7話:誘拐③〜届かなかった思い出〜
王室専用ホテル。
蕾は写真の入ったバッグを抱えながら、ホテルの正面玄関へ向かっていた。
昨日、三人で撮った一枚の記念写真。
アイリスと交わした約束を果たすために、昼間のうちにこっそり現像してきたものだった。
「まだ間に合うよね」
桜色の瞳が、明かりの灯ったホテルを見上げる。
帰国の準備で忙しいかもしれない。
それでも写真を渡すだけなら、それほど時間は掛からないはずだった。
その時。
ホテルの前を、一人の衛兵が慌ただしく駆け抜けていった。
続いて、数人の護衛が正門へ集まり始める。
普段なら落ち着いているはずのロビーも、どこか張り詰めた空気に包まれていた。
蕾は思わず足を止める。
「……何かあったのかな」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
正面玄関へ近付こうとすると、一人の衛兵が進路を塞ぐように前へ出た。
「申し訳ありません」
険しい表情を崩さないまま、衛兵が頭を下げる。
「現在、ホテルへの立ち入りはご遠慮いただいております」
「え……?」
予想していなかった言葉に、蕾は目を瞬かせた。
「でも私、昨日までアイリス様の護衛任務についていて――」
事情を説明しようとしたものの、衛兵は静かに首を横へ振る。
「たとえ関係者であっても、お通しすることはできません」
有無を言わせない口調だった。
蕾は衛兵の向こうにあるホテルへ視線を向ける。
入口だけではない。
庭園にも複数の護衛が配置され、周囲を警戒するように絶えず巡回している。
その人数は、護衛任務中よりも明らかに多かった。
「アイリス様に、何かあったんですか?」
蕾が尋ねると、衛兵の表情がわずかに強張った。
しかし、返ってきたのは先ほどと同じ言葉だけだった。
「申し訳ありません。お答えできません」
桜色の瞳が、わずかに揺れる。
(普通じゃない……)
護衛として一週間、このホテルで過ごしてきたからこそ分かる。
ただ警備を増員しただけではない。
何か重大な事態が起こり、ホテル全体が厳戒態勢に入っている。
蕾はバッグの持ち手を強く握り締めた。
(少しだけ、何があったのか確認しよう)
写真を渡しに来ただけだった。
すでに護衛任務も終わっている。
本来なら、ここで帰るべきなのかもしれない。
それでも、アイリスの身に何か起きたのだとしたら、このまま何も知らずに立ち去ることなどできなかった。
蕾は正面玄関から離れると、ホテルの側面へ回り込んだ。
-----
向かった先は、護衛任務中に何度も巡回した従業員用通路だった。
警備の配置。
巡回の間隔。
外から見えにくい場所。
訓練で学んだ知識と、一週間で把握したホテルの構造を思い出しながら、物陰を選んで進んでいく。
蕾は護衛たちの視線だけでなく、周囲を巡る魔力の流れにも意識を向けた。
正面や庭園には、侵入者を感知するための警戒魔法が張られている。
けれど、急遽警備を増やしたためか、従業員用通路の一角だけ魔力の流れがわずかに薄い。
一週間の護衛任務でホテルの構造と警備体制を把握していた蕾だからこそ見つけられた、ほんのわずかな隙だった。
蕾は巡回する衛兵の足音が遠ざかるのを待ち、警戒魔法の届かない壁際を進んでいく。
そして、次の巡回が来る直前に従業員用の扉を抜け、誰にも気付かれることなくホテルの中へ入り込んだ。
廊下では、護衛や侍従たちが慌ただしく行き交っていた。
蕾に気付く者はいない。
誰もが険しい表情を浮かべ、自分の持ち場へ急いでいる。
「伯爵をお呼びしろ!」
「会議室へ! 急げ!」
聞こえてきた声に、蕾は足を止めた。
視線の先では、護衛たちが一室へ次々と入っていく。
ただの打ち合わせではない。
緊急会議だと、すぐに察した。
