7話:3年ぶりの再会⑤〜王女の葛藤〜
アイリスはゆっくりとソファへ腰を下ろした。
膝の上で重ねた両手が、僅かに強く握られる。
「いつかお兄様がお母様の跡を継ぎ、アルディアを導いていく。私は、そんなお二人を支える。それが私の役目だと思っていました」
敬愛する母がいて、その後を継ぐ兄がいて、自分は二人を支える王族の一人として、国のために尽くしていく。
それが、アイリスの思い描いていた未来だった。
「けれど……もう、お母様も……お兄様もいません」
アイリスの声が僅かに震える。
三人は何も言えなかった。
世界中で報道されている事件。
けれど、こうして本人の口から語られると、その意味はまるで違って聞こえる。
母と兄を同時に失った。
それだけでも、まだ十八歳の少女にはあまりにも大きな出来事だった。
だが、アイリスにのしかかったものは、悲しみだけではない。
「今、王宮では……私が王位を継ぐべきだという声が上がっています」
アイリスは膝の上へ視線を落とす。
「王位継承権を持つ王族として、それが当然なのだと。お母様とお兄様がいなくなった今、私がアルディアを導かなければならないと……」
重ねた両手が、僅かに震えた。
「でも……怖いのです」
初めて、アイリスの口から王女としてではない本音が零れた。
「私に、お母様のような女王が務まるのか。お兄様が担うはずだったものを、私が背負えるのか……私の判断一つで、多くの国民の未来が変わってしまいます」
つい先日まで、自分が国の頂点に立つ未来など考えたこともなかった。
それなのに、突然、一国の未来がその両肩へのしかかった。
「それだけではありません。今、アルディアでは天輝花が違法に取引され、軍事目的で使われ始めています」
アイリスの琥珀色の瞳に、悲しみとは異なる翳りが差す。
「本来は、魔力欠乏症に苦しむ方々を救うための花です。けれど、高濃度に精製すれば、一時的に魔力を大きく増強できる。その力を求める人々によって、本来とはまったく違う使われ方をするようになりました」
強い中毒性に、魔力暴走。
使い続ければ身体機能が低下し、最悪の場合は命を落とす。
それでも、天輝花がもたらす力と利益を求める者は後を絶たなかった。
「人を救うはずの花を巡って、人々が争っている。天輝花が違法に流通するようになってから、アルディアは少しずつ狂い始めました」
零の黄金色の瞳が僅かに細められる。
三年前にも天輝花を求めた者たちによって、アイリスは誘拐された。
あの頃から何も変わっていない。
いや、アイリスの言葉とエレノアから事前に聞いた限り事態はさらに悪化しているのだろう。
それでも零は口を挟まなかった。
鈴華も悲しげに表情を曇らせながら、アイリスの言葉へ耳を傾けている。
「私が王位を継ぐということは、狂い始めた国を正し、天輝花を本来の人を救うための花へ戻す責任まで背負うということです」
アイリスは、自らへ言い聞かせるように続けた。
「けれど、今の私にそれができるのか……分からないのです」
王位を継ぐ。
その言葉が、あまりにも重い。
「王宮の外では、今もデモが続いています」
アイリスは寂しそうに微笑む。
「『小娘に国を任せるな』と……」
それでも、逃げるわけにはいかない。
「だから、しっかりしなければと思っています。お母様とお兄様がいなくなったからこそ、私が王族として国を支えなければならないと」
言葉とは裏腹に、その表情には深い疲れが滲んでいた。
「今回の日本訪問も、そうです。本当は……来るのが怖かった」
母が出席する予定だったパーティー。
それを娘である自分が引き継いだ。
母が果たすはずだった役目だから、王族として果たさなければならない。
そう自分へ言い聞かせて、日本まで来た。
「それなのに……今度は私まで殺されそうになってしまって」
アイリスはそこで言葉を止めた。
部屋に沈黙が落ちる。
鈴華も影山も、何も言わない。
簡単な励ましでどうにかなる話ではなかった。
母を失った悲しみ。
兄を失った悲しみ。
突然突きつけられた王位。
国民から向けられる不安と反発。
天輝花によって、少しずつ狂い始めた祖国。
そして、自分自身まで命を狙われた。
十八歳の少女が背負うには、あまりにも多すぎる。
そんな中――。
「……そっか」
零だけが短く答えた。
アイリスが顔を上げる。
零はソファへ背中を預けたまま、少しだけ考えるように天井を見上げた。
そして、何でもないことのように言った。
「じゃあ、今夜くらい全部置いて、遊びに行くか」
一瞬、部屋の時間が止まったかのような沈黙が落ちる。
三人の視線が、一斉に零へ集まった。
「……はい?」
最初に反応したのは鈴華だった。
零は何がおかしいのか分からない様子で、彼女を見る。
「だから、遊びに行こうぜ」
「いえ、聞こえてはいましたけど……」
鈴華は困ったように眉を寄せた。
つい今しがた、一国の王位を巡る重い話をしていたはずだ。
それなのに、いきなり遊びに行こうとはどういうことなのか。
「あんなことがあったばかりですよ? アイリス王女の安全はどうするのですか?」
