7話:3年ぶりの再会⑥〜逃亡計画〜
「それで……どうやって外へ出るんですか?」
アイリスの笑い声がようやく落ち着いたところで、鈴華が現実的な問題を口にした。
「…………」
零の口元に残っていた笑みが止まる。
アイリスも今になって気づいたように首を傾げた。
「……まさか、そこまでは考えていなかったのですか?」
「これから考えるところだった」
零は何でもないことのように答えたが、鈴華の疑わしげな視線から顔を逸らした。
遊びに行くことは決まった。
問題は、どうやってこのホテルからアイリスを連れ出すかだ。
つい先ほど、暗殺未遂が起きたばかりである。
ホテル内の警備は事件前とは比べものにならないほど厳重になり、出入りする者には今まで以上に厳しい目が向けられているはずだった。
「普通に出ようとしたら、入り口で止められますよね?」
「まあ、止められるだろうな」
零もそこはあっさりと認めた。
今も部屋の外には、アイリスを守る護衛たちが待機している。仮に彼らの前を通れたとしても、ホテルの出入り口には別の警備員がいるだろう。
正面から堂々と――。
『アイリス姉を連れて遊びに行ってくる』
などと言ったところで、許可されるはずがなかった。
「では……護衛の方たちの注意を、一時的に別の場所へ向けるのはどうでしょう?」
鈴華は口元へ指を添えながら、慎重に言葉を選ぶ。
「別の場所で何か異変が起きたと思わせ、その間にアイリス王女を外へ連れ出すんです」
「陽動か。悪くないな」
零は顎へ手を添え、頭の中で手順を組み立てた。
護衛の人数を一時的に減らせれば、その隙にアイリスを連れ出せる可能性はある。
だが――。
「いや、今回はやめた方がいい」
影山が静かに異を唱えた。
「今の護衛は、少しくらいの騒ぎで王女のそばを離れたりしない。人員を動かすより先に、ホテル全体を封鎖するだろうな」
影山は閉ざされた扉へ視線を向ける。
扉一枚を隔てた向こうには、今も複数の護衛が待機している。
姿は見えなくとも、廊下を満たす張り詰めた気配が室内にまで伝わってくるようだった。
「自分たちで出口を塞ぐことになる。それでは、脱出どころではないぞ」
「……確かに、かえって警戒を強めるだけですね」
鈴華も素直に考えを改めた。
自分たちが遊びに行くためだけに、命懸けで王女を守っている者たちを振り回すわけにはいかない。
それで警備がさらに厳しくなれば、本末転倒だった。
「なら、別の方法を……」
鈴華が再び思案を巡らせる。
その横顔を、先ほどから零がじっと見つめていた。
「白河」
「はい?」
呼ばれた鈴華が顔を上げる。
「お前の幻影、他人にもかけられるか?」
「自分以外へ、ですか?」
突然の質問に、鈴華は目を瞬かせた。
零はアイリスへ視線を移す。
「たとえば、アイリス姉を別の誰かに見せるとか」
「あ……」
鈴華の碧色の瞳が僅かに見開かれる。
零が考えていることを察したらしい。
「相手が魔力で抵抗しなければ、可能です」
「それでしたら、私は抵抗しません」
アイリスが迷いなく答えた。
「鈴華さんにお任せします」
その眼差しには、先ほどまでの弱々しさとは異なる、王女らしい芯の強さが戻っていた。
自分を逃がすための話だからこそ、すべてを三人へ任せきりにするつもりはないのだろう。
「ありがとうございます。力を抜いて、私の魔法を受け入れていただければ大丈夫です」
鈴華が安心させるように微笑むと、アイリスも静かに頷いた。
零は二人のやり取りを見届けてから、話を先へ進める。
「離れたら、どれくらい保つ?」
「今の私なら……十分程度です」
鈴華は自分の魔法の感覚を確かめるように掌を見つめた。
「そばにいれば、その都度、魔法へ魔力を補充できます。ですが、離れてしまえば、それ以上の維持は難しいと思います」
「二人同時は?」
「可能です。ただし、私から離れた方の幻影は、同じように十分ほどで解けてしまいます」
「十分か……」
零は頭の中で、部屋からホテルの出入り口までの距離を思い浮かべる。
