8話:神桜の魔法使い②〜木の巨人〜
太った男は、突然現れた零を見て大きく後ずさった。
「援軍だと!?」
額から脂汗が噴き出す。
太った男は焦りを隠すこともできず、近衛兵へ怒鳴りつけた。
「おい! 何をしている!」
震える指を、零と蕾へ向ける。
「二人まとめて、さっさと潰せ!」
対する近衛兵は慌てる様子もなく、静かに零へ視線を向けた。
「もう一人のガキか」
深緑色の瞳が、警戒するように細められる。
零はアイリスを庇うように、その前へ立っていた。
片手をポケットへ入れたまま、近衛兵へ気怠げな視線を向ける。
「そんなに警戒すんなよ」
零の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「俺は今のところ、手を出す気はねぇよ」
その言葉に、蕾が目を丸くした。
零は近衛兵から視線を外すと、横目で蕾をちらりと見る。
「まあ――」
明らかに何かを企んでいるような笑みを浮かべ、わざとらしく言葉を続けた。
「蕾が自分から首を突っ込んだことだしな。どうしても手を貸してほしいって言うなら、手を貸してやらないこともないけど?」
「必要ないよ」
蕾は間髪を入れずに言い返した。
桜色の瞳は、真っ直ぐ近衛兵を捉えている。
「零はアイリス様を守ってて」
「へいへい」
予想どおりの答えが返ってきたことに満足したのか、零は気のない返事をした。
二人のやり取りを眺めていた近衛兵が、わずかに眉をひそめる。
「随分と強気じゃないか」
深緑色の魔力が、その身体からゆっくりと立ち昇った。
「さっきまで、突破口すら見つけられなかったくせにな」
痛いところを突かれたはずだった。
それでも、蕾は動じなかった。
「確かに、さっきまではね」
蕾は一瞬だけ、背後に立つ零へ視線を向ける。
その口元には、いつもの明るい笑みが戻っていた。
「でも、今はもう大丈夫」
「ほう?」
「守らなきゃいけない人を、零が守ってくれてるから」
アイリスを気にしながら戦っていた先ほどまでとは違う。
今はもう、背後を気にする必要はない。
アイリスのことは、零に任せればいい。
蕾は近衛兵へ向き直り、力強く言い放った。
「ここからは、あなたを倒すことだけ考えればいい!」
近衛兵は、蕾の表情から迷いが消えたことを見抜いた。
「なるほど」
両手を床へ向ける。
「ならば、その自信ごと叩き潰してやろう」
深緑色の魔力が一気に膨れ上がった。
「グランド・ユグドラシル」
次の瞬間。
旧時計塔全体が大きく揺れ始めた。
朽ちかけた床板が激しく軋み、亀裂の中から無数の木の根が飛び出す。
根は天井へ向かって伸びながら、次々と絡み合っていった。
何本もの根が束ねられ、太い脚を形作る。
続いて、巨木のような胴体。
丸太を束ねたような両腕。
最後に、人の顔を思わせる巨大な頭部が形成された。
旧時計塔の天井へ届かんばかりの木の巨人。
その巨体がゆっくりと立ち上がるたび、床が悲鳴を上げるように軋んだ。
アイリスは、その圧倒的な大きさに息を呑む。
「こんなものまで……」
蕾も木の巨人を見上げ、思わず声を漏らした。
「お、大きい……」
一方、零だけは純粋に感心したように、黄金色の瞳を見開いていた。
「うわ……でけぇ」
横にいたアイリスが零に問いかける。
「感心してる場合ですか!?」
零は不思議そうに瞬きをした。
「いや、素直にすげぇなって思って」
「そこじゃないですよ!」
アイリスは呆れたように額へ手を当てる。
緊迫した状況にもかかわらず、いつもと変わらない零。
しかし、アイリスにその余裕はなかった。
「零くん!」