「それなら問題ないだろ」
零は迷うことなく答え、自分の胸元を親指で示した。
「俺がいる」
「…………」
鈴華の言葉が止まった。
軽い調子で告げられた言葉。
しかし、それが根拠のない自信ではないことを、鈴華は誰よりもよく知っている。
つい先ほどの暗殺未遂でも、何人もの護衛に先んじて異変を察知し、アイリスを救ったのは零だった。
四月の事件でも、その力を目の当たりにしている。
国際魔法機関――アストラル・オーダー第1執行部《星刻》の特別執行官。
そして、《漆黒の流星》の異名を持つ魔法使い。
アイリスの身を守るという一点において、零ほどの適任はいなかった。
「それは……そうですけど」
鈴華は反論しようとしたものの、その先が続かなかった。
零はそんな彼女からアイリスへ顔を戻す。
「別に、抱えてるもんから逃げろって言ってるんじゃねぇよ」
母と兄を失った悲しみも、王位を継ぐことへの恐怖も、簡単に消せるものではない。
王国へ帰れば、アイリスは嫌でもそれらと向き合わなければならない。
「全部忘れろとも言わねぇ。国へ帰ったら、嫌でも考えることになるんだろ?」
零は気の抜けた調子のまま、僅かに目を細めた。
「だったら今夜くらい、王女様を休ませても罰は当たらねぇよ」
「零くん……」
アイリスの強張っていた指から、僅かに力が抜ける。
「それに、約束しただろ?」
「約束……?」
アイリスが首を傾げる。
零は気楽に口元を緩めた。
「今度会ったら、日本を案内するって」
「……!」
アイリスの琥珀色の瞳が大きくなる。
三年前、ロンドンで過ごした時間。
まだ母も兄もいて、自分が王になる未来など考えたことすらなかった頃。
あの日に交わした、小さな約束。
「……そうでしたね」
アイリスの表情が、ゆっくりと柔らかくなっていく。
王女として作った笑顔ではない。
三年前と同じ、一人の少女としての笑顔だった。
「それでは……お願いしてもいいですか?」
「おう。決まりだな」
零も満足そうに頷いた。
鈴華は、本当に嬉しそうに笑うアイリスを見つめた。
突然の提案には驚かされた。
けれど、その笑顔を見れば、外出そのものを止める気にはなれない。
零が護衛につくのなら、アイリスの身を守るうえでも心強かった。
それでも、つい先ほどの襲撃を目の当たりにした自分だけが残るという選択肢は、鈴華の中にはない。
何より、思いつきだけで王女を連れ出そうとしている零を一人にすれば、今度は何をしでかすか分からなかった。
「では、私もご一緒します」
「ん?」
零が鈴華へ顔を向ける。
「白河は来なくていいぞ。危ねぇし」
零にしてみれば、鈴華まで危険に巻き込む必要はなかった。
アイリスを守りながら街を回る程度なら、自分一人で十分だと本気で考えている。
「護衛なら、俺一人で足りるからな」
「…………」
鈴華の眉が僅かに動いた。
零の言葉が、自分を気遣ったものだとは分かっている。
それでも、これは護衛の戦力だけの問題ではなかった。
鈴華は零の目をまっすぐに見つめ、にっこりと笑った。
「い、い、で、す、よ、ね?」
「…………」
一音ずつ区切るような声音。
確かに笑顔ではあるものの、その碧色の瞳だけはまったく笑っていなかった。
――黒神くんを一人にしたら、何をしでかすか分かりません。
口に出さずとも、その目が雄弁に物語っている。
零はしばらく鈴華と見つめ合ったあと、助けを求めるように影山へ顔を向けた。
「影山。お前からも何か言ってやってくれ」
「俺に振るのか?」
突然助けを求められ、影山が僅かに目を瞬かせた。
どうやら零は、男同士なら自分の考えを理解してくれると思っているらしい。
影山は零と鈴華を見比べると、諦めろと言わんばかりに片手を上げた。
「諦めろ、同志黒神。今回ばかりは白河が正しい」
「お前、どっちの味方だよ?」
「少なくとも、今は白河だな」
影山は面白そうに目を細めた。
「お前一人にしておいたら、何をしでかすか分からん」
「なんで白河と同じ評価なんだよ……」
頼みの綱だった影山にまで見放され、零は不満そうに呟く。
その様子を見て、アイリスが口元へ手を添えた。
「私も、鈴華さんに来ていただけたら嬉しいです」
「アイリス姉まで白河の味方なのかよ?」
零の抗議を受けても、アイリスは困ったように微笑むだけだった。
「はい。鈴華さんも一緒の方が、きっと楽しいと思いますから」
「……三対一はずるくない?」
零は納得のいかない顔で三人を見回した。
しかし、その声にはすでに諦めが滲んでいる。
そんな零の姿を見て――。
「ふふっ……あははっ」
アイリスが、今度こそ声を上げて笑った。
三人が揃ってアイリスへ顔を向ける。
笑っている本人も驚いたように、口元へ手を添えていた。
母と兄を失ってから、王位という重圧を背負わされてから、こんなふうに何も考えず笑ったのは、初めてだったのかもしれない。
その笑顔は、壇上で招待客たちへ向けていたものではない。
三年前、ロンドンで過ごしていた頃と同じ、一人の少女としての笑顔だった。
その笑顔を見て、零は何も言わず、満足そうにほんの少しだけ口元を上げた。




