4話:突然の事件②〜王族の務め〜
速報が世界を駆け巡ってから、数日後――。
アルディア王国。
「小娘に国を任せるな!」
「第一王女への王位継承を認めるな!」
「王家は国民に説明しろ!」
王宮の外では、大勢の人々が声を上げていた。
高く掲げられたプラカード。
途切れることのない怒号。
警備兵たちが鉄柵を挟んで対応しているものの、集まった人々が引き下がる気配はない。
女王と第一王子が相次いで亡くなり、国中を覆っていた悲しみは、先行きへの不安と混乱へ変わり始めていた。
二人は、なぜ命を落としたのか。
次に王位を継ぐのは誰なのか。
まだ若い第一王女に、国を任せられるのか。
詳しい事情が公表されないまま憶測だけが広がり、その矛先は第一王女アイリスへ向けられていた。
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王宮の一室。
窓際に立つアイリスは、厚いガラス越しに届く声を黙って聞いていた。
三年前よりも伸びた金色の髪が、細い背中へ流れている。
身に纏っているのは、母と兄を悼むための黒い喪服だった。
母を失った。
兄も失った。
その事実さえ、まだ現実として受け止めきれていない。
数日前まで当たり前のように傍にいた二人が、もうどこにもいない。
それなのに、悲しみに向き合う間もなく、国中が自分の王位継承を巡って騒ぎ始めていた。
「王女に国を任せるな!」
窓の外から再び響いた声に、胸元で重ねていたアイリスの指先が震えた。
「……もう、やめて」
唇から、掠れた声が零れる。
傍らに控えていた年長のメイドが、痛ましそうにアイリスを見つめた。
「アイリス様……」
彼女は幼い頃からアイリスの身の回りを世話してきた。
今の主が、気丈に立っているだけで精いっぱいであることも分かっている。
アイリスは窓から目を離さないまま、唇を噛んだ。
「お願いです。早く、あの方たちを止めてください」
「警備隊も、事態を収めるために動いております」
メイドは主を落ち着かせるように答えた。
「ですが、すぐに全員を立ち退かせることは難しいようです」
「でも……」
アイリスは、それ以上の言葉を飲み込んだ。
本当に力ずくで追い払ってほしいわけではない。
王家へ不安や不満を抱く国民を、兵士の力で黙らせたいわけでもなかった。
ただ、これ以上聞いていたくない。
母と兄を悼む時間さえ、自分には許されないのか。
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、レオンだった。
その後ろには、一人の男が付き従っている。
無駄のない立ち姿。
鋭い眼差しは、入室した直後から窓や出入口、室内に置かれた調度品へ向けられていた。
レオンが最も信頼を置く護衛の一人だった。
アイリスはレオンの姿を見るなり、窓辺から振り返る。
「レオン。どうにか、あのデモを収められないのですか?」
いつもの穏やかな声音ではない。
悲しみと疲労が、隠しきれずに滲んでいた。
レオンはアイリスの前まで進むと、深く頭を下げる。
「こちらも尽力しております」
顔を上げたレオンにも、普段の余裕はなかった。
「ですが、今ここで警備隊に強制排除を命じれば、王家が反対意見を力で弾圧したと受け取られかねません」
女王と第一王子の死因すら、国民へ十分に明かされていない。
不安が高まっている今、王家が武力を用いれば、騒ぎを収めるどころか、さらなる反発を招く恐れがあった。
「それでは……私は、ただ黙って耐えるしかないのですか?」
責めるというより、助けを求めるような声だった。
レオンは答えに詰まり、胸の内で拳を握る。
国のために冷静な判断を下さなければならない。
しかし、その判断によって目の前の少女を傷つけていることも、痛いほど分かっていた。
「申し訳ございません。せめて、外の声が届きにくい部屋へ移れるよう手配いたします」
「……お願いします」
アイリスが力なく答える。
レオンは姿勢を正した。
彼がこの部屋を訪れた理由は、デモへの対応を伝えるためだけではない。
「それと、アイリス様。もう一つ、お伝えしなければならないことがございます」
「……何ですか?」
アイリスは疲れを滲ませたまま、顔を上げた。
「近日、日本で開催される国際親善パーティーへ、女王陛下の代理としてご出席いただきたく存じます」
「……日本?」
アイリスの琥珀色の瞳が見開かれる。
日本という国名を聞き、三年前にロンドンで別れた二人の姿が一瞬だけ脳裏を過ぎった。
