4話:夕暮れの教室①
先日のプール破壊事故いや事件から数日後――。
不可抗力とはいえ、校舎裏のプールを跡形もなく吹き飛ばした罰として、黒神零は1週間の放課後掃除を命じられていた。
放課後。
誰も使われていない古い教室へ、夕陽が斜めに差し込んでいる。
窓から入り込む春風が、積もった埃をふわりと舞い上げた。
静かな教室には、箒が床を掃く音だけが規則正しく響いている。
「全力でやれって言ったの、先生の方だろ……。」
机の脚に積もった埃を払いながら、零はぼそりと呟いた。
誰へ向けた文句でもない。
それでも、1人で掃除をしていると自然と口から漏れてしまう。
コン、コン。
控えめなノックが教室へ響いた。
「黒神くん……。」
聞き慣れた声だった。
零は箒を止め、ゆっくり扉へ目を向ける。
「白河?」
そこには白河鈴華が立っていた。
夕陽を受けた長い黒髪が柔らかな光を帯び、碧色の瞳には少しだけ緊張が浮かんでいる。
胸の前で重ねた両手からも、ここへ来るまで何度も言葉を考えていたことが伝わってきた。
「珍しいな。」
零は箒を壁へ立て掛ける。
「どうした?」
鈴華は静かに一礼した。
「少し……相談したいことがあるんです。」
その声には迷いよりも決意があった。
零は教卓の横にある椅子を軽く引く。
「立ち話もなんだ。」
「座れよ。」
「ありがとうございます。」
鈴華は小さく頭を下げ、静かに腰を下ろした。
一方の零は教卓へ軽く腰を預ける。
夕陽が2人の影を床へ長く伸ばしていた。
鈴華は一度だけ深呼吸をする。
緊張を吐き出すように息を整え、ゆっくり顔を上げた。
「黒神くん。」
碧色の瞳がまっすぐ零を見つめる。
「私の魔法のことで、相談に乗ってもらえませんか。」
零は少しだけ目を丸くした。
「……俺が?」
「はい。」
迷いのない返事だった。
零は少し考える。
「教師もいるだろ。」
一拍置き、静かに続けた。
「他の友達や白河なら風紀部の人達だっている。」
黄金色の瞳が鈴華を見つめる。
「なんで俺なんだ?」
鈴華は一度だけ視線を落とした。
言葉を選ぶように小さく唇を結ぶ。
やがて決意したように顔を上げた。
「入学式の日。」
教室へ静かな声が響く。
「あの日、私たちを助けてくれた人。」
碧色の瞳は少しも揺れない。
「……黒神くんですよね。」
教室の空気が静まり返る。
窓の外から聞こえていた運動部の掛け声も、いつの間にか遠ざかっていた。
零はすぐには答えない。
夕陽に照らされた床へ視線を落とし、記憶を辿るように少し考える。
頭の中で記憶を辿る。
入学式の日、路地裏で放った黒い魔力。
そして、先日の実技試験。
魔法自体は違った。
だが、どちらも漆黒の魔力と、紫銀色に煌めく粒子が星屑のように舞っていた。
あれだけ特徴が同じなら、気付かれても不思議じゃない。
「あー……。」
小さく声を漏らした。
「……まぁ。」
「流石にバレるか。」
小さく頭を掻く。
照れ隠しのように苦笑すると、思い出したように頷く。
「そういや。」
「同じ制服で風紀部の奴が1人いたな。」
鈴華は静かに頷いた。
「あれが私です。」
その返事に、零は少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「……あれ、白河だったのか。」
思わず口元が少しだけ緩んだ。
「だから入学式の日、俺に声を掛けてきたのか。」
鈴華は驚いたように瞬きを繰り返す。
少しだけ苦笑しながら尋ねた。
「もしかして……。」
「気付いてなかったんですか?」
零は窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの風がカーテンをゆっくり揺らしている。
