8話:神桜の魔法使い⑥〜始まりの宣言〜
蕾はアイリスへ振り返ると、先ほどまでの凛々しい表情を和らげた。
そして――太陽のような笑顔を浮かべる。
その姿を見つめていたアイリスの胸には、戦いが終わった安堵とともに、蕾への強い憧れが芽生えていた。
青龍を自らの武器へ変え、相性の不利さえ覆してみせた少女。
いったい、蕾は何者なのだろう。
そんなアイリスの疑問に気づいたのか、零が不意に問いかけた。
「神桜家って知ってるか?」
アイリスは視線を蕾へ向けたまま、首を横へ振る。
「いいえ。初めて聞きました」
「日本には『四大名門』って呼ばれる、四つの魔法の名家があるんだ」
長い歴史を持ち、日本各地で発生する魔法事件や魔法犯罪から人々を守り続けてきた名門一族。
それぞれが九州、西日本、東日本、北海道を守護している。
その一つが、京都に本家を構え、西日本一帯を守護する神桜家だった。
数多くの優秀な魔法使いを輩出し、日本のみならず、世界にもその名を知られている。
零は青龍刀を携えた蕾へ視線を向ける。
「蕾は、その神桜家でも史上最高の天才って言われてる」
「神桜家史上最高……」
アイリスは確かめるように、その言葉を繰り返した。
「特に魔法の才能は歴代随一。召喚獣を武器に変える四神武装なんて真似ができるのも、今のところあいつだけだ」
零はどこか得意げに口元を緩める。
「だから、『神桜の神童』って呼ばれてる」
アイリスは小さく息を呑んだ。
先ほど目にした戦いを思い返せば、その評価が決して大袈裟ではないことは分かる。
圧倒的に不利な状況でも、蕾は最後まで自らの力を信じていた。
そして、その信頼に応えるように、青龍の力を最大限に引き出してみせた。
けれど、アイリスの胸には一つの疑問が残った。
アイリス自身、兄がいるとはいえ、アルディア王家の長女として生まれた第一王女である。
王族と魔法使い。
立場こそ違うものの、由緒ある家に生まれ、その名に伴う責任を背負っているという点では、蕾と自分はどこか似ていた。
だからこそ、分からなかった。
「でも……」
アイリスは桜吹雪の中に立つ蕾へ視線を戻す。
「蕾さんは、どうして神桜家を離れたのですか?」
神桜家ほどの名門であれば、日本にいても最高峰の教育と修行を受けられるはずだ。
家督を継ぐ立場ではなくとも、その力を家や国のために役立てる道もあっただろう。
アイリスもまた、王位を継ぐ兄がいるからといって、何もかも自由に選べるわけではない。
第一王女として生まれた以上、自分の望みだけでは決められないことがある。
それだけに、蕾が日本を離れ、遠い異国にあるアストラル・オーダーへ所属する道を選んだことが不思議だった。
「何か、特別な理由があったのですか?」
真剣な眼差しを向けられ、零は答えにくそうに頬を掻いた。
「あー……」
しばらく言葉を探したあと、気怠げに息を吐く。
「そこは気にしなくていいぞ。しょうもない理由だから……」
予想外の答えに、アイリスが首を傾げた。
「しょうもない……?」
「俺が心配だからって、勝手についてきただけだ」
「え……?」
アイリスは思わず蕾を見つめた。
神桜家史上最高の天才『神桜の神童』
その少女が海を渡った理由は、世界を救う使命でも、名門から下された命令でもなかった。
ただ、大切な幼馴染を一人にしておけなかった。
それだけだった。
「父さんも一緒だし大丈夫だって言ったんだけどな」
零は呆れたように肩を竦める。
「最後まで聞きやしなかった」
その口調には、今も納得していないような響きがある。
けれど、蕾を見つめる横顔はどこか嬉しそうだった。
「そうだったのですね」
アイリスは零と蕾を交互に見つめる。
家の名や自らの立場よりも、大切な幼馴染のそばにいることを選んだ。
第一王女として生きてきたアイリスには、簡単に真似のできる選択ではない。