しかし、今はその思い出に浸っている場合ではない。
「それは……お母様が出席される予定だったものではありませんか?」
「そのとおりです」
「今の私には、できません」
アイリスはレオンを正面から見据えた。
「このような状況で、私が国を離れるわけにはいきません。それに、喪に服している最中に華やかな席へ出れば、国民はどう思うでしょう」
「ご懸念は承知しております」
レオンは、アイリスの言葉を否定しなかった。
「あの催しは、名前こそ国際親善パーティーですが、実際には各国の代表者が一堂に会する重要な外交の場でもあります」
各国との関係を維持し、今後もアルディアが国家として責務を果たしていくことを示す。
必要であれば、各国から協力を得るための話し合いもできる。
国が揺れている今だからこそ、その意味は以前よりも大きくなっていた。
「本来であれば、今は公務から離れ、心を休めていただきたい」
レオンの声に、忠臣としての苦悩が滲む。
「ですが、女王陛下が亡くなられたからといって、王家自ら外交上の約束を放棄するわけにも参りません」
「それでも……」
アイリスの瞳が揺れた。
レオンの声音は穏やかだったが、その意志に迷いはない。
「今、この国は王位継承を巡って大きく揺れています。だからこそ、王家が変わらず責務を果たす姿を、国内外へ示さなければなりません」
女王が欠席し、王族から代理すら出なければ、アルディアにはすでに国を担う者がいないと受け取られる恐れがある。
それは国外からの信用を失うだけでなく、王位を巡って動き始めた者たちへ付け入る隙を与えることにもなる。
「現地での警備については、日本側とも調整を進めております。滞在期間も可能な限り短くし、公務を終え次第、帰国できるよう手配いたします」
レオンはそこで言葉を切り、深く頭を下げた。
「この役目をお任せできるのは、アイリス様だけなのです」
アイリスは俯いた。
母が大切にしていた外交の場。
王家が交わした約束。
不安定になった国を、これ以上揺らがせないための責務。
頭では、レオンの言葉が正しいと分かっている。
母であれば、どれほど辛くても約束を守ろうとしただろう。
それでも、心は立ち止まったままだった。
「……今の私に、その務めを果たせとおっしゃるのですか?」
絞り出すような声だった。
レオンは苦しげに眉を寄せる。
それでも、ここで目を逸らすことはできなかった。
「はい」
しばらく、誰も口を開かなかった。
窓の向こうから届く怒号と、壁掛け時計が時を刻む音だけが、重苦しい室内へ響いている。
やがてアイリスは、胸元で握っていた手をゆっくりと解いた。
「……分かりました」
その表情に笑みはない。
悲しみを乗り越えたわけでも、王位を継ぐ覚悟を決めたわけでもなかった。
ただ、母が果たそうとしていた約束だけは、失わせたくなかった。
「出席します」
「ありがとうございます」
レオンが深く頭を下げる。
アイリスは小さく頷くと、傍らのメイドへ顔を向けた。
「少しだけ、一人にしてください」
「……かしこまりました」
メイドは心配を隠せないまま、それでも主の望みを尊重して頭を下げる。
レオンも一礼した。
「護衛は扉の外に控えさせます。何かございましたら、すぐにお呼びください」
「はい」
三人が退室し、護衛の男だけが扉のすぐ外へ残った。
扉が閉じ、室内から人の気配が消える。
それまで背筋を伸ばしていたアイリスの肩から、力が抜けた。
窓辺を離れようとした時、机の上に置かれた一枚の写真が目に留まる。
アイリスはゆっくりと歩み寄り、写真立てを両手で持ち上げた。
茜色に染まるロンドンを背に、時計台の上で三人が肩を寄せ合っている。
今よりも幼い自分。
仕方なさそうに笑う零。
そして二人の間で、ひときわ明るく笑う蕾。
三年前、アルディア王国へ帰る直前に、一人の新聞記者が届けてくれた写真だった。
蕾に手を引かれて街を駆け回ったこと。
二人から魔法を教えてもらったこと。
三人で笑いながら、この写真を撮ったこと。
あの一週間の記憶が、一枚の中へ残されている。
「零くん、蕾さん……」
アイリスは写真の中の二人を懐かしそうに見つめた。
母と兄を失った悲しみが消えることはない。
それでも、三年前の温かな記憶に触れたことで、張り詰めていた心がほんの少しだけ和らいだ。
アイリスは写真立てを胸元へ抱き寄せ、目を閉じる。
厚いガラスの向こうでは、まだ怒号が続いていた。