「悪ぃ。」
どこか照れくさそうに笑う。
「ちょうどサイレンが聞こえてきてさ。」
「あの時はいろいろ急いでた。」
少しだけ間を置く。
「風紀部がいたのは覚えてたけど顔までは見てなかった。」
鈴華は肩の力を抜き、小さく笑う。
「そうだったんですね。」
柔らかな笑顔につられるように、零も少し笑った。
穏やかな空気が二人の間へ流れる。
鈴華は再び深呼吸をした。
胸の前で重ねていた手へ、自然と力が入る。
「黒神くん。」
静かな声だった。
零は視線だけを向ける。
碧色の瞳が真っ直ぐ零を見つめた。
「今まで見てきた魔法の中で、黒神くんの魔法が、一番綺麗だったからです。」
夕陽が教室を優しく照らす。
鈴華は少し照れくさそうに笑った。
「もちろん、強かったというのもあります。」
「でも、それ以上に。」
碧色の瞳が、まっすぐ零を見つめる。
「あんなに綺麗な魔法を、私は初めて見ました。」
その言葉とともに、鈴華の脳裏へ2つの光景がよみがえる。
入学式の日。
薄暗い路地裏で、自分たちを助けてくれた漆黒の星。
夜空へ浮かぶように現れ、紫銀色の粒子をまといながら静かに輝いていた。
そして数日前。
実技試験で放たれた超新星。
黒い奔流は無数の星屑を引き連れながら一直線に駆け抜け、一瞬でプールを消し飛ばした。
圧倒的な力。
それなのに、不思議なほど美しかった。
あの光景は、今でも鮮明に焼き付いている。
教室へ静かな沈黙が流れる。
零は思わず目を瞬かせた。
そんな言葉を掛けられるとは思っていなかった。
「だから。」
鈴華は胸の前で小さく手を握る。
「黒神くんなら、私に足りないものを知っていると思ったんです。」
零は照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
「……そんなこと言われると。」
少しだけ苦笑する。
「悪い気はしねぇな。」
鈴華の表情が少し明るくなる。
その変化を見て、零は小さく笑った。
「でもな。」
教卓へ軽く腰を預け、天井を見上げる。
「教師もいるし、風紀部にも強い奴はいるだろ。」
わざと話を終わらせるように言う。
だが、鈴華は引かなかった。
ゆっくり首を横へ振る。
「それでも。」
一歩だけ前へ身を乗り出す。
「黒神くんに教えてほしいんです。」
碧色の瞳には迷いがなかった。
「……だめでしょうか。」
最後の一言だけは少し弱々しかった。
期待と不安が入り混じったような声。
零はその表情をしばらく見つめる。
真っ直ぐすぎる。
ここまで頼まれて断るのも、大人気ない気がした。
やがて小さく息を吐く。
「……分かったよ。」
「相談くらいなら乗る。」
その一言に、鈴華の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
嬉しそうな声だった。
その笑顔を見て、零は思わず苦笑する。
「ただし。」
教室をぐるりと見回す。
夕陽に照らされた机や椅子は、まだ半分以上残っていた。
「タダってわけにもいかねぇ。」
そう言って箒を一本持ち上げ、鈴華へ差し出す。
「罰掃除を付き合え。」
鈴華は一瞬きょとんとした。
だが、すぐに口元が綻ぶ。
「……それだけですか?」
零は肩を揺らして笑う。
「十分だろ。」
教室を見渡しながら続ける。
「1人でやると地味に長いんだ。」
鈴華は箒を受け取り、胸の前で大切そうに持つ。
「分かりました。」
柔らかな笑みを浮かべる。
「喜んでお手伝いします。」
零は少しだけ目を細めた。
「助かる。」
一拍置き、悪戯っぽく笑う。
「これで俺も早く帰れる。」
その一言に、鈴華は思わず吹き出した。
「ふふっ。」
