7話:誘拐⑤〜友達を迎えに〜
薄暗い旧時計塔。
鉄骨がむき出しになった広い空間には、木箱や錆びた資材が無造作に積み上げられていた。
かつて時計を動かしていた巨大な歯車はすでに止まり、割れた窓から差し込む月明かりだけが、朽ちかけた内部を照らしている。
その中央で、アイリスは両手を縄で縛られたまま立たされていた。
彼女の正面には、腹の突き出た男。
その隣には、腕を組んだ近衛兵。
さらに、その周囲を四人の男たちが囲んでいる。
出口も塞がれ、逃げ場はどこにもなかった。
太った男は満足そうに口元を歪めた。
「要求書は、すでに王国へ送った」
アイリスを眺めながら、指を二本立てる。
「条件は二つ。一つは現金五千万ポンド。もう一つは、天輝花の栽培方法と現物だ」
アイリスはゆっくりと顔を上げた。
恐怖で身体は震えていた。
それでも、琥珀色の瞳だけは決して逸らさない。
「そんなもののために……多くの人を傷つけたのですか?」
男は鼻で笑った。
「違うな。金になるからだ」
積み上げられた木箱へ腰を下ろし、下卑た笑みを浮かべる。
「王女一人を返すだけで終わらせるには、惜しい取引だからな。せっかくなら、王国の宝まで頂こうと思ってな」
アイリスは強く首を横へ振った。
「天輝花は、人を救うための花です」
母が守り続けてきた、大切な花。
病や怪我に苦しむ人々を救うため、王国で受け継がれてきたものだった。
「あなたたちのような人に、渡すものではありません!」
それまで黙っていた近衛兵が、静かに口を開いた。
「……甘いな」
低く、落ち着いた声だった。
男は腕を解くと、アイリスへ冷たい視線を向ける。
「人を救う希望の花?」
そこで一度言葉を切り、小さく鼻を鳴らした。
「違う。あれは人間の魔力を極限まで高める花だ。軍が手にすれば、一国の戦力すら変えられる」
男が一歩、アイリスへ近付く。
「天輝花は兵器だ。使い方次第で、世界さえ変えられる」
「違います!」
アイリスの声が、静まり返った時計塔へ響いた。
「そんなことのための力ではありません! 天輝花は、人を救うためのものです!」
近衛兵は呆れたように息を吐いた。
「その価値を決めるのは、お前ではない」
アイリスは目の前の男を真っ直ぐに見据えた。
王族の身辺を守り、いかなる危険からも盾となって守り抜く。
それが、王国の近衛兵に与えられた使命だった。
しかし、男はその立場を利用した。
護衛の配置も、交代の時刻も、アイリスがどこを訪れるのかも、近衛兵である男なら知ることができた。
そして、アストラル・オーダーの護衛任務が終わり、警戒が薄れた瞬間を狙ってアイリスを誘拐したのだ。
「あなたは、私たち王族と国民を守る近衛兵のはずです」
恐怖に震えながらも、アイリスは琥珀色の瞳を逸らさなかった。
「それなのに、自分の立場を利用して国を裏切るなんて……」
「裏切った?」
近衛兵の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「忠誠を尽くしたところで、得られるものなど何もない」
その声に、迷いも罪悪感も感じられなかった。
「だが、この取引を成功させれば、俺は金も力も手に入れられる」
「そのために、私を……?」
「ああ」
男は何のためらいもなく言い切った。
「王国のために命を懸け続けるより、王女一人を差し出す方が、よほど大きな価値がある」
アイリスは唇を強く結んだ。
「……あなたを信じていた人たちもいるはずです」
王家だけではない。
共に王国を守ってきた近衛兵たちも、この男を仲間だと信じていたはずだった。
「それでも、あなたは国を裏切るのですか?」
「綺麗事で腹は満たせない」
近衛兵はアイリスへ冷たい眼差しを向けたまま、ゆっくりと距離を詰めていく。
