第1.5章エピローグ①:届いた思い出
事件から翌日――。
ロンドン国際空港。
澄み渡る青空の下、アルディア王家の専用機が、静かに出発の時を待っていた。
あの夜の事件は、蕾と零の迅速な対応によって、大きな被害を出すことなく解決した。
アイリスの誘拐も、天輝花を巡る陰謀も、一般へ報道される前にすべてが明らかとなった。
その後の処理は、アストラル・オーダーと関係各所の手によって、極秘裏に進められた。
主犯の男と事件へ加担した近衛兵は拘束され、アイリスも無事に保護された。
こうして事件は世間を騒がせることなく、滞りなく収束した。
そのため、アイリスの帰国予定が変更されることもなかった。
まるで何事もなかったかのように――。
アイリスは今日、予定どおり祖国へ帰る日を迎えていた。
「アイリス様」
伯爵が、穏やかに声を掛ける。
「そろそろお時間です」
「……はい」
そう返事をしながらも、アイリスの視線は再び空港の入口へ向いてしまう。
先ほどから、これで何度目だろう。
人の行き交う入口を見つめては、その中に二人の姿を探していた。
もしかしたら――。
最後にもう一度だけ、零と蕾に会えるかもしれない。
そんな小さな期待を、どうしても捨てきれずにいた。
しかし、搭乗時刻が近づいても、二人の姿は現れなかった。
「……やっぱり、来ませんよね」
寂しさを隠すように小さく微笑み、アイリスが歩き出そうとした、その時だった。
「失礼いたします」
背後から、落ち着いた声が掛かる。
アイリスが振り返ると、一人の男性が立っていた。
黒いスーツに身を包み、首から一眼レフカメラを提げている。
その姿は、いかにも報道記者といった風貌だった。
「英国タイムズ所属、神黒一玄と申します」
男性は丁寧に名刺を差し出し、深く一礼する。
伯爵がアイリスを庇うように一歩前へ出た。
「取材でしょうか?」
「いえ」
記者の男性は柔らかな笑みを浮かべ、首を横へ振る。
「今日は、記者として参ったわけではありません」
そう告げると、肩に掛けていた鞄から一通の白い封筒を取り出した。
「姫様の大ファンだというお二人から、お預かりしておりまして」
「私の……?」
アイリスは目を丸くする。
記者の男性は微笑みながら、白い封筒を差し出した。
「帰国される前に、どうしても渡してほしいと頼まれました」
「ありがとうございます」
アイリスは両手で封筒を受け取り、不思議そうに見つめる。
表には何も書かれていない。
しかし、裏返してみると、そこには二人分の名前が小さく記されていた。
黒神零。
神桜蕾。
「……!」
その名前を目にした瞬間、アイリスの表情がぱっと明るくなる。
「零くんと蕾さんから……!」
会えなかった寂しさが、一瞬で喜びへと変わった。
アイリスは大切な宝物を扱うように、封筒を胸へ抱き寄せる。
ふと何かに気づき、アイリスはもう一度封筒の裏へ視線を落とした。
黒神ーー
先ほど、男性が名乗った姓は――神黒。
「神黒……黒神……」
よく似た二つの姓。
それに、この男性は零と蕾から封筒を預かり、わざわざ空港まで届けに来てくれた。
ただの知り合いとは思えない。
アイリスは封筒と名刺を見比べたあと、ゆっくりと男性を見上げた。
「あなたは、もしかして零くんのお父――」
その先を遮るように、記者の男性は人差し指を唇の前へ立てる。
「しー」
茶目っ気のある笑みを浮かべたまま、穏やかに告げた。
「無事に届けられて何よりです」
肯定も否定もしない。
それでも、アイリスには十分だった。
記者の男性はその様子を見届けると、満足そうに目を細めた。
「ありがとうございます」
アイリスが改めて頭を下げると、記者の男性は小さく首を横へ振った。
「お礼なら、彼らに」
それだけ言い残すと、記者の男性は踵を返す。
その背中は、空港を行き交う人々の中へ、あっという間に紛れていった。
アイリスは待ちきれない様子で、ゆっくりと封筒を開く。
中から現れたのは、一枚の写真だった。
夕暮れの時計台。
黄金色に染まったロンドンの空。
その中央には、太陽のような笑顔を浮かべる蕾。
その横に嬉しそうに笑うアイリスがいる。
反対の隣には、どこか照れくさそうにしながらも、穏やかな笑みを浮かべる零。
三人で過ごした、あの日の思い出。
楽しかった時間が、そのまま一枚の写真へ切り取られていた。
「……ふふっ」
アイリスの口元から、自然と笑みがこぼれる。
心から楽しそうに笑っている自分。
その顔を見ているだけで、あの日の光景が鮮明に蘇ってきた。
三人で歩いたロンドンの街。
庭園で教わった魔法。
夕暮れの時計台で交わした、何気ない言葉。
どれも、アイリスにとってかけがえのない思い出だった。
アイリスは名残惜しそうに写真を眺めたあと、そっと裏返す。
そこには、それぞれの字で短いメッセージが添えられていた。
『またな。黒神零』
『また絶対に遊ぼうね!神桜蕾』
零らしい、少しぶっきらぼうな言葉。
蕾らしい、明るく真っ直ぐな約束。
二人の声が、すぐそばから聞こえてくるようだった。
「……はい」
アイリスは小さく頷く。
嬉しくて、それでも、もう別れなければならないことが少しだけ寂しくて。
気がつけば、一筋の涙が頬を伝っていた。
アイリスは写真をそっと胸へ抱き寄せる。
「ありがとうございました」
目を閉じ、二人の笑顔を思い浮かべた。
その時、搭乗開始を告げるアナウンスが空港内へ響き渡った。
アイリスは名残惜しそうに写真を見つめると、涙を拭い、大切に封筒へ戻した。
そして、今度は迷うことなく顔を上げる。
「行きましょう」
「はい」
伯爵とともに、王家専用機へ向かって歩き出す。
タラップを上る途中で、アイリスは足を止めた。
一度だけ振り返り、二人と過ごしたロンドンの街を見つめる。
(また、会えますよね)
胸元には、二人から届いた大切な思い出がある。
アイリスは青く澄み渡る空を見上げ、静かに微笑んだ。
やがて王家専用機は、ゆっくりと滑走路を走り出す。
次第に速度を上げた機体は大地を離れ――。
青く澄んだロンドンの空へ向かって、大きく飛び立っていった。




