人間は声を震わせながら話をしてくれた。
「魔女は、人間を食べるって……」
「食べないわよ? どうして?」
「……じゃあ、魔女は何を食べてるの?」
「時々、これとか食べてるけど、食べなくても平気よ?」
「そう、なんだ」
「うん」
たぶん、人間を食べえようと思えば食べれるけども。
魔女はそんな言葉を飲み込み、小さな人間が動くのを待った。こういう時は待つのが一番良い。それに魔女はとても待つのが得意なのだ。けども案外すぐに小さな人間は手を伸ばし、魔女の手にある赤い果実を受け取ってくれた。
「……ありがとう……」
ようやく聞こえる声で小さな人間は鳴いた。
あれ、人間って鳴くんだっけ、と魔女は疑問に思いながらも小さく、うん、と返した。
真っ青だった柔らかそうなほっぺたは、ようやく色づく。震えはもうない。ちっちゃなお口で小さな人間は果実を食べる。
赤い果汁が口の端から溢れていくのが見えた。この場合は拭ってあげたほうが良いのだろうか、なんて魔女は考えていると小さな人間は食べるのを止めて、まっすぐに魔女へ青い瞳を向けてきた。
「魔女、様は……」
「うん?」
小さな人間は大きく何かを飲み込む。まだ食べている途中だったのだろうに、どうしても話をしたいことがあったのか。
魔女は小さな人間が次に話す言葉を大人しく待った。
「あの、魔女様の、お名前って」
「名前? 魔女よ?」
「……魔女は、名前ではないと……」
「そうなの?」
「はい。魔女様が、ぼく達を人間と呼ぶのと同じです」
「そうだったのね」
魔女は驚いた。どうやら魔女という呼び名は名前ではなかったらしい。けども確かに、魔女は人間を人間と呼ぶ。獣達は獣達だと呼ぶし、時折種族の名前で呼ぶ時もある。なるほど、魔女は種族ということだと理解した。
「ぼく、ゼインって言います」
「ぜいん?」
「はい。ぼくの名前です」
小さな人間の名前はゼイン。魔女は小さく、口の中で何度かゼイン、と言ってみた。
口の中が、次第に花の蜜を舐めてしまったときのように甘くなった、気がした。
「もし、お嫌じゃなかったら。お名前を呼んでも良いですか?」
「けど、ないわ」
「はい。だから、ぼくが……その……」
小さな人間、ゼインはまだまだ食べかけの赤い果実を少しだけ強く握った。そこから赤い果汁が小さな手を伝って落ちていった。
ゼインはたっぷりと時間をかけ、俯いた顔を上げた。
「ぼくが、魔女様へお名前をおくりたい、のですが……」
「くれるの? お名前」
「はい……!」
なんと、ゼインは魔女へ名前をくれるらしい。
「うふふっ。どんなお名前なのかしら」
突然やってきた人間に、いきなり魔女と呼ばれた時はどうでも良かった。というか、なんてうるさいやつだと思った。
しかしゼインの申し出は魔女にとって、うるさいなんてものではなく、むしろ獣達と一緒に飛び跳ねて、それでも飽き足らずに空を飛びたくなるようなものだった。
ゼインはそれからまた口を閉じて考え始める。きゅっと閉じた口。どこかを見つめる青い瞳。
魔女は待つのが得意だ。だが、この時ばかりはとても待ち遠しくて仕方がなかった。とは言え、魔女にとってはこの待つ時間はまさに瞬きのそれである。ゼインはすぐにぴったりと閉じた口を開いた。
「グレイス」
魔女はもう一度しっかりと聞こうと、耳を傾けた。
「グレイス、なんてどうですか。魔女様」
「グレイス……」
魔女は口の中で、名前を転がす。
グレイス。グレイス。
「ふふっ……、ふふふっ……。今日から私、グレイスなのね!」
まるで最初からその名前があったかのようだった。
森の小さな魔女、であったグレイスは立ち上がり、くるくると両手を広げて回った。
「ありがと、ゼイン!」
満面の笑顔を浮かべたグレイスに対し、何故かゼインはまるで果実のように顔を真っ赤に染めていた。
グレイスはその姿を見て、人間って面白いなと思いながらも初めて人間からもらったものをこの先もずっと、ずっと、大切にしていこうと決めた。
これが、最初の出会い。大切な思い出だった。




