第1.5章エピローグ②:星刻の執行者として
アイリスが帰国する日――。
事件解決の翌日。
本来であれば、零と蕾は朝から新人合同訓練へ参加しているはずだった。
同じ時期に配属された訓練生たちが集まり、各々の魔法や戦闘技術を競い合う貴重な機会。
特に蕾は、見たことのない魔法使いと手合わせできることを楽しみにしていた。
しかし現在、二人がいるのは訓練場ではない。
アストラル・オーダー本部。
第1執行部の作戦室だった。
大きな窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を明るく照らしている。
部屋の中央には、零と蕾が並んで立っていた。
二人の正面に座るエレノアは、机の上へ積み重ねられた報告書に目を通している。
現地部隊から提出された事件の記録。
拘束された男と近衛兵の供述。
アイリスを保護してから本部へ戻るまでの経緯。
そして、その一番上には、零と蕾が書いた二枚の始末書が置かれていた。
紙をめくる乾いた音が響くたび、蕾の肩がわずかに揺れる。
普段なら、このような沈黙に耐えられず零へ話しかけている頃だろう。
しかし、今ばかりはその余裕もないらしい。
身体の前で両手を重ね、落ち着かない様子で指先を動かしていた。
隣に立つ零も、いつもの気怠げな態度を控えている。
片手をポケットへ入れることも、壁へ寄りかかることもなく、真っ直ぐ前を向いていた。
最後の一枚まで目を通したエレノアは、報告書を机の上へ置いた。
ゆっくりと両手を組み、二人を順番に見つめる。
その顔には、いつもと変わらない穏やかな笑みが浮かんでいた。
だからこそ、二人にはかえって恐ろしく感じられた。
「それでは―― 何か、言い訳はありますか?」
エレノアは優しい声音で問いかける。
「「ありません……」」
零と蕾の声が、見事に重なった。
「そうですか……」
エレノアは笑顔を崩さないまま、一つ息を吐く。
その小さな溜め息が、二人の胸へ重くのしかかった。
しばらく続いた沈黙に耐えきれなくなったのか、蕾が意を決して顔を上げる。
「でも、連絡もせずに旧時計塔へ向かったのは、私の意思です」
蕾は隣に立つ零へ一度だけ目を向け、再びエレノアを見つめた。
「零は私を助けに来ただけです。罰を受けるなら、私一人に――」
「その蕾を追いかけたのは、俺の意思です」
蕾の言葉を遮り、零も口を開く。
「零……」
「蕾に頼まれて行ったわけじゃありません。俺が自分で決めました」
零は蕾を見ることなく、エレノアへ視線を向けている。
「だから、蕾一人が罰を受けるのは違います」
「でも、最初に勝手な行動をしたのは私でしょ?」
「俺まで独断で動いたことは変わらねぇよ」
「それは、私を心配してくれたからで……」
「理由が何だろうと、俺が決めたことだ」
自分の責任については素直に認めていた二人が、相手を庇うことになると途端に一歩も譲らなくなる。
互いに睨み合う零と蕾を前に、エレノアは額へ片手を添えた。
「はあ……」
今度は、先ほどよりも深い溜め息がこぼれる。
二人が同時にエレノアへ顔を向けた。
「本当に、あなたたちは……」
エレノアは呆れたように目を細める。
「こういう時まで、息ぴったりですね」
零と蕾は顔を見合わせる。
何か言い返そうとした二人を、エレノアの鋭い視線が制した。
「ですが、互いに責任を押しつけ合っているわけではない点だけは、評価しておきましょう」
その言葉に、蕾の表情がわずかに明るくなる。
「じゃあ――」
「それと処分は別の話です」
期待を打ち砕かれ、蕾は再び肩を落とした。
エレノアは机の上の始末書へ手を伸ばす。
「あなたたちは、星刻へ配属されたばかりの訓練生です。それにもかかわらず、現地部隊へ何の連絡もせず、二人だけで敵の拠点へ潜入しました」
厳しい言葉を向けられ、蕾は唇を小さく結ぶ。
零も言い返すことなく、その叱責を受け止めていた。
「アイリス様を助けたいと思ったことを叱っているのではありません」
エレノアは二人の反応を確かめながら、静かに続ける。
「そのために必要な報告も連携もせず、自分たちだけで解決しようとしたことを問題にしているのです」
机の上には、事件現場の見取り図も広げられていた。
倒壊した木の巨人。
壁や床に残された戦闘の痕跡。
あと一歩判断を誤っていれば、アイリスだけでなく、零と蕾まで命を落としていた可能性がある。
結果として全員が無事だったからこそ、二人は今、ここで叱られているだけで済んでいるのだ。
「どれだけ正しい目的があっても、報告せずに動けば、今度はあなたたち自身が救助される側になります」
エレノアの声音には、先ほどまでの厳しさだけでなく、二人の身を案じる気持ちが込められていた。
「執行官の仕事は、一人で事件を解決することではありません」
蕾は顔を上げ、その言葉へ真剣に耳を傾ける。
「周囲の仲間と連携し、任務に関わった全員で生きて帰ることも仕事のうちです。それを忘れないでください」
「……はい」
蕾は、先ほどよりもしっかりとした声で返事をした。
零もエレノアの言葉を胸へ刻むように頷く。
「分かりました」
二人の返事を聞き、エレノアは張り詰めていた表情をわずかに和らげた。
「もっとも、今回の事件では、護衛計画やアイリス様の行動が敵側へ漏れていました」
エレノアは現地部隊から届いた報告書を開く。
「情報がどこから漏れているのか分からない状況で大勢を動かせば、敵にこちらの行動を察知されていた可能性があります」
あの時、応援を待っていれば。