外へ出るだけなら、十分もあれば足りる可能性は高い。
「それなら、なんとかなりそうだな」
「なるほど」
影山も計画の形が見えたのか、得心したように目を細めた。
「アイリス王女を別人に見せかけ、何食わぬ顔で正面から出るわけか」
「そういうこと。コソコソ隠れるより、そっちの方が怪しまれねぇだろ?」
零の口元が上がる。
警備を誤魔化すために騒ぎを起こす必要はない。
パーティーを終えて帰る客を装い、そのまま堂々とホテルを出ればいい。
しかし、影山はすぐに別の問題へ気づいた。
「だが、同志黒神。一つ抜けているぞ」
「ん?」
気の抜けた返事をする零とは対照的に、影山の灰色の瞳には思案する者の鋭さが残っていた。
「アイリス王女を、誰の姿に変えるつもりだ?」
「…………」
零の口元から笑みが消えた。
「この部屋へ入ったのは、俺たち四人だけだ。見知らぬ人間が突然出てくれば、それだけで疑われる」
影山は部屋にいる面々を順に見回した。
「かといって、お前か白河の姿を借りれば、同じ人間が二人になる。つまり――」
その視線が、最後にアイリスへ戻る。
「アイリス王女と、ここにいる誰かの姿を入れ替えるしかない。その本人は王女の姿で、この部屋へ残る必要があるぞ」
「あー……」
鈴華も、ようやく計画に必要なもう一つの条件へ気づいた。
本物のアイリスを誰かに見せかけるだけでは足りない。
アイリスと、その見本になる者。
二人の姿を入れ替えなければならないのだ。
短い沈黙が落ちた。
やがて、零がゆっくりと顔を上げる。
その黄金色の瞳が、一人の人物を捉えた。
「……なぜ俺を見る?」
影山が警戒するように目を細める。
「いや。ちょうどいい奴がいるなと思って」
零はソファから立ち上がると、そのまま影山のもとへ歩いていった。
正面まで来ると、逃がすまいとするように両手で肩を掴む。
「なあ、影山くん」
「その呼び方をやめろ」
影山の表情が固まった。
普段なら絶対にしない、わざとらしい『くん』付け。
しかも、零の顔には妙に人当たりのいい笑みが浮かんでいる。
それがかえって怪しかった。
「君にしかできない、大事なお願いがあるんだけど」
「まず、その胡散臭い笑顔をやめろ。話はそれからだ」
「胡散臭くねぇって」
零は笑顔を崩さないまま、影山の肩へ腕を回した。
影山は身を引こうとしたが、零の腕は離れない。
ふとアイリスへ視線を向け、それから自分を捕まえている零を見る。
「……まさか」
嫌な予感に行き着いた影山を、零はそのまま窓際へ連れていく。
鈴華とアイリスから少し距離を取ったところで、二人に聞こえないよう声を落とした。
「白河の幻影で、アイリス姉になってくれ」
「断る」
即答だった。
「早いって。少しくらい考えろよ」
「考える必要がどこにある?」
影山は零の腕を振り払おうとしたが、肩を抱く力は緩まない。
零はそのまま、計画を手短に説明する。
「アイリス姉をお前の姿にして、俺と白河で外へ連れ出す。代わりに、お前がアイリス姉の姿で、この部屋に残る」
「俺に王女役をやれと?」
「護衛から見れば、俺たち三人が部屋を出て、アイリス姉はここに残ったように見える」
零は当然のように続けた。
「最初の十分だけ誤魔化せればいい。ホテルを離れるには、それで十分だ」
「幻が解けたあとはどうする?」
影山は半ば呆れながらも、すでに計画の穴を探し始めていた。
「扉が閉まるまで保てばいい。あとは部屋に籠もって、誰が来ても開けるな」
「実に雑な計画だな」
「シンプルって言えよ」
零は少しも悪びれていなかった。
影山は閉ざされた扉へ目を向ける。
「レオン伯爵には、どう説明する?」
「しない」
「……本気か?」
「説明したら止められるだろ」
あまりにも当然のことのように、零は言い切った。
この計画は、部屋にいる四人だけで実行する。
廊下で待つレオンにも、事前に事情を話すつもりはない。
許可を求めれば、外出そのものを止められる可能性が高いからだ。