「自分が守られているだけとも知らず、希望だの人助けだのと理想ばかりを語る」
男はアイリスの前で足を止めた。
「その甘さでは、いずれ国を滅ぼす」
そう言って、縛られたアイリスの腕へ手を伸ばす。
「だから、お前は王女失格なんだ」
その刹那――。
「風刃」
静かな声が、暗闇の中から響いた。
次の瞬間、鋭い風の刃が一直線に駆け抜ける。
「っ!」
近衛兵は反射的に身体をひねった。
風の刃が伸ばした腕をかすめ、背後に積まれていた木箱を切り裂く。
男はアイリスから距離を取るように、後方へ跳び退いた。
「……風魔法か」
その場にいた全員の視線が、時計塔の入口へ向けられる。
月明かりの下に、一人の少女が立っていた。
肩まで伸びた黒髪が、割れた窓から吹き込む夜風に揺れている。
その桜色の瞳は、真っ直ぐアイリスだけを見つめていた。
「蕾さん……!」
アイリスの表情が、一気に明るくなる。
先ほどまで不安に揺れていた琥珀色の瞳へ、安堵の光が宿った。
蕾は床を蹴った。
男たちが動き出すよりも早くその間を駆け抜け、アイリスを背に庇うように着地する。
「アイリス様」
蕾は背後を振り返り、いつもの明るい笑顔を見せた。
「お待たせしました」
「どうして、ここに……?」
アイリスが驚きに目を見開く。
蕾は安心させるように、穏やかな笑みを浮かべた。
「友達を迎えに来るのに、理由はいりませんから」
怯えさせないよう、明るい声で告げる。
それから敵へ向き直ると、桜色の瞳が鋭く細められた。
「ここから先は、私の仕事です」
近衛兵は、静かに蕾を見据える。
「……アストラル・オーダーのガキか」
かすめられた腕を一瞥し、低い声で問い掛けた。
「なぜここにいる。お前たちの護衛任務は、昨日で終わったはずだ」
その言葉に、蕾の桜色の瞳がわずかに細められる。
「その言葉、そのままお返しします」
アイリスの護衛を担っていた近衛兵を、真っ直ぐに見据えた。
「あなたは近衛兵として、アイリス様を守る立場だったはずです」
護衛任務が昨日で終わったことまで把握している。
薄暗い旧時計塔。
それだけではない。
男は近衛兵の立場を利用して警備の隙を作り、守るべき王女を自らの手で攫ったのだ。
「その立場を利用して、私の友達を誘拐するなんて……」
穏やかな声の奥に、抑え切れない怒りが滲む。
「近衛兵失格です」
男は表情一つ変えず、その視線を受け止めた。
「何とでも言え。今さら王国への忠誠などに興味はない」
「そうですか」
蕾はアイリスを背に庇ったまま、静かに構えを取る。
「だったら、私がアイリス様を連れて帰ります」
一瞬だけ、時計塔の空気が張り詰めた。
太った男は我に返ると、苛立たしげに舌打ちする。
「何をしている!」
傍らにいた四人へ、勢いよく腕を振る。
「相手はガキ一人だ! さっさと始末しろ!」
四人の男が、同時に前へ出た。
二人が正面。
残る二人は左右へ分かれ、蕾とアイリスを包囲するように間合いを詰めていく。
蕾は敵から目を離さないまま、背後のアイリスへ声を掛けた。
「アイリス様。少しだけ下がっていてください」
「でも、蕾さん一人では……」
アイリスの不安そうな声に、蕾はわずかに振り返る。
「大丈夫です」
その表情には、いつもの太陽のような笑顔が浮かんでいた。
「すぐに終わらせますから」
アイリスは迷いながらも、小さく頷いた。
四人の男が、一斉に床を蹴る。
正面の二人が距離を詰め、それに合わせて左右の二人も挟み込むように迫った。
蕾は半歩だけ身を引き、四人の動きを見極める。
そして、静かに右手を床へ向けた。
「水鎖」
透明な水流が床を滑るように走り、正面から迫る二人の足へ絡み付く。
「なっ――!」
足を取られた二人の体勢が崩れた。
その瞬間、蕾は床を蹴る。
