7話:誘拐④〜友達として〜
ホテルを出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
昼間の賑わいはすでになく、ロンドンの街は静かな闇に包まれている。
蕾は正面玄関から少し離れたところで足を止めると、バッグから一枚の写真を取り出した。
時計台で撮った、三人の記念写真。
そこには、昨日と変わらない笑顔を浮かべるアイリスの姿が映っていた。
「アイリス様……」
桜色の瞳が、静かに揺れる。
『また、お会いできますよね?』
別れ際に交わした言葉が、胸の奥でよみがえった。
蕾は唇を強く結ぶ。
写真を持つ手に、少しずつ力が入っていく。
(受け渡しは、明日の夜……)
先ほど聞いた犯人の要求を、頭の中で思い返す。
指定された場所は、旧時計塔跡。
期限は明日の夜。
まだ時間は残されている。
しかし、それはアイリスが明日まで無事でいられるという保証ではない。
(まだ……間に合う)
その瞬間、桜色の瞳から迷いが消えた。
(助けに行かなきゃ)
護衛任務は、もう終わっている。
自分はまだ訓練生で、勝手な行動を許される立場でもない。
それでも、このまま何もせずに待っていることなどできなかった。
アイリスを助けたいのは、護衛対象だからではない。
一緒に笑い合った、大切な友達だから。
理由なんて、それだけで十分だった。
犯人が指定した受け渡し場所――旧時計塔跡。
アイリスがそこに捕らわれている保証はない。
それでも、犯人へつながる手掛かりがあるとすれば、今はあの場所しかなかった。
大勢で動けば、相手に気付かれるかもしれない。
けれど、自分一人なら、誰にも見つからず様子を探れる可能性がある。
蕾は写真を大切にバッグへしまうと、夜の街を駆け出した。
しかし、その足は旧時計塔跡とは別の方角へ向かっていた。
このままの格好で向かうわけにはいかない。
まずは一度、自宅へ戻る必要があった。
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ロンドン郊外。
黒神家。
玄関の扉が静かに開いた。
「ただいま」
蕾は小さな声で告げたが、返事はなかった。
家の中は薄暗く、物音一つ聞こえない。
零はもう眠っているのかもしれない。
蕾は足音を忍ばせながら、自分の部屋へ向かった。
クローゼットを開き、私服からアストラル・オーダーのへ着替える。
最後に黒いコートへ腕を通し、必要なものをバッグへ詰めていく。
準備を終えた蕾は、胸元へ手を伸ばした。
内ポケットから取り出したのは、アストラル・オーダーから支給された一冊の手帳。
表紙には、組織を象徴する星の紋章が刻まれている。
ただし、それは正式な執行官へ与えられるものではない。
所属と身分を証明するために支給された、訓練生用の手帳だった。
蕾はまだ正式な執行官ではない。
アストラル・オーダーへ配属されたばかりの、訓練生にすぎなかった。
本来なら、すぐにエレノアへ報告するべきなのだろう。
けれど、犯人はこちらの動きを詳しく把握している。
護衛が終わった直後を狙い、アイリスを連れ去った。
それほど正確に動けたということは、ホテルから誰が出たのか、どこへ連絡を取ったのかまで監視されている可能性がある。
あるいは、内部に犯人へ情報を流している者がいるのかもしれない。
不用意に応援を求めたことで、アイリスの命を奪われたら――。
そう考えると、今は誰かに連絡することさえ躊躇われた。
「それでも……」
蕾は訓練生用の手帳を胸元で強く握り締め、静かに顔を上げる。
「私は、見捨てたくない」
まだ正式な執行官ではなくても、この手帳を持つ者として、目の前で苦しんでいる人を見捨てることだけはしたくなかった。
その想いは、誰に止められても変わらない。
蕾は手帳を胸元へ戻すと、部屋を出た。
玄関へ向かう足取りに、もう迷いはなかった。
ドアノブへ手を掛けた、その時だった。
「蕾」
暗いリビングから、聞き慣れた声が届いた。
蕾の動きが止まる。
ゆっくりと振り返ると、ソファに座っていた零が立ち上がるところだった。
どうやら、眠らずに蕾の帰りを待っていたらしい。
黄金色の瞳が、アストラルのコートを着た蕾を真っ直ぐに見つめている。
「……どこ行くんだ?」
口調は普段と変わらない。
けれど、その目は明らかに何かを疑っていた。
写真を渡すだけだったはずの蕾が、夜遅くになって帰ってきた。
それなのに、今度はわざわざアストラルのコートへ着替え、再び出掛けようとしている。
何かがあったことは、見ればすぐに分かった。
蕾は零の視線から逃れるように、わずかに顔を伏せる。
「ちょっと、用事ができたの」
「こんな時間に?」
零が訝しげに問い返す。
その視線を受け、蕾の肩が小さく揺れた。
「……うん」
それ以上、詳しく話そうとはしない。
言えば、きっと止められる。
あるいは、零まで一緒に来ようとする。
これは、自分が勝手に決めたことだった。
零まで巻き込むわけにはいかない。
蕾は意を決して顔を上げると、心配させないように微笑んだ。
「ごめん、零。明日の朝には戻るから」
零は何も答えなかった。
ただ、何かを見定めるように蕾を見つめている。
その沈黙に耐え切れず、蕾は逃げるように玄関の扉を開いた。
冷たい夜風が、家の中へ吹き込む。
「それじゃあ、行ってきます」
明るく告げたつもりだった。
けれど、その声はわずかに震えていた。
蕾は返事を待たず、夜の街へ駆け出していく。
やがて玄関の扉が閉まり、家の中に再び静寂が戻った。
零は閉ざされた扉を見つめたまま、小さく息を吐く。
「明日の朝には戻る、か……」
いつもの蕾なら、どこへ行くのか聞かれる前に楽しそうに話し始める。
それを隠したということは、自分には言えない何かが起きたのだ。
しかも、わざわざアストラルのコートへ着替えていた。
黄金色の瞳が、静かに細められる。
「分かりやすすぎるんだよ」
零は呆れたように笑った。
「俺に隠し事なんて、100年早いっての」
テーブルの上へ視線を向ける。
そこには昼間、蕾から渡された三人の写真が置かれていた。
夕焼けに染まる時計台を背に、楽しそうに笑う蕾とアイリス。
そして、どこか面倒そうな顔をしながらも、二人と一緒に笑っている自分がいる。
零は写真を一度見つめると、自分のコートを手に取った。
「……ったく。しょうがねぇな」
その声音に、迷惑そうな響きはなかった。
零はコートへ腕を通すと、夜の街へ駆け出していった。