アイリスが別の場所へ移され、二度と見つけられなくなっていたかもしれない。
最悪の場合、その命まで奪われていた可能性もある。
それを考えたのか、蕾の表情が曇った。
「対応が遅れていれば、アイリス様の命が失われていたかもしれません」
エレノアは報告書を閉じ、二人を真っ直ぐ見つめる。
「その点を考えれば、あなたたちが迅速に行動したことには、理解できる部分もあります」
蕾の桜色の瞳に、わずかな安堵が浮かんだ。
規則を破った事実は変わらない。
それでも、アイリスを救おうとした判断そのものまで否定されたわけではなかった。
「そして、あなたたちが早期に事件を解決したことで、アイリス様の誘拐が一般へ報道されることもありませんでした」
事件の後処理は、アストラル・オーダーと関係各所の手によって極秘裏に進められている。
このまま問題が起きなければ、アイリスも予定を変えることなく、明日には祖国へ帰ることができる。
「アイリス様を無事に保護し、事件を世間へ知られる前に解決へ導いた功績については、きちんと評価します」
「ありがとうございます!」
蕾は勢いよく頭を下げた。
その隣で、零も安堵したように表情を緩める。
「ありがとうございます」
「人命を最優先に考え、危険を承知で行動したこと。その判断そのものは、執行官として間違っていません」
エレノアは、二人を交互に見つめる。
「ですが、次からは必ず仲間を頼りなさい。あなたたちには、そのための組織と仲間がいるのですから」
「はい!」
蕾の明るい返事が、執務室へ響く。
零も静かに頷いた。
「分かりました」
二人の返事を聞き、エレノアは張り詰めていた表情をわずかに和らげた。
その姿を見つめていると、二人の教育係を任された日に玄一から告げられた言葉が、ふと脳裏に蘇った。
『だから、お前に頼んだ』
『二人を頼む』
あの時は、二人の魔法使いとしての才能を伸ばしてほしいという意味だと思っていた。
事前に渡された資料にも、今回の報告書にも、二人の実力が並外れていることは記されている。
実際、星刻へ配属されたばかりの訓練生とは思えないほど、その魔法と戦闘技術は群を抜いていた。
二人とも、とても12歳とは思えない実力を持っている。
だが――どれほど強くても、まだ12歳なのだ。
目の前の誰かを助けたいという気持ちに真っ直ぐであるがゆえに、周囲へ助けを求めることも、自分たちの身を守ることも後回しにしてしまう。
自分たちだけで何とかしようとする姿は、勇敢であると同時に、ひどく幼く危ういものでもあった。
そして今も、叱られている最中だというのに、自分のことより互いを庇おうとしている。
魔法使いとしては、すでに並の執行官を凌ぐほどの力を持っている。
けれど、その力を正しく扱うための心は、まだ成長の途中にあるのだ。
玄一が自分へ二人を託した、本当の理由が今なら分かる。
きっと零と蕾は、この先も同じような事件に直面すれば、迷わず目の前の命を救おうとする。
たとえ規則に背くことになっても。
たとえ自分たちの命を危険にさらすことになっても。
その在り方は、執行官として何より大切な資質であると同時に、一歩間違えれば二人自身を失いかねない危うさでもあった。
本来なら、今後の扱いについて上層部を交えた会議が開かれてもおかしくないほど、手のかかる新人たちである。
(まったく……大変な二人を預けてくれましたね。)
エレノアは胸の内で苦笑する。
それでも、突き放すつもりはなかった。
この優しさを失わせることなく、その危うさだけを正しい方向へ導く。
そのために、自分は二人の教育係を任されたのだ。
(しっかりと導いてみせますよ)
心の中で玄一へそう答え、エレノアはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
これで話は終わった。
そう思った蕾が、ほっと胸を撫で下ろす。
「まだ終わっていませんよ」
踵を返しかけた蕾の身体が、ぴたりと止まった。
恐る恐る振り返ると、エレノアは机の上に置かれていた予定表を手に取っている。
「本日から参加する予定だった新人合同訓練ですが、あなたたち二人の参加は中止です」
「えっ?」
蕾の顔から明るさが消えた。
さまざまな魔法使いと手合わせできる機会を楽しみにしていたのだ。
しかし、エレノアは予定を変更するつもりらしい。
「代わりに、私が直々に指導します」
エレノアの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
その笑顔を見た瞬間、蕾はこれから始まる時間が、新人合同訓練よりも過酷なものになると悟った。
「魔法の基礎理論。執行官として守るべき規律。現場での報告手順に、書類の作成方法」
エレノアは指折り数えていく。
「もちろん、一般教養も含めて一から教えます」
蕾は窓の外へ目を向けた。
朝は、まだ始まったばかりである。
今日一日を訓練に使えることを喜んでいたはずなのに、今は日が暮れるまでどれほど時間があるのかを考えてしまった。
「えっと……今からですか?」
「もちろんです」
エレノアは迷うことなく頷いた。
逃げ道を完全に塞がれ、蕾は力なく肩を落とす。
その隣では、零が早くも諦めたような顔をしていた。
エレノアは柔らかな笑顔を崩さない。
「では、一からしっかりと教えてあげますね」
零は素直に頭を下げた。
「はい」
蕾も覚悟を決め、力のない声で続く。
「はい……」
こうして二人の初任務は、事件の解決だけでは終わらなかった。
むしろ二人にとっては、ここからが本当の試練だった。