何も知らせないまま、護衛たちの目の前でアイリスと影山を入れ替える。
それが零の考えだった。
「つまり俺は、扉が閉まるまで王女を演じ、その後は誰も部屋へ入れずに待てばいいと?」
「そういうこと」
零が軽く頷く。
影山は疑わしげな眼差しを向けたまま、すぐには承諾しなかった。
「白河は、アイリス王女と一緒に外へ出す必要があるのか?」
「ああ。近くにいれば、外へ出たあとも幻を維持できるからな」
「だが、ホテルを抜けるだけなら十分で足りるのだろう?」
影山の視線が、一瞬だけ鈴華へ向く。
「だったら、白河がアイリス王女に化けて残ればいいではないか」
「それはダメだ」
零は即座に否定した。
先ほどまでのふざけた調子が、その声から僅かに消える。
「あんなことがあったばかりだぞ。またいつアイリス姉が狙われるか分からない。そんな場所に、白河を身代わりとして残せるわけないだろ」
「…………」
影山は黙って零の横顔を見た。
鈴華も魔法使いであり、風紀部で実戦経験を積んでいる。
それでも、今回の相手は一国の王女を狙う暗殺者だ。先ほどの襲撃が一度きりだという保証もない。
アイリスの姿をした鈴華を一人残すという選択肢は、最初から零の中にはなかった。
「……待て」
影山の眉間に皺が寄る。
「だったら、俺ならいいのか?」
「おう」
「即答するな」
影山の目がさらに細くなった。
「白河は危ないから残せない。だが俺なら、王女に化けて残しても構わないと?」
「囮にして、丸腰で放り出すわけじゃねぇよ」
零は肩へ回していた腕を解き、閉ざされた扉へ目を向けた。
「外にはレオン伯爵と何人もの護衛がいる。少なくとも、お前がこの部屋にいる間は、暗殺者が簡単に踏み込んでこられる状況じゃない」
「それでも、何か起きる可能性はあるぞ」
「だから、お前に頼んでるんだろ」
零は影山へ向き直った。
その口調は相変わらず軽い。
けれど、黄金色の瞳はまっすぐに影山を見ていた。
「お前なら、何かあっても自分で逃げ道を作る。そういうの、得意だろ?」
「…………」
影山が僅かに目を見開いた。
あまりにも気楽な言い方だった。
だが、その言葉が無責任な丸投げではないことくらい、影山には分かっていた。
入学してから、まだ二か月も経っていない。
普段はくだらないことで言い合いになり、零から親友と認めてもらえているのかさえ怪しい。
それでも、四月の事件では影山が集めた情報が解決への糸口になった。
今回も、どうやって手に入れたのか分からない招待状を使い、自力でこのパーティーへ入り込んでいる。
影山は、正面から敵を打ち倒すような戦いを得意としているわけではない。
けれど、何かが起きた時には状況を読み、必要な情報を集め、自分なりの方法で窮地を切り抜ける。
零は、それを知っていた。
だからこそ、危険がまったくないとは言い切れない役目を、影山へ任せようとしている。
「ふっ……」
影山の口元が、僅かに上がった。
「随分と信頼されたものだな、俺も」
「今ごろ気づいたのか?」
零が何でもないことのように返す。
影山は数秒、その顔を見つめた。
やがて観念したように零の腕を振り払い、乱れたタキシードの襟元を整える。
「良いだろう」
そして、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「同志の頼みだ。その願い、叶えてやろう!」
「お、さすが影山」
「ただし!」
喜ぶ零の鼻先へ、影山が人差し指を突きつける。
「この借りは高くつくぞ?」
「えー」
「なぜそこで嫌そうな顔をする!」
二人の声が静かだった室内へ響いた。
少し離れたところでは、鈴華が訝しげな顔で二人を眺めている。
「……黒神くん、妙に楽しそうですね」
「はい。少しだけ、不安になってきました」
アイリスも困ったように微笑んだ。
零のあの笑顔を見る限り、何かとんでもないことを企んでいる。
そんな予感だけは、鈴華にもしていた。
そして数分後――。
その予感は、見事に的中することになる。




