7話:3年ぶりの再会⑦〜任せろ〜
「それでは、始めます。お二人とも、できるだけ力を抜いてください」
鈴華はアイリスと影山の前に立つと、二人の姿を順番に見比べた。
これから行うのは、単に幻を作り出す魔法ではない。
二人の外見を互いに重ね合わせ、見る者の認識を欺く術だ。
失敗すれば、部屋を出た瞬間に護衛たちから怪しまれる。
鈴華は小さく息を整え、静かに意識を集中させた。
淡い光を帯びた魔力が身体から広がり、まずはアイリスを包み込んでいく。
幻影魔法。
相手の身体そのものを変えるわけではない。
実際の姿へ幻影を重ね、周囲の目に映る外見だけを別人へと変える魔法だった。
アイリスの輪郭が、水面に映る像のように揺らぐ。
腰まで伸びていた金色の髪が短くなり、華やかなドレスが黒いタキシードへと塗り替えられていく。
顔立ちも、背格好も少しずつ影山のものへ近づいていき――。
数秒後。
「へえ……」
零が感心したように声を漏らした。
そこに立っていたのは、どう見ても影山だった。
零は本物の影山と影山の姿になったアイリスを交互に見比べる。
髪形も服装も、顔立ちも体格も、目に映る範囲ではまったく区別がつかない。
「すげぇな。どっから見ても影山じゃん」
「見た目だけです。実際に身体や服装が変わったわけではありませんから、油断はしないでください」
鈴華はアイリスの周囲を一度回り、幻影に綻びがないかを確かめた。
見た目はタキシード姿でも、その下にあるのはアイリスの身体とドレスのままだ。
誰かとぶつかったり、見えなくなったドレスの裾を踏んだりすれば、違和感を持たれる可能性がある。
「アイリス王女。タキシードに見えても、実際にはドレスをお召しになったままです。歩く時は、裾を踏まないように気をつけてください」
「見えなくなった分、普段より難しそうですね」
アイリスは確かめるように両手を腰元へ添えた。
目には映らないものの、指先には慣れ親しんだ生地の感触が返ってくる。
「慌てず、普段どおりに歩いていただければ大丈夫です。それから、声までは変わりません。廊下へ出たあとは、できるだけ話さないようにお願いします」
「分かりました。皆さんの後ろを、黙ってついていきます」
アイリスが真剣な表情で頷く。
その姿は影山そのものなのに、仕草や声音だけは紛れもなくアイリスだった。
仕上がりを確認した鈴華は、今度は本物の影山へ向き直った。
「では、次は影山くんです」
「……今なら、まだ引き返せると思うが?」
影山の表情が僅かに引きつる。
零は呆れたように、その肩を軽く叩いた。
「もう諦めろ。自分で引き受けたんだろ?」
「誰のせいで引き受けることになったと思っている」
恨めしそうな視線を向けられても、零は気にした様子を見せない。
今さら逃げられないことは、影山自身が一番よく分かっていた。
影山は観念したように目を閉じ、鈴華へ身体を向ける。
「白河。なるべく手早く頼む」
「善処します」
鈴華が再び意識を集中させる。
今度は、影山の全身が淡い魔力の光に包まれた。
短い髪が揺らめきながら伸び、腰まで届く金色の長髪へと変わっていく。
黒いタキシードの上には、先ほどまでアイリスが身に纏っていた華やかなドレスが形作られた。
肩幅や背丈も幻影に覆われ、その輪郭がアイリスのものへと整えられていく。
やがて光が収まると、室内には影山の姿をしたアイリスと、アイリスの姿をした影山が立っていた。
「…………」
零が左右を見比べる。
影山の姿をしたアイリス。
アイリスの姿をした影山。
見た目だけなら、二人は完全に入れ替わっていた。
「おお。こっちも完璧だな」
「これほど嬉しくない評価も珍しいぞ、同志黒神」
アイリスの姿をした影山が、何とも言えない表情を浮かべる。
優雅なドレス姿に浮かんだ不満げな顔だけは、紛れもなく影山のものだった。
「ふふっ……」
一方、影山の姿になったアイリスは、自分の両手やタキシードに見える身体を珍しそうに眺めている。
「影山さんの姿で見ると、同じ部屋なのに少し違って見えますね」
「アイリス王女、あまり大きく動かないでください。幻影と実際のお身体では、動ける範囲にも差がありますから」
鈴華がやんわりと注意すると、アイリスは少し恥ずかしそうに手を下ろした。
「すみません。つい、珍しくて」
その返事を聞き、鈴華は二人を包む魔力の流れへ意識を向ける。
どちらの幻影にも大きな乱れはない。
「アイリス王女の幻影は、私が近くにいる間は維持できます。影山くんの方は、私が離れてから十分程度です」
「十分あれば足りるな」
零は満足そうに頷いた。
影山の幻影が必要なのは、護衛たちの前で部屋の扉が閉じるまでだ。
本物のアイリスをホテルの外へ連れ出したあとも、鈴華がそばにいれば彼女の幻影は保ち続けられる。
