8話:神桜の魔法使い⑤〜魔法の先生として〜
近衛兵は、目の前で起きた変化に息を呑んでいた。
召喚獣が消えたわけではない。
あの太刀そのものから、先ほどまで空を舞っていた神龍と同じ気配を感じる。
「召喚獣を……武器に変えただと……?」
理解が追いつかない。
これまで目にしてきた召喚魔法とは、根本から使い方が異なっていた。
「何をしている!」
背後から、太った男の怒鳴り声が飛ぶ。
声こそ荒々しいが、男は戦場へ近づこうとはしない。
壁際へ身を寄せたまま、青龍刀を恐れるように見つめていた。
「早くその小娘を倒せ! お前なら勝てると言っただろう!」
「言われなくとも分かっている!」
近衛兵は怒声を返すと、両手を木の巨人へ向けた。
このまま様子を見るべきではない。
本能がそう警告している。
あの刀を振るわせる前に、一撃で押し潰す。
「姿を変えたところで、水であることに変わりはない!」
男の身体から、残された魔力が噴き上がった。
緑色の光が両腕を駆け抜け、床を覆う無数の根を伝って木の巨人へ注ぎ込まれていく。
「すべてくれてやる……!」
巨人の全身が大きく脈打った。
床に溢れていた水を根こそぎ吸い上げ、枝と幹がさらに膨れ上がる。
天井を突き破っていた枝が引き戻され、右腕へ集まっていった。
幾重もの幹が絡み合う。
無数の蔦が隙間を埋める。
巨人の右腕だけが、胴体を凌ぐほど巨大に肥大化していく。
近衛兵の額から汗が噴き出した。
肩で荒く息をしながらも、注ぎ込む魔力を緩めない。
「これで終わりだ!」
咆哮に応じ、木の巨人が一歩を踏み込んだ。
朽ちた床が耐え切れず、大きく陥没する。
肥大化した拳が天井近くまで持ち上げられた。
その動きだけで暴風が巻き起こり、周囲の瓦礫が吹き飛んでいく。
振り下ろされれば、蕾だけではない。
旧時計塔の床ごと粉砕しかねない一撃だった。
「潰れろ!」
近衛兵が両手を振り下ろす。
木の巨拳が、凄まじい勢いで落下した。
蕾は逃げない。
青龍刀を低く構え、前へ踏み出した。
頭上を覆う巨大な影。
押し寄せる風圧が、舞っていた花びらを背後へ吹き飛ばす。
「豪術――」
刀身へ、青龍の力が集まっていく。
清らかな水は細く圧縮され、刃の輪郭へ沿って鋭く研ぎ澄まされた。
さらに桜色の魔力が重なり、旧時計塔を碧と桜の輝きで染め上げる。
「桜龍一閃」
青龍刀が、真横へ閃いた。
次の瞬間。
巨人の拳が、空中で止まった。
轟音も、衝突も起こらない。
ただ一本の碧い線だけが、巨大な拳の中央に刻まれていた。
「……何?」
近衛兵の口から、掠れた声が漏れる。
一拍遅れて、拳が上下へ分かれた。
切断面から無数の木片が弾け飛ぶ。
だが、斬撃はそこで止まらない。
腕を走り。
肩を抜け。
胸部の太い幹を貫き。
木の巨人の全身を、中央から真っ二つに断ち切った。
巨体の向こうにあった壁へも細い斬痕が刻まれ、積み重なった煉瓦が音を立てて崩れていく。
「う、嘘……」
アイリスは目を見開いたまま、動けずにいた。
青龍でさえ押し切れなかった巨人。
その全身へさらに魔力を注ぎ込み、強化したはずだった。
それを蕾は、たった一振りで斬った。
「馬鹿な……!」
近衛兵の顔から血の気が引いていく。
「俺の魔力を、すべて注ぎ込んだんだぞ……!」
自分でも信じられないものを見るように、両断された巨人を仰ぐ。
左右へ分かれた巨体が、ゆっくりと傾いていった。
「ひっ……!」
太った男が短い悲鳴を上げ、頭を庇いながら後方へ逃げる。
直後、二つに分かれた巨人が轟音とともに床へ崩れ落ちた。
衝撃で旧時計塔が激しく揺れる。
巻き上がった土煙が内部を覆い、砕けた枝葉が雨のように降り注いだ。
零はアイリスの前へ片腕を伸ばし、飛んできた木片を漆黒の魔力で弾き落とす。
アイリスはそれにも気づかず、土煙の中心を見つめていた。
やがて視界が開けていく。
そこに立っていたのは――。
青龍刀を携えた蕾だけだった。
右腕に絡みつく水の帯が、青龍の尾のようにゆったりと揺れている。
荒れた戦場の中で、桜の花びらだけが彼女の周囲を優雅に舞っていた。
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崩れ落ちた木の巨人を前に、近衛兵は呆然と立ち尽くしていた。
「水で……俺の木が……」
蕾は土煙の中から、ゆっくりと歩み出る。
その足取りに乱れはない。
青龍刀の切っ先が、近衛兵へ向けられた。
「青龍の力は、水を操るだけではありません」
男の喉が小さく鳴る。
先ほどまで相性を理由に勝利を確信していた面影は、もはや残っていない。
「断ち切る力……これが青龍の力です!」
舞い散る花びらの向こうで、桜色の瞳が鋭く光る。