だからこそ、蕾らしいと感じた。
きっと蕾にとっては、神桜家の名も、自らに与えられた才能も、そして黒神零との絆も、人を守るためにあるものなのだろう。
アイリスは微笑ましそうに、小さく笑った。
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蕾は青龍刀を逆手に持ち替えた。
切っ先を地面へ向けたまま、壁際に追い詰められた太った男へ向かって歩き始める。
一歩、また一歩、石畳を踏み締める足音が、静寂に包まれた旧時計塔へ重く響いた。
「く……来るな……!」
男は壁へ背中を押しつけたまま、震える声を上げる。
逃げなければならない。
頭では分かっていても、両足が動かなかった。
自分を守っていた近衛兵は倒れた。
頼みの木の巨人も、蕾の一太刀によって両断された。
もう、この少女を止められる者はどこにもいない。
男の膝から力が抜け、その場へ尻餅をつく。
「ひっ……」
喉の奥から、引きつった声が漏れた。
夜風が割れた窓から吹き込む。
蕾の黒髪が揺れ、桜の花びらが旧時計塔の内部を舞った。
その中で、桜色の瞳だけが静かな光を宿し、男を真っ直ぐに捉えている。
激しい怒りはない。
敵へ向ける情けもない。
その瞳に宿るのは、人々を守る者としての揺るぎない覚悟だけだった。
男の右手が、震えながら腰元へ伸びる。
指先が、鞘に収められた短剣の柄へ触れた。
近衛兵が敗れた今、自分でどうにかするしかない。
短剣さえ握ることができれば、目の前の少女を人質に取れるかもしれない。
そんな浅はかな望みに縋り、男は柄へ指をかける。
だが――。
蕾が、男の目前で足を止めた。
それだけで、男の手は動きを止めた。
桜色の瞳に見下ろされ、短剣を抜くことすらできない。
指先から力が抜け、その手がだらりと石畳へ落ちた。
蕾は左手を制服の内ポケットへ入れ、一冊の黒い手帳を取り出す。
表紙には、アストラル・オーダーの紋章が刻まれていた。
正式な執行官ではない。
半年間の訓練期間にある者へ交付された、アストラル・オーダー訓練生の身分証だった。
蕾は手帳を男へ向け、静かに開く。
「The Astral Order――」
凛とした声が、夜の旧時計塔へ響き渡った。
アイリスが息を呑む。
その隣では、零も僅かに目を見開き、蕾の背中を見つめていた。
「第1執行部『星刻』訓練生――神桜蕾」
桜吹雪が風に舞う。
右手に握られた青龍刀の刀身を、澄み切った水流が静かに巡っていく。
男は初めから、二人がアストラル・オーダーの人間であることを知っていた。
まだ正式な執行官ではない、訓練期間中の子供。
だからこそ、近衛兵を雇い、数で囲めば始末できると高を括っていた。
だが、その思惑は完全に打ち砕かれた。
目の前に立つ少女は、訓練生という肩書からは想像もできない力で近衛兵を打ち破った。
青龍刀の切っ先が、静かに持ち上がる。
男の顔から、さらに血の気が引いていった。
「これより、星刻の名の下に――」
桜の花びらが、蕾と男の間を横切る。
その向こうで、桜色の瞳が鋭く輝いた。
「強制執行を開始します」
その宣言は、夜空へ下された判決のように静かに響いた。
短剣へ伸ばそうとしていた男の右手が、完全に力を失う。
もはや、抵抗する意思は残されていなかった。
男は全身を震わせながら、深く項垂れる。
旧時計塔に舞い続ける桜吹雪の中。
アストラル・オーダー訓練生・神桜蕾の初任務は、ここに決着を迎えた。
その背中を、零は黙って見つめていた。
星刻の名を背負い、悪へ立ち向かうための宣言。
今はまだ、それが蕾一人の言葉だった。
けれど、その一言一句は、零の胸へ確かに刻み込まれていた。
やがて同じ星刻の名を背負い、数え切れないほどの悪を裁く少年へと受け継がれていく――。
これは、その始まりとなる宣言だった。