「ただし、人とぶつかったり、私の集中が大きく乱れたりすれば、幻影に綻びが生じる可能性があります」
「分かった。さっさと出よう」
鈴華の注意を聞き、零も僅かに表情を引き締めた。
ここまで準備を整えても、確実にホテルを抜けられる保証はない。
警戒している護衛たちの目の前を通る以上、最後まで気を抜くことはできなかった。
「二人とも、廊下では喋らない方がいいな」
「そうですね。特に影山くんは、声を出した瞬間に気づかれると思います」
鈴華の指摘を受け、アイリスの姿をした影山が自分の喉元へ触れた。
「……王女の姿で、俺の声が出るわけか」
「それはそれで、ちょっと見てみたいけどな」
零が口元を上げる。
影山は琥珀色に見える瞳で、零を鋭く睨みつけた。
「では、廊下へ出た瞬間に『同志黒神』と大声で呼んでやろう」
「悪かった。絶対に黙っててください」
零が即座に前言を撤回する。
そのやり取りを見て、アイリスが影山の姿のまま小さく笑った。
準備は整った。
「じゃあ、レオン伯爵を呼ぶか」
零が扉へ向かおうとしたところで、鈴華が控えめに呼び止める。
「黒神くん。本当に、レオン伯爵には何も説明しないのですか?」
「ああ、大丈夫だって」
零は当然のように答えた。
鈴華の碧色の瞳に不安そうな色が浮かぶ。
零は扉の向こうへいるレオンを思い浮かべ、気楽に口元を緩めた。
「それに、あの人なら、俺たちがやろうとしてる事を顔を見りゃ分かるよ」
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ほどなくして――。
呼び出しに応じたレオンが、一人で部屋へ入ってきた。
「お呼びでしょうか?」
「ああ」
零はソファから立ち上がると、何でもないことのように告げた。
「俺たち、そろそろ帰るよ」
「…………」
レオンはすぐには答えず、室内へ視線を巡らせた。
零、鈴華、影山、そしてアイリス。
一見すれば、先ほどまでと何も変わっていない。
しかし、レオンの視線が、影山の姿をしたアイリスの前で僅かに止まった。
見慣れないはずの灰色の瞳がレオンを捉えた瞬間、その表情がほんの少しだけ和らぐ。
長年そばで仕えてきたレオンへ、アイリスが無意識に見せる眼差しだった。
対して、アイリスの姿で部屋に残っている者は、王女らしく見せようとするあまり、背筋を伸ばしすぎている。
琥珀色の瞳に浮かぶ警戒も、レオンが知るアイリスのものではなかった。
姿形は完璧でも、その中にいる者までは隠せない。
レオンの視線が二人の間を一度だけ往復し、最後に零へ向けられた。
「…………」
零は何も説明しない。
ただ、普段と変わらない黄金色の瞳で、レオンの視線を受け止める。
レオンも、何一つ尋ねなかった。
「……承知いたしました」
それだけ告げると、レオンは扉の横へ移動した。
扉を開きながら半歩前へ出て、廊下で待機している護衛たちから室内が見えにくくなる位置へ立つ。
「お三方がお帰りです。道を空けてください」
レオンの指示に従い、護衛たちが廊下の左右へ分かれる。
まず鈴華が部屋を出た。
そのすぐあとを、影山の姿をしたアイリスが続く。
見た目は堂々としたタキシード姿の少年だが、見えないドレスの裾を踏まないよう、その足取りは普段より慎重だった。
最後に零が、レオンの横を通り過ぎようとする。
その瞬間――。
「黒神様」
周囲には聞こえないほどの小さな声が、零を呼び止めた。
零の足が僅かに緩む。
「アイリス様のこと……よろしくお願いいたします」
計画について尋ねる言葉はなかった。
引き止めることも、外出を咎めることもしない。
ただ、その一言にだけ、アイリスを案じる思いと、零への信頼が込められていた。
「…………」
零は振り返らなかった。
返事もせず、そのまま歩きながら片手を上げる。
ひらひらと振られた手が、言葉の代わりだった。
――任せろ。
レオンには、それだけで十分だった。
その表情が、ほんの僅かに和らぐ。
やがて、三人の姿が廊下の先へ消えていった。
室内に残っているのは、アイリスの姿をした影山だけだった。
レオンはそちらを振り返る。
「…………」
影山の顔に、気まずそうな色が浮かぶ。
だが、レオンは正体を問いたださなかった。
そのまま廊下へ出ると、背後の扉を静かに閉じる。
「アイリス様は、先ほどの一件でお疲れです。これからお休みになります」
レオンは、集まっている護衛とメイドへ落ち着いた声で告げた。
「私の許可があるまで、誰もこの部屋へ入れないように」
「承知しました」
護衛たちが一斉に頭を下げる。
レオンは閉じた扉の前へ立ち、零たちが去った廊下へ一度だけ目を向けた。
問いただすことも、呼び止めることもしない。
ただ、三人が無事にホテルを出られるよう、何も知らない者として振る舞う。
それが、レオンの選んだ協力の形だった。