「それが本音なんですね。」
零は悪びれもせず頷く。
「当たり前だろ。」
「面倒なのは、さっさと終わらせるに限る。」
鈴華は小さく笑いながら箒を構える。
「じゃあ、一緒に終わらせましょう。」
2人は並んで箒を動かし始めた。
夕陽が教室を茜色に染め、窓から吹き込む春風が静かに舞い上がった埃を外へ運んでいく。
しばらくは、箒が床を掃く音だけが静かな教室へ響いていた。
零は机の下へ溜まった埃を掃き寄せながら、ふと小さく声を漏らす。
「ああ、そういや。」
何気ない口調だった。
鈴華は箒を動かす手を止め、顔を上げる。
「はい?」
零は教卓へ軽く寄りかかる。
窓の外へ視線を向け、あの日の路地裏を思い返すように小さく息を吐いた。
夕陽を受けた黄金色の瞳が、静かに鈴華を見つめていた。
「1つだけ聞かせてくれ。」
その真剣な声色に、鈴華も自然と姿勢を正す。
「なんですか?」
零は箒を壁へ立て掛ける。
夕陽を受けた黄金色の瞳が、静かに鈴華を見つめた。
「人助けをすること自体は悪くねぇ。」
穏やかな口調だった。
だからこそ、その続きの言葉を鈴華は静かに待つ。
「でも、あの時、なんで飛び出した?」
教室が静まり返る。
窓の外では、部活動を終えた生徒たちの笑い声が遠く聞こえていた。
鈴華はゆっくりと目を伏せる。
脳裏によみがえるのは、入学式の日の路地裏。
怯える2人の少女。
3人の男子生徒。
そして、自分が風紀部の腕章を左腕へ巻いた瞬間だった。
「……怖かったです。」
ぽつりと零れた声は、とても小さかった。
制服の裾を握る指先へ、自然と力が入る。
「相手は3人でしたし……。」
「魔法を使われたら、勝てるかも分かりませんでした。」
あの日、胸が何度も高鳴っていたことを思い出す。
足だって震えていた。
逃げたいと思わなかったと言えば、嘘になる。
それでも――。
鈴華はゆっくりと顔を上げた。
碧色の瞳には、迷いはなかった。
「でも、目の前で困っている人がいたんです。」
一度だけ息を吸う。
夕陽が長い黒髪を柔らかく照らした。
「その人たちを見捨てることだけは、どうしてもできませんでした。」
少し照れたように笑う。
「だから……。」
「気付いたら、体が勝手に動いていたんです。」
教室へ静かな沈黙が流れる。
零はその答えを黙って聞いていた。
責めるような表情ではない。
むしろ、どこか納得したように小さく口元を緩める。
「……そういう性格なんだろうな。」
短く呟く。
その声には呆れではなく、理解が滲んでいた。
零は窓の外へ一度だけ視線を向ける。
夕陽が校舎を赤く染めていた。
「人助けをすること自体は悪くねぇ。」
穏やかな声だった。
「でも、次からは、まず自分を守ることを考えろ。」
鈴華は静かに顔を上げる。
黄金色の瞳が真っ直ぐ自分を見つめていた。
「自分も守れねぇ奴が。」
「誰かを守ろうとしても、結局は共倒れになる。」
教室に静かな沈黙が流れる。
零は続けた。
「だから強くなれ。」
その一言には、不思議な重みがあった。
「自分を守れるようになれば。」
「その分、もっと多くの人を助けられる。」
夕陽を受けた黄金色の瞳が、優しく細められる。
「だろ?」
鈴華は目を見開く。
その考え方は、今までしたことがなかった。
自分を守ることは、逃げることじゃない。
もっと多くの人を守るために必要な力。
胸の中へ、その言葉が静かに染み込んでいく。
碧色の瞳に、静かな決意が宿った。
「……はい。」
今度の返事には、迷いはなかった。
零は安心したように一度だけ頷く。
「それでいい。」
ぶっきらぼうな一言だった。
けれど、その言葉は夕暮れの教室で、誰よりも優しく鈴華の胸へ響いていた。