「黙れ……!」
近衛兵は歯を食いしばった。
木の巨人へ注ぎ込んだことで、魔力はほとんど残っていない。
膝が震え、立っていることさえ難しくなっている。
「何をしている! 早く立て直せ!」
太った男が、離れた場所から喚き散らす。
「私を守れ! そのためにお前を雇ったんだぞ!」
近衛兵の眉が苛立たしげに歪んだ。
しかし、言い返す余裕すらない。
蕾は既に、自分へ向かって歩き始めている。
「この程度で……終われるか!」
男は残った力を無理やりかき集め、両手を床へ叩きつけた。
砕けた床板の下で、緑色の光が走る。
直後、無数の太い根が一斉に飛び出した。
先端を獣の牙のように尖らせた根が、四方から蕾へ殺到する。
「蕾さん……!」
アイリスが思わず声を上げた。
だが、その隣に立つ零は動かない。
アイリスを庇う位置に立ったまま、迫り来る根を気怠げに眺めていた。
「大丈夫だ」
不安そうに見上げるアイリスへ、零は短く答える。
黄金色の瞳には、焦りの欠片もない。
「あの程度じゃ、もう蕾には届かない」
蕾は青龍刀を構え直した。
前から、左右から、そして、頭上から。
逃げ道を塞ぐように、無数の根が迫っている。
それでも表情は揺らがない。
柄を握る右手に力を込め、軽く腰を落とした。
青龍刀に宿る水が大きく揺らめく。
長い尾のように広がると、蕾の全身を包み込んだ。
「疾術――」
次の瞬間。
蕾の姿が、その場から消えた。
殺到した根が、誰もいない床へ次々と突き刺さる。
「なっ――」
近衛兵が目を見開く。
碧色の残光が、根の間を駆け抜けていた。
蕾は青龍の力を身に纏い、男との距離を瞬く間に縮めていく。
一歩進むたび、青龍刀が鮮やかな軌跡を描いた。
正面を塞ぐ根を断ち。
左右から襲う枝を切り払い。
舞い散る桜の花びらとともに、元近衛兵へ迫る。
「く、来るな!」
男は顔を引きつらせ、新たな魔法を放とうと右手を掲げた。
だが、遅い。
蕾は既に、その懐へ潜り込んでいた。
二人の視線が交わる。
怯えに染まった男とは対照的に、蕾の桜色の瞳はどこまでも澄んでいる。
「桜吹雪」
刹那。
青龍刀が、桜吹雪のように舞い踊った。
一閃、二閃、幾重にも重なった斬撃が、男の周囲を駆け抜ける。
最後の力で生み出した枝も、その身を守るために纏った木の鎧も触れた先から切り刻まれ、瞬く間に形を失っていった。
「がっ……!」
最後の一閃が、男を捉える。
近衛兵は力を失い、両膝を床へついた。
蕾は男の背後で青龍刀を振り抜き、その姿勢のまま静かに息を吐く。
短い静寂が訪れた。
男の身体がゆっくりと前へ傾き、そのまま倒れ伏す。
術者が意識を失ったことで、周囲に伸びていた根も崩れ始めた。
乾いた音を立てながら形を失い、床の上へ散らばっていく。
「お、おい……」
残された太った男が、倒れた近衛兵へ震える声をかける。
「立て……。立てと言っているだろう……!」
返事はない。
自分を守っていた最後の戦力が敗れたことを悟り、男は青ざめた顔で後ずさる。
その背中が壁へぶつかり、逃げ場を失った。
やがて、旧時計塔の内部に静寂が戻る。
舞い落ちる桜の花びらの中で、蕾は倒れた近衛兵へ振り返った。
「これが――」
青龍刀を軽く振り、切っ先を静かに下ろす。
「私と青龍の力です」
選ぼうと思えば、蕾は火を司る朱雀を呼び出すこともできた。
木の魔法を相手にするのなら、その方が遥かに戦いやすかっただろう。
相性だけで勝敗は決まらない。
それは確かに正しい。
けれど、初めから有利な力を選べるのなら、それに越したことはない。
それでも蕾は、あえて青龍を選んだ。
青龍の力を信じていたから。
そして――。
たとえ相性が悪くても、自分の力と工夫次第で勝利を掴むことができる。
この一週間、魔法を教えてきた一人の少女へ、そのことを自らの戦いで示すためだったのかもしれない。
アイリスは、舞い散る桜の向こうに立つ蕾を見つめていた。
何度失敗しても、蕾は笑顔で励ましてくれた。
苦手な魔法から逃げようとした時も、できないと決めつけるのではなく、自分に合った使い方を探せばいいと教えてくれた。
相性が悪いからと諦めるのではない。
自分の持つ力と工夫で、それを乗り越えてみせる。
蕾は今、その教えが決して慰めではなかったことを、言葉ではなく戦いで示してくれたのだ。
「……蕾さん、すごい」
感嘆の声が、自然と零れる。
そこには、隠しきれない驚きと憧れが滲んでいた。
青龍刀を携えて立つ小さな背中が、今までよりもずっと大きく見える。
蕾はアイリスへ振り返ると、先ほどまでの凛々しい表情を和らげた。
そして――太陽のような笑顔を浮かべる。
零はそんな二人を眺めながら、満足そうに口元を緩めていた。