蕾は周囲の様子を窺いながら、足音を立てないように距離を詰める。
会議室の扉は完全には閉まりきっておらず、わずかに隙間が開いていた。
その隙間から中を覗く。
室内には大勢の護衛が集まっていた。
その中央に立つレオンの傍らには、つい先ほどホテルへ戻ったばかりの女王と王太子の姿もある。
三人とも、これまでに見たことがないほど険しい表情を浮かべていた。
蕾が息を潜めた、その時だった。
一人の護衛が慌ただしく会議室へ駆け込んでくる。
「伯爵!」
乱れた呼吸を整える間もなく、護衛は通信機を差し出した。
「犯人から通信です!」
室内の空気が、一瞬にして張り詰める。
レオンは険しい表情のまま、差し出された通信機を受け取った。
「繋いでください」
次の瞬間。
雑音交じりの通信機から、低い男の声が流れた。
『要求は二つ』
蕾の鼓動が大きく鳴る。
廊下の壁へ身を寄せ、わずかな物音も立てないように耳を澄ませた。
『一つ目は――天輝花の栽培方法と、実物の提供』
その名を聞いた瞬間、蕾の表情が強張る。
任務説明の際、エレノアから聞かされた特別な花。
本来は、治療が難しい病に苦しむ人々を救うために使われるもの。
しかし近年、強力な魔力増強剤にもなり得ることが発見され、軍事利用を固く禁じられていた。
そんなものを要求する相手が、まともな目的で動いているはずがない。
男の声は淡々と続く。
『もう一つは――現金5000万ポンド』
室内の誰も言葉を発しない。
重苦しい沈黙の中、通信機から聞こえる声だけが響いていた。
『受け渡し場所は、旧時計塔跡』
その場所を聞いた蕾の瞳が、わずかに見開かれる。
昨日、三人で訪れた時計台とは別の、今は使われていない旧施設。
『期限は明日の夜だ』
男はそこで一度言葉を切った。
『それから――アストラル・オーダーへは知らせるな』
レオンの眉が鋭く寄せられる。
『ホテルから送られる通信も、人の出入りも、すべてこちらで見ている。一つでも不審な動きがあれば――』
先ほどまで以上に低い声が、通信機から響いた。
『その時点で、姫の命はない』
それを最後に、通信は一方的に途切れた。
重苦しい沈黙が会議室を包む。
通信機を握るレオンの手に、力がこもる。
室内には護衛たちだけでなく、つい先ほど公務先からホテルへ戻った女王と王太子の姿もあった。
二人が帰還したのは、ほんの数時間前。
大勢の護衛や侍従が出迎えに動き、帰国に向けた荷物の搬入も重なったことで、ホテル内は一時的にごった返していた。
犯人は、その混乱を狙ったのだ。
警備の目が女王と王太子へ集中した、ほんのわずかな隙に――アイリスを連れ去った。
「すぐに捜索隊を出します」
沈黙を破ったのは、王太子だった。
いつもの冷静さを失った瞳には、妹を案じる焦りが浮かんでいる。
「ロンドン中を捜索すれば、まだ遠くへは逃げていないはずです」
「お待ちください、殿下」
レオンの低い声が、その判断を制した。
王太子が鋭い視線を向ける。
「なぜ止める?」
「犯人は、こちらの通信だけでなく、人の動きまで監視していると告げました」
レオンは手にした通信機を強く握り締めた。
「王国側が大規模な捜索に動けば、すぐに察知されるでしょう。そうなれば、姫様の命が危険にさらされます」
「では、何もせず待てというのか?」
王太子の声に怒りが滲む。
今すぐにでも妹を助けに向かいたい。
その思いを押し殺すように、固く握られた拳が震えていた。
「いいえ」
レオンは静かに首を横へ振る。
「まずは、要求された現金の用意を進めます。少なくとも、こちらが交渉に応じる意思を示している間は、姫様へ危害を加える可能性を下げられるはずです」
「5000万ポンドを、本当に渡すつもりか?」
「今は、時間を稼ぐことが最優先です」
レオンの答えを聞き、王太子は悔しげに唇を噛んだ。