切羽詰まった声で零を呼ぶ。
「早く蕾さんの援護に行って!」
零は不思議そうにアイリスを振り返った。
「なんで?」
「え……?」
あまりにも自然に聞き返され、アイリスは思わず言葉を詰まらせる。
零は木の巨人へ目を向けることもなく、気怠そうに続けた。
「蕾も必要ないって言ってたじゃん?」
「それは、そうだけど……」
アイリスは不安を拭い切れないまま、木の巨人を見上げる。
絡み合った木の根が軋み、巨大な腕がゆっくりと持ち上がっていた。
「あんなに大きな敵を、一人で倒すなんて…… いくら蕾さんでも、さすがに厳しいと思うんですけど」
その圧倒的な巨体を前に、アイリスの表情が険しくなる。
「あー……」
零はようやくアイリスが心配している理由を理解したのか、木の巨人へ顔を向けた。
天井近くまでそびえ立つ巨体を眺めながら、片手で頭を掻く。
「確かに、俺が相手するなら厳しい相手かもしれないけど……」
「だったら――」
アイリスが何かを言いかける。
しかし、零はそれを遮るように蕾へ視線を向けた。
木の巨人を前にしても、蕾は一歩も退いていない。
その横顔に、恐れも迷いもなかった。
零はそんな蕾を見つめ、わずかに口元を緩める。
「アイツなら大丈夫だよ」
あまりにも迷いのない言葉に、アイリスが目を瞬かせる。
「だって、今ここにいる魔法使いの中で一番強いのは、蕾だからな」
零は自信に満ちた笑みを浮かべた。
それは励ましでも、強がりでもなかった。
誰よりも近くで蕾の強さを見てきた零だからこそ言える、揺るぎない確信だった。
「まあ、見てなって」
そう告げると、零はアイリスを守るように一歩前へ出る。
「蕾!」
零の声に、蕾が振り返った。
「アイリス姉のことは心配するな!」
その黄金色の瞳に、一片の迷いもない。
「思いっきりやれ!」
細かな指示も、作戦もない。
けれど、蕾にはその一言だけで十分だった。
アイリスのことは、零に任せればいい。
零が、自分なら勝てると信じてくれている。
ならば、その信頼に全力で応えるだけだ。
蕾は一瞬だけ目を見開いたあと、太陽のような笑顔を浮かべた。
「任せてよ、零!」
小さな拳を強く握り締める。
「ここで引いたら、アストラルの……」
そこまで口にして、蕾は一度言葉を止めた。
自分が今、背負っているもの。
世界最高峰の魔法組織に選ばれた執行官であることだけではない。
幼い頃から受け継いできた、大切な家の名。
蕾は迷いを振り払うように首を横へ振った。
「ううん――」
そして、木の巨人を真っ直ぐ見上げる。
「神桜の名折れだもんね!」
太陽のような笑顔が消え、桜色の瞳に強い決意が宿る。
蕾は静かに息を吸い込んだ。
木の巨人を真っ直ぐ見据えたまま、胸の前で両手を重ねる。
そして、祈りを捧げるようにそっと目を閉じた。
その瞬間――。
轟音に満ちていた旧時計塔が、不思議なほど静まり返った。
蕾の足元から、淡い桜色の魔力が溢れ始める。
まるで春の訪れを告げるような柔らかな風が、朽ちた時計塔の内部を吹き抜けた。
どこからともなく、一枚の桜の花びらが舞う。
それを合図にしたように二枚、三枚、やがて無数の花びらが蕾の周囲へ集まり、優しく踊るように旋回し始めた。
花びらは次第に勢いを増し、巨大な渦となって天井へ昇っていく。
桜吹雪の中心で、蕾はゆっくりと瞳を開いた。
先ほどまで零と軽口を交わしていた、明るい少女の面影はない。
桜色の瞳には一切の迷いも揺らぎもなく、ただ敵を打ち倒すという静かな覚悟だけが宿っていた。
蕾は凛とした声で告げる。
「神桜式召喚魔法――」