二人の間をすり抜けるように身体を沈め、左右から迫る敵との距離を一気に詰めた。
一人が短剣を振り下ろす。
蕾は半身になるだけで刃をかわすと、その懐へ潜り込んだ。
「風刃」
右手を真横へ払う。
殺傷力を抑えた風の刃が男の胴を打ち抜き、その身体を壁際まで吹き飛ばした。
もう一人が、蕾の背後から飛び掛かる。
「後ろです!」
アイリスが声を上げる。
蕾は振り返ることなく、一歩だけ横へずれた。
振り下ろされた拳が、虚しく空を切る。
「しまっ……!」
勢い余って前へ流れた腕を掴む。
蕾は相手の肩へ身体を入れると、その勢いを利用して足を払った。
男の身体が宙を舞い、背中から床へ叩き付けられる。
しかし、その間に水鎖へ捕らわれていた二人が拘束を振りほどいていた。
「囲め!」
倒された二人も、ふらつきながら立ち上がる。
四人は再び距離を取り、蕾の周囲を囲んだ。
正面、左右、そして背後。
四方向から、ほぼ同時に踏み込む。
蕾はその場から動かなかった。
静かに息を吐き、視線だけで四人の動きを追う。
「土槍」
直後、四人の足元から鋭い土の槍が突き上がった。
「っ!?」
男たちは咄嗟に飛び退く。
足並みが乱れ、四人の陣形が大きく崩れた。
蕾はその一瞬を逃さない。
「火玉」
右手を振ると、四つの火球が宙に生まれた。
火球はそれぞれ異なる方向へ飛び、体勢を崩した男たちの目前で炸裂する。
爆炎と熱風が、四人をまとめて吹き飛ばした。
「ぐあっ!」
「熱っ……!」
男たちは積み上げられていた木箱へ激突する。
大きな音を立てて木箱が崩れ、その下へ四人の身体が埋もれた。
起き上がろうとする者もいたが、腕に力が入らず、そのまま床へ崩れ落ちる。
やがて、動く者はいなくなった。
蕾は敵を警戒したまま、ゆっくりと息を整える。
黒いコートには、わずかな埃すら付いていなかった。
アイリスは驚きに目を見開いていた。
「すごい……」
水で動きを封じ、風と体術で陣形を崩す。
土で回避を誘い、最後は四つの火球を正確に撃ち分ける。
四つの属性を淀みなく切り替えるその姿は、護衛任務で見ていた明るく優しい少女とは、まるで違っていた。
魔法を教えてくれた、小さな先生。
しかし今、アイリスの前に立っているのは――世界最高峰の魔法組織、第1執行部『星刻』に選ばれた魔法使いだった。
太った男は、信じられないものを見るように後ずさる。
「たった一人で……四人を……」
近衛兵だけは、表情を変えなかった。
倒れた男たちを一瞥すると、静かに前へ出る。
「……なるほど」
男の深緑色の瞳が、蕾を捉えた。
「新人とは思えない腕だ」
蕾もまた、アイリスを庇ったまま一歩前へ出る。
二人の視線が、静かに交わった。
「次は、あなたです」
桜色の瞳に、迷いはない。
「アイリス様を返してください」
近衛兵は答えず、わずかに口元を緩めた。
四つの属性を自在に切り替え、四人の男を瞬く間に退けた。
並外れた才能を持っていることは、認めざるを得ない。
だが、所詮は12歳の訓練生。
どれほど優れた才能があろうと、実戦経験も、死線を潜り抜けた数も、自分の方が遥かに上だった。
何より、四人を倒した直後だ。
呼吸こそ乱していないものの、魔力を消耗していないはずがない。
負ける理由など、どこにもなかった。
「面白い」
男がゆっくりと構えを取る。
「なら、ここからは俺が相手だ」
その瞬間、男の足元から深緑色の魔力が静かに溢れ始めた。
床板が軋み、石造りの床へ亀裂が走る。
次の瞬間、その亀裂を突き破るように、一本の太い木の根が姿を現した。
さらに根は枝分かれし、まるで獲物を探す蛇のように床一面へ広がっていく。
蕾は表情を変えない。
アイリスを背に庇いながら、静かに構えを取った。
ここからが、本当の戦いだった。