その時、それまで黙っていた女王が静かに口を開く。
「現金の準備を始めなさい」
落ち着いた声だった。
しかし、膝の上で重ねられた手は、わずかに震えている。
一人の母親として、娘の身を案じていないはずがない。
それでも女王は、その動揺を表へ出すことなく、王国を背負う者として室内を見渡した。
「可能な限り、犯人を刺激しないように。ただし、天輝花の栽培方法と実物を渡すことはできません」
その言葉に、会議室の空気がさらに重くなる。
天輝花は、治療が難しい病に苦しむ人々を救うための花である。
しかし近年、強力な魔力増強剤にもなり得ることが発見されてからは、栽培方法も流通経路も王国によって厳重に管理されていた。
それが犯罪者の手に渡れば、どれほどの被害を生むか分からない。
「ですが、陛下……」
護衛の一人が、ためらいがちに声を上げた。
女王は一度だけ目を伏せる。
その脳裏に浮かんでいるのが、連れ去られた娘の姿であることは、誰の目にも明らかだった。
それでも、次に顔を上げた時、その瞳には女王としての強い意志が宿っていた。
「アイリスの命を救うためとはいえ、多くの人々の命を危険にさらすものを渡すわけにはいきません」
その決断が、母親としてどれほど苦しいものなのか。
室内にいる誰もが理解していた。
王太子も反論できず、固く拳を握ったまま俯く。
「まずは現金を用意し、犯人との交渉を続けます」
レオンは女王の意を受け、集まった者たちを見回した。
「大規模な捜索は行いません。ホテルから不自然な人数を動かすことも、外部へ応援を求めることも禁じます」
「では、明日の夜まで待つしかないのか?」
王太子が悔しげに問いかける。
レオンはすぐには答えなかった。
険しい表情のまま、通信の切れた機器へ視線を落とす。
「はい。受け渡し場所は分かっています。しかし、今こちらが旧時計塔跡へ近付けば、監視している犯人に察知されるおそれがあります」
犯人の指定した場所にアイリスが捕らわれている。
そう考えたとしても、先に踏み込むことはできない。
人員を動かした瞬間に察知されれば、アイリスの命が危険にさらされるからだ。
「まずは要求どおり現金を用意し、こちらが交渉に応じる意思を示します。犯人を刺激するような行動は、姫様の命を危険にさらします」
「天輝花は渡せない。だが、それを知れば犯人が何をするか……」
王太子は固く拳を握り締めた。
現金を用意することはできても、もう一つの要求には応じられない。
それを犯人へ悟られないまま、アイリスを救い出す方法を見つけなければならなかった。
「だからこそ、今は可能な限り時間を稼ぎます」
レオンは集まった者たちへ鋭い視線を向ける。
「犯人はこちらの内情を詳しく把握しています。今後の方針は、この場にいる者以外へ決して漏らさないでください」
護衛たちが緊張した面持ちで頷く。
アストラル・オーダーの護衛任務が終了した直後。
さらに、女王と王太子がホテルへ戻り、内部が最も混乱した瞬間。
その二つが重なったわずかな隙を、犯人は正確に狙っていた。
偶然であるはずがない。
犯人は以前からホテルを監視し、アイリスを連れ去る機会を待っていたのだ。
そして今も、ホテル側が誰に連絡し、どのように動くのかを見張っている。
静まり返った会議室の前で、蕾は動くことすらできなかった。
(アイリス様が……誘拐された?)
頭の中が真っ白になる。
昨日まで、すぐそばで笑っていた。
和菓子を食べて、時計台から夕焼けを眺めて。
また会おうと約束したばかりだった。
蕾は震える指で、バッグを強く握り締める。
その中には、アイリスへ渡すはずだった三人の写真が入っている。
昨日、夕焼けに染まる時計台で撮ったばかりの写真。
桜色の瞳に、王女ではなく一人の少女として笑っていたアイリスの姿が浮かんだ。




